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社会の変化はゆっくりになっている(全体の要約・まとめ)


「変化の加速」は本当か


「社会の変化は加速している」とよくいわれますが、私は「本当は、社会の変化はゆっくりになっている」と考えています。しかし、そう言っても、ふつうは相手にしてもらえません。

「テクノロジーの進歩はますます加速していて、従来の社会や仕事のあり方は、急速に過去のものになっている」と、多くの人は各方面から聞かされています。そして、「仕事や暮らしのいろいろな面で、あわただしさが増している」ということも、多くの人が感じているはずです。

そこで、「社会の変化がゆっくりになっているなんて、あり得ない」というわけです。

しかし、私はそのような「社会の加速」を強調する議論は、枝葉の細かい変化にとらわれ過ぎていると思います。



技術革新・イノベーションの減速


まず、社会の変化に決定的な影響を与えている(と当然考えられる)技術革新の加速ということが、おおいに疑わしいのではないか。

「技術革新が今後どうなっていくか」については、じつは識者のあいだでは対立があります。たしかに、この問題を論じる識者のうちの多数派は、「技術革新は今後さらに加速する」と言っています。そして、驚異の未来技術や、その影響などについて語るのです。

しかし一方で、技術革新やそれによる生活の変化のペースについて「この数十年間で減速している」と指摘する比較的少数の論者もいます

たとえば、経済学者のタイラー・コーエンは「アメリカ人の暮らしは、インターネットを別にすれば、1950年代以降たいして変わっていない」と述べています。

たしかに、自動車、冷蔵庫、電気照明といった現代的な暮らしの基本的な道具は、(アメリカでは)1950年代の当時すでにありました。

現代の状況について、コーエンは《生活は便利になったし、身の回りのモノの種類も増えたが、変化のペースは祖父母や曽祖父母の世代に比べて緩やかになった》と言います。(『大停滞』NTT出版、2011年、池村千秋訳)

そして、経済学者のロバート・J・ゴードンは、アメリカにおける技術革新の減速・停滞と、今後の経済成長の低下の可能性を、コーエンよりもさらに詳しく大著で論じています(『アメリカ経済 成長の終焉(上・下)』日経BP社、2018年)。

ゴードンによれば、1870年から1970年は急速な進歩や成長が起こった「特別な世紀」だそうです。その「世紀」でアメリカは世界をけん引しました。

ゴードンは、1870年以降のアメリカについてこう述べています。

《わずか一〇〇年で、日常生活は様変わりした。屋外での肉体労働は空調の効いた室内での仕事に代わり、家事は家電製品が担うようになり、暗闇には灯りがともった。人びとは孤立して生活するのではなく、移動できるようになった。……カラーテレビで届けられる世界各地の映像を居間で楽しむこともできる。何より重要なのは、新生児の寿命が四五歳ではなく七二歳に延びたことだ》

『アメメリカ経済 成長の終焉(上)』高遠裕子・山本由美訳

たしかに1870年からの100年の変化は、すごかったと思います。

そして、このような重大な革新は1970年頃には(アメリカでは)終わったのだと、ゴードンは言うのです。それ以降のITなどによる現代の進歩・成長は、限定的で「期待外れ」なものになったと。

《一九七〇年以降の経済成長は、目をみはるものである反面、期待外れでもある。一九七〇年以降の進歩が、娯楽、コミュニケーション、情報の収集・処理といった人間の狭い活動領域で起きてきたことに気づけば、このパラドックスは解消する。人々の関心が高い、食料、衣服、住居、交通、健康、自宅内外での労働環境といった分野では、一九七〇年以降、定性的にも定量的に進歩のペースは鈍化している》

『アメメリカ経済 成長の終焉(上)』

つまり、1970年代以降の技術革新は、経済や生活を根幹から変えるものではなく、枝葉のきめ細かい改良にすぎないというのです。

自動車、水洗トイレ、有線の電話、冷蔵庫、テレビ、旅客機などのほうが、パソコン、インターネット、スマホよりも私たちの暮らしや社会に大きな変化をあたえたというわけです。

だって、スマホがない暮らしと、上記の自動車以下の20世紀的な文明の利器がない暮らしをくらべたら、どっちがマシですか(どっちもイヤでしょうが)? 

以上の「技術革新の減速」を私なりにたとえるなら、

「1970年代までの技術革新は、水洗トイレのある生活をもたらしたが、その後の技術革新がもたらしたのは、ウォシュレットのある生活である」

ということです。

ウォシュレットは現代の高度な工業技術の産物であり、たしかに大きな効用があります。しかし、それは水洗トイレという基礎の上に加えられた、より上層の、上澄みのレベルにおける比較的きめ細かな改良です。

現代の技術革新は、根本的な革新のレベルから、きめ細かい改良のレベルに移行しつつあるのではないか。それは技術革新において本当の意味で革新的なもの・新しいものが生まれにくくなっているということです。

なお、コーエンもゴードンも異端のトンデモ学者などではなく、経済学者としては地位のある人たちです。つまり、「現代における技術革新の減速」という見解を述べる、有力な経済学者がいるということです。


未だ実現していない「すごい未来」


以上述べてきたのは、

「上下水道や電気などのインフラが整備され、家電に囲まれた現代の生活様式は、先進国では、この数十年間(アメリカでは1940~50年代以来)大きくは変わっていない」

ということです。そのようなインフラや家電の普及は、先進国では1800年代末からの数十年で急速にすすみました。これほどの急激な変化は、その後起こっていません。

これは、技術革新・イノベーションの減速を示す一例ではないか、ということです。

そして、「技術革新はじつは減速しているのでは?」という問いかけをもって世の中をみわたすと、ほかにも気がつくことがあります。

たとえば、私は「自分が子供だった1970~80年代に見聞きした、技術革新によるさまざまな“すごい未来”が、今もあまり実現していない」ということが気になります。

月面基地、核融合による発電、超音速旅客機の普及、リニア新幹線……

小中学生だった当時の私は、これらのことが2020年代の今も実現していないとは思っていませんでした(鉄腕アトムやドラえもんは無理だと思っていましたが)。

1969年のアポロ11号以来、1972年まで月への有人飛行が行われていましたが、その後は(2025年現在まで)途絶えています。SFに出てくるような大規模な宇宙ステーションや月面基地も、まだ出来ていません。近い将来における月への有人飛行や月面基地の計画はありますが、とにかく今現在は実現していない。

旅客機の最高速度は、1970年代の超音速機コンコルド(マッハ2)の記録が今も破られていません。一般的なジェット旅客機の巡行速度(マッハ0.8~0.9)も、1950年代末から変わっていません。

また、ジェットエンジンの技術革新は、1970年代から推力(性能の重要な指標のひとつ)の向上がペースダウンするなど、減速がみられるのです(一連の記事の第3回参照)。

リニア新幹線の構想は、1970年の大阪万博で広く人びとに知られるようになりましたが、2025年現在、まだ路線は開通していません。品川~名古屋間が「2034年以降」に開通予定とされていますが、1960年代以来構想されてきた超高速鉄道網の実現までには、遠い道のりのようです。

また、「究極のエネルギー」といわれる、制御核融合の技術は、1950年代から現在にいたるまで「実現まであと30年」と言われ続けています。

若い人から「核融合の話って、そんなに昔からあったのですか」と言われたことがありますが、昔からあるのです。

このような「なかなか実用化されない夢の技術」は、ほかにいくつもあります。2025年の大阪万博でアピールされた空飛ぶクルマも、これに属します。

このように、1960~70年代までの急速な進歩・革新のペースを未来にまで延長すれば、当然実現すると思われた「すごい未来」は、それほどは実現していないのです。このことは、情報技術の急速な展開の陰に隠れて、やや気がつきにくいですが、少し注意を向ければ明らかです。

そしてそれは、この数十年の技術革新が、1970年代以前よりも減速しているからではないでしょうか。

以上のような「技術革新の減速」は、部分的、断片的には言われることはあります。ただし、私は一連の記事で、それをかなりまとまったかたちで、典拠も示しながら述べており、そこに意味があるのでは、と思っています。


「急速な進歩の終焉」は、ほんとうにあり得ないのか


今現在、「技術革新の減速」という主張に対しては、賛同しない意見のほうが多数派でしょう。「進歩や成長が終わるという悲観論はまちがいだったことが、これまで歴史によって何度も証明されてきた」ともよく言われます。

「社会の変化はゆっくりになっている」ということの例として、私が「技術革新の減速」について周囲に述べても、やはりなかなか賛成してもらえません。多くの場合、「世の中では普通はそんなこと言ってない」「近頃だっていろいろ新しいことが起きてるではないか」という反応です。

また「近年は進歩が緩やかで限定的になった」のが正しいとしても、情報分野のような、(先ほど引用したゴードンにいわせれば)「狭い活動領域」での革新が、今後さらに巨大な地平を切り開く可能性は否定できないはずです。

たとえば、AIにその可能性をみる人たちがいる。情報分野のほか、生命科学に期待する人たちもいる。

つまり、「これからとんでもない革新が起きるかもしれないじゃないか」というわけです。まあ、そうかもしれません。

ただ、つぎのことくらいは言えるのではないでしょうか。

たしかに未来はわからない。それでも私たちは「急速な進歩や成長の終わり」を、「あり得ること」として考えに入れていいのではないか。

「急速な進歩が続くのは当然」と決めつけるのは、狭いものの見方ではないか。

これまでの近代における進歩は、一貫した力強いものだった。だから、私たちはその経験にとらわれているのかもしれない。「進歩の終焉」は、ほんとうにあり得ないことなのだろうか?

そういう問いかけを頭の片隅に入れておいたほうが、社会に対する見方の幅が広がると思うのですが、どうでしょうか。

***

そして、現代において有力な「現代社会は加速のなかにあり、急激なテクノロジーの進歩で、近いうちに社会や人間が一変する」という見解には、おおいに用心すべき点もあります。

そのような「加速」に凝り固まった見方に立ってしまうと、本来向き合わなければならないはずの、さまざまな現実的な課題から目をそむけることになるのではないでしょうか。そして、これまでの文明、とくに近代社会が築き上げてきた、科学や民主主義などの価値ある遺産を「時代遅れのつまらないもの」として切り捨ててしまうかもしれません。

テクノロジーによってすべてが根底から変化するなら、今の現実における問題などたいしたことではないし、民主主義のような面倒くさいやり方だって時代遅れになって当然、というわけです。

しかし、ここで述べているように、「現実の世界が加速ではなく減速の局面にあること」を示す事象は、私たちの身の回りにいくつもみられます。

「加速」を当然のこととする現状認識や、それに基づく「こうあるべき」という議論はまちがいだと、私は考えます。少なくとも「“世界は加速している”という見方が誤りである可能性を認識しておくべきだ」という立場は、ぜひ多くの人と共有したいです。

つまり、「もっと冷静に現実をみよう」ということです。

「社会の変化はゆっくりになっている」という主張は、加速を強調する立場にくらべるとインパクトが弱く、関心を呼びにくいとは思います。「すごい未来」を否定しているのですから、「つまらない」のも無理はありません。

それでも、私としては、重要だと思う自分の見解をしっかりと述べていきたいと思います。


数十年前からのコンテンツに今の子どもが夢中になる


技術革新のほかにも、社会の減速を示す事柄はまだあります。

身近にある些末なことでいえば、「子どもたちが昔からの人気コンテンツに夢中になっている」のをみるとき、私は「社会の変化は、たしかにゆっくりになっている」と感じます。

中高年の私が子どもの頃(1960〜70年代)に人気だったウルトラマンや仮面ライダーやガンダムや鬼太郎など、数十年前の基本設計をもとにした作品が今もつくられていて、それを子どもや若者がみているのです。同じ作品を親子や、さらには祖父母と孫で一緒に楽しむこともあります。

このようなことは、1960年代生まれの私が子どもの頃(高度成長期の、世の中の変化が本当に速かった時代)には考えられませんでした。

私が子どもの頃(70年代)、私の親が子どもだった昭和戦前期や終戦後間もない頃のキャラ(たとえば「のらくろ」)に子どもが関心を持つことは、まずありませんでした。まったくないわけではないけど、例外的なことでした。

戦時中の「のらくろ」の時代と私の子ども時代とは、あまりにも世界がちがっていたのです。しかし、現代(2020年代)と50年数年前のあいだでは、多くのことが共通している。だから、「今の子どもたちがウルトラマンに夢中になる」といったことが起こるのです。

そして、このように「過去の作品が古びない・色あせない」傾向は、文化のさまざまなジャンルでみられます。

今の中高年(50代~70歳くらい)の音楽好きの人のなかには、「今は自分の若い頃とちがって、何十年も前の古い音楽を好きだという若い人が結構いて、語り合うことができる」と感じている人がいるはずです。

現在において、音楽に限らずさまざまなジャンルで「昔の○○が好き」という若い人が増えているのは、ご承知のとおりです。

こうした現象の根底には、「この数十年で社会の変化がゆっくりになった」ということがあるのではないでしょうか。

つまり、社会環境や日常生活、娯楽・コンテンツなどにおいて、今の中高年の若い頃と現代のあいだの違いは、それほどは大きくないのではないか。

そこで、現代においては、異なる世代間であっても経験・情報の共通性が大きく、旧世代と新世代の感性や価値観が似通ってきたのです。その結果、中高年と若者が同じ音楽を聴いて「いいね」と語りあえることが増えたのではないでしょうか。

たしかに、インターネットで若い人が過去の作品に容易にアクセスできるようになったことは、影響しているでしょう。しかし、それだけではないはずです。ネットで触れた古い作品を若い人が好きになるには、新旧の世代のあいだに共通の感性が必要です。

その「共通の感性」は、なぜ生じたのか?「新旧の世代が似た社会のなかで生きてきたから」ではないか、ということです。


ファッションの変化の減速


ほかに身近な例としては、服装・ファッションがあります。ファッションにおいても、「数十年前のモード(先端ファッション)なのに、今の時代に着て歩いてもあまり違和感がない」というものがかなりあります。

つまり、ここでも「過去の作品があまり古くならない」という現象がみられるのです。

たとえば、1960年代に最先端として流行したミニスカートや、同時期に普及したジーンズにTシャツといった服装はそうです。シャネルによる1950年代のスーツ(「シャネル・スーツ」といわれるツーピース)もそうでしょう。

これらの1950~60年代の先端ファッションを現代人が着た場合、ある程度のレトロ感はあるかもしれませんが、コスプレにはみえないはずです。

しかし、1950~60年代(今から60~70年前)よりもさらに60~70年さかのぼれば、どうでしょうか? 1800年代末~1900年頃の、ヨーロッパ文化史で「ベル・エポック(“美しい時代”の意)」と呼ばれる時期。その頃のパリやロンドンの富裕層の女性の服装で、今の街中を歩くとしたら? 

地面を引きずるようなスカート丈のドレスや華やかな帽子、ウエストを締めつけるコルセットは、時代劇的なコスプレになってしまうはずです。そして、現代ではなく1960年代の街中であっても、その服装は完全に違和感があるでしょう。

つまりこれは、「1970年頃からの現在までの数十年間のファッションの変化は、それ以前の数十年間の急激な変化にくらべれば、はるかにゆっくりになっている」ということではないでしょうか。

それもまた、社会の減速をあらわす事象のひとつではないかと、私は考えます。


文化における「データベースの完成」


ただし、「この数十年で、ファッションの変化はゆっくりになっている」といっても、シーズンごとに「新作コレクション」はさかんに発表されてはいます。だから、一見したところ、どんどん新しいものが生まれ、変化しているようにもみえます。

しかし、そうした「新作」は、じつは過去の作品のデータベースからの選択と組み合わせ、つまり昔のファッションの「焼き直し」によってつくられている――そう指摘する専門家もいるのです。

「データベース」とは、ここでは「創造的な活動において参照される、過去の作品やアイデアの蓄積」を意味します。どんな分野でも、そのようなデータベースは社会的に存在しています。専門家やクリエイターは、先行研究や過去の作品などの、先人による遺産・蓄積を参照しながら仕事をしているのです。

そして、ある分野で変化や革新が盛んなときは、それまでになかった新しい要素がデータベースに次々と加わっていくものです。逆に革新が減速・停滞すれば、新しい要素は増えなくなります。

1900年代の女性のファッションでは、スカート丈がしだいに短くなるなど、時代とともにシルエットの新しいパターンが次々と登場しました。ファッションの「データベース」を構成する要素が増えていったのです。つまり、激しい変化が続いていたわけです。

しかし、1960年代におけるミニスカートや女性用のパンツ(パンタロンなど)の登場以降、新しいシルエットは生み出されなくなりました。女性ファッションのデータベースに画期的な新しい要素が加わることがなくなったのです。それは、基本的なシルエットのパターンが出揃ったということであり、「データベースの完成」といえます。

以上は、ファッション論が専門の蘆田裕史氏が述べていたことです(第9回参照)。さらに蘆田氏は《〔1960年代にデータベースが完成すると〕新しいシルエットを作ることは難しくなり、必然的にファッションデザイナーの仕事は諸要素を組み合わせることへと移って〔いった〕》と述べています。

1960年代以降、ファッションの変化・革新は減速していきました。「現代のファッションは、1960年代までの遺産のリバイバルやリスタイル(つまり焼き直し)によるものだ」という専門家もいます(服装史研究者・横田尚美氏、第9回参照)。

このような「データベースの完成」は、現代文化のさまざまなジャンルに共通のことではないでしょうか。そして、「データベースの完成」というのは、文化的領域の「減速」について、構造的なあり方(どんなしくみでそうなっているか)という観点で述べているのです。

映画評論家の町田智浩氏は、「すべてのハリウッド映画は過去の映画の寄せ集めになってしまった」と述べています。つまり、昔の映画の続編やリメイクだらけで、一応“オリジナル”の映画も、ほとんどは過去の映画のアイデアのパクリや引用などで出来ている、というわけです(第10回参照)。

現代建築について、建築史家の五十嵐太郎氏は、《…過去のデータベースを充分に持っているが、迷走して向かうべき道がわからない》状態だと述べています。「データベースを充分に持っている」というのは、ここでいう「データベースの完成」であり、「迷走」とは、力強い前進の力を失っているという意味で「減速」に近いものだといえるでしょう(第10回)。

現代文化の基本要素のデータベースは、ほぼ完成の域に達したといえるでしょう。現代文化は、巨大なデータベースを持ちながら、明確な方向性を失った状況にあるのです。

そして、ここでは立ち入りませんが、政治的なイデオロギーの進歩においても、文化的領域における「データベースの完成」と似た状況がみられます。現在の、一見「新しい」と思える政治的な動きや主張は、1970~1980年代までの過去のイデオロギーや政治的選択肢の「データベース」からの選択・組み合わせによるものであると、私はみています。


「人口爆発」「急速な少子化」も終わりつつある


このように文化における減速について述べると、「アニメ、映画、音楽、若者のファッションのような“些末”な事柄の変化が減速したからといって、それを社会全体のあり方にまで広げるのは、無理があるのでは?」と思う人もいるでしょう(実際、私にそうコメントする人はいました)。

たしかにそれも一理あります。ただ、私がこの一連の記事で取りあげている「“社会の減速”を示す事象」は、大小さまざまな項目にわたっています(その一覧については、後で述べます)。

つまり、サブカルやファッションのほかに、技術革新のような「根幹」といえる大きな領域にまず目をむけているのです。

***

そして、「根幹」のこととしては、世界人口の動きはとくに重要です。これは、「社会の減速」を示す最も基礎的な事象といえるはずです。

増加を続ける世界人口ですが、増加ペースは鈍化しています。増加の勢いがピークだったのは1960年代前半で、世界人口の増加率(年間)は2%を少し上回っていました。

しかし、2020年代の増加率は1%を少し下回るレベルで、国連の予想によれば、2050年には0.5%程度にまで低下します。

2020年の世界人口は80億ですが、最新の予想では「2050年に97億、2080年代に104億人でピークに達し、2100年までは横ばい」とのこと。

これは2022年に出た最新の予想に基づく数字です。以前の予想では「2100年に112憶でピークに達する」とされていました。人口の増加ペースが減速しているので、予想が下方修正されたのです。

以前によくいわれた「人口爆発」は、徐々に終わりに向かっているということです。

そして、今後の人口増のかなりの部分は、人の寿命が延びたことによるものです。一方で、出生率は低下しています。1人の女性が生涯に産む子どもの数(合計特殊出生率)の世界平均は、1950年は約5人でしたが、2021年は2.3人です。

そして、2000年頃以降、世界の合計特殊出生率の“低下ペース”はやや減速しています。新興国も含め、人口を維持する目安となる水準である「2.1人」を大きく下回る国が増え、以前の低下のペースに比べれば「下げ止まり」の傾向がみられるのです。「少子化が行きつくところまで達しつつある」といってもいいでしょう。

つまり、(1900年代において)最初は先進国で起こり、その後新興国にも広がった「急速な少子化」の動きも、徐々に終わりつつあるということです。

「人口爆発」や「急速な少子化」といった人口の劇的な動きは、当然ながら社会の急速な変化と関係があります。人口の動きは、経済の発展、医療の進歩やインフラの整備、労働や生活のあり方などと結びついています。

世界人口の動きの急速な変化がペースダウンしていることは、社会の変化の世界的な減速を示すものだといえるはずです。


世界的な経済成長の減速


そして、世界人口の動き重なりあうように、世界の経済成長にも減速傾向がみられます。経済成長の減速は、まず先進国で明らかになりました。

1950年代~70年代前半には、欧米や日本などの先進国は、それ以外の国ぐに(アジア・アフリカの開発途上国)を概ね上回る経済成長を続けていました。1950~73年における西ヨーロッパ全体の年平均の経済成長率は4.1%、アメリカは2.5%、日本は8.1%でした(マディソン『世界経済史概観』世界経済研究所監訳、岩波書店、2015年、原著2007年)。

これに対し、アジア(日本を除く平均)は2.9%、アフリカは2.0%で、このうち中国は2.8%、インドは1.4%です。その頃の日本は「高度経済成長」の時代でしたが、高度成長ということは、欧米、とくに西ヨーロッパにもかなりあてはまることだったのです。

しかし、1970年代後半以降、先進国(欧米・日本)の経済成長率は低下していきます。1973~2003年の西ヨーロッパの経済成長率(年平均)は、西ヨーロッパ1.9%、アメリカ1.9%、日本2.1%。

これに対し、アジアは3.9%となり、成長率が先進国を上回るようになります。とくに中国の成長率は6.0%に達しています。

そして、先進国全体の経済成長率は(とくに2010年代以降)概ね1~2%台の状態が続いています。

2000年頃以降、先進国の経済成長率は、世界平均を明らかに下回るようになり、それが2020年代現在も続いている(一部ではさらに低成長となる傾向もみられる)のです。

このような成長率の低下は、おもに先進国でみられることですが、2025年現在、新興国の代表格である中国経済の減速ということも取り沙汰されてはいます。

2010年代のピーク時には10%程度だった中国の経済成長率は、コロナ禍以降、減速傾向にあります。2024年の中国の経済成長率はは5.0%で、先進国の平均よりもかなり高いとはいえ、「中国経済のピークアウト」ということは、広く認識されるようになりました。

将来的に、中国をはじめとする新興国の経済成長が先進国並みに減速することは、十分あり得ることなのです。


歴史という大海原を進む客船とその乗員たち


そもそも、「日々の仕事や暮らしのあわただしさ」ということと、社会全体の変化の速度は、じつは別次元の話であるはずです。しかし、両者を混同する人は少なくありません。そして、「こんなにも毎日が忙しいのだから、社会全体も加速している」と思い込むのです。

私の考えをたとえていえば、
・社会全体の変化の速度とは、歴史という大海原をすすむ巨大な客船の移動の速度。
・これに対し日々の仕事や暮らしは、その客船の乗客やスタッフたちの営みです。

つまり、社会という客船に乗ったそれぞれの人びとが、ますます多くの予定やタスクを抱え、あわただしく動きまわったとしても、それは客船がすすむ速度とは別の話であり、そのことを忘れてはいけないというわけです。

私が現代の世界について比喩的に抱くイメージは、

「歴史のなかをすすむ巨大な船で、船内の人びとが以前よりも忙しく動きまわる一方で、船の運航速度は確実に落ちてきている」

というものです。


これまでの再確認・さまざまな「減速」の現象


私は、この一連の記事の第1回から前回の第11回まで、社会のさまざまな領域・要素における「減速」について取り上げてきました。

技術革新、人口動態、経済成長、文化のいくつかの分野、政治的イデオロギー……

これらの社会のどの領域・側面でも減速がみられます。ここで述べた事例は、その一部です。

そして、これらの社会のさまざまな要素は、たがいにつながっています。だからこそ、これまで述べてきたように、以下の大小さまざまな「減速」を示す現象が、この数十年のあいだに幅広い領域で起こっているのです。

以下、第1回~第11回で述べた、「社会の減速を示すさまざまな事象」を、以上で述べたものも含め、箇条書き的に示します(くり返しが多いので、面倒なら、読み飛ばして頂いても大丈夫です)。

・1970年代に先進国の「高度経済成長」が終わり、その後は比較的低い経済成長率が続いている。なお、その一方で新興国が急速に発展し、先進国との経済力の格差を縮めている。その結果、世界は「多極化」に向かっている。

・ただし、高度成長を続けてきた中国経済にも、2020年代の現在、減速の兆しがみられる。

・上下水道や電気などのインフラが整備され、家電に囲まれた現代の生活様式は、先進国では、この数十年間(アメリカでは1940~50年代以来大きくは変わっていない。そのようなインフラや家電の普及は、先進国では1800年代末からの数十年で急速にすすんだ。これほどの急激な変化は、その後起こっていない。

・1969年のアポロ11号以来、1972年まで月への有人飛行が行われていたが、その後は(2025年現在まで)途絶えている。

・旅客機の最高速度は、1970年代の超音速機コンコルド(マッハ2)の記録が今も破られていない。一般的なジェット旅客機の巡行速度も、1950年代からあまり変わっていない。また、ジェットエンジンの技術革新は、1970年代から推力(性能の重要な指標のひとつ)の向上がペースダウンするなど、減速がみられる。

・「究極のエネルギー」といわれる、制御核融合の技術は、1950年代から現在にいたるまで「実現まであと30年」と言われ続けている。このような「なかなか実現しない夢の技術」は、ほかにいくつもある。

・1910年から1970年代末までのアメリカの農業は、機械化によって10倍かそれ以上の生産性向上(1人あたり)を達成したが、1980年代以降の約40年では、生産性の向上はそれよりもはるかに限定的である。

・ある研究グループは、大量の論文などを分析し、「科学研究の発展が近年は漸進的になり、革新性が薄れている」とする論文を『ネイチャー』誌に掲載した。

・2000年頃以降、世界の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子どもの数)の“低下ペース”は減速している。世界人口の増加ペースも、それ以前から落ちてきている。

・今の中高年の若い頃の音楽など、「昔の○○が好き」という若者が増えている。1960~70年代の基本設計によるコンテンツが、今も子どもや若者に人気がある。

・ある専門家の指摘によれば、20世紀末以降のモード(先端ファッション)は、おもに1960年代までの過去の流行からの選択・組みあわせによるものである。

・映画・建築・音楽でも、このような「データベースからの選択・組み合わせ」による創造が一般化しているという指摘がある。つまり、これらの分野で本当に新しいものが生まれにくくなっている。これは、文化的創造における「データベースの完成(新しい要素が加わらなくなった状態)」といえるのではないか。

・ある社会調査によれば「ハンバーグが好き」という中高年が多くなった。子ども・若者と中高年のあいだで、食べものの好みが昔よりも近くなっている。こうした世代間における嗜好や価値観の違いの縮小は、衣食住、家族観、働き方などのさまざまな領域でみられる。

・政治的なイデオロギーの進歩においても、文化的領域における「データベースの完成」と似た状況がみられる。現在の、一見「新しい」と思える政治的な動きや主張は、1970~1980年代までの過去のイデオロギーや政治的選択肢の「データベース」からの選択・組み合わせによるものである。

これらをさらにまとめれば、つぎのとおりです。

・先進国の経済成長の鈍化
・中国経済の失速
・生活様式がこの数十年で大きくは変わっていない
・宇宙開発や航空機の技術革新の減速
・核融合などの「夢の技術」がなかなか実現しない
・農業の生産性向上の減速
・「科学の発展が漸進的になった」とする説がある
・世界の人口における変化のペースの鈍化
・昔のコンテンツが今の世代にも人気がある
・文化・ファッションにおいて新しいものが生まれにくくなっている
・政治的イデオロギーにおいても新しいアイデアが生まれていない
・世代間のさまざまな違いの縮小……


以上にあげた事象――きわめて大きなものもあれば、枝葉のものもある――は、どれも「これまでの近代において続いてきた、急速な進歩・成長・変化の終焉」という大きな流れに属しています。つまり、現代における社会の「減速」ということの、それぞれの領域・層におけるあらわれなのです。

これらのことは、たがいにつながっているのです。


根幹・基礎にあるのは「技術革新の減速」ではないか


では、以上のさまざまな「減速を示す事象」の根幹にあることは何なのでしょうか? 

根幹に共通のものがあるから、これらの事象は「つながっている」といえるのです。

私は、その「根幹」とは、技術革新であると考えます。

技術は、社会を構成する諸要素のなかで、とくに基礎的な層に位置づけられます。技術革新によって生まれた文明の利器が生産・輸送や生活に影響をあたえ、経済を変革し、社会全体が大きく変わっていく。その過程で人びとの価値観や文化も変わっていく――そのような(かなりおなじみの)構図を私は想定しています。

そこで、社会の減速の根底には、「技術革新の減速」ということがあるということです。この数十年で、さまざまな分野において技術革新の減速がみられることは、以上でも述べたとおりです。

社会についての上記の「構図」によれば、技術革新が減速すれば、経済成長も減速し、価値観や文化の変化もゆっくりになっていくわけです。

前に引用した、経済学者ロバート・J・ゴードンも、技術革新を基礎的なものとして重視する立場です。ゴードンは、イノベーション(技術革新)こそ《労働生産性のすべての伸びの究極の源泉である》として、つぎのように述べています。

《技術革新は生産量を直接押し上げ、資本蓄積を促し、新たな発明を取り入れた機械や設備がつくられるようにする。さらにイノベーションは、〔情報技術の進歩などによって経営マネジメントの発達を促すという意味で〕資本の質の向上の源泉でもある》

《イノベーション以外の成長の源泉として残るのが、教育と〔労働力の〕再配置の問題である。だが、これらもイノベーションに依存する。学校に通ったり、農村から都市へ移動したりするにも元手〔動機や手段〕が必要で、それをもたらすのがイノベーションだ……》

『アメリカ経済 成長の終焉(下)』、381~382ページ、高遠裕子、山岡由美訳
〔〕は著者・秋田による

このような、技術の影響を根底的で重要なものとする社会観は、これまでに使い古されてきた考えといっていいでしょう。しかし、やはり有効なものだと、私は考えます。


さまざまな領域でみられる「収穫逓減」


また、別の視点から現代の減速の構造をとらえるなら、それは、社会・文明の発達にともなう「収穫逓減(しゅうかくていげん)」であると整理できるでしょう。

収穫逓減とは「投じた労働量あたりで得られる収穫・生産物が、労働を追加投入するにつれて、当初よりも減っていくこと」で、経済学の用語です。

つまり、「1970年頃までに、人類は(とくに先進国では)近代の文明の枠組み・手段のもとで容易に収穫できる果実を、かなり取り尽くしてしまった」のです。

取り尽くしたのは、あくまで「かなりの部分」であって「すべて」ではないはずですが、残りは相当減ってきたということです。これは、技術革新、経済発展、文化の革新・創造などの社会のさまざまな領域で共通することだと、私は考えます。

社会・文明が発達するにともなって、その文明をさらに大きく前進させるために解くべき「問題」の難易度は、しだいに上がっていくのです。比較的解決しやすく、かつ解決すれば大きな成果があがる、生産性の高い「問題」は、1900年代前半には多く残っていました。

しかし、現代では100年前~数十年前よりもかぎられているのではないか。現代の社会は、いわば「近代文明という“競技”」において上級者レベルに達した状態であり、伸びしろが少なくなっているのです。

現代の先進国で、かつてのような高度成長が困難になっていることは、「伸びしろの減少」のとくに大きな、代表的事象といえるでしょう。

そして、航空機の技術開発でも農業の機械化でも、ファッションや建築でも、とくに基本的で重要な「問題解決」や「アイデアの実現」は、それらの分野の歴史における最初の数十年(1970年頃まで)で、かなりの程度完了してしまいました(第9回、第10回参照)。

現代のジェットエンジンの開発は、1950年頃の初期の頃よりも複雑で高度なものになり、より多くの予算や人材が投入されていることでしょう。しかし、その性能の向上は70年代以降ペースダウンしています(第3回)。

また、現代のハリウッド映画は、数十年前よりも大規模で、複雑・高度な仕事のうえに成り立っているはずです。しかし、そこから「見たことのない新しいイメージ」が創造されることは、今はあまり期待できなくなっているのです(第10回)。

これはつまり、多大な労力を費やして高度で困難な問題に取り組んでも、得られる成果が限られるという「収穫逓減」が起こっているということです。

その結果、現代におけるさまざまな分野の発展・変化は、根本的な革新から、きめ細かな改良や洗練などの応用的な次元に移行しています。既存の枠組みのなかで、できることに取り組んでいるのです。


マクロの視点・ミクロの視点

*この箇所は、方法論的な話であり、やや抽象的でわかりにくいかもしれません。煩雑であれば読み飛ばしてください。

ところで、以上の「技術革新の減速が、社会全体の減速につながる」ということと、「さまざまな分野・領域における収穫逓減」ということは、社会の減速について2通りの説明をしているわけですが、これらはたがいにどういう関係にあるのでしょうか? 2通りの説明など、一貫性のない、混乱したものではないのでしょうか? 

じつは、両者(2つの説明)は、ものごとを捉える視点や次元が異なるのです。だから、どちらも意味があります。

まず、「技術が根底にある」という社会観は、社会全体の構造をとらえたものです。

これはいわば、マクロ(巨視)的な視点です。つまり「大きな視点で全体をみる」ということです。「技術革新が生産や経済を変革し、それによって文化も変わる」というのは、社会全体を構成する各要素のあいだの関係を、大まかに整理しているわけです。

これに対し、「発展に伴う収穫逓減(伸びしろの減少)」は、技術、経済、文化などの社会を構成するそれぞれの要素や現場において、そのような共通の傾向・構造がある、ということを述べています。これは、社会の全体ではなく、部分・個別の現象を探究するミクロ(微視)的な視点です。

収穫逓減は、社会のさまざまな「部分」で共通に起こっていることです。社会の基礎といえる技術においても、上層にあたる音楽・映像作品・モードなどの文化においても起こっています。

一般に経済学には、マクロ経済学とミクロ経済学があるとされます。前者が「大きな視点で全体をみる」のに対し、後者は「部分的な現象を探究する」のです。

マクロ経済学は、国全体の経済について、「個人消費」「企業による投資」「政府支出」といった要素から構成されると考えます。そして、それらの要素間の相互作用や、それによって国全体の経済(GDPや物価など)がどう動くかを研究しています。

これに対し、ミクロ経済学は、商品・サービスを取引する個々の市場や、そこに参加する経済主体の動きをおもに研究します。そして、「需要と供給の関係で価格が決まる」といった、さまざまな市場に共通の構造を論じるのです。

以上は、経済学の説明としては不十分だとしても、「マクロ」「ミクロ」の概念を確認するには参考になるはずです。このようなマクロとミクロの両方の視点から、現代の世界や社会の「減速」について述べてきたわけです。


さいごに


さて、「要約・まとめ」といいながら、結構な長さになってしまいました。 

人口爆発の終焉、経済成長の鈍化、(IT以外の)技術革新の減速、古い作品・コンテンツが今も色あせない、文化におけるデータベースの完成等々……

これらのことは、一定の幅広い知識のある人や、それぞれの分野に関心のある人にとっては、よく知られた、いわば「あたりまえ」のことばかりです。

それらのさまざまな分野の「あたりまえ」を、ここでは、これまであまり行われなかった独自のかたちで総合しています。

世界の人口動態や経済成長、ジェットエンジン、ウルトラマンや仮面ライダー、60年代のミニスカートのことは、ふつうはひとつの主題のなかで論じられることはありません。

しかし、それらのさまざまな素材をひとつの視点のもとで総合することによって、「社会の変化は、じつはゆっくりになっている」という、「あたりまえ」ではない、この世界についての大きな結論が導き出せるのではないか。

「あたりまえを総合して、あたりまえでない結論に達する」—―これは、さまざまな情報や知識を探究し、考える試みとしては、かなり興味深いものになっていると自負していますが、どうでしょうか?

(以上)


*この一連の記事(この回も含め全12回)は、これでひと段落です。さらに続編的なものとして、「社会の減速」について、より大きな世界史の文脈のなかで論じる一連の記事「加速と減速の世界史」をアップしています。

*サムネイルの写真は、国立代々木競技場 第一体育館(1964年、意匠設計:丹下健三)。このような、今みてもモダンで「未来」をも感じさせる建築が60年余り前につくられていたのです。1964年の60年前というと1904年(明治時代、日露戦争の頃)です。そこからの60年にくらべ、この建築以後の60年の変化はゆっくりだったのでは?


私そういちの著書(世界史の入門的な概説書)


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