昭和、男もつらかった 3 数え年について

 昭和初期鹿児島の農村で生れ、この地で農民として生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語を始めた。

 まず、二夫は昭和2(1927)年生れだが戸籍には3年と記載されていることや、実際の出生と届出が違っているのは当時の農村では一般的で、年齢を数えで数える習慣が背景にあったことなどを述べた。

 二夫自身からはやや逸れるが、出生届に関連して思い出したことがある。きわめて最近(2025年になってから)興味深い話を聞いたので、話の流れからここに記録しておく。それは、後に二夫の妻となるミヨ子(母)が亡くなった通夜の席でのことだった。

 ミヨ子は昭和5年(1930)年生れ、95歳で没した。しかしミヨ子もまた実際の1年早い昭和4年生れで、干支についても本人はいつも「蛇」だと言っていた。

 喪主挨拶の中で長男のカズアキ(兄)がミヨ子の年齢について触れ
「享年96となっていますが、母は戸籍より1年早く生まれており、実際の享年は97ということになります」
と述べたあと
「母の誕生日は3月10日ですが、当時は3月頃に出生届をするケースが多く、前の年に生まれた子供も3月に届け出ることがあったらしいです」
と補足した。

 二三四(わたし)はそこで合点が行った。

 多産がふつうだった当時、育ちきれずに亡くなる赤ん坊も多く、「この子はちゃんと育つだろう」と値踏み(?)してから出生届を出したのだ、という説明を二三四は周囲の大人たちから聞かされて納得し、長年そればかりを信じていた。二夫とミヨ子は二人とも3月生まれだが、それぞれ1年待って届け出たのだろう、とも思っていた。

 そういえば、noteを始めてから家族の来し方を考える参考にと戸籍を遡って確認した機会に、2月と3月の出生日が多いことが気になっていた。数え年や昔の出生届についてインターネットなどで調べたときにも、明治に入って戸籍が整備される以前の数え年の習慣――お正月に全員がひとつ年をとる――に合わせて、新年になってから出生届を出すケースがままあった、という記事を見かけたこともある。

 二夫やミヨ子、そして当時の多くの子供たちも、つまりはこういうことではないか。

 赤ん坊が生まれると(数え年ではその時点で「ひとつ」である)、ちゃんと育つかどうかわからないのでしばらく様子を見る。そうこうするうちに年が明け、数えとしては全員がひとつ年を取る(赤ん坊は「ふたつ」になる)。さすがにそろそろ届け出ないと、それに(明治で義務教育化された)小学校には4月に「七つ」で入学するから、4月より前に届け出ておいたほうがよいだろう、と親や周囲は考える。

 ――といった事情から、出生届出ベースで言えば2月生れ、3月生れが際立って多い、という結果になった、と。

 そこには親自身が十分に読み書きできず、役所への届出を誰かに頼まなければならないケースも多かった、という時代背景もある。そういったことも、二夫の物語の中で補足していきたいと思う。

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