昭和、男もつらかった 25 幼少期①
昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語である。
これまで生年や生まれ故郷、父・吉太郎(祖父)、母・ハル(祖母)、一粒種につけた「二夫」という名前の由来、一族(①、②、③)やきょうだい同様だったいとこたちとの関係などについて述べた。
続いて、一人息子に対してもちろんやさしい一方で、農作業の傍ら野菜や手作りの味噌醤油の行商で必要な現金を捻出したハルのスーパーウーマンぶりを記した(「母親はやさしいばかりでなく」①~⑤)ところで、数回違うテーマに逸れてしまったが、再び二夫の物語を続けることにしたい。
母親べったりだった二夫も走れる年ごろになると、ほとんど同じ敷地と言っていいほど近くに住んでいるいとこたちや、集落の子供たちと遊びまわるようになった。どの家も子供が多く、男も女も結婚が早かった時代、子供はどんどん産まれ世代交代も速かったから、数十軒しかない小さな集落でも、子供はたくさんいて賑やかだった。
男の子は男の子どうし、女の子は女の子どうしで遊んだ。男の子たちにしてみれば
「おなごなんどと遊(あす)っがないもんか」
(女子なんかと遊べるもんか)
という気分だったし、女の子たちのほうは
「男い交じって遊(あす)っなんざ、おなごんすっ事(こっ)じゃなか。女ん子(おなんこ)はおなごらしゅせんな」
(男に混じって遊ぶなんて、女のすることじゃないよ。女の子は女らしくしなくては)
という親の教えに逆らう子などいなかった。
男の子は、年長の子供――だいたい小学校の中学年ぐらい――がリーダーになった。年の順に命令系統、指揮系統が自然にでき、二夫もいとこたちの後についてその集団に加わった。
年上の子供たちは年齢相応の身体能力を発揮して遊びをリードした。よっつ、いつつの二夫は「兄(あん)ちゃん」たちの真似をするのが精いっぱいだったが、仲間に入っているだけで楽しかった。たまに年に似合わない機敏さや、集団の中での働きを見せると褒められるのもうれしかった。まねること、同年輩どうしで競うことの重要性、難しさ、達成感が、体を動かしながら幼い脳内に蓄積されていった。
二夫は一人っ子ではあったが、もともと大勢のいとこたちと日々交わっていたから、集団の中でのポジショニングみたいなことは幼いなりに身につけつつあった。どうやったら周りの期待に応えられ、周りから認められるかも。
ただ、一人っ子の弱点はどうしても残る。ここぞというときに競り負けるのだ。たくさんのきょうだいの中で揉まれて育つ子供に比べ、精神力というかずうずうしさがいまひとつ足りない。家に帰ればたった一人の子供として大切に扱われるから、どこかで「最後には誰かがやってくれる」という気分があるのだ。
そこは二夫のやさしさ、一面では弱さとして生涯抱えることになる。(「幼少期」②へ直接続く)
