社会の変化はゆっくりになっている(10)データベースが完成した現代文化
10.データベースが完成した現代文化
この一連の記事では、「この数十年で、社会の変化はゆっくりになっている」という「減速論」を主張しています。この一連の記事の第1回~第6回では、経済成長や技術革新の停滞、世界の人口増加の減速などについて述べてきました。
第1回~第6回をまとめた、第7回の記事
その後は、「社会の変化の減速によって、新旧の世代(若者と中高年)の感覚や価値観の差異が縮小している」こと(第8回)や、文化的領域における例として、ファッションの変化が1970年代以降減速し、新しいものがうまれにくくなっていることを述べました(前回・第9回)。今回は、さらにいくつかの文化における「減速」を論じます。
以下述べていきますが、現代の文化における創造は、過去の蓄積=データベースからの選択・組み合わせによるものとなり、オリジナルの「新しい要素」が生まれることは、まずありません。
その意味で、現代文化の基本要素のデータベースは、ほぼ完成の域に達したといえるでしょう。そして、「現代文化は、巨大なデータベースを持ちながら、明確な方向性を失った状況にある」と、私は考えます。
*サムネイルの写真は、国立代々木競技場 第一体育館(1964年、意匠設計:丹下健三)。このような、今みてもモダンで「未来」をも感じさせる建築が60年余り前につくられていたのです。1964年の60年前というと1904年(明治時代、日露戦争の頃)です。そこからの60年にくらべ、この建築以後の60年の変化はゆっくりだったのでは?
ハリウッド映画は、過去の映画の寄せ集めになった(映画評論家・町田智浩)
前回(第9回)では、ファッションにおけるこの数十年の「減速」について、ファッション史の基礎的な知識や、一部の専門家の見解をもとに述べました。そして、前に断ったように、「新しいものが生まれにくくなっていることは、文化の領域においてファッションだけにかぎらない」と、私は考えています。減速は、たとえば美術、文学、建築、映像作品などでも起こっているということです。
ファッションのような、これまで常に「新しさ」を特に重要な価値として追究してきた分野で減速しているのです。そうであれば、ほかの分野でも同様のことが起こっていても不思議はありません。
たとえば、映画。映画評論家の町田智浩氏は、2006年出版の著書(2024年に朝日文庫版)で、近年のハリウッド映画について、第9回で引用した横田尚美氏が現代のファッションについて論じたのと同様のことを述べています。「ハリウッド映画は、過去の映画の寄せ集めになった」というのです。
《……すべてのハリウッド映画がポストモダン建築〔後で説明〕のように過去の映画の寄せ集めになってしまった。昔の映画の続編やリメイクだらけ。オリジナルのアイデアの映画は本当に少なくなった。しかも、いちおう「オリジナル」の映画も、ほとんどは過去の映画のアイデアのパクリや引用、オマージュ、インスパイア、リスペクト……。技術の発達でビジュアルだけはずっと派手で豪華……になったが、今までまったく見たこともないイメージはない》
*2024年刊の朝日文庫版、390ページも同じ
〔〕は筆者・秋田による
現代の映画が「過去の映画の寄せ集め」というのは、第9回で述べたように現代のファッションが「データベースからの選択行為」、あるいは「リバイバル」と「リスタイリング」で出来ている、というのと同じことです。
以上の町田氏の文章は2006年の著書のものですが、2020年代現在において、ハリウッド映画であいかわらず続編やリメイクが多いのは、ご承知のとおりです。今の日本において、ウルトラマンや仮面ライダーのほか、中高年のオタクには懐かしいさまざまなアニメや特撮の作品がリメイクされるのは、この流れに属します。
そして、続編やリメイクでなくても、映画に精通した人がみれば、現代のハリウッド映画は、さまざまな要素において過去の作品からの借用・引用で満ちている、ということです。それは、私のような一般的な観客でもある程度は感じていることですが、批評家が明言していれば、「やはりそうか」と思います。
たしかに、CGの発達のほか、ドローンによる撮影や生成AIなどの最近の技術によって、「新しい」といえる映像も生まれてはいます。しかし、そのような創造の頻度やインパクトは、以前よりも限定的になっている――そのような見方に立って、町田氏は上記のような強い言い方をしているのでしょう。また、そもそも生成AIには、「データベースからの“寄せ集め”を行う技術」という面がつよくあります。
なお、「ハリウッドだけが映画ではない」のも、たしかです。しかし、ハリウッド作品が映画全体のなかで質・量どちらにおいても重要であり、現代の映画のあり方を典型的に示している(その意味で代表している)ことは、やはり否定できないはずです。ハリウッドで「今までに見たことのないイメージ」を作れなくなっているとしたら、それはまさに映画の減速を示しています。
そして、映画の減速は、テレビやインターネットといった後発のメディアにおける映像作品の発展にも影響をあたえる、つまりは減速をもたらすのではないでしょうか。
また、町田氏は映画だけでなく、さまざまな文化ジャンルへの視野を持つ批評家ですが、さきほどの引用箇所に続いて、こうも述べています。
《それは映画に限ったことではなく、音楽、美術、文学、どれもコラージュ、パスティーシュ〔作風の模倣〕、サンプリング、シミュレーションばかり。本当に「革新的」で「革命的」なものは生まれなくなった。あまりにも多くのものがすでに作られてしまった。何をやっても誰かのレプリカになってしまう》
以上の「あまりにも多くのものがすでに作られてしまって、本当に革新的なものは生まれなくなった」というのは、第5回などで経済発展と技術革新を論じた際に述べた「収穫しやすい果実は、すでに収穫されてしまった」というのと、まさに重なる見方です。
ポストモダンの建築
さて、私は文化のさまざまな領域のなかでは、建築については、これまで述べたファッション・映画以上の関心を以前から持ってきましたが、この分野もやはり減速していると考えます。現代建築もまた、「過去の寄せ集め」「データベースからの選択行為」によって成立し、新しいものが生まれにくくなっているのではないでしょうか。
その傾向は、「ポストモダン建築」がとくに流行した1980年代から、つまり、モダニズムの建築が大きな「曲がり角」をむかえた時期からとくに顕著です。そして、「データベースからの選択・組み合わせ」によることを、現代建築の特徴として論じる専門家も、やはりいるのです(あとで紹介・引用します)。
ポストモダン建築の考え方は、「装飾を排し、合理性や機能性を追究するモダニズム建築へのアンチ」として、1970年代から一部の理論家が主張しはじめたものです。
モダニズムの建築は、モダニズムのファッションと同じ頃、1900年代前半に欧米で基礎が形成され、1900年代後半に入ると、世界における建築のスタンダードとなりました。その典型的なあり方としては、「タテヨコの直線で構成された、全面ガラス張りの超高層ビル」があげられます。モダニズム建築の主流は、おもに定規やコンパスによる線で出来ているのです。
これに対し、ポストモダン建築は、機能とは結びつかない複雑な装飾・形状や、過去のさまざまな様式(たとえばアールデコ、バロック、ゴシック、ギリシア・ローマ、日本などの非西洋建築……)を雑多に組みあわせる、などの特徴があります。つまり、ポストモダン建築には「データベースからの選択・組み合わせ」という面が強くあるのです。そこで、先ほど引用した町田智浩氏の文章では「ポストモダン建築のように過去の映画の寄せ集めに……」という表現があったわけです。
私たちにおなじみの建築だと、たとえば、丹下健三の東京都庁(1990年竣工)は、ポストモダン的だとされます。たしかに、パリのノートルダム大聖堂をモチーフにしたといわれるあの庁舎の外観は「シンプルで機能的」なイメージではありません。
あるいは、1982年の映画『ブレードランナー』で描かれた未来都市(2019年のロサンゼルスという設定)の、デタラメな様式の無秩序な建築群を思い浮かればいいでしょう。町田氏も、さきほど引用した著書で『ブレードランナー』を論じた際、この都市をポストモダン的なものとして説明しています。そして、「『ブレードランナー』以後、これに代わる未来都市のイメージは生まれていない」とも述べています。
なお、これに対し、同じく有名なSF映画でいえば、1968年の『2001年宇宙の旅』に登場する宇宙船や宇宙ステーション(とくにインテリア)は、合理性や機能性を基調とした、概ねモダニズム的な造形です。
ポストモダン的な、ヒップホップ
なお、ヒップホップという、メジャーなジャンルでは「最も現代的」といえる音楽には、ポストモダン的な面があるといえるでしょう。音楽については立ち入らないつもりですが、この点については簡単に触れておきます。
ヒップホップでは、楽曲制作において、さまざまなジャンルの既存の音源を編集・加工する「サンプリング」が重要な位置を占めています。これはそれぞれの音源の「歴史を無視して並置する手法」であり、さまざまな過去の様式を雑多に組み合わせるポストモダン建築のやり方と似ています。
アメリカ文学とポピュラー音楽の研究者・大和田俊之氏は、《ヒップホップって本当にポストムダニズムと相性がいい……これほど商業主義的な領域でポストモダニズムが貫徹されたジャンルってほかにない》と述べています(長谷川町蔵、大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』アルテスパブリッシング、2011年、81ページ。「歴史を無視して並置する」は大和田氏の別の著書『アメリカ音楽史』講談社選書メチエ、2011年による )。
ヒップホップのアーティストは、「ポストモダンとの相性」などまず意識していないはずですが、人文系の知識人である大和田氏には、その「相性」は明白であるわけです。
このような「データベースからの選択」による音楽が「現代的」であるとすれば、音楽の減速を示すひとつの材料といえるでしょう。ただし、これは私の解釈であり、大和田氏は、上記の著書でヒップホップのポストモダン的な性格を指摘していますが、音楽の減速ということまではとくに述べていません。
ただし、サンプリングから、これまでに聞いたことのない音も生まれてはいるはずです。しかし、それはやはり「データベース」にオリジナルの新しい要素を加えるような革新とは異質なものではないでしょうか。
要するにポストモダンとは何か
結局、ポストモダンとは何か。とりあえず、「合理性・機能性、あるいは系統だった秩序・システムのような、私たちが一般に“現代文明にとって基本的”と考える要素・価値観へのアンチテーゼ」だと理解すればいいでしょう。前にも述べたように、これをあえて訳せば「脱近代」です。
なお、思想的な文章に馴染んだ人のあいだでは、「ポストモダンとは“大きな物語”の否定である」といった説明も知られています。
「大きな物語」の代表格のひとつに、1960年代まではとくに有力だった、マルクス主義の歴史観があります。これは、古代からの世界史の流れをふまえ、「資本主義から社会主義・共産主義への発展は必然」だと説く歴史観です。あるいは、マルクス主義よりも一般的な「技術革新や経済成長による発展・進歩は素晴らしい」といった社会観も、「大きな物語」といえるでしょう。
「大きな物語」とは、素人談議的にまとめれば、「一定の価値観・概念に基づいて、社会や歴史の幅広い事象をまとめて説明しようとする言説」のことです。そのような「大きな物語」的な発想・言説は、1970年頃までの、ポストモダンが有力になる以前には、広く支持されていました。
しかし、ここではポストモダンについては、「大きな物語の否定」ということを前面に出すのではなく、「合理的・機能的なモダニズムに対するアンチ」といった、より入門的で建築のあり方に沿った理解に基づいて話をすすめます。ただし、建築におけるモダニズムの根本には、「合理性に基づく人類の進歩」といった「大きな物語」があるわけです。
ポストモダンの核にあるのは、モダン(モダニズム)という、スタンダードとなった価値への「批判」「反発」です。そこで、建築においては「ポストモダン様式」といえるような明確で系統だった何かを生み出すことはありませんでした。そのような「明確な特定の様式」は、ポストモダンの精神に反します。
ポストモダン建築は、1980年代には世界の建築界でとくに勢いがありました。前回(第9回)で少し述べましたが、ファッションでも、同時代に装飾などの非合理的な要素を強調した「ポストモダン」を、一部のデザイナーが「新しいもの」として打ち出しています。
80年代は、思想や文化のさまざまな領域でポストモダンの考え方・志向が影響力を持ったのです。そのなかで、思想などの人文系の学問と建築の世界は、ポストモダンが有力となった代表的な領域でした。
しかし、1990年代以降、先端的な建築の流行は、基本的にはモダニズム的なシンプル路線にかなり戻っていきます。それは、単純に以前のモダニズムに戻ったということではなく、それまでのポストモダンを含むさまざまな試みをふまえたものなのですが、その点についてはここでは立ち入りません。とにかく、ポストモダンを振りかざすことは、今の建築界では下火になったということです。
データベースを充分に持ち、迷走する現代建築(建築史家・五十嵐太郎)
そして、現代建築について「データベースからの選択によってつくられている」とみる専門家の1人としては、建築史家の五十嵐太郎氏があげられます。
五十嵐氏が現代建築を論じた著書には、つぎのような箇所があります。これは、「モダニズムの巨匠」といえる建築家・槇文彦(1928~2024)の言葉をふまえたものです。
《……〔建築における〕モダニズムは、誰もが自由にアクセスし、好きなように使えるデータベースと化したのではないか。槇〔文彦〕は、こう指摘している。
「「なんでもあり」の時代に突入し、モダニズムが巨大なインフォメーションのプールと化すると共に、思想もスタイルも姿を消す。使命も一緒に」。
以前は近代社会の啓蒙というイデオロギーとセットだったモダニズムは、その意義を失ったまま、ぼう大な蓄積=データベースが残った。すなわち、ばらばらの要素に分解され、それを各自が思いのまま操作し、建築を組みたてる》
改行と〔〕は筆者・秋田が加えた
そして、このあと五十嵐氏は、現代建築について《…過去のデータベースを充分に持っているが、迷走して向かうべき道がわからない》状態だとも述べています。
「モダニズムはデータベースになった」というのは、蘆田裕史氏が述べた、ファッションにおける「データベースの完成」と重なります(第9回で引用)。五十嵐氏がいう「ぼう大な蓄積を各自が操作し、建築を組みたてる」とは、まさに蘆田氏のいう「データベースからの選択行為」です。
ただし、五十嵐氏は、蘆田氏のように「選択や組み合わせからは、新しい要素は生まれない」とまでは言っていません。上記の引用箇所のあと、五十嵐氏は、これまでモダニズムの建築をけん引してきた欧米以外の地域で新しい何かが生まれる可能性についても、やはり槇の言葉を引用しながら言及しています。しかし、基調としては「現代建築は迷走している」とみています。
「迷走」とは、モダニズムに活力があった1900年代前半のような、明確な方向性をもった展開がみられないということです。この状況を、槇文彦は(上記の引用を整理すれば)「モダニズムの思想・スタイルとともに、その使命も消えた」と表現しています。
そして、このような方向性のみえない「迷走」は、この小論でいう「減速」に近いものだと捉えてよいのではないでしょうか。
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以上、ファッションのほか補足的に映画、音楽、建築という事例を、その分野の専門家による解説・発言をもとに取りあげました。このように複数の分野で「新しいものが生まれにくくなっていること」「基本的な創造がすでに終わったこと」を認識している専門家がいるのです。
ここで述べた、それぞれの文化についての知識は、その分野を知る人とってはごく基本的なことばかりで、「そんなことはわかっている」といわれてしまうかもしれません。
しかし、そのような「あたりまえ」の情報に基づいてさまざまな分野を同時に比較すると、文化において創造・革新がペースダウンしている状況、つまり「減速」という共通項がうかびあがってくるはずです。このような「総合」「抽象」によってみえてくる全体像があり、そこが重要だと、私は考えています。
(第11回に続く)
次回は、これまで論じなかった政治的領域について、自由主義的な民主主義の優位を説く「歴史の終わり」論をふまえて述べます。
