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六月の鯨 第三話


七月に入ってすぐ、葉輪高校は無事コンクールの地区大会を突破した。鯨は仲間たちと喜びを分かち合い、放課後はよりいっそう練習に力がこもった。メトロノームを相棒に、朝も昼も自主練習を欠かさない。その甲斐あって、少しずつでも上達していくのが分かって鯨は嬉しい。七月下旬の県大会まであと一ヶ月を切っている。レベルアップはまだまだ可能だ。
地区大会から一週間後の土曜日、期末テスト期間ということで休日練習は休みになった。しかし鯨はいつものように制服姿で家を出た。朝早い時間、学校には向かわずに駅を目指す。構内のトイレで通学用の鞄に入れた白のTシャツと紺のジーンズに着替え、靴をローファーからスニーカーに履き替えて汚れないよう袋に入れて鞄にしまった。
トイレを出てすぐ、改札を通って上りの電車に乗車する。土曜の朝は人もまばらで空気もすっきりしている。席も好きなところに座れるし、湿度が低くて息が詰まる感覚がない。タタン、タタンという規則的な音に揺られて、鯨は三十分かけて隣町に到着した。
駅を出てすぐのバスターミナルから市内路線バスに乗り、六つ目の停留所で降車ボタンを押した。降りてすぐ目の前にある喫茶店が、鯨のアルバイト先だった。裏の勝手口から中に入る。鍵は二階に住んでいるマスターから預かっており、鯨が来る日の開店準備は鯨が一任されている。それに甘えて、マスターはいつも開店ぎりぎりまで下りてこない。
鯨はバックヤードに荷物を置き、クリーニングから返ってきた黒のエプロンを身に着けた。ホール、と呼べるほど広くはない店内に出ると、普段は閉め切っている窓を全開にして換気をする。まずは椅子をすべてテーブルに上げ、ほうきで床を丁寧に掃いていく。意外と埃は溜まりやすく、中央に集めてゴミ箱に捨てた。その次はモップがけだ。古びた板張りの床を隅々まで水拭きして汚れを落としていく。鯨が歩くとところどころぎしぎしと軋み、ワックスがけは長いことしていないから、濡れると板が黒く変色した。
それが終わったら今度はテーブル拭きだ。席は四人掛けが五席、カウンターが五席。数としてはそれほど多くはない。鯨はテーブルに乗せていた椅子を下ろして、台拭き用の雑巾で縁まできっちりと拭いた。
時間があるときは窓も磨く。初めてこの店に来たとき、窓が汚れて外から店内が見えないのはもったいないと思った。それから鯨は、頼まれてもいないのに店の突き出し窓を頻繁に磨くようになった。おかげで鯨が来るようになってから、窓に埃が溜まったことは一度もない。
掃除道具を片付けて窓を閉め、エアコンの冷房のスイッチを押した。ホールを冷やしながら鯨はキッチンに回る。キッチンだけは夕方、マスターが店を閉めてすぐ掃除をするので、鯨は手を入れなくても良いことになっている。
この店で調理をするのは基本的にマスターだ。しかし二年半も働いているとだんだんレシピも覚えてくる。たまに直接手ほどきを受けて、今では何品かお墨付きをもらっている。しかしそれではまだ足りない。鯨は高校卒業までに、もっとレパートリーを増やしたいと思っている。
手を洗い、コンロの大鍋に今日の日替わりランチであろうハヤシライスが大量に入っているのを確認する。鯨は冷蔵庫からレタスやトマトなどの野菜を取り出して、マスターがプレゼントしてくれた自分用の包丁で慣れた手つきで刻んでいく。生野菜はその日に刻まないと夏場は特に傷みが早い。
ドレッシングも特製だ。みじん切りの生姜とごま油、酢と胡椒。これらを計って混ぜるだけで、和風ドレッシングが完成する。手の甲に少し垂らして舐めてみると、マスターの味に仕上がったことに安心する。
付け合わせのオニオンスープは玉ねぎを刻んでバターで炒め、水とコンソメ、塩を加えて煮詰めていく。味の決め手は湖塩だ。これだけはマスターのこだわりで、スープ用に海外からわざわざ取り寄せている。
煮ている間にパセリを刻み、着々と開店準備を進めているとマスターが二階から下りてきた。
「おはよう、鯨くん」
白髪頭の白シャツに黒ズボンの初老の男性は、鯨の唯一の料理の師匠だ。今日もにこにこと笑顔をたずさえ、マイペースに黒エプロンを巻いて入ってくる。鯨も手を止めて振り返った。
「おはようございます。あと少しで仕込み終わります」
「うん。いい匂いだね。今日も頼むよ」
マスターは鯨の作ったドレッシングとスープをさっと味見し、合格と言わんばかりに頷いた。
「吹奏楽の県大会は再来週だったかな。君がいないと店が回らないんだから、あんまり美味しく作って繁盛させないでくれよ」
「雇えばいいじゃないですか。あと一人くらいなんとかなるでしょう」
「そんなことをしたら僕が休めなくなる」
軽口を叩いたマスターはホールに入っていき、さっそくコーヒー豆の入った瓶の蓋を開けた。マスター愛用の手動のコーヒーミルで中粗挽きされたコーヒーは、カウンターに設置されたサイフォンを使ってゆっくりと時間をかけて抽出される。マスターの料理が好評なのは、こうして丁寧に仕事をしているからだと鯨は思う。ふつふつと湯の沸く音がして、やがてコーヒーのいい香りが漂ってきた。
仕込みが終わった鯨もホールに入り、カウンターでマスターの淹れてくれた一杯をごちそうになる。開店まであと少し。忙しい今日が始まる。

鯨はこの喫茶店でアルバイトをしていることを両親に話していない。高校でも禁止されているし、このことを知っているのはごく親しい友人と弟だけだ。土日は部活の練習があると言って学校に行くふりをしてここに来ている。特に父親は鯨が部活をすることに賛成しておらず、吹奏楽で良い成績を残せば大学受験で有利になると鯨が説得して、かろうじて続けさせてもらっている。
鯨の高校は文武両道の進学校であり、また吹奏楽の強豪校だ。地方大会は常連で、全国大会へ行けるかはその年による。先輩たちの築き上げた歴史を汚さないよう、鯨たちは一生懸命練習に励んできた。そしてそれと同じくらい、鯨は勉強にも手を抜かなかった。
鯨の父親は教育熱心で、将来は法学部に進学させて家業である弁護士事務所を継がせたいらしい。彼はこの大学にいい先生がいるとか、こっちは勉強するのに環境が整っているとか、鯨以上に下調べをしてはことあるごとに勧めてくる。
だが言いなりになるつもりはさらさらなかった。鯨はずっと料理の勉強がしたかった。母方の祖父が経営していた喫茶店で働くことが、昔からの鯨の夢だった。幼い頃の鯨は祖父自慢のコーヒーの味など分からなかったが、あの香ばしく芳醇な香りは子供ながらにとても好きだった。店の中にはステンドグラスでできたペンダントライトがいくつも吊るされ、年季の入った木製の濃茶のテーブルと椅子が古い店によく馴染んでいた。
馴染みの客が毎日のようにいて、マスターである祖父がカウンターの向こうで相手をする。暇になり、新聞を読み始めても誰にも何も言われない。メニューは鯨の好きなものがたくさん載っていて、どれを食べても美味しかった。
祖父はビッグバンドを組んでいたので、バンド仲間のたまり場でもあった。何度か演奏を聴かせてもらったし、バンドメンバーにも可愛がってもらった。鯨が吹奏楽に傾倒したのはその影響もある。
祖父の店は誰にとっても癒しの場であり、憩いの場で、美味しい料理で腹を満たせる幸せな場所だった。しかし祖父は鯨が中学に上がってすぐ亡くなってしまい、同時に店も閉めることになった。夢は絶たれたと思ったが、ならば自分の店を持てばいいと鯨は気が付いた。高校卒業後は調理師の学校に進学し、どこかの老舗で修行を積んだ後、自分の店を持てたらいいと思っていた。
しかしそんなことを父親に話せば激高するに違いない。彼の性格からして叩かれる程度ではきっと済まない。だからギリギリまで騙そうと思った。従順な子どものふりをして、寸前で裏切る。大学には行くが、弟が進学して家を出たら調理師学校に入り直す。そのときに母親も呼び寄せるつもりだった。鯨はその計画のためにこの店で働き、軍資金を稼いでいる。マスターは身に覚えがあるのか協力的で、それが鯨を救っていた。

店のランチタイムが一段落し、カフェタイムに移った。この時間はコーヒーを傍らに長居する客が多い。鯨が注文を運んでカウンターに戻ると、マスターが小声で話しかけてきた。
「今年の大会は、僕も聴きに行ってみようと思うんだ」
「え?」
鯨は思わず振り向いた。
「君の演奏会、僕は行ったことがないだろう? 一度くらいは聴いてみたいと思ってね」
マスターはコップを布巾で磨きながらうきうきと続けた。
「でも店もあるし、全部行くわけにはいかないから、東北大会まで進めたら、だよ。確か今年は岩手の北上市だったかな。どうせなら一泊二日の旅にしようと思ってるんだ。わくわくしちゃうな」
嬉しそうなマスターに、鯨は待ってください、と水を差す。
「大会と定期演奏会では求められるものが違います。大会では技術や表現力を、演奏会では華やかさが重視されます。どうせ聴くなら、僕は定期演奏会のほうがいいんじゃないかと」
「どっちも聴けばいいじゃないか」
マスターのあっけらかんとした態度に鯨はぽかんと口を開ける。
「君が高校を卒業してうちの店を辞めたら、僕が吹奏楽に触れる機会もなくなるんだ。今のうちに生涯学習だよ」
カラン、とドアベルが鳴って新しい客が入ってきた。反射的にいらっしゃいませ、と二人は声を出す。水とメニューを用意して運ぶのは鯨の役目だ。マスターに振り返ると、にっこり微笑んで鯨を送り出した。

その後、夏休みに入ってすぐ、葉輪高校は県大会を突破して、八月下旬の東北大会に進出することになった。思惑通りのマスターは見るからに浮足立っていて、旅行なんて何十年ぶりかな、この店を始めてからは新婚旅行以来かもしれない、などと亡き奥さんの写真を眺めながらこぼしている。
吹奏楽コンクールの順位付けは四種類ある。銅賞、銀賞、金賞、そして上の大会へ行ける特別な金賞だ。東北大会において鯨の高校は四つ目の賞を獲ることが目下の目標だった。しかしそれは狭き門であり、ここ数年は毎年惜しいところで落選している。
いよいよ本番当日、マスターが座っている観客席の壁一枚隔てたこちら側で、鯨たちは楽器と楽譜を持って控えていた。葉輪高校の出番はいま演奏している学校の次で、みんなの緊張はピークだった。この時間は何度経験しても慣れることがない。どんな学校の演奏も自分たちよりうまく聴こえて、積み重ねてきた自信が急降下していく。
「なあ、俺、さっき見付けちゃったんだ」
隣に並んでいた鯨の親友でトランペットの朔太郎が、声を抑えて耳元で話しかけてきた。
「あの子、来てたぜ」
「あの子?」
「ほら、沢田中の。清ちゃんだっけ? 鯨が合同演奏会で楽器搬出手伝ってあげた子だよ」
鯨はえ、と朔太郎に振り返る。
「今年は中学生も勉強のために引率で来るって噂で聞いてたけど、ほんとだったんだな。沢田中、県大会でダメ金だったのは惜しかったよ」
朔太郎はふう、と息を吐いた。
「あの子と一緒に吹くことはないけどさ、かっこいいとこ見せようぜ。きっと惚れ直すよ」
「惚れ直すって、誰が」
「分かってるくせに。清ちゃん、鯨のこと好きだろ」
鯨は目を見開いた。
「あの子がそう言ったのか」
「いや」
朔太郎は即答した。けれど確信したように、にやりと含み笑いしているのが気持ち悪い。
「でも見てりゃ分かるよ。鯨も一緒だろ」
「一緒じゃない。いい加減なこと言うな」
鯨は大きい声を出しそうになり、慌ててトーンを落とした。
「あの子は……妹みたいなもので」
そうは言ったものの、鯨は朔太郎の目を見られない。清は純粋な子だ。真っすぐで、曲がったことを嫌う。部活に対しても一生懸命なようで、初心者には難しいあのコンクールの曲を、ダメ金まで持っていったのは努力の成果だと鯨は思う。
そういうひたむきなところが可愛いと、確かに思わなくもないが。
朔太郎は鯨のためらいを察し、再びふう、と息を吐く。
「妹でもいいけどさ、幻滅させないようにしようぜ。俺たち、ここまで頑張ってきただろ」
鯨は朔太郎を見た。彼の真剣な表情に、鯨もうん、と素直な声が出た。
そのとき、暗幕の向こうでジャン、と演奏が締めくくられ、やがて大勢の拍手が鳴った。いよいよ鯨たちの順番が来たようだ。
前の学校の生徒たちがぞろぞろと上手かみてに捌けていく。係員からどうぞ、と合図が送られた。
「行くよ」
部長の声が小さく、だけどしっかりと響いた。全員で頷き合い、鯨たちはステージに向かった。

結果発表が終わり、みんなで建物の外に出た。夏の熱気がむんと押し寄せ、シャツにじわりと汗がにじんでいく。見上げた空は薄紫色に染まり、ヒグラシの声がそこらじゅうに響いている。駐車場には各校の吹奏楽部員を乗せるバスが何台も停まっており、この中に清の学校のバスもあるのかもしれない、一目でも会えないだろうか、といつの間にか思っていた自分を鯨は理解できない。会いたい、と思っていたのか。僕が? 清ちゃんに?
鯨は雑念をごまかすように頭を振り、待機していた葉輪高校のバスに乗り込んだ。大会本部で打ち合わせをしている顧問を待つ間、鯨は暗がりを増していく外の景色を眺めながら今日の演奏を思い出す。音は完璧に合っていた。ピッチもズレはなかったし、ブレスもうまく調整できた。曲の盛り上がりも良かったと思う。間違いなく今まででいちばん良い演奏ができた、それなのに、なぜ。
鯨の手にしていた携帯電話がヴヴ、と震えた。手早く開くと、メールの送り主はマスターからだった。

『ダメ金、残念だったね。でもいい演奏だったよ。聴けて良かった』

疲れ切って動けなかった鯨の口元にふ、と笑みが浮かぶ。良かった。安心した。吹奏楽を知らない人にもなにか届いてくれたなら、これまでの頑張りも報われる。
メールには続きがあった。

『これからさといも鍋を食べて宿に戻るよ。言っておくけど、これも料理の勉強だよ。君は気を付けて帰っておいで』

マスターらしい過ごし方だ。鯨はありがとうございます、と返事を返して携帯を閉じた。
「なあ、鯨。あれ」
突然、隣の席に座っていた朔太郎が鯨の肩を叩いた。鯨は彼に振り返る。窓の外を指差すので見てみると、見慣れた中学校の制服を着た女の子が一人、駐車場をさまよっている。
「清ちゃん?」
向こう側にいる清が、あちこちきょろきょろと見回しながら誰かを探している。みんなとはぐれたのだろうか――いや、違う。バスの表に書かれた団体名を読んでいる。あれはもしかして、自分を探しているのか。「行ってこい!」
朔太郎が席をどけたので、鯨は言われるがままに急いでバスを降りた。向こうへ行ってしまいそうになる清を、大声で清ちゃん、と呼んだ。
不安げな顔をしていた清はくるりと振り返り、ぱっと顔を輝かせると鯨さん、と呼び返して駆け寄った。
「清ちゃん、なんで」
「葉輪高校の演奏、すごく良かったです! ダメ金だったけど、私のなかでは全国大会に行ってもおかしくないくらい、いい演奏でした!」
時間がないのか、清は早口でまくし立てた。
「私、感動しました。音楽ってあんなふうに表現できるんだって。私もあんな演奏をできるようになってみたいって、すごく思いました。私、いつか絶対鯨さんに追い付きます。だから鯨さん、楽器辞めないでくださいね」
鯨ははっと息を飲んだ。楽器を。辞めないで。
「清ちゃん、でも僕は」
「もう行かなきゃ。トイレに行きたいって言って抜けてきたんです。帰り、気を付けてくださいね。じゃあ、また!」
清は鯨の言葉を聞かず、嵐のように去っていってしまった。ぽつんと鯨だけが残される。立ち尽くしているとやがて顧問が戻ってきて、早く乗れ、と促した。
ドアが閉まり、バスはゆっくりと動き出す。学校に着くまで約二時間。しばらく黙っていたけれど、隣に座る朔太郎はにやにやとして嬉しそうだ。
「言いたいことがあるなら言いなよ」
鯨は不服そうに朔太郎を睨んだ。
「別に? ただ、清ちゃん、可愛かったなーと思って」
窓の縁に頬杖をついた鯨は流れていく景色を眺める。外が暗くて鏡のようになった窓に、仏頂面の自分の顔が映っている。
「……可愛い妹だよ」
まるで言い聞かせるように鯨は答えた。あの子はただの他校の後輩で、それ以外の何者でもない。自分に憧れをもってくれたとしても期待に応えられるものは何もない。
「頑固だなあ、お前も。まあそれでもいいけどさ、後悔はしないようにしろよ」
「後悔って、何の」
鯨は言い返すも、今日の言い合いに勝ち目はない。
「鯨はいっつも我慢してるだろ。家のことも、夢のことも。耐えることも美徳かもしれないけど、たまには自分に正直になれよ。やらぬ後悔よりやった後悔、ってな」
朔太郎はそう言ってくるりと背を向けると、通路を隔てた隣の女子と楽しそうに話し始めた。
後悔。後悔か。どうせ自分はいつか彼女の前からいなくなるのに、希望をもたせるようなことはしたくないと、鯨は仏頂面の自分を見ながらそう思った。

家に帰ると、大会結果を聞きつけた父親が不機嫌そうに待っていた。
「だから俺は、部活なんかするのは反対だったんだ。結果を出せないなら、勉学に時間を割いたほうがよほどためになる」
「……」
鯨は俯いたまま何も言えない。ここで口答えするともっと怒られるのは分かっている。黙ってやり過ごすのが最善のはずだ。
「ま、まあ……お父さん、鯨も頑張ったんだから」
「お前は黙ってろ!」
母親はビクリと震えると口を閉ざした。彼女はこういうとき何も言えない。一度逆らって父に手を上げられて以来、自分の意見を言えなくなってしまった。
「鯨、楽器なら大人になってからすればいい。いまお前にいちばん必要なのは勉強だ。やっぱり塾に行こう。父さんの知り合いでいいところを知っているから」
何を言うか。大人になったらなったで、いいように使われるのが目に見えている。たとえ言うことを聞いたとしても、楽器なんてやらせてくれるわけがない。暗澹たる自分の将来を予想して、鯨は呼吸が浅くなるのが分かった。
これを言ったらこのあと父がどうなるか見当がつく。それを沈静化できる術を自分は持たない。でも、言わなくてはならない。やらぬ後悔よりやった後悔だと、今だけはどうしても思いたかった。
「でも、途中で部活を辞めたら内申点に響くよ」
鯨は両手に拳を作り、声が震えないように必死で努めた。
「どの道、二ヶ月後の定期演奏会で活動は終了だよ。どうせならやりきって、高校時代に取り組んだ実績があったほうが受験で良い印象を残せるんじゃないかな」
「親に口答えをするのか、お前は!」
激高した父が鯨に掴みかかった。力任せに壁に押し付けられ、頭をガツンとぶつけて目の前に星が舞った。「どうして父さんの気持ちが分からない? 父さんは鯨に将来困ってほしくなくて言ってるんだ」
父は悲しそうに訴える。鯨はきゅっと口を結んで、両の拳をいっそう力強く握りしめた。やろうと思えばやり返せる。そうしたら若い自分が勝つだろう。でもそのあと、母親や弟に鬱憤が向かうかもしれない。きっと暴力を振るうに違いない。それだけは避けなくては。
両手で口元を押さえた涙目の母親と、その後ろから心配そうにこちらを見つめる弟が目に入った。鯨は父の目を見ないまま頭を下げた。
「お願いします。定期演奏会までやらせてください。思い出にしたいんです。お願いします。お願い、だから」
意図せず涙がこぼれるのが分かった。
「僕に音楽をやらせて……」
恐怖と怒りで体が震えた。体を押さえつけられたまま鯨は精いっぱい頭を垂れた。混乱した頭で清の言葉を思い出す。

――私、感動しました。いつか絶対鯨さんに追い付きます。だから鯨さん、楽器辞めないでくださいね。

まるで清流のような言葉。音楽を続けてきてよかったと心から思った。大学に行ったら、父を欺くための学業と調理師学校に入るための資金調達で音楽どころではなくなる。それまではどうか、あの子にいい音を届けたい。
「……勝手にしろ」
父の手がようやく緩んで鯨を離れた。父親は不気味なほど静かに去っていく。きっとこのあと母や弟に当たるのだろう。また家族を守れなかった罪悪感が鯨を追い詰める。大切な人たちを犠牲にしてまで自分の希望を押し通して良いのか、鯨は答えを出せなかった。

その夜、父が寝たあと、母が鯨たちの部屋をひそかに訪れた。
「何?」
「どうしたの」
すでにベッドに入っていた二人は驚いて、寝ぼけ眼で身を起こした。母はしいっと口に人さし指を当てると、小さな声で切り出した。
「大事な話があるの」
そう言って二人を見つめる母の目には、小さな炎が宿っていた。


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