昭和、男もつらかった 21  母親はやさしいばかりでなく…②

「母親はやさしいばかりでなく…」①より直接続く)
 一粒種で跡取りの一人息子・二夫(つぎお。父)を、ある意味溺愛していたハル(祖母)だったが、その風貌というかスタイルは「溺愛」というニュアンスからほど遠く、力強いものだった。いや、力強い母親だからこそ息子を護れたのかもしれない。

 「11 家族(母親)」で触れたように、現代なら仕事と家事育児を完璧にこなすキャリアウーマンだっただろうと思われるほど、ハルは女丈夫だった。田畑の作業を夫の吉太郎(祖父)に負けないほどこなしたうえ、家事も手を抜かない。いちいち子供をおぶい直すのは面倒なので、二夫はいつもハルにおぶわれていた(もっとも当時子供を始終おぶって育てるのは普通のことである)。

 二夫は歩けるようになると田畑にも連れていかれたが、子供の足を待っていては遅くなるので、ハルは天秤棒にかけた籠に二夫を載っけた。田畑への往路は、前の籠に二夫、後ろの籠に農具や弁当などを載せた。帰り道、収穫物を担ぐときは前後の籠にバランスよく積んだ。だから二夫は、食べ終わった弁当箱とか、採れたばかりの野菜などといっしょに籠に載せられた。

 吉太郎はお金を貯めて地所を増やすことが人生の目標かつ唯一と言っていい楽しみでもあったから、まとまったお金をハルに渡すことはなく、むしろタバコ銭などの小銭は「細かいのの持ち合わせはないか」とハルにせびった〈329〉。

 だから、これまた「11 家族(母親)」で述べたとおり、ハルは生活費の支出のための現金は自分で工面するしかなかった。いや、「しかない」というより「そっちがそのつもりなら、こっちはこっちでやってみせようじゃないの」ぐらいの気持ちだったかもしれない。それぐらい気が強い女性だったのだ。

 そこでハルは、採れた作物を天秤棒に担いで町まで売りに行った。一家が住む農村地帯から、昔は交通の要衝で宿場として栄えた――当時はまだその名残も濃かった――「湊町」と呼ぶ商業地区まで、大人の足で30~40分ぐらい。商家を訪ね歩いては、奥さんたち相手に新鮮な野菜や芋を売って歩いた。

 そのうちハルはひらめいた。味噌や醤油は自家用に作る。多めに作って売ってはどうか。仕込んだ味噌や醤油ができると野菜や芋といっしょに売り歩いた。もちろん、田畑仕事や家事の合間に。

 そして天秤棒の荷の片側には二夫がいた。二夫は、売り物の野菜や味噌醤油といっしょに担がれて町まで行く道中の風景を眺めて過ごした。籠の中から母親に話しかけるのも楽しかった。売り先に着いて籠が下ろされ、母親が「商売」する様子を見守るのはもっとおもしろかった。

 籠に載せられて毎回やってくる小さな男の子に、町の奥さんは紙に包んだお菓子をくれることもあった。母親の真似をして「おおきに」と大きな声でお礼を言うと「てんがらもんじゃ」(賢い子だね)と褒められた。

 町からの帰り、ハルは空になった籠に必要な生活用品を買って入れた。と言っても道具類のほとんどは自前で「作る」ので、どうしても買うといえばせいぜい針や包丁、鎌などの作れない金物。それも使えなくなってから初めて買うのだ。

 食べ物では塩や酢(塩は、売り物にする味噌醤油の「原料」でもある)、たまに砂糖、そしてごくごくまれに菓子。菓子はお仏壇に供えたお下がりを家族で食べるのがルールだが、帰り道少しだけ二夫に与えられることもあった。二夫はそれがいちばんの楽しみだった。(「母親はやさしいばかりでなく…」③へ直接続く)

〈329〉吉太郎の倹約家ぶりは「文字を持たなかった明治」で一貫して述べているが、対するハルのやりくりや吉太郎がタバコ銭をせびる場面は同「44 内助の功」で触れた。

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