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存在条件工学 |Crystal Cosmology-Love Focus Approach 最終章 

目 次

第1章 オリジン編総括――3軸トリニティとプラトン立体

第2章 オリジン編総括――観察(LOOK)→認識(SEE)→洞察(WATCH)

第3章 オリジン編総括――ストラクチャーライン・モビリティライン・クオリティライン

第4章 エージェンシーレンズ(E.L.):主体策定観点

第5章 スケールレンズ(S.L.):階層判定観点

第6章 コンテキストレンズ(C.L.):背景照射観点

第7章 パーパスポジション(P.P.):動機付けによる見立て

第8章 バリューポジション(B.P.):価値観による見立て

第9章 ネイチャーポジション(N.P.):存在意義による見立て

第10章 3つのディレクション

第11章 愛の道編総括

第12章 一つのwill


前章(vol.10)では、それまで「お家」として例えてきた、あなたの世界を、映画の中のセットとして考えました。そこでは、そのセットを巡って様々に展開されるストーリーを、映画製作現場における製作委員会が、それぞれ協力して映画をつくり上げていく姿に重ねてお話ししてきました。

・監督:完成度・クオリティ
・制作会社:効率・購入や維持の見通し
・スポンサー:便益性・生活全般の維持

という、この三者ですね。

しかし、時折この三者も、お互いの意見を巡って紛糾することがあります。たとえば、監督が

「この夕景の5分間が撮れないなら、この映画は死ぬ」

と主張し、スポンサーが

「1分でも撮影を延長するなら即刻中止だ」

と激怒しているような状態です。

およそこのような、映画製作現場のどさくさの時には、プロデューサーがその調整を買って出ます。

たとえばスポンサーへは、

「この5分が、将来的にこの作品を10年残る名作(資産価値)へと変えます。そのための調整は私が引き受けます」

と伝えつつ、監督へは、

「あなたの描く美学を、スタッフ全員が疲弊して憎むような環境で撮らせたくない。最短で最高の画を撮るための布陣を再構築する」

と説得するのです。

さらに、紛糾が収まらない場合、プロデューサーは自らの「手」を汚します。

例えば、「素晴らしいが、物語の本筋に影響しない別の豪華なセット」を壊し、その予算を夕景の撮影に回す。あるいは、配役の一部を変更してでも、映画全体の完成を優先する。

これは、全体の一貫性を守るために、部分的な「美」や「善」を切り捨てる行為です。

いまここで、「美」や「善」という言葉が出てきましたので、クリスタルコスモロジーにおける三つのディレクションの役割も、映画製作の例えに重ね合わせて、もう一度思い起こしてみましょう。

また、紛糾の原因は、たいていどこか一つのディレクションが暴走しているか、無視されている時でもあります。

「真(現実)」が強すぎる。予算や制約ばかり気にして、ワクワクが消えている。 「美(理想)」が強すぎる。実現不可能なスケジュールやコストで、生活が破綻しかけている。 「善(調和)」が強すぎる。周囲に配慮しすぎて、本来の目的を見失っている。

これらのバランスが崩れた時、私たちは「具体例」を通してそのダイナミズムをより深く理解することができます。


『もののけ姫』――真・善・美の大激突

この映画の制作時、現場はまさに「製作委員会の紛糾」そのものでした。

監督(宮崎駿)「これまでの子供向け作品とは違う、暴力や生々しさも含めた本質を描きたい」(美の追求)結果、制作費は膨らみ、公開時期も危うくなりました。

スポンサー(出資者)「20億円もかけたのに、こんなに暗くて残酷な話で、客が入るのか?」(真:リソースの不安)

制作(現場)あまりに緻密な作画に、スタッフは疲弊しきっていました。(善:調和の崩壊)

プロデューサー・鈴木敏夫の決断

鈴木さんは、スポンサーを納得させるために

「生きろ。」

という、映画の残酷さを超えたポジティブなコピーを打ち出し、宣伝に空前の予算をかけました。

一方で、宮崎監督の「こだわり」を物理的に完成させるため、スタッフの配置を組み換え、ときには監督のわがままを「翻訳」して現場に伝えました。

鈴木さんは、

宮崎駿という才能(美)を現実のマーケット(真)に接続しスタッフ(善)を動かして具現化させる

というプロデューサーの役割を完遂したのです。


『男はつらいよ』シリーズの「一貫性」

渥美清さん主演の「寅さん」シリーズ。この現場でも、監督の山田洋次さんとプロデューサーの役割は明確でした。

映画製作が続くと、監督は時に「もっと新しい表現をしたい」と変化を求め、マンネリを嫌うことがあります。しかし、ファン(スポンサー=市場)が求めているのは「いつもの寅さん」です。

プロデューサーの役割

ここでプロデューサーは、監督の「新しいことへの挑戦(美)」を尊重しつつも、

「寅さんという世界観のルール(真:本音の現実)」

から逸脱しないようブレーキをかけたり、逆に監督が煮詰まった時には

「次はこういうマドンナでいきましょう」

と、次の「種」を蒔きます。

彼らは、「シリーズとしての持続可能性(真)」と「クオリティ(美)」のバランスを、数十年間にわたって調整し続けたのです。


プロデューサーという存在の定義

このようにみてくると、プロデューサーとは、単なる「まとめ役」ではありません。それは、以下の三つの性質を内包した存在です。

1 「全責任」の引き受け人

紛糾した際、監督のこだわりも、制作の悲鳴も、スポンサーの冷徹な数字も、すべてを等しく自分の内側に「受容」する器です。

誰かのせいにするのではなく、

「この不協和音すらも、私の宇宙の構成要素である」

と認め、そのすべての摩擦熱を自分の腹で受け止める存在です。


2 「一貫性」の保全

「なぜこの映画を撮るのか?」

という、オリジン編(Polestar Navigation)で定めた北極星を、誰よりも強く握りしめている存在です。

議論が枝葉に飛んだとき、

「それは我々の北極星に向かっているか?」

という一点においてのみ、冷徹なまでの判断を下します。


3 「場」のホールド(保持)

三者が対立しているとき、安易に妥協案を出すのではなく、その「対立のエネルギー」が結晶化するまで場を維持する能力です。

クリスタル(結晶)が圧力と熱によって生まれるように、紛糾というプレッシャーを逃がさず、新たな次元の答えが立ち上がるまで、その「不快な空間」に居続けることができる唯一の存在です。


クリスタルコスモロジーにおいて、あなたの認知世界でのこの役割、すなわち、真と善と美の三者を繋ぎ止め、最終的な意思決定を下す役割のことを、

Will=意志

と定義しています。

真実に基づき(真)
調和を保ち(善)
最高に美しい(美)結末を迎えるために今はこれを選ぼうとする働きです。


そして突き詰めれば、映画製作においてプロデューサーとして働く Will=意志とは、

特定の意見を持たないが、すべての意見を活かす場所

でもあります。

監督(美)が羽ばたくための空であり
制作(善)が歩むための大地であり
スポンサー(真)が循環するための海である。


この、世界の内側で三者を調整し、不協和音の中に留まる存在としての Will=意志を、ある言葉で言いかえることによって、クリスタルコスモロジーのこの編が完結します。

その答えは、これから見るように、歴史的にも証明されています。

いえ、それは、もはや過ぎ去った過去の話なのかもしれませんね。


シェイクスピア

人間という存在の「全肯定」に至るための沈黙

かつて欧米の指導層がシェイクスピアを必読としたのは、それが「処世術」を教えるからではなく、

「自分の内側に、自分と対立する他者を共存させる力」

を養う唯一のテキストだったからです。


1 「裁き」の放棄と、徹底的な「代弁」

シェイクスピアの劇作の最大の特徴は、作者が物語の背後に消え、どの登場人物に対しても道徳的な「裁き」を下さない点にあります。

極悪人とされる人物であっても、彼には彼なりの、震えるような「生への言い分」があります。

シェイクスピアは、それを「ふとどきもの」として一蹴せず、聖者と同じだけの言葉の重みを与えます。

要職にある者は、日々、自分にとって不都合な存在や、理解しがたい「悪」と向き合わねばなりません。その際、相手を記号として切り捨てず、

「彼には彼の宇宙がある」

という事実を飲み込むためのリテラシー。

それが、あの等しい眼差しでした。


2 「不協和音」をそのまま抱える器

彼の作品を読み込むことは、自分の中にマクベスの野心、ハムレットの逡巡、そして道化の冷笑を同時に住まわせる作業です。

人の上に立つ者が、どれか一つの「正しさ(真・善・美のどれか)」に偏れば、組織や国は歪みます。

シェイクスピアを血肉化することは、

「相反する主張がぶつかり合う、その苦しい摩擦の中に留まり続ける知性」

を鍛えることでもありました。


3 「勝者」という配役への諦念

シェイクスピアの悲劇はまた、王冠(要職)がいかに重く、そしていかに空虚なものであるかを繰り返し描きます。

しかし、その空虚さは絶望ではなく、

「人間という役柄を演じ切ることへの愛おしさ」

へと昇華されます。

指導者たちは、シェイクスピアを読むことで、

「自分もまた、大きな運命という舞台の一役者に過ぎない」

という深い謙虚さ(諦念)を獲得したのです。


「遺物」としての現在

かつての指導者たちがこの「眼差し」を重視したのは、それがなければ、権力は単なる暴力へと変質してしまうことを知っていたからでしょう。

現代においてこれが「遺物」となりつつあるのは、世の中が

「効率的に、敵と味方を分ける」

ことを知性と呼ぶようになったからです。

悪人を悪人として、愚か者を愚か者として、単に「排除すべきコスト」として処理する現代の論理において、

シェイクスピアが持つ「全員に言い分を言わせる」という豊饒な無駄は、もはや居場所を失っているのかもしれません。


『平家物語』

栄華を極めた者の「流転」を共有する鎮魂の文学

「平家にあらずんば人にあらず」という言葉に象徴される傲慢さは、一見すると断罪されるべき悪行です。しかし、この物語が単なる勧善懲悪の記録に留まらず、時代を超えて読み継がれてきた理由は、その「視点の置き所」にあります。


1 裁きではなく「追体験」としての語り

この物語を広めたのは、琵琶法師という「語り手」でした。彼らは平家を討つべき敵としてではなく、滅びゆく運命にある哀れな存在として描き出しました。

聴衆である民衆は、平家の贅沢を憎む以上に、その絶頂から奈落へと突き落とされる

「人間としての恐怖」「虚しさ」

を、自分ごとのように感じ取りました。

そこには、

「もし自分がその立場だったら、同じ過ちを犯さなかったと言い切れるか」

という、自己への問いかけが含まれています。


2 「驕れる者」への戒めが持つ、真の慈悲

「おごれる者は久しからず」という教訓は、後世の人間への冷徹な警告のように聞こえますが、本質的には「救い」の側面を持っています。

権力の絶頂にいる者も、道端に倒れる者も、同じ

諸行無常(移ろいゆく運命)

の中にいる。

この共通認識を持つことで、人は他者の失敗や没落を、単なる自業自得として切り捨てるのではなく、

「次は我が身」あるいは「自分たちの物語の一部」

として受け入れることができるようになりました。


3 「敗者の美学」を育んだ民衆の意識

平家物語は、勝者である源氏を称える物語ではなく、また敗者をけなすでもなく、散りゆく平家の最期を美しく、そして情緒豊かに描きます。

これは、日本人のリテラシーの中に

「どんなに不届きな者であっても、生きとし生けるものには、等しく価値がある」

という感覚を植え付けました。

この眼差しこそが、要職にある者が持つべき

「自分もまた、大きな流れの一部に過ぎない」

という、空前なる自然観を培うこととなったのです。


日本的な「意志」のあり方

「おごれる者は久しからず」という言葉が今も響くのは、それが他人を批判するための武器ではなく、

「自分の足元を照らすための鏡」

として機能し続けているからに他なりません。

日本において、あらゆる階級を超えて、時を超え、この古典が親しまれてきたのは、

人としての姿は、本来みなすべて等しく愛おしいものである

という眼差しがあるからにほかなりません。


そう、

Willとはすなわち愛

真善美が「形」や「方向」であるならば、愛(Will=意志)はそれらを現象化させるエネルギーそのものです。

また、愛は「真善美」が統合された究極の姿でもあります。

真実への愛
対象をありのままに受け入れること(真)

善への愛
他者の幸福を願い、尽くすこと(善)

美への愛
調和を愛で、感動すること(美)

また、「愛」は分離したものを一つに結びつける力でもあります。


またここで「意志」という言葉で表されるものは、一つの「傾き」として理解していただくと、わかりやすいかもしれません。

それをもう一つの歴史的事実を例に見てみましょう。


中国史上最大の奇跡、と言われるもの、それが「貞観政要」の存在である、とも言われます。

貞観政要:一言で言えば、「理想の組織(国家)という名の映画を、いかにして観客と共に作り続けるか」を記した、史上最高のプロデュース記録です。

中国史上最も平和で豊かな時代を築いた唐の太宗(李世民)と、その家臣たちの対話を編纂したこの書物が「奇跡」と呼ばれる理由は、権力者の振る舞いが、通常の権力者たちの人間心理とは、真逆の方向を向いている点にあります。

その方向こそが、「愛」の傾きであり、当時は儒学で最高の規範であるとされた、リーダーが自らの徳を磨くことで民を治める「徳治」です。

『貞観政要』の中でも、太宗が家臣の魏徴(ぎちょう)らと「いかにして私欲を抑え、仁政(思いやりのある政治:意志としても愛)を行うか」を議論する場面が中心となっており、これはまさに孔子の教えを具現化しようとする試みです。

さらに、その儒教では、君主が間違った道に進もうとしたとき、臣下が命を懸けていさめることを良しとします。『貞観政要』の面白さは、皇帝である太宗が「俺の耳の痛いことをどんどん言ってくれ」と家臣に頼み、家臣も遠慮なくダメ出しをする点にあります。これは『論語』や『孟子』が理想とした君臣関係の完成形とも言えます。

実際、映画製作で予期せぬトラブル(天災や事故)が起きた際、彼は決して「誰かのせい」にしませんでした。天災が起きれば「自分の徳が足りないからだ」と自らを省みる――。これは、世界で起きるすべてを、愛の傾きのずれにあるとする、圧倒的な器の大きさを象徴しています。誰かを裁くことで解決を図るのではなく、すべてを自らの内側に飲み込み、そこから新たな一歩を踏み出す姿勢です。

また、さまざまな家臣が皇帝に対して、「あなたは間違っている」と激しく詰め寄る場面でも、彼は即座に処刑したり退けたりはしませんでした。批判という鋭いエネルギーが、対話を通じて「国を豊かにする具体的な策」へと昇華されるまで、そのプレッシャーに耐え忍び、場をホールド(保持)し続けました。この「耐え忍ぶ能力」こそが、バラバラな個性を一つの名作へと統合するプロデューサーの真髄です。


日本の歴史においてもこのことは証明されており、「北条家」「徳川家」など、これらを学んだ権力者たちが、永くその基盤を維持できたという事にも、「愛の傾き」というものが、いかに自然の摂理に整合して、万物や私たちを育むものであるのか、という事を如実に物語っているのです。

実のところ、この『貞観政要』は、各時代の天皇や貴族、幕末の志士・西郷隆盛、さらには異民族のリーダーでありながら広大な帝国を治めたモンゴル帝国のフビライ・ハンまでもが、統治の知恵として熱心に学んだといいます。

しかし、ここで一つの疑問が浮かびます。なぜ、同じ「統治の教科書」を学びながら、ある者は繁栄を築き、ある者は腐敗へと向かったのでしょうか。例えば日本の平安貴族たちは、儒学のエッセンスを完璧に織り込んだこの書を学びながら、なぜ社会丸ごと没落する方向へ進んでしまったのか。

調べてみると、そこには決定的な違いがありました。平安貴族にとって『貞観政要』は、実務の指針というよりは、教養としての「儀式的な学問」になってしまっていたのです。知識として知っていることがステータスであり、いかに格調高く講義するかという「学術的完成度」ばかりが重視されました。

『貞観政要』の肝は「部下の厳しい意見を聞くこと」にあります。しかし、摂関政治という「身内だけのクローズドな社会」に浸った彼らの周囲には、耳の痛いことを言う者は消え、忖度するイエスマンばかりが残りました。太宗が最も恐れた「慢心」が構造的に避けられない環境では、知識はあっても実践(システム化)が伴わなかったのです。

これこそまさに「論語読みの論語知らず」という状態です。


一方で、日本の歴史においてこの「愛の傾き」を実践し、基盤を維持した例も多く存在します。西郷隆盛の思想を表す「敬天愛人」という言葉も、ここでの解釈としては、「自然のありさまを大切にして、人には愛の傾きで接する」とも読めてしまうのです。幕末から明治期にかけて、この傾きをもった人物としては、吉田松陰、山岡鉄舟、そしてこの西郷隆盛が挙げられます。

その他の、岩倉、坂本、伊藤などもよく見ると、「資本」の傾きに左右された面があるのですが、これもやはり時代の要請、流行やスタイルとしての時流に乗った、傾きであったという事ができるでしょう。


平安貴族と言えども、後の日本に多大な影響を残す平安文化を担うことにはなりましたが、江戸時代のように愛の傾きに沿った社会での、庶民、つまり一般市民へと浸透するには至りませんでした。

翻って、天皇家においては、歴史の途上、大波小波を乗り越えながらも、一貫してこの傾きが見られるのです。天皇家の初代天皇は神日本磐余彦尊(かんやまといわれびこのみこと)であり、一般には「神武天皇」と言います。

これは死後にその功績を称えて贈られた「漢風諡号」といわれる正式な称号で、「神武」という言葉には、「この上なく優れた武徳」という意味があります。名前にも示される通り、武力をもって当時の日本を統合しました。

歴史上、同じような立場の人物には、中国の始皇帝、モンゴルのチンギスカン、さらにはアケメネス朝ペルシアのキュロス2世、ローマのアウグストゥス、フランク王国のカール大帝などが挙げられます。

ご承知の通り、現在まで続くのは神武家のみなのですが、これは当初手にした「権力」を手放して「権威」のみの継続を目指したからにほかなりません。

現在の「象徴」としての存在は、「日本国民はみな押しなべて、このようにあってほしい」という傾きを、日常の立ち居振る舞いから、日々の行い、生涯の足跡で示すという事を意味しています。

しかもこれは、天皇家だけによって、そのような立ち位置に至ったのではなく、長い歴史時間の中で、国民の総意に基づき、このような形に落ち着いたのです。

この事においても、私たちはその傾きというもの、つまり、足跡というものが示す、本質的な働きを知ることができるはずです。


ですから、ここでよく認識しておいていただきたいことがあります。Will=意志が「愛の方向へ傾く」とは、単に教養として知っていたり、話を聞いて理解したりすることではありません。

意志が愛の方向へ傾くとは、発する言葉や日々の行いが、実際に「親愛」に基づいているのかどうかという、具体的な「足跡」によってのみ示されるものなのです。その日々の足跡が親愛の傾きを示さない時、私たちは平安貴族のように、この世界を永らえることができなくなります。

なぜなら、親愛の傾きこそが宇宙の法則だからです。

この「愛の道編」を逆にたどっていただければ明らかなように、クリスタルコスモロジーが定義する宇宙は、その開闢の瞬間から愛の方向へ傾いています。その傾きに沿って、世界は常に生成化育し、進歩発展しているのです。


かつての賢人たちが命を懸けて守り抜こうとしたこの「愛の傾き」は、今、あなたの内側にある映画製作現場でも、いつもあなたを見守っています。

人生という名の大作を為さんとするとき、あらゆる不協和音の中にも、ハーモニーを見つけ出すその勇気こそが、あなたの宇宙を真に豊かなものへと変えていくのです。


日々の暮らしにおいて、私たち日本人がこれを実践しようとするとき、概念となりがちな愛というものを、このように考えてみていただければ、私たちの一緒にたどった道のりを、いつでも思い出していただけるのではないでしょうか。


「親愛」とは、優しい面影のある愛。

つまり、「慈しみ」を根底に置いた意志。

それは、対象をコントロールしようとする力ではなく、

「対象のありのままを願い、寄り添い、育もうとする生命の志」

であり、宇宙や生命を生み出した根源的な存在と同等のものです。


そうすると、真や善や美も、その「親愛の情」が外側に現れた時の

相(すがた)

である、ということになります。



対象(あるいは自己)の真実を、親愛を持って「見極める」こと。


親愛を動機として、他者や社会へ「働きかける」こと。


その親愛が、日々の所作や佇まいに「現れる」こと。


今回の編での探究の旅は、これで終わりとなります。

手の中から放たれて、宇宙の意志までたどり着いた足取りは、またさらに、親愛の情となって、こうして私たちを照らしています。

宇宙や世界の中心は、「愛」でならないといけない、とは思ってはいましたが、それがまさしく「愛」であって良かったです。

私たちの人生も、愛から放たれ、愛を照らし続けてゆくのでしょうね。

クリスタルコスモロジー Love Focus Approach「愛の道編」は、そのことを語れましたでしょうかね。




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