闇 557(宮古島初日編)
闇 557(宮古島初日編)

2026/05/10 sun
※これは自分がなぜこんな人生になったのか、死ぬ前に自分で確認する為の小説です。
前回の章

二千二十二年六月六日、月曜日赤口、芒種。
ヤバヤバ…、神田と別れて帰ったらすぐ寝てしまい、今起きた。
旅行の準備何もしてない。
どーしよー……。
いや、慌てるな。
服は買った。
あとはケースに物を詰めるだけ。
店長の斉木はこの四日間自由時間なんて睡眠以外無いなんて言っていたが、夜にこっそり抜け出してミサキに会いに行くのもありだよね。
沖縄のどの辺なのか知らないけど、宮古島から歩いて一時間も行けば会えるだろう。
まだ何も連絡していないから、ビックリするだろうな。
ミサキとは最後が岩上整体を開業する時だったから、二千六年。
もう十八年も会っていないのか。
いや、あの頃は百合子がビタッと嫉妬心全開で常に横にいたから、ほとんど連絡すらしていない。
つまり二十年以上、ミサキとほぼ関りが無い状態なのだ。
考えるより手を動かせって!
もう朝には出るようなんだぞ?
本当に面倒臭い。
何で仕事を休んでまで、南国など強制で行かなくてはならないのだ?
自衛隊時代何度も飛行機には乗っているから、羽田空港への行き方は覚えている。
山手線で浜松町。
そこからモノレールで空港へ。
十八歳で朝霞駐屯地から北海道の倶知安駐屯地へ行ったが、何度羽田と千歳空港を往復しただろう。
最初の移動で一回。
次にお盆休暇で一回。
この時九州から来た同期の川内と久徳も、一緒に関東へ行きたいと家に泊めたんだよな。
田舎者の川内は馬鹿だから表の見える位置に長財布入れて、擦られるから中へしまえと何度注意しても、ブランド物の財布を見せびらかしたいのかそのままだった。
結果羽田からモノレール間で、擦られ大騒ぎ。
「川内、切符は浜松町までのを買うんだよ」
「ああ、分かっちょる。え!」
俺が振り向くと、川内は両手で服をバシバシ叩き出し、すべてのポケットをチェックして蒼褪めている。
「何やってんだよ?」
「財布が無い! 財布が無い! 財布が無い!」
「だからそんな表のポケットに入れてたら擦られるぞって、あれほど言ったじゃねえかよ」
「無い! 無い! 財布が無い!」
結局俺が金を貸してやり川越の家に泊めたが、川内にしたらあの時の事は未だにトラウマになっているだろうな。
北海道倶知安町にはコンビニ一軒も無くて、ゲームセンターも見た事がない。
ファーストフードも何も無い過疎化していた街。
八畳一間で家賃八千円とかあったのを川内が借りていたっけ。
重迫撃砲中隊に所属されてから、休みになると倶知安の寂れた街にあったスナック『パピリオ』で、たまの『さよなら人類』を唄い、「あー、人類が初めてー…」のところを「あー、川内が初めて、財布を擦られたよー」とよく唄ったものだ。
青森出身の同期鳥谷部がマイクであとから「擦られたー」と続いて。
あの田舎の倶知安で新隊員後期教育隊時代、唯一の駐屯地から脱出した時の俺の娯楽が、ニセコデパートの二階と三階へ行く階段の踊り場の片隅にあった『ファイナルファイト』でゲームする事だったな。
あとは狭い喫茶店に行き、一品五百円の食べ物を三食頼みながらひたすら漫画を読んだぐらいだ。
考えてみれば当時十八歳とはいえ、時化たデパートの片隅でゲームをする自衛官ってヤバいよな。
もうプレイヤーは、武神流ガイしか使わなかった。
上官にいびられイライラした時だけ、ハガー使った。
それで腕をブンブン振り回して、雑魚キャラでも絶対にとどめはジャンピングパイルドライバーを使った。
コーディー?
え、この幸薄い男が主人公?
『ストリートファイターゼロⅢ』で、刑務所から逃げ出して囚人服姿で石投げている奴だろ?
コイツだけは『ファイナルファイト』で使用した事なかったな。
だから思い出を振り返るより、今は旅行の準備しろって!
何で俺はこう脱線が多いんだ。
七時に羽田空港へ行かなきゃいけないんだから……。
キャリーバッグへとにかく色々詰め込んだ。
もちろん心筋梗塞の薬は別のすぐ分かる場所へしまう。
九州のひろみへ会いに行く時買ったこのバックが、また役に立つ時が来るとはな。
任天堂スイッチは持っていくか?
いや、さすがに南国へ行ってまでゲームしてもしょうがない。
これは却下。
よし、大方まとまった。
時計を見ると朝の五時を過ぎていた。
早めに着いておいたほうがいいだろう。
俺はキャリーバッグを転がしながら、アスクルームを出た。
朝五時台の電車なのに、何でこんな混んでるんだ?
新大久保駅から乗った山手線。
てっきり座れるかと思ったら、こんな時間帯なのに多くの人がいる。

ここにいるほとんどがおそらく旅行組だろう。
でも俺はこれから宮古島へ行くのだ。
君らのようなさもしい旅行とは違うのだ。
だから左脚の鈍痛に悩む俺に、席を譲れ。
心の中で何度もつぶやいた。
浜松町のモノレールへ到着。
えーと、これから空港へ行けたんだよね?
考えてみれば、十九歳の時が最後。
三十年以上経って、全然当時と別物になっていたので不安になってきた。
「あのー…、羽田空港にはこの電車でいいんですか? あ!」
待っている人に、聞いたら無視された。
別の人に聞くも、みんなスルーで顔を見ようともしない。

何なんだ、コイツら?
地方出身者が都内に出てきて気取っているつもりか?
このにわか東京者共め。
にわか東京者は、澄ましている分質が悪くて冷たい。
そうだ、駅員にはなっから聞けばいいのだ。
俺は羽田までの行き方を聞いてからモノレールへ乗る。

ようやく羽田空港へ到着。
羽田空港国内線第二ターミナルと言っていたよな?
広過ぎてどう行けばいいのか分からないんですけど?
でも行き先案内の文字があるから、その通り行けばいいのか。

ほら、見ろ。
着いたぞ、目的地へ。
まだ三十分以上も早く着いた。
俺が一番乗りだろう。
通りながらマクドナルドがあったのは記憶しているのだ。
ここは朝マックまでする心の余裕で、この一番乗りの余韻に浸ろうではないか。
何でビックマックとかを朝は販売しないのか?
マフィンなんてガサガサしたパンなど食べたくない俺は、仕方なく唯一のバンズであるフィッシュバーガーセットを頼む。
朝マックで唯一認めるのは、このハッシュドポテトぐらい。
でも普通のフライドポテトもつけろよと言いたい。
それと毎回ケチャップも一緒につけろよと。
フィッシュバーガーを一口食べた瞬間、携帯電話が鳴る。
斉木からだった。
「岩上さん、今どこですか? もうみんな集まっているんですけど」
俺はメロンソーダで一気に口の中を流し込んでから、慌てて集合場所へ向かった。
宮古島インカジ『レディ』の選抜メンバーは、店長の斉木、片屋敷、倉敷に俺の四名。
引率で番頭の達彦。
すでに他の系列である『ダウンロード』一行も、宮古島へ向かうようだ。
本当に大掛かりな計画の大場系列社員旅行。
離陸まで時間があったので、航空内にある蕎麦屋へ入る。
達彦がすべて経費で払うから好きなものを頼んでくれと笑顔で話す。
「え、本当に好きなもの言っていいんですか?」
「ええ、どうぞ。好きなものを頼んで下さいね」
「じゃあ天ぷらそばに、追加で海老天二つもいいですか?」
「どうぞどうぞ」
倉敷は飛び跳ねて喜びながら注文をしている。
俺は控えめにカレーライスのみにした。
やがて時間が来て搭乗する。
離陸前、飛行機の中から自分を撮影。

滑走路を走りながら地面から浮く様子をジッと眺めた。
徐々に軌道は上がり、あっとういう間に空へ浮かぶ。

空と雲しか見えない窓。

しばらくして綺麗に澄んだ海が見えてくる。

横浜や先日熱海で見た海と全然違う。
こんなにも沖縄の海は綺麗なのかと感動さえ覚えた。
ミサキが以前俺に話した沖縄が気に入ってしまったという意味が、少しだけ理解できたような気がする。
いくらスケジュールびっちりの旅行といえども、刑務所の中にいるのではないのだ。
少しぐらい抜け出せる時間はあるだろう。

宮古島空港へ到着し、荷物待ち。
まだ時間が掛かりそうなので、斉木が喫煙所へ一服しに行かないかと誘われ、セブンスターに火をつけた。
スコールのような土砂降りの雨が急に降り出す。
着いた早々これかよ。
しかし一本も吸い終わらない内に止む。
「亜熱帯性地域ってこういう事を言うんですかね?」
「そんな学校の教科書にしか出てこないような言葉、使わないで下さいよ」
「宮古島というか沖縄自体初めてですが、湿気が凄いですよね。斉木さんは来た事あるんですか?」
「大場さんについていれば、こういった旅行だけでなく、幹部旅行も気まぐれでありますからね。石垣も宮古も、沖縄もありますよ」
いい機会だ。
知り合いに会うと称してミサキに割ける時間を作れるさり気なく聞いてみよう。
「知り合いが沖縄にいるんですけど、夜何時ぐらいになったら自由時間になるんですかね?」
「え? 沖縄?」
「ええ、若い頃妹代わりに可愛がった子が、川越から沖縄に住んでいるんですよ。もう十数年ぶりになるので、急に行って驚かせるのも面白いかなあと思って」
「え、宮古島でですか?」
「ええ、沖縄にいるのは確実なんですよ。住所は知りませんが、連絡先は知っているので、時間作れるならちょっと夜でも会ってこようかなと」
「いやいや、その子、沖縄って言っているんですよね? どうやって行くつもりなんですか?」
「歩いて行ける距離なら歩きでもいいし、タクシー使ってもいいかなと」
「岩上さん、宮古島って島なんですよ。沖縄まで船じゃないと無理だと思いますよ。多分その子、宮古島に住んでいるなら宮古島と言っているはずです。沖縄と宮古島は別物なんですよ」
「え?」
「いいですか? これが沖縄諸島の地図です。岩上さんが言っている沖縄はここ。今自分たちがいる宮古島はここなんです」

「え? 何ですか、これ?」
「だから沖縄本島と、宮古島は離れているんですって。石垣島はもっと離れてますが」
「この豆粒みたいなところに今、俺たちはいるんですか?」
「そうです。多分岩上さんのその知り合いの子は、もっと上の沖縄本島に住んでいるんだと思いますよ」
「……」
本当にミサキへ事前に連絡しなくてよかった。
心の底から思う。
五十歳になって、何も成長していないと笑われるところだ。
自分がいかにこれまで浮世絵離れしていたかを痛感する。
「そろそろ戻りましょうよ。もうみんな荷物届いたでしょうし」
二本目のセブンスターの火を消して空港内へ戻った。
近くにあるレンタカーでワンボックスを借りる。
このメンバーで運転免許証を持っているのは、俺と斉木と倉敷のみ。
裏稼業に携わる人間が、本当に車の運転をできない人間が多かった。
一番驚いたのが、鍵を刺さないでエンジンが掛かるところ。
ハンドル近くのボタンを押すだけ。
便利になり過ぎて、少し怖く感じた。
これ、悪い事を考える連中が解析済めば、簡単に車など盗めるのではないだろうか?
裏稼業で働く俺が、こんな事を考えるのはおかしいかもしれない。
しかしこの業界は、別に悪ではないのだ。
パソコンと海外のサイトを使ったインターネットカジノの違法賭博行為なだけであり、そこに設定も無ければ何もない。
国に公認されているかどうかだけの差。
レートと遊ぶ種類が違うだけで、やっている事はパチンコ屋競馬と同じ。
むしろインカジのほうが負けた場合の負けサビ十パーセントや、食事やドリンクの無料制などサービスも充実しており、国が経営する公営ギャンブルのほうがエグいほどだ。
今の政治は不都合な事は隠し、代わりにどうでもいい情報だけを流しているような気がする。
それはこの国の構造が大きくなればなるほど、肝心なところの隠蔽気質にあるような気がした。
「岩上さん、運転してもらえます?」
「構いませんが、道なんて知りませんよ?」
「車の中にナビもあるし、達彦が隣りに座り、道は分かりますから」
立場こそ店長が斉木で、達彦は番頭であるが、二人は本当に仲がいい。
数年前は同じ店で共に働いていたようなので、友達感覚なのだろう。
俺が運転する事になったが、達彦の指示通りの道を走る。
最初の目的場所は『A&W』という沖縄限定のハンバーガー屋。
ドライブスルーで好きなものを注文し、近隣の海辺へ向かうらしい。

俺は『ザ・A&Wバーガー』と『ジュニアモッツァバーガー』の二つに、カーリーフライという変にグネグネ曲がったフライドポテトを頼む。
ドリンクはメロンソーダーが見当たらなかったので、仕方なくコーラにする。
道沿いを運転しながら、達彦の指示で右折。
駐車場に停めると、その先はもう海が見える。

「綺麗な海ですね」
「今日はこっちの天候良くないから、普段はもっと綺麗なんですよ」

しばらくただ海を眺めている自分がいた。

方向はよく分からないが、この海の地平線の先にミサキがいる。
そんな事を思いながらハンバーガーを食べた。
また突然の豪雨が降り出す。
俺は慌ててみんなのいる屋根付きの休憩時へ向かう。

「さっき降ったばかりじゃないですか。また前触れもなく、雨が降るなんて」
「宮古島って、雨天の移り変わりが凄いんですよ」
カーリーフライを口へ運びながら、本当にこのポテトと同じで変な天候の地域だなと感じた。
そしてすぐ止む。
降るなら一気に貯めて触れよと思ったが、少ししてまた降り出す雨。
宮古島の天気は本当に激しい。
みんなが食べ終わり、雨が降るのを待ってから車で再度移動した。
ここで運転は倉敷に代わる。
途中大きなスーパーへ寄り、部屋で飲む用の食料を買う。
関東では生産中止となったカールのチーズ味が売っていたので、二袋籠に入れる。
どうせ酒も夜になれば飲むので、トマトやチーズを入れ、ちょっとした料理を作ろうと思った。
旅行中契約したマンションへ到着。
車庫入れで倉敷が苦労していたので、俺が運転を最後に代わる。
十九歳の探偵自体、細かい切り替えしなどで運転は慣れていたので、こんなところで昔のスキルが役に立つとは思わなかった。
今ではほとんど運転する機会がなくなった車。
これだけ時間が経っていても、身体で覚えているものなのかと自分で驚く。
マンションと聞いていたが、かなりの高級なもので、部屋は広いし八階の高さ。
早速ベランダへ出て景色を眺める。
様々な家や建物を見ながら、気になったのがみんな四角い事。
何で屋根のある家がないのか不思議だった。
おそらくこのポカポカした南国で、宮古島は雪が積もる事などないのだろう。
だから全部がこのような造りになっている。
勝手にそんな事を考えながら、セブンスターに火をつけた。
室内は禁煙らしいので、旅行でも窮屈な時代になったものだと感じる。

部屋に戻ると、ふかふかベッドの洋室か、和室かで片屋敷と倉敷が言い争っていた。
別室に番頭の達彦は泊まり、余裕があるので斉木もそこへ行くようだ。

和式は四畳程度の狭さに、マットレスが置かれてある。
みんな洋室がいいと希望するので、俺は和室でいいと荷物を置いた。

キッチンを見ると、色々と設備が揃っているのが嬉しい。
自動食器洗い機や乾燥機までドアを開けると備え付けてある。
このような台所を見ると、望との不倫していた時期を思い出す。
あれは岩上整体を閉め、大日本印刷で働き出した頃だった。
遅番の仕事中、彩色をしていても頭の中は小説の事を考えていた。
休憩を取り、タバコを吸いに行く。
火をつけて携帯電話を開くと、メールが一通届いている。
中身を見て驚いた。
『深夜中々寝付けなくて、ドライブをしています。智さんの事を考えていたら、気付けば狭山の方向へ向かっていて、今ちょうど大日本印刷の近くを走っていました。ここで智さんが働いているんだあって思いながら。 宮下望』
時間を確認する。
まだ五分前のメール。
すぐ近くに望がいる……。
俺は居ても立っても居られなくなる。
どうする?
考えるまでもなく決まっている。
俺はA班の班長のところへ向かい「すみません、ちょっと親戚の叔父さんが急に倒れてしまいまして」と嘘をついて会社を早退した。
罪悪感よりも性欲が勝ってしまう。
すぐ望へ電話を掛ける。
「あれ、智さん。仕事中じゃ……」
「仕事中だったよ。でも望が今近くにいるなんて言うもんだから……」
「え…、本当に近くに来たからメールしてみただけなんですよ」
「早退しちゃったよ。望に会いたくて」
「まだ…、実は近くにいます。場所を言ってくれれば車で行きます」
こうして俺と望の不倫は、歯止めが本当に効かなくなりつつあった。
ホテルへ着くなり、自分から跨る望。
前はもっと恥じらいがあり、完全に寝ているだけの受け身だった。
彼女は俺とのセックスで、性欲にとり憑かれているように見えた。
「望、待って。まだ仕事終わりで手が汚れているから先に洗わせて……」
喋っている途中、俺の口をキスで塞ぐ望。
会う度大胆になっている。
「今日安全日だから、中へ出して……」
さすがに戸惑う俺。
何度も数え切れないほど抱いたが、望は人妻なのだ。
彼女は俺との逢瀬をどう考えているのだろう。
始めは二人きりで食事から。
この関係へ持ち込んだのは俺。
今では望のほうが積極的なくらいである。
「大丈夫だから…。お願い。智さんのが欲しい……」
最悪できたら俺もこんな状況の生活だけど、覚悟を決めよう……。
課長に頭を下げて、社員にしてもらえれば少なくとも生活は安定する。
俺は望の中へ射精した。
その後もエスカレートした関係は、とうとう望と神父の旦那の自由が丘の住まいまで呼ばれるようになった。
夫は教会にいるので戻ってきません。
そう言った望。
性欲に溺れていた俺は、彼女のマンションへ深夜行く。
快楽の虜になっていた望は、歯止めが利かない状況になっていた。
一通りの情事が終わった後、彼女はキッチンで俺に料理を作ってくれる。
その時のキッチンが、この宮古島のものと同じ感じなのだ。

もう全然会わなくなってしまったけど、元気でやっているのかな?
そう思うと少し淋しい気持ちになるが、あのおかしな関係はあの時だけのものだったんだろう。
今日から四日間、ここを拠点に過ごす。

もう一度ベランダへ出てタバコを吸った。
右端まで行き、覗き込むように眺めると、すぐ近くに海が見える。
本当に地図通りの小さな島に来たのだなと実感した。

達彦と斉木が部屋に来て、そろそろ出掛ける準備をするように言われる。
当初スケジュール管理が凄いと言っていたのは、この事か。
時間通りこの場所へ向かえ、次はここで食事しろと雁字搦めらしい。
確かにこれではミサキが例え宮古島に住んでいたとしても、会える時間を作るのは難しそうだ。
俺の運転で向かった先は、伊良部大橋。
途中コンビニエンスストアへ寄り、好きな飲食料を買う。
宮古島で面白いと思ったのが、スパムのおにぎりなど変なものが多い。
スパムって缶詰に入ったソーセージのようなものが、何で上備してあるのか不思議だった。
ここまで自分が使った金額は、羽田空港へ向かう電車賃のみ。
本当に大場系列の懐の深さには感心するばかり。
橋の手前で一旦車を停め、一服タイム。
レンタカーの中も禁煙なので、この計らいには感謝をした。
無料で通行できる橋として、日本最長らしい。
長さは約三キロ半に及ぶもので、伊良部島を結ぶ懸け橋だと説明を受ける。
島と島を繋ぐ橋?
三キロ?
発想がおかしくないか?
これまでの経験で長い橋を振り返る。
多分川越市と川島町を繋ぐ国道二五四沿いの落合橋だろう。
あそこって確か三つの川が合流する大型の橋だけど、一キロはないよな?
五百メートルぐらい。
それでも充分長いのに、この伊良部大橋は三キロ半?
途中で橋が崩れたらどうするの?
下は川なんかでなく、海だよ?
死ぬよ?
そっと橋の手前から海を覗く。

これ、絶対に深いでしょ?
大きな看板を見て、注意書きに目が行く。
『伊良部大橋の周辺には貴重な動植物が生息しております。付近を通行の際には、皆さまの心づかいをお願い致します。』
「……」
言いたい事は分かる。
でもさ、それなら何故こんな馬鹿げた橋など建築したのだ?
貴重な動植物誰も喜ばなかったと思うぞ?
得したのは人間という生き物だけ。
こんな地平線のほうまで続くような橋など作ってしまい、数台しか通らない車の為に、どれだけの動物が迷惑をしたのか。
植物などは工事などで引っこ抜かれた事もあっただろう。

天候は曇っていて、いつ雨が降り出してもおかしくない空模様。

この天気でもこれだけ綺麗なのだ。
晴れていたらどれほど綺麗な海を見れたのだろう?

海辺に近付き、何も考えずに眺めた。

頬に何かついたと思ったら、すぐに雨が降り出す。
慌てて車へ戻る俺。

一体宮古島は何回雨を降らせれば、気が済むのだろう。

「じゃあ岩上さん、そろそろ出ましょうか」
斉木の声で運転を開始。
橋の途中まで来ると、駐車できるスペースに停め、途中で休憩。
移動がほとんど車なので、左脚の鈍痛も無く快適な旅だった。

「この橋の下に、天気良かったら海亀とかいる場合あるんですよ」
「え、本当ですか、斉木さん。俺が何も知らないと思って、また適当な事言ってんじゃないですか?」
「本当ですって! だからこの辺りの道は広く作って車を停める部分があるんですよ」
「飛行機の上から見た宮古島の海は、透き通りそうなほど綺麗だったのに、実際近くまで来ると雨や曇りでこれだから、少しだけ残念ですね」

「この伊良部大橋の手すりの横に、人間が立てるようなスペースあるじゃないですか」
「ええ、でもこれって柵超えてこっちに来たら、落ちたら海へ真っ逆さまで人生終わるじゃないですか」

「何年か前に伊良部大橋でこの柵を越えて、プロポーズしようとした男が足を滑らせて落ちて死んだんですよ」
「またまたー、それじゃ心霊スポットじゃないですか」
「本当ですって!」
斉木が携帯電話で当時の事故を調べ見せてくれる。
公開日:2017年9月5日 5:00
4日午前0時ごろ、沖縄県宮古島市の伊良部大橋から同市に住む男性(32)が海に転落し、約7時間後に見つかったが、死亡が確認された。宮古島署によると、男性は大橋の中央付近で欄干を乗り越え、高さ約30メートルの橋桁から転落。水深約18メートルの海底で沈んでいるのを宮古島海上保安部の潜水士が発見した。男性は交際相手の女性にプロポーズし、承諾された直後に転落したという。
プロポーズを承諾された直後に転落死って、正に天国と地獄。
一番可哀想なのは、結婚を了承したその婚約者ではないだろうか?
相手の誠意を受け幸せを感じた瞬間、目の前でその相手が羽目を外して策を乗り越え転落して死んだのだから。
俺は右手で鉄柵をギュッと握り締めながら、海を覗き込むように見た。
いくら嬉しいからとこんな五十センチ程度の縁に立てば、落ちる可能性ぐらい考えられなかったのだろうか?
自然の驚異の前に、人間の能力などゴミのようなものだ。
誰も台風を止められないし、雨ですら降らせる事を止める事はできない。
亡くなった男は三十二歳か。
俺は顔も名前も知らない哀れな男へ黙祷を捧げた。

伊良部大橋を渡り終える。
宮古島から伊良部島へ入った事になる。
このエリアはさらに自然が増し、人が住んでいるのかどうか怪しいほど。
牧山展望台へ目指し、対向車も何もない道をひたすら進む。
草の生い茂ったスペースに車を停め、歩いて展望台まで向かう。
地元の人なのか、年配者の姿を数名見掛け、こんなところに住んでいる人がいるのかと驚いた。
途中で左脚に棒を突っ込まれたような鈍痛が走る。
思わずその場で蹲り、宮古島に来て初めて自身の身体の不自由さを実感する。
「どうしたんですか、岩上さん?」
「ほら、前に言ったじゃないですか。コロナで品川プリンスに隔離されたあと、それから百メートルぐらい歩くと脚が痛くなって休まないと歩けないって」
みんな、俺の回復をその場で待ってくれるが、まだ展望台までの距離を見ると、三回はこのように休まないといけないだろう。
目的地は分かるので、先にみんなは行ってほしいと促す。

正直心境的にはこのまま一人車へ引き返し、中で休みたい気分だった。
しかしそうもいかないよな……。
俺は立ち上がると、伊良部展望台を目指す。
ようやく伊良部観光案内の大きな看板のところまで辿り着き、写真を撮った。

目の前には白い展望台。
この階段を上がっていくのかよ……。
まだ横に柵があるので、捕まりながらゆっくり上がればいいか。
右脚は痺れと麻痺、左脚は鈍痛と二種類の左右の脚を切り離したい衝動に駆られながら、一歩ずつ慎重に進む。

展望台の上まで来ると、渡ってきた伊良部大橋が見えてきた。
本当に曇りなのが残念である。

それにしてもこの大自然の中、ここまでゆったりしたのは久しぶり。

ちょっとしたテーブルとベンチがあり、そこでコンビニで買ったものを広げる。
するとまた激しい雨が降ってきて、中にいても濡れるほど横殴りのものだった。
うんざりすると、数分で止む雨。
本当に宮古島凄いな。

この景色をできる限りカメラに収めておこう。

展望台の下を見ると、二人連れの旅行者の姿が見えた。
今、この伊良部島に一体何人の人間が存在しているのだろう?

逆側へ移動すると、曇りだった空が幾分晴れていた。
この高さから見える剥き出しの自然。

目の保養にはなるものの、絶対にここでは住めないなと思った。

「ではそろそろ降りて、次はこのまま伊良部島の牧山公園へ行きますよ」
達彦の声で現実に戻る。
公園?
こんなところに?
人もいないのに何で?
牧山公園は、想像していた公園ではなかった。
とても神秘的な場所で、脚が完璧ならもっと色々探索したい思うような草木に覆われた険しい道を進む。
途中休憩を挟みながら、道の写真を撮る。
以前付き合わせられて観たジブリの映画に出てくるような道だ。

少し進むと公園らしきものが見えたが、草の手入れのされていない広場に、奥に傘付きのベンチが一つ置かれているだけだった。
まあ一応これも公園なのだろうが、一体誰がこんな場所で寛ぐのだろう?
当然の事ながら、自動販売機も何もない。

帰りもトトロの道を歩いて戻る。
何度か休憩をしながら、俺はこれまで『となりのトトロ』を観た事もないくせに、何でトトロの道なんて思ったのか不思議だった。
いや…、まったく不思議じゃないだろ……。
ジブリ映画をとにかく一緒に観るように常に進めて来たのは、当時付き合っていた百合子なのだから。
彼女の心と身体をボロボロに傷つけてしまった俺。
自己都合の悪い部分だけ目を背けるなよ。

おそらくこの宮古島という場所は、大切な異性を連れて楽しそうにはしゃぐ彼女の顔を見る為に作られたところなのではないか。
もしくは家族連れが、子供たちの笑顔を見る為に。
自然に囲まれた解放感。
だが自由に思う存分歩けない俺にとって、不便さしか感じない。
綺麗な風景を見た喜びと不便さのバランスが帳尻取れていないからだ。
誰かをここへ一緒に連れて来たいという異性の顔が、誰も思い浮かばず。
今後の人生を生きていく上で、この人と一緒にいたいと思える人がいない淋しさ。
仕方ない。
俺はそうこれまで生きてきてしまったのだから。
つまりもうこの島は、俺とは無縁という事になる。
何故なら俺はそんな人並みの幸せを掴む権利など、とうの昔に無くなってしまったのだから……。
マンションへ戻り、少し休憩を挟み、オーナーの大場指定の店へ向かう。
距離にして一キロもなかったが、途中何度も俺は鈍痛で休みながらの進行となる。
斉木が連れそう形で待ってくれた。
「斉木さん、先に行っていいですよ。俺を待っているとキリがないですって」
「でも岩上さん、うさぎやの場所分からないですよね? そんな気にしないで下さい」
酒を飲むから徒歩で移動。
これなら運転手になりきるから、酒抜きでいいから車で行きたかった。
ようやく居酒屋の『うさぎや』へ到着。
店の入口でまた左脚の鈍痛が出て、一回休ませてもらう。
「斉木さん、あとから行くんで先行ってて下さいよ」
「岩上さん、大丈夫ですか?」
「だって横断歩道を渡れば、もう店じゃないですか。すぐに回復したら俺も行きますよ」
彼の姿が見えなくなると、セブンスターに火をつける。
三味線ライブをやる店らしいが、正直この程度のしょぼくれた店なら部屋で一人弁当を食べている方が良かった。

宮古島…、いや沖縄といったほうがいいのか。
どうしてもこの言葉で過去の嫌な奴を連想してしまう自分がいる。
風俗『ガールズコレクション』で共に働いた沖縄出身の當間と有木園。
特にあの當間のせいで、俺は二千四年に百合子との間にできた子供を中絶した過去。
親父の部屋にはまた加藤皐月もいた。
「何だよ、黙って」
「い、いや……」
何故俺は親父のところになんか……。
雀會の一件であれほど大喧嘩したばかり。
俺はまるで軸が無い。
すべてが中途半端だ。
「顔色悪いぞ?」
「お、俺さ……」
「あ?」
「こ、子供おろす事にしたんだ……」
「あのバツ一のか?」
親父は軽蔑した目で俺を見ていた。
「あ、今何て言った?」
「智ちゃん、あなたはまだ一度も結婚していないんだし、ちゃんとした子としたほうがいいわよ」
いきなり加藤皐月が口を挟んでくる。
「うるせぇっ!」
俺はドアを思い切り叩きつけていた。
あんな女に何でそんな事を言われなきゃいけない?
おまえらが今まで何をやってきたんだ。
怒りが全身を包んでいた。
壁を思い切り蹴ると、大きな穴が開く。
おじいちゃんの建てた家を壊してどうする……。
そのまま階段を降りると、居間でおばさんのピーちゃんがコーヒーを飲んでいた。
「何だい?」
俺の姿に気付くとピーちゃんは声を掛けてくる。
「お、俺さ……」
「何だよ?」
感情だけが先走り、大粒の涙を流していた。
「何をいきなり泣いてんだ」
「こ、子供をお、おろす事にした……」
それだけ言うと、その場に突っ伏して泣き出してしまった。
「何だよ、何を泣いてんだ? 自分のした事だろ? ちゃんとしな」
「う、うん…。ちゃんとする……」
それだけ言うと、俺は自分の部屋に戻った。
ちゃんとするって一体何だ?
どうすればちゃんとしたって事になるんだ?
どうしたらいい?
今から百合子に……。
馬鹿、電話したって出てくれる訳ないじゃないか。
じゃあ、どうするんだよ?
おじいちゃんに相談を……。
馬鹿、これ以上おじいちゃんにいらぬ心配を掛けさせるつもりなのか?
じゃあ、どうしたらいい?
分からない。
答えが出ない。
もう俺には何も分からない。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁーーーーーーーーーーーーっ!」
無意識の内に叫んでいた。
部屋の壁に何度も頭を叩きつけた。
このまま壊れてしまえばいいんだ。
目の前の壁がどんどん赤くなっていく。
気にせずさらに強く頭をぶつけ続けた。
不意に視界が暗くなり、意識が遠退く。
後頭部に衝撃を受けた。
目を開くと天井が見える。
俺は地面に倒れたのか?
それで少し我に帰る事ができた。
錯乱する一歩手前。
このまま気が狂ってしまったほうが、どんなに楽か……。
馬鹿野郎!
そのあとどうするんだ?
親父は絶対に面倒など見やしない。
おじいちゃんに迷惑を掛けてしまうだけなんだぞ。
自分のしでかした不始末なんだ。
もっと冷静になれ。
自分でケツを拭け。
「……」
お互いが納得して同意書に判子を押したのだ。
何もできないだろう。
俺がこれ以上何か百合子に行動すると、彼女自身が嫌な思いをするだけなんだ。
早く忘れろ。
考えても暗くなるばかりだ。
早く忘れよう……。
あいつらがこの宮古島出身か、沖縄なのかは分からない。
そんな事はどうでもいいが、當間の生まれ育って地というだけで、過去のトラウマが噴き出てしまう。
子供ができたとちゃんと報告したのに、當間のせいで何ヶ月も給料が出なかった現状。
当然妊娠した百合子は不安になり、俺と衝突してしまう。
そこへ起きた西武鉄道小江戸号事件。
怒りの矛先をそちらへ方向転換させた俺に待っていたのは、百合子との間にできた子供をおろすという選択肢か残っていなかった。
過去この話をテーマにした『とれいん』は完成させた。
だが、風俗で働いたという部分をぼかした俺は、後年すべて事実の物語を残さなければ、命を摘んでしまったあの子に申し訳ないという想いがあったのだ。
だから『新宿コンチェルト』を書き始めたのである。
しかし執筆中、何度も嘔吐するようになり、おそらくこの一件が原因で、俺は小説を書けなくなった。
あれから十一年の月日が流れる。
それでもあのおぞまし過ぎる心をエグられたような傷が、五十歳になった今でも癒えていない。
あの時、自分自身へ誓った事は今でも忘れていなかった。
俺って本当に人間失格だな……。
親父やお袋を呪っていたけど、俺が一番呪われるべきなんだ。
今日、自分のエゴで我が子の命を奪ってしまった。
ずっとこの事は背負っていくしかない。
忘れてはいけない事だ。
大事なのは今後の俺自身の生き方だ。
今の自分のできる事から始めよう。
西武新宿の問題。
いい方向で自分を示したい。
今、書いている小説『とれいん』は出来る限りいい作品にしなきゃいけない。
相手を憎むんじゃない。
あの件はみんなが笑って済ませるようにもっていきたい。
それが今現在、我が子と百合子に対する償い方だと思った。
これだけ辛い目に遭っても俺はまだ生きようとしている。
それなら胸を張って生きていきたい。我が子よ……。
頑張って生きるから見ていてくれ。
家に帰り小説を黙々と書いていると、携帯電話が鳴る。
當間からだった。
「もしもし、どうかしたんですか?」
「岩上ちゃん、デジカメの件だけどさー」
「はい」
一体、何の用だろうか?
「ちょっとこっちに出てきてくれないかな?」
その言葉に正直愕然とした。
先日ちゃんと仕事を休む理由について、ちゃんと話したはずだ。
恥も外聞も捨てて正直に用件は伝えた。
確かに今は百合子の手術も済んで何も予定はない。
だけどさすがに仕事をする気にはなれなかった。
「すみません。今日、女の件で休むと昨日言ったはずですが」
「それは分かるけど、この間撮ったデジカメの画像をパソコンに入れるのに繋ぐコードを持ってくるって言ってじゃない? だからそれ持って来て欲しいんだよね」
當間の台詞を聞いて思わずムカッてくる。
どうせ俺が行かないと、パソコンを誰も扱えないのだから何の意味もない事だ。
「申し訳ないですけどその件については明日にしてもらえませんか? 今日、どうしても必要なものではないと思いますが……」
「それはそうだけど、明後日にみんなで打ち合わせするだろ? だから今来てみんなに説明してほしいんだよ」
「あのー、お言葉ですが…。今日…、俺は自分の子供をおろしてるんです。その件につきましては、明日朝一で俺が店に行ってからやれば、すぐ済む話です。それじゃ駄目なんですか?」
今日ぐらいは、自分を見詰め直したい。
自分の子供をこの世から消してしまった。
その事実を受け止めたかった。
店にとっては自分勝手な行動に思われるだろうが、ちゃんと休むと筋は通している。
重要な件でならまだ分かるが、どうでもいいくだらない事で呼ばれるのはイライラしてくる。
「岩上ちゃんが来ないと話しにならないじゃん? パソコン扱えるの、岩上ちゃんしかいないんだから。とりあえず今日来てよ。大変なのは分かるけど、夕方出てきて二、三時間の間だけでもパソコンいじって今日は帰りますなら誰も文句言わないよ」
そんなのはただのエゴだ。
それに給料だって出ず、電車賃だって自腹なのだ。
それにこの状態でそんな薄情な事を言うなら、別に納得などしてもらわなくてもいい。
「でも、今日は本当にそれどころじゃないんですよ」
「それじゃみんな納得しないから、出てくるだけ出て来てよ」
こんな奴と働くのを辞めてやろうかと思った。
何故たいした用件でもないのに、わざわざ新宿まで行かないといけないんだ?
「おい、納得しないって何だよ! 悪いけど辞ぁ……」
もう辞めると言い掛けて慌てて思い留まった。
子供を俺は殺してしまった日なんだぞ?
今日ぐらい怒るのはやめよう……。
できる事からやっていくと決めたはずだ。
けじめだけはつけよう。
それに今、俺が中心で動いているホームページ作成の仕事。
辞めたら誰が代わりをできるというのだろうか?
すでに地元の先輩の始さんや松永さんを巻き込んでしまっているのだ。
このままだと気に食わないからそれから逃げると周りから非難されるだけ。
少なくとも今の自分自身が手掛けている仕事はやり遂げないと辞める訳にはいかない。
「分かりました。ただ、今すぐという訳にはいきません」
「何時ぐらいに来れそうなの?」
「夕方…、そうですね。六時ぐらいには行きます」
「分かった。早く来てよね」
携帯電話を切って布団に寝そべる。
早いとこホームページを完成させないと……。
すべてにおいて無茶苦茶な要求が多過ぎる。
それに短期間で色々な事が起き過ぎた。
まず西武新宿の件、地元雀會の件、親父との確執、子供をおろした事、百合子との別れ、そして度重なる店の理不尽な要求。
疲れた……。
身体や神経が疲れを訴えていた。
「……」
もうあれから十数年経つ。
それでも思い出すと腸が煮えくり返るこの衝動。
もし仮にこのうさぎやにあの當間がいて、俺の顔を見るなり「岩上ちゃん、今何やってんの?」などと気安く声を掛けられたら、この拳で殴り殺せるだろう。
乱暴にセブンスターの火を揉み消すと、俺は立ち上がりうさぎやへ入った。
席では片屋敷が浮き浮きしながら笑顔で「岩上さん、遅いっすよー」と声を掛けてくる。
俺は店内をゆっくり見渡す。
あの男がここにいるはずなんてないだろ……。
それから無理に笑顔を作り腰掛けた。

テーブルの上には沖縄名物の海ぶどうが置かれる。
こんな料理一つとっても、俺にはトラウマの一つになってしまう。
あの当時百合子が一番仲の良かった友達栄子。
彼女と一緒に沖縄へ行きたいと言われた時、金だけ渡してゆっくり遊んできなと送り出した俺。
その時のお土産の一つが、この海ぶどうなのだ。

そしてこのもずくもそう。
全部俺が嫌いな食べ物ばかりというのもあり、見るだけで過去を思い出してしまうのだ。

「岩上さん、さっきから全然つまんでないじゃないですか。好きなもの注文して下さいよ」
「苦手なものが多くて…、すみませんね」
「あ、肉来ましたよ」
「……」
確かこれってソーキとか呼ばれている肉だよな?
新宿のアルタ裏通りにある沖縄料理の店『やんばる』で、当時當間の屑がこの肉の入った蕎麦を美味そうに食べていたのを思い出す。
この頃はあいつの人間性も分かり大嫌いになっていた頃なので、ひたすら沖縄料理を自慢する當間に対し、そんなに地元がいいならこんな都会の新宿など出てくるなと言いたかった。

このソーキ肉自体に恨みはない。
だが完全に坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと同じで、當間イコール沖縄となっている俺は、宮古島さえも嫌悪する原因になっている。
「岩上さん、本当に食べないですね。これはどうです? ジーマーミ豆腐です」
「あ、豆腐なら何とか」

一口食べて、普通の豆腐じゃない事に気付く。
「何ですか、これ……」
「豆腐という名称ですけど大豆ではなく落花生が主原料なんですよ」
やはり當間の出身の郷土料理は口に合わない。
「じゃあこれはどうです?」
「これって…、魚類のフライですよね?」

「岩上さん、よくそこまで好き嫌いあるのに、そんな身体を作れたもんですよね」
「俺の身体は茄子とハンバーグとミートソースとステーキでできていますから。あ、あとマグロとドリアとピザとかも入ってますよ」
「うちの子と、同じようなものしか食べないじゃないですか」
斉木は呆れたように別の皿へ箸を伸ばす。
「このキンピラゴボウの出来損ないみたいな料理は何ですか?」
「これも沖縄の郷土料理の一つ、にんじんしりしりです」
「何か沖縄って、変な名前の料理多いですよね。ゴーヤーチャンプルーでしたっけ? あれも俺、駄目なんですよ」
「え、ゴーヤーチャンプルーも? 美味いじゃないですか。何でです?」
「苦そうで嫌です」
「そこまで苦くはないですよ」
「あの形が嫌です」
「まあゴーヤですからね」
「北海道のホヤみたいじゃないですか」
「え、あれは貝というか全然違うじゃないですか」
「呼び方がですよ。ゴーヤにホヤ。似てません?」
「多分世界中でそんな事言っているの、岩上さんだけですよ。どうせ経費なんですから、好きなもの頼んで下さいよ」

俺はメニューを見ながら、自分の食べられそうなものを探す。
「宮古牛餃子? 六個で九百七十円もするじゃないですか」
「そんな事気にしないで下さい。じゃあ餃子一つ。あとは?」

「じゃあアグー豚ソーセージで。結構値段高いんですね。八百六十円もしますよ?」
「ソーセージですね。あとは?」

「とりあえずそれでいいです」
宮古牛なんて使わないでいいから、今は無き川越のいづみ食堂の餃子が食べたかった。
大場系列が唸るほど金を持っていたとしても、もう食べる事は生涯できないあの餃子を……。

もし、俺が百合子とあの時別れていなかったら、こうしてインカジ『レディ』で働きながら、彼女の娘の早紀と里帆も宮古島へ連れて、心から楽しめたのかもしれない。
一体十何年前の事を俺は考えているのだ?
自分であの時下した決断だろ?
宮古牛餃子が目の前に置かれる。

太いソーセージも続いてくる。

過去のトラウマに包まれている俺は、目の前の料理を口にしても、まるで粘土を食べているようだった。
「岩上さん、これ美味しいですよ」
「いや、生ものはちょっと苦手なんです」

俺は人間として普通の人が楽しめるような身体ではなくなっている。
業深き人生。
宮古島も、俺にとっては沖縄に過ぎない。
連想してしまう数々の過去。
できればこの場から立ち去りたかった。
これ以上話し掛けられないように、メニューを眺めつつ、うさぎやグループを眺める。
石垣島が本店で、沖縄系以外だと埼玉の大宮にもあるのか。

この店の見どころ三味線ライブが始まる。

「岩上さん、刺身の盛り合わせ来ましたよ」

マグロを一切れだけ口に入れる。
ライブに熱狂する片屋敷と倉敷。
俺は便所へ行き、口の中に入れたマグロを吐いた。
こののんびりとした暑い空間が、堪らなく肌に合わない。
重い十字架を背負ったままの俺は、こんなところで陽気に楽しむ資格などないのだ。
あれほど傷つけてしまった百合子を俺は、関係を断絶してしまった。
結果まだ子供だった里帆と早紀の人生までおかしくさせた。
当時岩上整体を自分一人で回す状況で、本当に精一杯だったのだ……。
途切れる事なく続く患者。
三十代サラリーマンの施術を終え、次は二十代半ばの若いOL。
「ごめんなさい…、少しだけ一服させて下さいね」
「どうぞどうぞ、先生忙しそうですもんね」
患者の言葉に甘え、セブンスターに火を付ける。
少ししてから彼女の施術を始めると、整体のドアが開く。
見ると百合子だった。
後ろに娘の里帆と早紀もいる。
来ないと電話では言っていたのに、何故このタイミングで。
「ちょっと今、患者さんいるからさ……」
入口まで行き、小声で話す。
「白衣着て、先生なんて呼ばれて少し浮かれてんじゃないの?」
患者がいるのに何を抜かしてんだ、コイツ……。
「おい…、今患者がいるって……」
「ほんとあなたは自分に甘く、人には厳しいよね!」
「だから患者いるから止めてくれって……」
「いつも自分の事ばかりで……」
「いい加減にしろ! 今、患者さんがいるって、言ってるだろ!」
俺はドアを思い切り閉めた。
様子を見ていた患者は驚いている。
当たり前だよな。
俺は丁重にお詫びを伝え、施術料金を無料にした。
皮肉なもので、クリスマスイブ前日というのに患者はまだまだ続く。
休む暇もなく施術し、来た患者すべてをこなす。
終わったのは夜中の十二時を回っていた。
クリスマスイブか……。
携帯電話が鳴る。
百合子からだった。
先程の失礼な愚行に腹が立っていた俺は怒鳴りつける。
「あなたはいつもそう…。都合悪くなるとすぐ怒鳴る」
冷めた口調の百合子。
小説『忌み嫌われし子』をあそこまで罵倒され、今度は整体に娘まで連れて来て患者がいるのを知っていて大騒ぎ。
「里帆と早紀だって、あなたは怒り過ぎだって言ってたよ! あなたは自分の事ばかりで、イブだって正月の事だって仕事仕事で、私たちの事を何も考えていない。仕事って偉そうに言うけど、殿様商売で、患者なんか少ないくせに……」
さすがにコイツと付き合って行くのは無理だと感じた。
「もう別れよう……」
自然と言葉に出る。
まだ電話口の向こうでギャーギャー言うので、電話を切った。
俺は疲労感一杯で、そのまま診察ベッドへ倒れ込むように寝転んだ。
携帯電話が鳴る音で目が覚める。
あのまま整体で寝てしまったのか……。
起き上がると身体が怠い。
どうやら風邪を引いたようだ。
鳴り響くコール音。
時計を見ると、まだ朝の五時。
何だよ、こんな朝っぱらから百合子の奴……。
「別れる方向でいいんだよね?」
出た瞬間、怒鳴り声で百合子はまた罵ってくる。
もうウンザリだった。
あまりにもしつこいので、「おい…、喧嘩売ってんのかよ?」と静かに言うと「喧嘩売ってんだよ!」と喚き散らす。
もう本当に駄目だ……。
俺は携帯電話を切った。
少しして鳴る携帯電話。
放っておくと、切れてもまた掛かってくる。
俺は電源自体を落とし、通話不可能な状態にした。
約二年半……。
これで俺と百合子のつき合いは終了した。
三十五歳のクリスマスイブだった。
そう…、こんな南国の島でエンジョイできるほど、俺の心は凍り付いたままなのだ。
「いやー、あの三味線ライブ、本当に良かったですよ。俺、絶対にまた宮古に来ますよ」
倉敷が満足そうな笑顔で話し掛けて来るのに対し、俺は取り繕うような笑顔しか返せなかった。
何度も休憩しながらマンションへ戻る。
そこで買ってきた酒を部屋で飲み出した。
つまみが乾きものしかないので、俺はトマトとチーズのサラダを作って出す。
番頭の達彦が食べて「旨っ!」と言う。
「潔癖症の達彦が他人の料理食べるなんて珍しいじゃん」
「いやいや、本当に美味しいって。食べてみなよ」
料理など時期的なものになるが、腐るほど作ってきた。
あんなうさぎやで高い料金出すぐらいなら、高級材料を揃え、このマンションのキッチンでフルコースを作ったほうが良かったぐらいである。
剥げた片屋敷は、俺の作った料理という偏見からか、箸をつけようともしない。
ビールを何本も空け、倉敷に外へ飲みに行こうと絡んでいた。
「ほら、岩上さんも一緒に外行きますよ!」
「いや、俺はいいですよ。もう部屋で大人しくしておきます」
「じゃあ、倉敷さん! 行きますよ!」
「行ってもいいけど、俺は金持ってきてないよ?」
「いいから行くんだよ、このノッポ!」
「質の悪いチビだ」
「チビって今言ったか?」
どうでもいい小競り合いをし始めた二人の間に入り、仲裁する達彦。
「まあ飲みに行くのはいいけど、明日は朝から中の島海岸行くから、あんまり飲み過ぎないようにね」
「分かってますよ! じゃあ行って来ますよ!」
広いマンションの中で自分一人になった俺は、ベランダへ出てセブンスターに火をつけた。

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