昭和、男もつらかった 26  幼少期②

「幼少期」①より直接続く)
 そんなふうに二夫(つぎお。父)は集落のほかの男児たちと遊んでいたが、昭和初期の農村においては、そもそも子供ではあっても労働力として頭数に入れられるのがふつうでもあった。幼な子でも、簡単な作業やそれほど重くないものを運んだりなど、できることは手伝わせられたし、学校に上がっても放課後や休みの日には家の手伝いをするのが当たり前だった。

 一人っ子の二夫がいずれ家業を継ぐのは自明である。それは吉太郎が一代で買い広げた地所をまるまる引き継ぐことと同義でもあった。両親のみならずいとこも含め周囲は年上ばかりという環境で育った二夫は、自分が期待されていることが何であるかをきっちり察知していた。

 だから家の農作業の手伝いは言われなくてもやるようになった。一族の田畑の作業もお互い融通して助け合ったから、いとこの家の分の手伝いもやった。逆に二夫の家の農作業の手が足りないときは、おじ、おば、いとこたちが手伝いにきてくれた。

 そうやって一族で農繁期を乗り切るという過ごし方を、二夫は物心ついた頃から経験していくのだった。

 一方で、女の子たちはもっと「働き手」として期待された。まずは子守り役として、である。下に赤ん坊が産まれると、物心つくかつかないかの小さな「姉」は赤ん坊を背負わされるのだ。家に子守り役がいると、母親が田畑にいられる時間は格段に長くなるのだから、この労働力は貴重だった。

 このことは、同じ集落で二夫よりふたつ下のミヨ子――のちの二夫の妻(母)――の生涯を綴った「文字を持たなかった昭和」の「六(長女)」でも触れている。

 幼いミヨ子が弟を背負って子守りをする姿を、二夫もたまには目にしていただろう。もちろんその時、ミヨ子を「もぞか」(かわいい)などはおろか「大変そう」などと思いはしなかった。せいぜい「おなごじゃっで守(も)よしちょったらい*」(女だからお守りをしてるんだな)ぐらいだったはずだ。

 もっとも、弟、妹の守りをしている年端もいかない女の子はミヨ子だけではなかった。集落じゅうの、地域全体の、もっといえば日本中の村々で、同じような姿が見られた。

 だからと言って男の子のほうが「得」というわけでもない。男の子は男の子で、力が要る仕事をだんだんと任されるようになる。両親や兄たちと暗くなるまで働くのも当たり前だった。

 つまるところ、子供といえども相応の「家の仕事」を、よく言えば任されていた。いまだったら「児童労働」として人権や福祉の問題にされかねないところだが、日本中が貧しく、手が空いている者は子供といえども働くのが当たり前だったのだ。

 余談だが、産業革命期のイギリスにおいて、子供は労働力の面では「小さな大人」として扱われた、という解説を読んだことがある。大人と同じように長時間労働に従事したのだ。ただし賃金はほとんど与えられない。そこには労働者の子供が通うような学校がなかった(考えられもしなかった)という背景がある。

 産業革命には出遅れた日本だが、明治期の学制整備のおかげで、子供は学校に通うものというコンセンサスができていたことは、子供たちにとっても国全体にとっても幸いだったと言えよう。ただし、すべての子供が十分に学業に打ち込めたわけではない。昭和に入ったこの時期でも、地域差、生まれた家による格差は当然のようにあった。(「幼少期」③へ直接続く)

*鹿児島弁。この場合ややゆっくり言えば「おなご じゃっで 守(もい)を しちょっ たらい」であるが、短縮を好む鹿児島弁において助詞は変化し「もい を」→「も を」→「もよ」となっている。

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