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六月の鯨 第八話


カフェ「六月の鯨」は六月中旬、無事にオープンの日を迎えた。表に出るのが不得意な鯨に代わり、営業部出身の然がはりきって宣伝した結果、客は開店から閉店まで満員御礼だった。現場に不慣れな清と然が多少まごついたが、大きなトラブルもなく初日を終え、翌日も翌々日も店は盛況だった。スタートダッシュは成功した。あとは口コミとコンスタントな宣伝で、店の評判が自然に広がってくれるのを待つだけだ。
営業時間は昼の十一時から夕方の五時まで。メニューはランチタイムとカフェタイムに絞ることにした。ディナーは基本的には営業時間外だが、希望があれば予約制で貸し切り可能とした。
清がマーケティング部出身なだけあって客のニーズをよく観察しており、ランチタイムに貸し切りのママ友会が開かれた日には、子供用の椅子とおもちゃや絵本をいくつか用意したら喜ばれた。また客が飽きないように、店内のディスプレイも定期的に変えている。
二人のおかげで鯨は料理に専念でき、新しいメニューを次々開発した。なかでも日替わりランチは好評で、それを目当てに来店するリピーターも少しずつ増えてきた。客の新規獲得を目指しつつ、古参の人たちも大切にする。そうやって繁盛させていこうと、三人で決めた。

一方、清と然は結婚式の準備も進めていた。
清の両親に挨拶を済ませたあと、会社を無事退職した二人は先に籍だけ入れておき、式は店が落ち着いた十一月に行うことを予定した。五ヶ月後といっても準備期間に余裕はなく、急ピッチであらゆることを決めていかなければならない。
まず予算を決め、招待客を決め、ドレスを決め、指輪を買い、招待状を用意し、BGMを決め、招待客に出す料理を鯨と相談し、ウェルカムボードの作成、司会を誰に頼むか、などなど、こだわればこだわるほどやることは増えていく。
また、清の所属する吹奏楽団もコンクールの時期に入り、練習が本格化した。練習の日は鯨たちが店の夜の予約を入れないでくれるので、清も気兼ねなく通うことができている。
清は今日も店の仕事のあと練習に赴いた。鯨の試作品のケーキを携えて。
「今日は何のお料理?」
借りている市民センターに着いてすぐ、楽器を出す前に清は同じパートの小宮真帆をはじめとする団員の前にケーキの箱を置いた。清はときどきこうしてみんなに食べてもらって感想を聞いている。これも市場調査の一環だ。
「今日はケーキです。チーズとベリー、あとショコラがあります。食べたらいつも通り感想もらっていいですか」
「もちろん! この前のキッシュもすっごく美味しかった。メニューに入れてもらって嬉しいわ」
小宮はさっそくベリーケーキを頬張りながら、美味しい、お義兄さん天才ね、なんて言っている。
小宮は隣町で小学校の先生をしていて、職場の教師仲間を誘って何度か来てくれるリピーターだ。外では言えない個人情報スレスレの話も、ここなら遠慮なく話せるらしい。
「チーズケーキはずっしり重くて食べ応えがありますね。メニューに入ったら、私絶対食べに行きます」
そう言ったのは会社員でトランペットを吹いている谷地田佳奈だ。今年この楽団に入ったばかりで、清と歳が近いので慕っている。
「ショコラも甘さがしつこくなくていいね。私はもう少しビターでもいいかな」
的確で具体的なアドバイスをくれるのは茅原だ。茅原はいつもはっきり意見を言ってくれるのでありがたい。
清はスマホアプリのメモ帳に彼女らの感想を残していく。帰ったらこれを鯨に伝えて、改良して店に出す。着々とレパートリーが増えていくのは清も嬉しく、楽しかった。
練習が終わって夜九時、清は鯨と然の待つ家に帰った。清たちは店の二階で三人で暮らすことにした。多少狭いけれど通勤時間は短縮されるし、細かい打ち合わせもすぐにできる。何より家族のいない鯨を清と然は放っておけなかった。三人の生活はまるで昔から一緒に暮らしていたかのように違和感がなく、穏やかに毎日を過ごしている。

暑さもピークになった八月のある日、清は店の仕事が終わったあと、いつものように楽団の練習に向かった。今年のコンクールの成績は上々で、今月、つまり八月下旬の東北大会に出場することが決まっていた。しかし地方大会ともなるとレベルも高く、清たちの楽団は毎年なかなか上の大会に進めない。今年こそは、と士気を最大限に上げて清たちは練習に打ち込んだ。
清は冷房の効いた市民センターの練習室に入り、お疲れさまです、と先に来ていた団員たちに挨拶した。まずは自分の座る椅子を用意して、脇に荷物を置き、楽器を組み立てて譜面台を出す。そこに楽譜を置こうとしたときだ。清の世界が急にぐるりと回転した。目の前がぐにゃりと歪み、視点が定まらず体がぐらついた。倒れる、と思ったときは遅かった。咄嗟にしゃがもうとしてそのまま、清は床に倒れた。
「清ちゃん!?」
気付いた団員たちが駆け寄ってくる。まず一番近くにいた小宮が意識を確認し、周りのものをどけて清を横にした。次に茅原だ。自動販売機に飲み物を買いに行っていた馬場を大急ぎで呼び戻し、ちょっと診てあげて、と声をかけた。
馬場は清の動きに左右差がないことや、痛みや痺れ、吐き気などが出現しないことを確認し、手首に指を当てて脈を測った。
「清さん、今日お昼食べました?」
室内に設置されている時計の秒針を見ながら馬場は尋ねた。
「あんまり……時間なくて」
「夜は眠れてます?」
「……ちょっと短い、かな」
「たぶん貧血っすね。誰か甘いもの持ってませんか。何か食べたほうがいいっすよ」
「私、チョコ持ってる」
小宮が鞄から出している間に、茅原は清のスマホを借りて然に連絡を入れた。然は驚き、すぐ迎えに行きますと言って電話を切った。
最近は店の帳簿の管理とか、商工会の集まりだとかでバタバタと忙しかった。加えて結婚式の準備もある。清は招待状の印刷をお願いしている印刷会社との打ち合わせで、今日は昼食を軽くしか摂れなかった。
「清ちゃん、疲れてたのよ。環境が変わって頑張りすぎちゃったのね」
馬場に言われた通り、小宮にもらったチョコを舐める清に小宮は優しく声をかけた。
「今夜はゆっくり休みなさい。明日になっても良くならなかったら病院に行くのよ」
「すみません、ご迷惑をおかけして……」
「いいのよ。こういうのはお互いさまだからね」
さすが、小宮は小学校教諭なだけあって落ち着いているし、非常時の対処法を心得ている。茅原もそうだ。あとからきた団員たちに大丈夫、何でもないと大ごとにならないように説明してくれている。小宮が清の楽器を片付けてくれ、少し休んでいると然はやってきた。店の車を使って飛んできたらしい。
「皆さんすみません、ありがとうございます。清、帰ろう。立てるか?」
然が肩を貸してくれてゆっくりと立ち上がる。茅原と小宮が見送ってくれて、お大事にね、と添えられて清は帰宅した。

家に着いてすぐ、清は然と一緒の和室に布団を敷いてもらい、服を着たまま横になった。食欲はあると分かると鯨はすぐにお粥の準備に取りかかり、然は明日は店に出なくていいからゆっくり休んでと言い残し、清を一人にしてくれた。
暗くて静かになった自分の部屋。エアコンの冷房の音だけが低く響いている。清は一度閉じた目を再び開けてみる。まだ世の中が回って見える。視界が定まらず、これではしばらく動けないと諦めた。
清ははあ、とため息をついた。店が始まってからずっと走り続けている感覚があった。休みはもちろんあるけれど、それはそれでやることに追われて、ちっとも休めた気がしない。
せっかく長年の鯨の夢が叶ったのに。然だって頑張ってくれているし、できる限り二人の力になりたかった。結婚式だって一生に一度のことだし妥協したくない。大変なのは事実だが、鯨と然のこれまでの苦労に比べたら、この程度何でもない、と清は思っていた。
不甲斐ない自分に腹が立つ。頑張れない自分に悔しくなる。どうして私はこんなに弱いんだろう。どうして守られてばかりなんだろう。だんだん悲しくなってきて、瞳が潤みかけたときだ。
「清ちゃん、入るよ」
部屋の外で鯨の声がして、清は慌てて布団を頭まで被った。こんな情けない顔、鯨には絶対見せられない。はい、と清がくぐもった返事をすると鯨が襖を開けて入ってきた。鯨は清が一人のときにこの部屋には立ち入らない。然がいない間に鯨がいるのは、なんだか変な感じがした。
「お粥作ってきたよ。食べれそう?」
鯨が清の隣に座ると、清は布団を被ったままはい、と頷いた。
「起きれる?」
「まだくらくらして」
なんとか涙を引っ込ませた清が顔を出し、ふらつく体を無理やり起こそうとすると、鯨が当然のように後ろから清を支えた。ばく、と心臓が鳴る。そういえば、清は然以外の男のひとに触れられたことがほとんどなかった。当然、鯨にも指一本触れたことはない。
「少しずつでいいから」
鯨は動揺する清を自分に凭れさせて、濡れ布巾を使いながら片手で器用に土鍋の蓋を開けた。ふわりと湯気が立ち、同じ盆に載せた取り皿にほん少し取り分ける。はい、とれんげと一緒に皿が清の前に差し出されたとき、鯨の顔が思ったより近くて清はまともに見られなかった。
「ありがとうございます、いただきます」
意識を手元に集中させ、清は熱い玉子粥の入った皿を受け取った。ふうふうと口で吹いて冷まし、一口含むと薄口醤油と出汁の味がほんのりと広がった。今日ようやくまともな食べ物が胃に入った。足りなかった栄養素がエネルギーに変わり、少しずつ体を巡っていく。
鯨の料理は何でも美味しくて、何を作らせても味が保証されている。洋食や菓子以外にも、和食も中華も、カクテルだって守備範囲内なことを、三人で暮らして初めて清は知った。
「清ちゃん、ごめんね。無理させて」
頭の上でやがて鯨が申し訳なさそうに言ったので、清は首を横に振った。
「気にしないでください。私がやりたくてやってるんです」
「そうかもしれないけど」
鯨とやりとりしながら、清はこの台詞、前にどこかで聞いたな、と思い記憶を辿る。

――気にしないで。やりたくてやったことだから。

そうだ、合評会の日だ。鯨と再び会った日、楽器搬出の手伝いのお礼を言ったら、鯨はそう答えたのだった。
「鯨さん、昔同じこと言いましたよね」
清は試すように口にした。あの日のこと。青春時代のほんの一瞬のこと。鯨も覚えているだろうか。清にとってはずっと忘れられない。もしも鯨もそうだったらいい。もしかしたら万が一があるかもしれないと、うっすら清は期待した。
「どうだったかな……忘れたな」
鯨は少し考えてそう答えた。分かっていたことだが清は肩を落とした。うん、やっぱりな。そりゃそうだ。自分のことを何とも思っていない人間が、あんな何気ない一言なんて覚えているわけがない。
初恋なんてそんなものだ。清は無理やり納得させて、残りの粥に清はふうふうと息を吹きかけた。
「清ちゃんは、膝の傷はもう大丈夫?」
口に運ぼうとして清は動きを止めた。信じられなかった。見られていないと思っていた。見られたとしても覚えているはずがないって。あんな小さな傷を。スカートの裾に隠れて、気付かれなくたっておかしくないものを。
「時間が経って、だいぶ跡が薄くなりました」
言葉にしながら、清はどこか遠いところと話しているような気持ちになった。めまいのせいだけじゃない。ふわふわとして現実感がなく、体が宙に浮いているみたいだった。
「あれは転んだの?」
「転ばされたんです。陸上部の先輩に、階段で足を突っかけられて」
「それ、然は知ってる?」
「転んだ、とだけ」
「そう。然は優しいからきっと怒るね」
もっと食べる? と鯨は聞いて、清が頷くと手から皿を取り上げた。鯨が土鍋をかき回すと湯気が立つ。粥はまだ熱いらしい。
「鯨さんはどう思いますか」
この質問をしたのは、まだめまいが治まらず、頭がまともではなかったからだ。鯨は怒るか、それとも悲しむか。何とも思っていないなんてことはないだろう。彼は清のために何かを思うことがあるのか、知りたかった。
「僕がその場にいたら、ぶっ飛ばしてたと思う」
清は胸が苦しくなった。顔が熱い。瞳が潤む。速まる心臓の音が、伝わらなければいいと思った。
この人はいつまで私をかき乱すのだろう。どうしてそんなに私を大切にするのだろう。私には然がいるのに。然がいることを、一番よく分かっているはずなのに。
「然が落ち込んでたから、良くなったら声かけてやって」
鯨が皿を渡してくれた。清はぼうっとしたままはい、と返事をした。口に入れても粥の味は分からなかった。まだ熱いことだけが、はっきりしていた。

東北大会の結果は銀賞に終わった。結果発表後、みんなで悔しい悔しいと言いながら、打ち上げの飲み会は大いに盛り上がった。今日はどこの楽団がうまかったとか、もっとあそこはこうできたとか、講評で褒められたんだから自信持っていいとか、みんなの話を聞きながら清もお酒がよく進んだ。ああでもないこうでもないと話し合った結論、悔しいけれど次回に活かそう、次こそは必ず、ということで団員の意見はまとまった。
楽団のスケジュールが一段落したので、清はいよいよ結婚式の準備に明け暮れた。店の仕事量を調整しながら細かいところを詰めていき、十一月、無事に「六月の鯨」で清と然の結婚式は開かれた。最も心配だった司会進行は、楽団の茅原が快く引き受けてくれた。
「それでは新郎新婦の入場です!」
茅原の声で、店の表から純白のドレスに白の花冠とベールを身に纏った清と、光沢のあるグレーのタキシード姿の然が現れた。集まった清の両親や沙知絵、然の友人たちが惜しみない拍手で祝福してくれる。
清と然はみんなの前で指輪を嵌めて、誓いを立てた。然は嬉しそうに笑っている。清も同様だ。今日は間違いなく、人生で一番幸せな日だ。
テーブルには鯨による渾身の料理が並んでいる。ちょっと良いお酒もたくさん用意した。乾杯、と言ってみんなでグラスを傾ける。その場にいる全員が上機嫌で、浮かれていた。
清はそっとキッチンを見やった。今日は鯨はキッチンから出てこない。料理を運んでもすぐに引っ込んでしまって、二人の晴れ姿をまともに見たのかも定かではない。
「兄貴、来ないね。任せすぎたかな」
席に並んで座っていると然が心配そうに呟いた。清も気になっていたので、見てこようか、と言ったのを然は制した。
「俺が行ってくるよ。清はここにいてみんなと喋ってて」
然は人が途切れたのを見計らい、キッチンの奥で姿が見えなくなった鯨を探した。ここから見えないということは、母屋のほうに戻っているのかもしれない。
清が然の友人たちに挨拶していると、しばらくして然が戻り、そっと清に耳打ちした。
「疲れたみたい。少し休んでるって」
清はそう、と頷いた。鯨はやはり母屋で休憩しているらしい。朝から大量の料理を用意して、カクテルを作ってデザートまで出したのだから仕方ない。清はあとで何か持っていこうね、と言って、嵌めたばかりの指輪を見つめた。
鯨は本当に疲れたのだろうか。わざわざ母屋で休む必要が本当にあったのだろうか。
彼の気持ちは誰にも分からない。テーブルに灯したキャンドルに反射して、銀色の指輪がきらりと光った。

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