闇 558(宮古島二日目編)
闇 558(宮古島二日目編)

2026/05/10 sun
※これは自分がなぜこんな人生になったのか、死ぬ前に自分で確認する為の小説です。
前回の章

二千二十二年六月七日、火曜日先勝。
爽快な目覚め。
起きてこの心地良さの正体は、寝心地のいいマットレスなのに気付く。
かなりいいものを使っているのだろう。
こんなものでこうまで起きたあと身体の調子の違いは分かるなんて、今後新宿でマンションを借りた時、マットレス購入も考えたほうがいいな。
タバコを口に咥えた時点で室内が禁煙なのを思い出し、ベランダへ向かう。
おはようございます。
目覚めてから、すぐ海の見える景色っていいもんですね。
こんな感じでフェイスブックに心境を書きながら、綺麗に晴れた青空を眺めた。
311のような地震が来たら、この辺など津波に飲み込まれて大惨事になるんだろうなと思いながら、セブンスターに火をつける。

空の雲一つ取っても、新宿から見える風景とまるで違う。
失敗したと思ったのが、これだけ綺麗な空なら昨日の夜、星がどのぐらい見えるのか見ておけば良かったというもの。
せっかくだから月がくっきり写せるぐらいの高性能のデジカメを買っておけばと後悔した。
それでもまた急に雨が降り出すのだろう。
一見晴天に見えるが、宮古島の天候が意地悪なのは百も承知している。

それにしても本当に湿気の多い土地だ。
夏場ならこの広めのベランダにハンモックでもぶら下げて、昼寝したい気分だった。
部屋から片屋敷の錯乱する声が聞こえてくる。
一体何を取り乱しているのだ、あのチビは?
隣りでノッポの倉敷がニヤニヤしながら一緒に何かを探していた。
俺は放置して風呂場へ向かう。
かなり広めの浴槽。
旅行気分を出す為に、コロナ感染で隔離された品川プリンスホテルの時持ってきた使い捨てのシャンプーやリンスも持ってきたので、早速使ってみる。
相変わらず右脚の痺れは変わらず。
熱海温泉での湯治は、まったく役に立たなかった事が証明された。
一生この脚の状態のまま付き合っていくようなのかな……。
もっと質悪いのが左脚だ。
ちょっとした移動なら何の問題もないくせに、何故百メートル辺りで鈍痛が走るのか?
俺が痛みを堪えても歩けなくなるほどなのだ。
少し違うな。
痛みというより、これ以上このまま進むと脚がヤバい状態になるという本能的に察知する危機感?
もちろん痛みもあるが、それ以上に気持ち悪いのだ。
赤心堂病院の塚越先生もこの左脚に関しては、いまいちあてにならないしな……。
「歩行時の足の痛み…、間欠性跛行ですが、閉塞性動脈硬化症は冷感、壊死を引き起こす疾患なんで、岩上さんの場合該当しないですね。まあ入院中隠れてタバコを吸ったぐらいなんです。禁煙外来の紹介状書きますよ」
だいたい何でこの痛みを何とかしてほしいと相談しているのに、禁煙外来に結び付くんだ?
あの先生、心臓に関してはプロだが、それ以外だとやぶ医者なのかもしれない。
バスタオルで髪の毛をゴシゴシ拭きながら部屋へ戻ると、まだ片屋敷は大声を上げながら何かを探していた。
「さっきから何やってんです?」
「あ、岩上さん! 車の鍵ありますよね? ちょっと一緒に来て下さいよ」
「どこへ?」
「外の車ですよ!」
「何で?」
「自分の携帯が無くなっているんですよ! 部屋をこれだけ探しても無いんだから、絶対車の中にあるはずなんです! さあ、早く行きましょう!」
「ちょっと待って下さいよ。いくら沖縄だからって、パンツ一丁で外出たらヤバいですって」
「とっとと着替えて下さいよ!」
「んだと? このチビ」
俺は加減しながら片屋敷をソファーへ突き飛ばす。
だいたい風呂上がりにいきなり無茶な事を言いやがって。
「お願いしますよ、岩上さん!」
あまりにも必至で滑稽だったので、仕方なく服を着る。
外まで行って車を開けると、また片屋敷の絶叫が聞こえてきた。
「何で無いんだよー!」
知るか……。
「これ、鍵渡しておくから、ちゃんと閉めてから戻って来て下さいよ」
「冷たいですね! 一緒に探してくれてもいいじゃないですか!」
「だってこの狭い車の中、どうやって二人で探せって言うんですか。俺は戻ってタバコ吸ってますよ」
「この薄情野郎! 肺がんになって死んでしまえ」
俺は片屋敷のケツを軽く蹴ってから部屋へ戻る。
結局彼の携帯電話は行方不明のまま、朝から激しいテンションで大騒ぎ。
達彦と斉木がそろそろ出発の為迎えに来ると、ワーワーうるさい片屋敷を黙らせ、昨日と同じ伊良部大橋へ向かう。
またコンビニで食料を買い込み、橋を渡ったあとにある伊良部島側の駐車場へ車を停める。

昨日とは逆の位置から風景。
天気も晴れたままなので、俺は何枚も写真を撮った。

伊良部大橋の下へ行ける階段があったので、ゆっくりと溜めを作りながら慎重に階段を降りてみる。

目の前に広がる壮大な海。
前方を見ると、昨日斉木が話したプロポーズして成功して嬉しくて橋の柵の外へ出て落ちて死んだ人を思い出す。
橋の麓にあるのはトーテムポールだったっけ?
何だか凄いところにいるんだなあという実感だけは湧く。
一歩脚を滑らせれば海の中。
半ば脚が不自由な俺など一溜まりもないだろう。

鳥の鳴き声が近くから聞こえる。
鳴き声からして小さな鳥だと分かった。
横浜から新宿とずっと十姉妹と錦華鳥を飼っていたのだ。
もう亡くなってしまったマゲ一家。
あの子たちの癒しがあったからこそ、俺は未だ完全に壊れず生きているのかもしれない。
また鳥を飼いたいなあ。
それにはまずあのアスクルームを脱出してからか。
そういえば鳥はどこにいるんだろう?
携帯電話のカメラをズームにして、木の枝を見てみる。
あれは雀か?
都内と違い妙に警戒心の薄い鳥。

さすがに触らせてくれないだろうが、呑気に嘴で木の枝を突いている。
根底にあった澱のようなものが、ドロッと少し溶けた感じがした。
そうか…、俺はここへ少しばかりの安堵を得に来たのだろう……。
過去の忘れていた傷を反芻し、十姉妹のマゲたちと過ごしたあの頃を思い出し、目の前にある海をただ眺めるだけ。

何もせず、ボーっとただ自然に触れる時間。
少し先には白い砂浜が見える。
そういえば昔九州へ行った時、宮崎で星の砂って売っていたもんな。
沖縄の海の砂は、星の形をしていると聞いたのを思い出す。

この場所は大自然を体幹で知り、日頃の喧騒を忘れる無を求めるところ。

そして長い伊良部大橋の下は、自然と文明の利器の結合場所。
どれだけの人員と材料を使えば、あんな強大な橋を支える土台をこの海の中に作れるのだろうか?
無知な俺にはまったく想像もつかない。

イワカミ工業時代、川崎の湾岸線の橋梁工事をやっていた頃が頭に思い浮かぶ。
あのエリアだけで十億円規模の工事と言っていたが、ペンキ塗りでその金額だ。
この長さの橋を一から造るとなったら、どれだけの金額が掛かったのだろうか?
「岩上さーん、そろそろ行きますよー」
「あ、今戻ります」
再び車で、中の島海岸へ移動。
一度伊良部島へ渡り、西側にある下地島の海岸へ行くらしい。
この辺りは島と島繋がりで一つの地域となっている。
道路に中の島海岸という案内標識が見えた。
駐車場へ車を停めると、歩いて海岸へ向かう。

隙間から海が見えた時、あまりの美しさに脚を止めて見惚れてしまう自分がいた。
映像を撮ろうとして、この場所はまったく電波が届かないエリアなのだと分かる。
インターネットが当たり前になった世の中で、まだこのような場所が日本にある現実。
そこには進化とは無縁な自然だけで構築された神秘的で美しい本来の姿だけが残っていた。
純粋無垢なまるで生まれたての赤ん坊のようだ。
「岩上さん、下に降りますよ」
「あ、はい、今行きます」

浜辺の入口左手にはテラス席やシュノーケリングを貸す口うるさいオヤジが見える。
達彦が笑顔で話しながら、俺たち以外誰もいない空間の席を確保。

癖がありそうで頑固な性格のようだが、愛想は悪くない。
よくこんなところに一人、ずっといられるものだなと感心した。
きっとこの島の地元民であり、観光客が海を汚さないよう見張っているのかもしれないな。

片屋敷と倉敷は早速シュノーケリングを始め、手前の海に入り子供のようにはしゃいでいる。

「岩上さんは泳がないんですか? カナヅチとか?」
「泳げますよ。ただ心筋梗塞やってから、ずっと右脚が痺れているじゃないですか。それに歩くと鈍痛が走る左脚を考えると、さすがに海へ入るのは危険かなと」
誰よりも強さに拘って生きてきたつもりだった。
それが五十歳になった今、こんな気弱な台詞を平気で口にするなんてな……。

「おい! そこのデカいの!」
シュノーケリングを貸すオヤジの怒鳴り声が聞こえる。
俺に声を掛けているのか?
振り向くと手招きをしているで近付く。
「これ食え。サービスだ」
そう言って枝豆を渡すオヤジ。
「え、これは?」
「食え。やるよ」
「はあ…、ありがとうございます」
「悪そうな顔してやがんなー。おまえだけじゃねえ、みんな悪そうだ。ヤクザか?」
「何で誰も刺青入ってないのにヤクザ判定なんですか。新宿から旅行に来ただけですよ」
「おまえら新宿か。この野郎」
口の利き方をまるで知らないくせに枝豆をくれたりと、変なオヤジだなと元の場所へ戻る。
「何かあのオヤジが枝豆くれましたよ?」
「良かったじゃないですか。じゃあ早速頂きましょう」
茹で加減が足りないのか妙に固いし、塩も何も振っていない枝豆。
一つ齧っただけであとは誰も口にしなかった。
浅瀬で海面に顔をつけた程度の片屋敷が戻ってくる。
「岩上さんは泳がないんですか?」
「体調万全なら泳いでますが、心筋梗塞やってからは無理ですよ」
セブンスターに火をつけ、海を眺める。
「岩上さん、これ」
片屋敷が手の平に何か乗せて見せてくる。
「え? これってヤドカリ?」
「いっぱいいますよ」
意識して意思の隙間を見ると、ヤドカリが本当にいた。

凄いなあ。
こんな場所でも逞しく生きている小さな生物がいる。
新宿へ持ち帰り飼いたいぐらいだ。
でもそしたらこの子たちって、環境が変わってすぐ死んでしまうのだろうな。
野生のヤドカリを初めて見た俺。
手の平でモゾモゾ動く姿をしばらく見つめた。
「岩上さん、火を貸してもらえます?」
「あ、どうぞ。タバコも持ってきてなかったら、セブンスターでよかったらどうぞ」
「いえ、ライターだけでいいです」
渡しながら彼の挙動を見て、すぐライターを取り上げた。
「何やってんですか!」
「いや…、ヤドカリを焼いたらどうなるかなと」
「駄目ですよ! 何を考えているんですか!」
まるで子供が無邪気にトンボの羽を毟るような性格。
だが、片屋敷は分別のつく三十代前半なのだ。
よくこんな状態で、裏稼業が務まるものである。
インカジ『レディ』へ先に入ったから先輩という立ち位置なだけで、何も敬うところがない。
ヤドカリの命を何だと思っているのだ?
俺は黙って彼の挙動を注意して見た。
案の定今度はヤドカリの殻を手で剥こうとしていたので、手を叩いてやめさせる。
善悪の区別がまるでないこの男。
しかも人間には卑屈で、圧倒的に力の差がある弱者には容赦のない行動を平気でする片屋敷の思考には、これから気を付けたほうがいいかもしれない。
今や満身創痍な身体になってしまい、若い頃のようなイケイケな精神ではいられなくなった俺。
それでもせめて目に映る最低限の弱いものは護る。
俺は近くにいるヤドカリを探しては少しでも片屋敷から引き離そうとしらみつぶしに辺りを見た。
いや、手段が違う。
片屋敷の動向をチェックしていればいいのだ。
「何ですか、岩上さん。ひょっとして自分の事が好きなんですか?」
俺は無言で彼の頭を叩いた。
「じゃあそろそろ次はバーベキュー行きますよ」
達彦の号令でみんな立ち上がる。
誰も手をつけない枝豆は、石を積み重ねオヤジに見えないようにそっと置いて中の島海岸をあとにした。
斉木の運転で、与那覇前浜のビーチへ向かう。
俺は後部座席で、ひょっとしたら片屋敷がポケットにヤドカリを持ってきていないかさり気なく伺う。
そればかり気になり、どう走ったのか分からぬ内にビーチへ到着した。
東洋一の白い砂浜と評される名所らしく、綺麗な場所だった。

まずは用意してあるというバーベキューへ向かう。

海の家のような建物は、中まで砂浜同然になっていて宮古島らしいなと感じた。

氷の中へつっ込んだ状態のシャンパーニュが置かれ、建物の外には七輪で焼くバーベキューのセットが置かれている。

手羽先、豚肉、ホルモン、ソーセージとゴチャゴチャの肉の盛り合わせが出てきて、好きに焼き始めた。

牛肉もステーキ用と焼肉用のものが別皿で出される。

野菜も出てくるが、ゴーヤや紅芋、パプリカなどばかりで、キャベツなどが無いのが物足りない。

ご飯も欲しかったので店に頼むと、サランラップで巻いただけの塩むすびしかないようだ。
丼飯でガツガツ食べたかったのに、この部分だけは味気ない。

「そういえば片屋敷さん、携帯電話は見つかったんですか?」
「見つからないですよ!」
「昨日うさぎやの段階では持っていませんでしたっけ?」
「ありましたよ」
「じゃあ、あのうさぎやって歩いて行ったんだから、車にある訳ないじゃないですか。昨日の夜酔って倉敷さんと飲みに行ってましたけど、それでじゃないですか?」
「あ、達彦さん! 聞いて下さいよ」
「な、何よ、片屋敷……」
「昨日の夜で持ってきた財産全部使っちゃったんですよ」
「何でまた?」
「酔ってて覚えてないんですよ!」
笑いを堪えながら倉敷が彼の肩を叩く。
「昨日片屋敷氏は酷かったんですよ。自分が金が無いと何度も言っているのに、バーやお姉ちゃん飲み屋を梯子して、トイレに行って帰ってこないなあと思って見に行くと、チンコ出したまま寝ていたんですよ」
「俺、そんな事してないですよ!」
激怒する片屋敷を無視して、倉敷は続ける。
「それで片屋敷氏は、アスファルトに溜まった水溜まりの上で寝転がり、あー気持ちいいと。一応自分も落し物ないように気を付けて見ていたんですが、どこかの店で携帯を置いてきたんでしょう」
この暴露話にみんな大笑い。
片屋敷だけが仏頂面で酒を飲んでいた。
ビーチを出ると、斉木の運転で、『ブルーシール宮古島パイナガマ店』というアイスクリーム屋へ入る。
達彦情報によると、沖縄で人気のあるアイスチェーン店らしい。

もう建物から内装から若い女の子が好みそうなメルヘンという言葉がピッタリなこのお店。

壁には色々な種類のアイスがデザインされた凝った造りのオブジェ。
店内にも大きなアイスの置物が設置されている。

三十代から五十代の男五人のムサい集団は俺たちだけ。
正に場違いという言葉がピッタリだ。

他は女性客ばかり。
男がいても、カップルだけという異色な空間。
それでも旅の恥は搔き捨てなのか、達彦はみんなに好きなアイスを注文するように促す。

せっかくなので、俺はチョコミントのダブルにした。
片屋敷は三つぐらい違う種類のアイスを乗せ、懸命に頬張っている。

恥ずかしいのでアイスを受け取ると、すぐ外へ出た。

チョコミントを見ると思い出すカクテルのグラスホッパー。

俺が女性とデートでバーに連れて行く際、カクテルを頼む際の常套句にもなっている。
横浜のバーで石川雅之と飲んだ時でさえ、頼んだ事がある。
セックルを出ると大岡川沿いを関内方面へ歩き、今度は石川お勧めのバーへ向かう。
位置的には都橋商店街交番側の川を渡ったところ。
「この辺は吉田町と言うんですよ」
「へえ、横浜はとにかく広過ぎて色々な地名あるから混乱しますよ」
「ははは、あ、着きました。ホルボーンです」
これまで良さげなバーだ事。
「岩上さんは何を飲まれます?」
「一杯目はチョコミントの味がするグラスホッパーにしようかと」
「そんなものもあるんですね。じゃあ自分もそれで行きましょう」
ペパーミントグリーンとクレームデカカオホワイト、それに生クリームでシェイクしたショートカクテル。
「どうです?」
「うん、こりゃあチョコミントだ!」
満足気な石川。
次のカクテルを思案していると「あ、岩上さん動かないで下さい。写真撮りますから」と高そうなカメラで俺を撮る。
そういえば、新宿というか大久保に住み出してから、ほとんどバーで飲まなくなったな……。
この宮古島旅行が終わり、新宿へ帰ったら、ちょっとはお洒落な場所で酒を飲むような場所を探そうか。
一旦マンションへ戻り、夕食まで部屋で雑談。
自業自得のくせに、片屋敷はひたすら金を使い果たした自分は可哀想だと愚痴をこぼしている。
気持ちは分かるが、酔ったとはいえ自分の意思で酒を飲みに行き、勝手に金を散財しただけなのだ。
俺も同級生の神田との散財でかなり後悔はしたが、それでも職場で愚痴などこぼさない。
片屋敷の主張は見苦しく感じた。
だが、彼はまだ三十代前半という若さ故。
今、俺がどうのこうの言ったところで、何一つ伝わらないだろう。
倉敷も十歳ほど年下の片屋敷におんぶにだっこで、いるのはあまり良くない傾向だ。
まあ職場内で一番最後に入った俺が口を挟む問題でもない。
夕方になり、歩いて海産物料理店『海の幸』へ向かう。
楽観視していたが、これがうさぎやの距離の三倍ほどあった為、俺が左脚の鈍痛による休憩は純粋に三倍となる。
正直有り余る経費があるのなら、タクシーで行けよと恨むほどだった。
斉木が俺を気遣いながら、合わせて店へ向かう。
「すみません、斉木さん…。これがあるから宮古島旅行へ行きたくないって言ったんですよ」
「まあしょうがないですよ。自分のペースで構いませんから」
オーナーの大場が強制参加と言った以上、組織の人間はどんな立場でも命令には遵守しなければならないこの系列。
嫌味な言い方をすれば、コロナワクチン強制接種も、これと同じ構造だ。
店のスタッフは、俺と星野を残し、全員がコロナワクチン一回目を打っていた。
早く行かなきゃ駄目だと小西から強要される。
今日を逃がしたら平日は最後。
夜も仕事だが、今日は四時間残業だったので、仕事の終わりは昼の十一時まで。
そのまま川越へ行ってくるか。
西武新宿駅へ向かう。
まずは市役所区へ行き、現在の住所がどうなっているかの確認へ。
職員に自分の給付金やワクチン接種券が来ない状況を伝え、ま調べてもらった。
すると二千十六年の九月の時点で、川越の住所が抜かれていると説明される。
「え? どういう事です?」
「いえ、岩上さん…、失礼ですが、現在はどちらのご住所へお住まいでしょうか?」
「はあ? 川越の松江町ですよ?」
「それが先ほど言ったように二千十六年の九月で、そのご住所は川越市役所で抜いているんですよね……」
「じゃあ、俺はどこの住所になっているんですか?」
「現時点では、住民票を抜いた状態のままになっていますね」
つまり現時点での俺は住所不明扱いになっていたのだ。
五年間もの期間を。
それは色々と届かないはずだ。
皮肉なもので、あのコロナワクチン接種があったからこそ、俺は住所が不定扱いな事に気付けた。
だが、それによって心筋梗塞二回という死の縁へ立たされたのも事実。
そういえばこの旅行中、番頭の達彦は一度も俺の心筋梗塞へ触れてこない。
つまり名義社長の小西にしても、店長の斉木にしても、自分より上の立場の人間へ俺の状況を伝えていないという事になる。
結局死に掛け、四十数万の身銭を切って損をしたのは俺だけ。
一週間仕事を休み、収入が無かったので、被害額でいえば六十万近いはず。
複雑な心境のまま宮古島ののっぺりした道を歩く。
やはりもう俺など何の価値もない……。
辞めろ、いい加減その思考回路を!
自分に価値があろうと無かろうと関係無い。
ワクチン打つのも、宮古島へ来るのも嫌だったら、インカジ『レディ』を辞めればすべて回避できたのだから。
月に五十万稼げる仕事が他にとよく考えるが、そうでなくこういった理不尽な事もすべて込みの五十万円なんだよ。
小西が自己の点数稼ぎで上に心筋梗塞を伝えないのも、全部込み込みの値段なのをいい加減気付け。
自分が特別だからこの給料をもらえるのではなく、大場系列にいれば必然的にそのぐらいの金額の保障はありますよというだけなのだ。
それでもいいなら、仕事を続ける。
こんな状況でも嫌なら辞める。
それだけの話だろ。
人のせいにしていれば気分転換にはなるが、結局何も変わらない。
全部俺が自分で選択したからこうなったのだ。
バカラでいうプレイヤーかバンカーか。
引き分けのタイは無い。
もう被害者意識は捨てろ。
誰一人同情なんてしてくれないのだから無駄。
いや、同情はまだいるか。
不運だ、可哀想にと。
でもその人たちが俺を食わせてくれるのか?
結局のところ、自分一人で好きに生きてきたのである。
当然後始末も全部自己責任。
「岩上さん、見えてきましたよ、海の幸」
こんな距離を歩かされ、魚類が嫌いな俺に対し、何の罰ゲームなんだよ。

だからそれをやめろって!
世の中は平等じゃない。
誰かが金を儲け、誰かが得をする。
その分だけ誰かが犠牲になるだけ。
俺は人を騙してまで金など要らない側だと、それを誇りに思った。
あの時の死の間際で。
ああ…、俺はもう死ぬのだなと直感した。
様々な過去の記憶が頭の中でグルグル蘇ってくる。
これが走馬灯というやつか。
死の間際、その正体を肌で感じた。
人間としての生存能力が、高速でこれまでの経験を思い出させ、生命の危機を脱する方法を模索する。
おそらくこれが走馬灯の正体。
不思議と死ぬ事に対し、怖いという感情はなかった。
岩上智一郎、地元川越で散る。
うん、悪くねえや。
死の間際だというのに何故か口元がニヤリとしていた。
何故俺は笑える?
不思議とそんな事を考えた。
人に利用され、騙され続け、結婚せず、子もいない。
傍から見れば惨めで寂しい人生を送ってきた。
でも、命の蠟燭が尽きようとしている今、俺は自分のこれまでの生き方をそんな嫌いになれなかった。
いや、むしろ報われない馬鹿げた生き方だったけど、自分を好きで生きてこれたのだ。
だからこそ、自然とそれが笑みに出たのだろう。
笑いながら終われる人生。
終わりよければすべて良し。
そんな境地に達していた。
やせ我慢?
馬鹿言え。
これで終わるのに、何を誰かからの評価を気にする必要性がある?
俺は俺でしかない。
それでいいじゃないか。
そういう終わりの人生だったのだから……。
結果たまたま生き残っただけ。
あれで確信したはず。
俺は騙す側には回らないと。
ならこれからも理不尽に削られていくだけなんだ。
生きている限り。
「ここは伊勢海老が有名なんですよ」
「斉木さん…、俺、蟹もそうですが、海老も得意ではないですよ」
ムキになって辞める方向へ向かう必要性はないが、馬鹿みたいに気を使うのもやめよう。
最低限度の礼節、最低限度の対人関係さえ仕事に支障が無いレベルでいればいい。
嫌なものは嫌だ。
それを言ってクビになるなら仕方ないだろう。
俺たちが一番最後の到着なので、テーブルの上には伊勢エビのオーブン焼きが出始めていた。

「斉木さん、海老とか好きですよね?」
「ええ、何でです?」
「俺は無理なんで代わりに食べて下さいよ」
「ちょっと待って下さい。それなら店の人に何か交換できるか聞いてみますよ」
他にタコの刺身も置かれ、俺以外の一同は料理を見てはしゃぐ。

何の料理か分からないが、肉ではない。
間違いなくこれも魚類のものだ。

お新香もシンプルに白菜かキュウリだけでいいのになあ。

店のほうで気を利かせ、海老の代わりに焼肉へ変えてくれた。
心遣いは嬉しく思うも、この焼肉は美味くも何ともない。

あと刺身を俺だけ全部マグロにしてもらえる。
小鉢のもずくと、大嫌いな夕張メロンは欲しがる人へあげた。

九州の料理は美味いとみんな言っていた。
でも二回旅行へ行った俺には、何が美味しいのか分からなかった。
沖縄にしてもそう。
普通と舌の感覚が違うもかもしれない。
でもそれを嘆いても意味がないのだ。
何故なら俺はこう好き嫌いしながら、ここにいる誰よりも大きく成長してしまったのだから。
帰り道は一度歩いたから、ある程度マンションまでは帰れる。
どうせ進めば鈍痛は出るのだから、みんなには先に行ってもらう。
ゆっくり自分のペースで行けばいいさ。
もう宮古島に来てしまったのだ。
いつまでもいじけたところで何一つ始まらない。
そんな自分にご褒美を与えようと、またカールのチーズ味を買った。

就寝時間になるまでは、旅行のスケジュールの一環。
そう割り切り、どうでもいい話に笑顔で付き合う。
「達彦さん、明日ってどこへ行くんですか?」
「明日はですね……」
メモ用紙を見ながら予定を見る達彦。
もしこれが宮古島でなく沖縄だったとしても、ミサキと会う時間など本当に作れなかったなと思う。
「明日はイ、イム…、イムギャーマリンガーデンというところですね」
「舌を噛みそうな名前ですね」
あと二日でいつもの生活へ戻れる。
ゆっくり風呂へ浸かり、キンキンに冷凍庫で冷やしておいたウイスキーをストレートで飲むと、ふかふかのマットレスへ寝転がり、宮古島二日目が終わろうとしていた。

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