昭和、男もつらかった 2 生まれ年

 昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語を始めることにした。

 二夫は昭和3(1928)年の3月生れだ。これは戸籍上の記載であって、ほんとうは1年早い。二夫と同じ集落で生まれ後に二夫の妻となるミヨ子(母)も、戸籍上は昭和5年生れだが実際は1年早いことも、これまでここnoteで何回か述べている〈323〉。

 ありていにいえば、役所の手続きもそれに関する庶民の感覚も当時はかなりいい加減だった、という側面はあるだろうが、もともと日本人は「数え」で出生と年齢を認識していた。簡単に言えば、生まれたときにはすでに1歳で、あとは正月――明治以前なら旧暦の――が来ると、ひとつ年を取ることになっていた。みんな一斉に、である。だから個々の誕生日とか、厳密な出生日とかには無頓着だったはずだ。

 また、多産多死があたりまえで、かつ文字の読み書きが不十分な庶民が多かった時代、役所への届出も厳密ではなかっただろう。

 二夫の父・吉太郎(祖父)の物語「明治―吉太郎」を綴ったとき、その2回目「昔の生年月日」で述べたように、日本が近代に入り「戸籍法」が施行されるのは明治5(1872)年で〈323〉、それまで庶民の出生、死没などはそれぞれの家が檀家、門徒になっているお寺などで管理されることが多かったようだ。役所がシモジモの暮らしを管理するということ自体、まだ歴史が浅かったのだ。

 その意識が十分に抜けていなかった昭和初期の農村で、二夫は生まれたのだった。少なくとも、父親の吉太郎は明治の初め、もしかすると江戸時代の気分や習慣をまだ引きずっていたことだろう。なぜなら吉太郎の生業も生活も、生まれた頃とほとんど変わらなかったのだから。まして中央と地方では、情報も経済も文化も、つまりなにもかもいまより格差が大きかった時代のことである。

〈323〉ミヨ子や二夫の生年月日が戸籍と実際では違うことについて述べたのは「ひと休み(戦前の出生届)」が初出。
〈324〉「戸籍法」明治4(1871)年4月4日太政官布告第170号、明治5年2月1日施行。

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