昭和、男もつらかった 6 生まれ故郷
昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語を始めた。
昭和3(1928)年は戸籍上の生まれ年であってほんとうは1年早いこと、その背景などを述べたあと、当時の世相を確認する意味で昭和2年と3年の概要を見てみた。
そろそろ二夫自身の物語に進みたいが、生まれた環境について述べておいたほうがその先の展開をイメージしてもらいやすいかもしれない。
後に二夫の妻となるミヨ子(母)の物語を3年ほど前(2022年)から綴った。二夫とミヨ子は同じ集落で育ったから(しかも親族に当たる)、ミヨ子の故郷はほぼそのまま二夫の故郷でもあるので、ミヨ子の「生まれ在所」として紹介した内容を振り返ってみる。(適宜修正を加えた)
二夫たちの故郷は、東シナ海を西に臨む鹿児島の小さな町の、農村地帯のほうだった。第一次産業が中心の時代、町の海側は漁業、山間部は林業、平地から山間部の一部は農業を営むという、当時としては平均的な自治体だったのではないだろうか。町の中心部には街道沿いに栄えたあとがあり商家も多くあったが、二夫たちの集落からは遠く、まして移動手段は基本的に徒歩なので、商業地区との往来はあまりなくその必要もなかっただろう。
町は大小の集落に分かれていた。二夫たちが育ったのは、子供の足でひと回りしても1時間もかからないこぢんまりした集落だった。田んぼや畑を取り囲むように点在する数十軒の民家はほとんどが農家で、かつ子だくさんの大家族だった。それぞれの家の田んぼや畑は家の敷地やその徒歩圏内にあった。
集落には近くの山から小川が流れ込み、横切っていた。小川からは周りの田んぼへ水を引いたし、女たちの洗濯場もあった。浅いところは子供たちの遊び場にもなった。小川は下流で大きな川に合流し海へ流れ込む。集落から海までは歩いても行ける距離だが、農業を営む人びとが海に行く用事などないし、まして遊びに行く時間もなかった。
集落のほぼ東側の後背地には低い山が連なり、山間いにはまたいくつもの別の集落があった。二夫たちの集落の外れには鉄道(鹿児島本線)が通っていたから、ものすごく辺鄙な田舎というわけでもない。ただ、町にひとつしかない駅までは大人の足でも30分近くかかった。
住人のだれもが顔見知りの小さな集落は、昔話に出てくるのどかな村を思わせた。
――いま読み返してみても、だいたいこの通りだ(ったであろう)と思う。この小さな町の多くの人は生まれた集落からほとんど移動することなく大人になり、近くの人どうし結婚し一生を終える、ということを、戦後しばらくまで繰り返した。とくに女性たちは。
男性にはもう少し自由があったが、それとて家の跡継ぎではないから自活の道を探すしかないという理由から働く場を町の外に求める、といった事情によることが多かった。
付け加えれば、こういった環境は二夫たちの故郷に限ったことではない。日本の多くの地方――農山漁村では大同小異だったはずだ。
働くことに自己実現を求め、常に承認欲求を満たしたい令和(いま)の人々には想像できないだろう。しかし、同じ日本人がそんな生き方を「ふつう」としていた頃からまだ100年しか経っていないことは、少なくとも知られていいと思う。
