昭和、男もつらかった 20 母親はやさしいばかりでなく…①
昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語である。
これまで生年や生まれ故郷、父・吉太郎(祖父)、母・ハル(祖母)、二人の結婚、二夫を産んだときのお産、そして一粒種につけた「二夫」という名前の由来を、続いて古い除籍謄本を参照しつつ一族について述べた(①、②、③)。
次に二夫の幼少期について述べることにして、前項ではきょうだいのように接していたたくさんのいとこたちとの関係に触れた。しかし、いくらきょうだい同様とは言っても、いとこたちにはそれぞれの家ときょうだいがある。自分の家に戻れば、二夫はやはり年が離れた両親との三人家族だった。
父親の吉太郎は人に愛想よくするタイプではなく、子供に対しても同様だった。独身時代が長く仕事一筋だったので、女性や子供と親しく交わる経験自体乏しかった。50歳近くになって跡継ぎが生まれたことはもちろんうれしかったが、赤ん坊をあやしたり、歩けるようになったら息子と遊ぶといったことの要領はよくわからなかった。そもそも当時の男たちは家の中のことに関わらないのがふつうだが、吉太郎はもっと徹底していた。
子供に関心がない――ように見える――吉太郎とは逆に、いや吉太郎の分まで、母親のハルは二夫を大事に育てた。最初の結婚で子供ができず「出戻った」ハルにすれば、再婚先で、しかも30代後半で恵まれた子供だ。それも大切な跡取りだ。
昭和の初め、乳幼児の死亡率は高かった(もちろんそれ以前はもっと高い)《参考》。ざっくり言えば10人に一人の割合で亡くなっている。これは都市部を含む統計だから、農山漁村ではもっと高かっただろう。ちなみに死産も昭和初期だと20人に一人の割合だ。まずお産は一大事、産まれても無事に育つとは限らなかった、ということだ。
だからハルは手塩にかけて二夫を育てた。歩けるようになるまでは、それこそ「片時も離さず」という表現がぴったりだっただろう。もっとも当時の母親は――昭和中頃まではふつうに――子供をおぶっていた。母親もなにかしら働くのが当たり前だった農山漁村の場合、おぶい紐で子供をおんぶして働いた。泣けばその場で胸をはだけて乳をやり、ぐっしょり重くなった布のおむつを替えた。
だから、ハルに限らず、母親と子供は一心同体というか、常に行動を共にするのが普通ではあった。
それでもほかにきょうだいがいれば母親を独り占めするわけにはいかない。まして下の子が生まれれば、母親の気持ちと労力の多くは赤ん坊に向けられ、上の子は「お兄ちゃん(あるいはお姉ちゃん)なんだからしっかりしなさい」とたしなめられる立場になる。
その点二夫はいつまでも母親を独占することができた。おじいさんと言ってもいいぐらい年の離れた父親が無愛想で近寄りがたいことで生じる心の空白は、母親に甘えることで満たされたはずだ。(「母親はやさしいばかりでなく…」②へ直接続く)
《参考》厚生労働省>平成10年 人口動態統計月報 年計(概数)の概況>7 人口動態統計100年の年次推移>(1)人口動態総覧率の年次推移
