見出し画像

社会の変化はゆっくりになっている(8)社会の減速で、新旧の世代が似てきた


8.日本の減速論/社会の減速で、新旧の世代が似てきた


この一連の記事では「この数十年で社会の変化はゆっくりになっている」ということ、つまり「社会の減速」について論じています。このような主張を私は「減速論」といっています。

これまでの第1回~第7回では、経済成長、技術革新、人口などにおける現代世界の減速について述べてきました。そのなかで、減速論者(社会の減速を主張する識者)であるタイラー・コーエン、ロバート・ゴードン、バーツラフ・シュミル、ダニー・ドーリングの著作について紹介・引用しました。

その減速論者たちはみな欧米の知識人ですが、日本にも独自の減速論を述べている人たちがいます。この第8回では、私も影響を受けた、そのような日本の減速論者について取り上げます。また、後半では「社会の変化がゆっくりになったことで、新旧の世代(若者と中高年)の間の差異が縮小してきた」ということについて論じます。

*第6回までの内容をまとめている、第7回の記事



*サムネイルの写真は、国立代々木競技場 第一体育館(1964年、意匠設計:丹下健三)。このような、今みてもモダンで「未来」をも感じさせる建築が60年余り前につくられていたのです。1964年の60年前というと1904年(明治時代、日露戦争の頃)です。そこからの60年にくらべ、この建築以後の60年の変化はゆっくりだったのでは?


「登山の社会」から「高原社会」へ(著作家・山口周)


これまで述べたように、「社会の変化がゆっくりになっている」と主張する「減速」論者は、少数派です。ただし、最近の私は「いつまでも少数派ではないだろう」と思っています。たとえば、ダニー・ドーリング(おもに第5回で取りあげた)のような「社会の全面にわたる減速」を主張する論者が出て、その主張が一定の反響を呼んでいるのです。

また、ドーリングの著書の日本語版では、著作家・独立研究者の山口周氏が解説を寄せています。山口氏は、ビジネス書の世界で多くの読者を得ていますが、その広い視野による著作活動をみていると、現代日本の有力な「文明批評家」の1人だと、私は思います。

そのような著者が「世界は減速している」という見方を支持しているのです。私は、「世界・社会の減速についての、人びとの見方・世論の潮目が変わりつつあるのでは」と思うようになりました。

山口氏は、自身の著書『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社、2020年)において、現代の日本や先進各国における社会の減速について、変化の激しい「登山の社会」から成熟し安定した「高原社会」への移行だと述べています。

同書の第一章は、《私たちはどこにいるのか?》という問いかけから始まります。そして、その答えとして、現代の先進国は《「物質的な生存条件の確保」という課題をすでに終了している》という意味で「文明化の終焉」の段階にあり、「成長の完了した高原社会」に向かっているということが述べられています。

また、その論拠として、先進国の経済成長や世界の人口増加が「天井」に向かっていることや、「現在の日本で“生活に満足”“総じて幸福”と感じる人が、1970~80年代よりも増えている」という調査結果などが、山口氏の同書では取り上げられています。  

そして、山口氏は「高原社会を受け入れよう」という基本スタンスで、「そこで私たちは何をするか、高原社会をどのように豊かなものにするか」という議論を展開しています。

そこでカギとなる事項として、未来の利得や効用を重視する「インストルメンタル」(「手段的」の意)から、「今、この瞬間」のよろこびを重視する「コンサマトリー」(「翻訳しにくい言葉」とのこと)へ、という思考の転換について述べています(第三章、163~166ページなど)。

坂道をのぼっている途中であれば、さらにのぼった先の「未来」を重視して、「今」を犠牲にする発想にもたしかに意味があるのでしょう。しかし、のぼり切ったあとの高原社会であれば、「今、この瞬間」を大切にすることが優先される――これは重要な問題提起だと、私も思います。

この一連の記事の第7回(前回)で私は、「坂道をのぼっている」のか「坂をのぼり切った」のかによって、とるべき行動や価値観はちがってくるはずだ、ということを述べましたが、この点についての基本的な見方を、山口氏はすでに提起しているのです。

*また、山口氏はつい最近(5月6日)、「技術的イノベーションの停滞」についての記事をnoteに投稿しています。本記事の第2回、第3回とも重なるテーマ・内容。「技術革新の減速」という視点は、やはり重要。


安定平衡期への巨大な転回(社会学者・見田宗介)


さらに、日本における重要な「減速」論者として、社会学者の見田宗介氏(1937~2022)を取りあげたいと思います。日本でも、やはり少数派ではありますが、一定の「減速」論者が存在するということです。

なお、見田氏の論は、さきほど紹介・引用した山口周氏に大きな影響をあたえました。山口氏は、自著の「はじめに」で「“高原”という比喩をはじめ、さまざまな表現や思考の枠組みを見田先生の著書から転用させていただいた」という主旨の断りを入れ、感謝を述べています。

見田氏は、自身の「減速」論を、コンパクトな著作『現代社会はどこに向かうのか――高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)にまとめています。


同書の骨格を述べた序章で、見田氏は「現代はどういう時代か」について、こう述べています。

《われわれは変化の急速な「近代」という爆発期を後に、変化の小さい安定平衡期の時代に向かって、巨大な転回の局面を経験しつつある。この転回の経験が、「現代」という時代の本質である》

『現代社会はどこに向かうのか』10~11ページ

同書では、1970年代以降の世界人口の増加ペースの低下についても触れています。技術革新の減速については、とくに踏み込んでいません。

では、減速の先にあるのは、どのような社会なのか? 見田氏はそれを「安定平衡の高原」と表現しています。つまり、それは《近代に至る文明の成果の高みを保持したままで、高度に産業化され……これ以上の物質的な「成長」を不要なものとして完了》した社会であり、そのような意味で「安定平衡の高原」であると。そして、現代はこの「高原」に至る転換点である、と述べています。

このような大きな転換点は、見田氏によれば、「軸の時代(枢軸時代)」と一部の歴史家が呼んでいる、紀元前500年頃(その前後数百年)以来のことです。そして、見田氏は、この転換期を「歴史の巨大な曲がり角」「危機の時代」だとしたうえで、《もう一つの巨大な思想とシステムの創造の時代、新しい〈軸の時代〉に転化することをとおして、のりこえてゆかねばならない》と主張しています。

そして、見田氏は、そのような「創造」のためには、これまでの時代を支配してきた価値基準を転回させることが必要であると説き、新時代のあるべき価値観について述べています。たとえば、《経済競争の脅迫から解放された人間は、アートと文学と学術の限りなく自由な展開を楽しむだろう》といったポジティブな未来像を語っているのです。

また、見田氏は「インストルメンタル」(手段的)とその対義語である、今の喜びを重視する「コンサマトリー」の概念についても、最後の章で述べています。その議論で、これからの世界においては、「ポジティブ(肯定的)」「ディバース(多様性)」「コンサマトリー」という3つの公準(基本原則)が重要である、と説いています。

このような未来像については、いろいろと議論すべき点があるはずです。つまり、「未来はほんとうに安定しているのか?そんなにも豊かで明るいのか?」ということですが、それはこれからこの一連の記事を通じて考えていきます。

また、現代を「枢軸時代以来の曲がり角」とする見方についても、検討の余地があると私は思います。現代が「世界史上の大きな転換点」であるのはその通りとしても、その世界史における位置づけについては、私なりの考えがあるのです。

それは、「今起こっている“減速”について、空前の(あるいは枢軸時代以来の何千年ぶりの)出来事だとみるのは、正しいのか?」ということです。そして、「現在の“加速から減速への転換”と比較し得る類似のケースは、世界史においてほかにもあったので、そのような過去をもっと参照すべきである」ということですが、それは、また今後述べていきます。


「定常化社会」への移行期(公共政策学・広井良典)


このほか、日本の「減速」論者としては、公共政策や科学哲学を専門とする広井良典氏があげられます。

広井氏は、すでに2001年の著書で、経済成長の先にある「定常型社会(ゼロ成長社会)」という概念を提唱しています。

広井氏のいう「定常型社会」とは、《物質的な富の総量が一定》であり、《「(経済)成長」ということを絶対的な目標としなくても十分に豊かさが実現されていく社会》のことです。そして、《これからの日本社会の本質は、まずもってこの定常型社会ということに集約される》と述べています。

その見方の基本には、現代の日本では少子高齢化や環境問題の深刻化によって、《経済成長の源泉である需要そのものが成熟ないし飽和状態に達しつつある》という認識があります(『定常型社会 新しい「豊かさ」の構想』岩波新書、2001年、ⅰ~ⅲページ)。

広井氏も、現代の世界について《“成長・拡大から成熟・定常化”への大きな移行期である》としています。そして、資本主義という近代のシステムとは異質の原理や価値を内包する《「ポスト資本主義社会」と呼ぶべき社会の構想が、新たな科学や価値のありようと一体のものとして、……今求められている》と説くのです(『ポスト資本主義 科学・人間・社会の未来』岩波新書、2015年、ⅳ~ⅴページ)。

見田氏と広井氏のあいだの影響関係は、私にはよくわかりません。とにかく、「現代はどういう時代か」「未来に向けての課題は何か」についての両者の考えは、出発点のレベルでは、ほぼ一致しています。

そして、山口氏の著書は、以上の見田氏や広井氏などの先人の見解をふまえ、さまざまな独自の内容を加えつつ、多忙なビジネスマンにも届きやすいかたちで現代的に展開したもの、といえるでしょう。山口氏は著書のなかで、見田氏や広井氏を含む多くの知識人の言説を引用しています。また、私もここで「先人の成果をふまえた、幅広い読者のための論説」をめざしています。

なお、ここでは、以上の日本の「減速」論者たちがおもなテーマとした「減速の先の社会のあり方」「その社会で何をすべきか」については、少しだけ触れましたが、これ以上はとりあえず立ち入りません。まずは現代の世界における減速という状況を理解するための議論をすすめます。その状況をきちんと知ること自体が、かなりの大仕事です。


「減速」論についての見方が変わってきた? 自身のブログでの発信における経験


さて、前に「最近の私は、“世界の減速についての、人びとの見方・世論の潮目が変わりつつある”と思うようになった」と述べました。それは、第1回から述べてきた複数の内外の「減速」論者たちの登場や、その議論をみたうえでのことです。

それだけではありません。こうした「潮目の変化」を、私は自身のブログでの発信を通じても感じてきました。この10年ほどで、私の発信する「減速」論への反響が、いくらかは大きくなっているのです。

私は、2013年に自分のブログ(『団地の書斎から』)で、「社会の変化はゆっくりになっている?」というタイトルの一連の記事(計9回)をアップしています。その記事で、「世界・社会の減速」について、「技術革新のペースダウン」を軸に、ここまでで述べたのと同旨のことを、ごく簡単にですが論じています。ただし、当時の私は、これまでに引用した「減速」論者の多くを、まだ知りませんでした(当時すでに出版されていたコーエンの著書については、記事のなかで引用しています)。

この記事は、当時の自分としては「新しい、意義のあること」を述べたつもりでした。しかし、おそらくは説明が不十分であるほか、私のブログがあまりにも閑散だったこともあり、ごく限られた好意的なコメントを除いて反響のないまま、記事は埋もれていきました。

だがしかし、2022年5月に、後に始めた別のブログで、「社会の減速」について触れた記事を再びアップしたときには、ある程度の手ごたえがありました。

その記事は、当時公開の映画『シン・ウルトラマン』についての批評です。ただし、映画については前半だけで、後半は「社会の減速」について述べています。

そこでは、「ウルトラマンのような半世紀以上前のコンテンツの基本設計が今も通用するのは、この数十年の社会の変化がゆっくりだったからではないか?」という問題提起をしています。

技術革新や経済のような、ハードで大きな事項だけでなく、サブカルチャーのような親しみやすく細かな部分にも、世界・社会の「減速」はあらわれています。そして、「そのような“細部”への着目も重要」だと、私は考えます。

この『シン・ウルトラマン』の記事に対しては、私のブログとしては珍しく、1日あたり千単位のアクセスが短期間ですがありました。頂いたコメントの多くは、映画ではなく社会の減速についてのものでした。

そのアクセス数じたいは、まったくたいしたものではないのでしょう。しかし、私のブログとしては通常よりも一桁かそれ以上に多いものです。この異常値は、「社会の変化がゆっくりなっている」ことをばくぜんとでも感じている人が、たしかにある程度は存在し、その数が以前と比べて増えてきたことを示すのではないでしょうか?


私のブログ記事「社会の変化はゆっくりに…」


以下は、その2022年の私のブログ記事(後半部分)からの引用です。

《それにしても、〔ウルトラマンのような〕50数年前の人気コンテンツの基本設計が、いまだに通用するのです。
「世の中の変化はどんどん早くなっている」とよくいわれますが、「じつはゆっくりになっているのでは?」と思います。
 ウルトラマンも仮面ライダーもガンダムも、同じ基本設計の作品を今も子どもや若者がみている。どれも最初のシリーズは、私のようなジジイ〔1965年生まれ〕が子どものときにつくられた作品です。親子で同じ作品を楽しむこともある。
 このようなことは、私が子どもの頃(高度成長期の、世の中の変化が本当に速かった時代)には考えられませんでした。私が子どもの頃(70年代)、私の親が子どもだった昭和戦前期や終戦後間もない頃のキャラ(たとえば「のらくろ」)に子どもが関心を持つことは、まずありませんでした。まったくないわけではないけど、例外的なことでした。当時「のらくろ」のテレビアニメもつくられましたが、子どもたちの話題の中心になることはなかった。
 戦時中の「のらくろ」の時代と私の子ども時代とは、あまりにも世界がちがっていたのです。でも現代〔2020年代初頭〕と40~50年前のあいだでは、多くのことが共通している。この数十年の社会の変化が比較的ゆっくりだったからです。(以下略)》

「シン・ウルトラマンをみた・社会の変化はゆっくりになっている」
『そういちコラム』2022年5月18日投稿
改行・行間を変更し、〔〕による補足を加えた

なお、「ウルトラマンや仮面ライダーのような数十年前からのコンテンツが今も子どもや若者にも人気がある」ということは、2013年のブログ記事でも述べています。しかし、同じことを述べても、2022年のときのほうが、はるかに反響があったわけです。

そこで私は、上記の『シン・ウルトラマン』についての記事からまもなく、「技術革新の減速」を主題とした記事をブログにアップしました。この一連の記事の第2回・第3回のごく簡単な原型にといえる、コーエンやゴードンを引用した記事です(「〈技術革新がペースダウンしている〉という説」『そういちコラム』2022年5月20日投稿)。

そして、この記事に対しても、『シン・ウルトラマン』についての記事ほどではありませんが、かなりのアクセスやコメントがありました。


「減速をどう考えるか」についての「世論調査」


以上述べてきたように、近年は国内外で何人もの「減速」論者が登場しています。そして、私自身のブログでも「減速」論に対し、一定の反響があったということです。

しかし、「“社会の変化がゆっくりになっている”という主張が世間で受けいれられている」という手ごたえは、現在も私にはありません。私のブログ記事における社会の「減速」論に対しても、批判的あるいは懐疑的なコメントのほうが、賛同や中立のコメントを大きく上回りました。

その批判の論調・根拠は、これまで私が友人・知人に自説を話して否定的だったときと基本的には変わりません。「革新の領域が、ITなどの新たな領域に移っただけ」「今もいろんな新しいことは起きている」ということです。「中高年の著者が、新しい技術や変化を理解できないだけ」とする主旨のコメントもありました。

一方、少数派ですが、賛同のコメントもたしかにありました。なかには、自分のSNSアカウントで私の記事を引用しつつ、「変化がゆっくりになっているどころか、この50年くらい何も変わっていない」と述べる人もいました。なお、私は、「何も変わっていない」というよりも、「変化がゆっくりになっている」というほうが正確だと思っています。

私の記事に対するこれらの反響は、おもにブックマークコメントの短いものであり、2つの記事を合わせて「何十」という数に過ぎません。しかし、「“社会の減速”をどう考えるか」についての、一定の「世論調査」にはなっているでしょう。

その「調査結果」をみるかぎり、減速を主張する立場は、まだ多数派や主流にはなっていないようです。ただし、その問題提起はある程度の関心を呼ぶようになってきたのではないか、ということです。


「文化」においても減速が起こっているのでは?


以上の私のブログ記事(『シン・ウルトラマン』の批評)は、「サブ・カルチャーの減速」について述べたものです。そのような事柄においても、減速が起こっているわけです。つまり、減速は、技術革新、経済成長、人口といった“ハードで大きなテーマ”といえる、社会の基礎的な“層”にかぎった話ではないということです。

社会を構成する「“基礎的な層”以外」というと、まず、「文化」があるでしょう。それは、社会や文明全体のなかの「上澄み」「上層」、あるいは社会を彩る「華」といえる事項です。

たとえば、美術、音楽、文学、ファッション、映像作品はこれにあたります。これらの領域でも、1900年代末以降、減速が明確になっていると、私は考えます。変化のあり方が、技術の世界と同様に「根本的な革新」から「きめ細かい改良」へとシフトしているのです。

別の言い方をすれば、それは、文化において「本当の意味で新しいもの・画期的なものが生まれにくくなっている」ということです。そうなると、「過去の作品が古びない・色あせない」傾向が強くなります。「今の子どもがウルトラマンに夢中になる」といったことは、その細かな一例です。

たとえば、今の中高年(50代~70歳くらい)の音楽好きの人のなかには、「今は自分の若い頃とちがって、何十年も前の古い音楽を好きだという若い人が結構いて、語り合うことができる」と感じている人がいるはずです。

現在において、音楽に限らずさまざまなジャンルで「昔の○○が好き」という若い人が増えているのは、ご承知のとおりです。私が先日(数カ月前)に出会った20代の青年は、自分のパソコンに大好きだという若きデヴィッド・ボウイ、バンドKISS、手塚治虫の「ブラック・ジャック」のステッカーを貼っていました。知人の子ども(小学生)が、近頃はネット上のザ・ドリフターズの動画にハマっているという話も、聞いたことがあります。

1960~70年代の、つぎつぎと新しい画期的なものが生まれた時代には、子どもや若者が何十年も前の音楽やファッション、コンテンツに興味を持つというのは、普通は考えにくいことでした。1970年代に子どもだった私には、個人的にもそのような記憶・感覚があります。しかし、今の時代はちがうわけです。


社会の減速で、新旧の世代が似通ってきた


では、社会の何が変わったのか? やはり、根底には「“変化の速度”の変化」、つまり「社会の変化が昔よりもゆっくりになった」ということがあるのではないでしょうか。つまり、社会環境や日常生活、娯楽・コンテンツなどにおいて、今の中高年の若い頃と現代のあいだの違いは、それほどは大きくない、ということです。

そこで、現代においては、異なる世代間であっても経験・情報の共通性が大きく、旧世代と新世代の感性や価値観が似通ってきた(世代間の違いが小さくなってきた)のです。その結果、中高年と若者が同じ音楽を聴いて「いいね」と語りあえることが増えたのではないでしょうか。

これに対し、「中高年と若者が同じ音楽を聴くのは、インターネットを通じ、さまざまな時代の音楽に若い世代が容易にアクセスできるようになったから」と考える人もいるはずです。

たしかに、インターネットは影響をあたえているでしょう。しかし、若者がインターネットで触れた過去の作品に共感するには、今の若者の感覚に旧世代の若い頃と似た部分がかなりあることが必要でしょう。

また、これから述べるように、「過去の作品が古びない」「旧世代と新世代の差異の縮小」ということは、音楽以外の文化でもみられます。たとえば、ファッションはそうです。しかし、この分野では、データのやり取りだけでは商品を体験できない(服はダウンロードできない)ので、インターネットの影響力は相当あるとしても、音楽ほど大きくはありません。

また、生活や消費、家族関係、働き方の意識などでも、この20~30年の意識調査を分析した研究によれば、近年は「世代間の差が小さくなっている」といいます。この研究については、このあと紹介します。

「若者と中高年の感覚が似通ってきている」というと、若い世代にも中高年にも、「あいつら(年寄りor若い連中)と一緒にするな」と、不愉快に思う人がいるかもしれません。ただ、これはあくまで「数十年以上前とくらべて」ということです。

現在も新旧の世代のあいだにさまざまなちがいがあるのは、たしかです。ただし、そのちがいは以前よりも縮小しており、そのことについて一定の調査による裏付けもあるということです。

 

社会が減速したことで、世代間の違いが縮小


これまで、経済発展、技術革新、人口といったいくつかの領域における減速についてみてきましたが、社会の減速は、「世代間の違いの縮小」という視点からも論じることができるのではないでしょうか。

現代においては、若者と中高年のあいだの違いが小さくなり、両者が交わる部分が大きくなっていると、私はみています。

そして、このような「世代間の違いの縮小」は、人間の価値観・感覚の変化がゆっくりになった結果ではないでしょうか。つまり、「人間の変化の減速」が起こっているということです。

「社会を構成するさまざまな要素の減速は、その社会で生きる人間の変化の減速をもたらす」と、私は考えます。人間は、社会によってつくられるのです。どのように暮らし、どんな情報や娯楽に触れるかで、人間は出来ています。

技術や経済、文化の変化が緩やかな、社会がそれほど変化しない状況では、そこで生きる人間も、それほどは変化しないはずです。つまり、新旧の世代間で経験の共通項が増え、両者が似通ってくるのです。近年は音楽などのエンタメに関し、若者と中高年のあいだで関心や嗜好が交わるケースが増えた、ということは前に述べました。

ほかにもたとえば、50年前の日本では若者限定だった服装(ジーンズにスニーカーのような)が、近年は中高年や高齢者のあいだでも普及している、といったことがあります。

また、これから紹介する調査研究が示すように、やはり40~50年前には、ハンバーグは「子どもや若者向けの食べもの」という傾向が強く、多くの中高年はあまり好まなかったのですが、今は中高年もごく普通に食べています。

この数十年で、新旧の世代のあいだの服装や食べものの感覚・嗜好の違いは、たしかに小さくなっているのではないでしょうか。ほかにもこの手の身近な例はいくつもあるでしょう。

 「世代・年齢による違いの縮小」については、先ほど取り上げた社会学者・見田氏宗介氏が、すでに言及しています。

見田氏は、自著において《七〇年代以降の生まれの世代の間で感覚の差異がなくなってきている》と、NHK放送文化研究所による「日本人の意識調査」の分析に基づいて述べています(前掲『現代社会はどこに向かうのか』3~5ページ)。なお、上記の意識調査は、1973年以降5年ごとに実施されているものです。

ただし、この「世代間の違いの縮小」については、最近は博報堂生活総合研究所による、さらにまとまった研究が出ています。

同研究所による書籍『消齢化社会 年齢による違いが消えていく!生き方、社会、ビジネスの未来予測』(インターナショナル新書、2023年)の内容をみていきましょう。

 

博報堂生活総合研究所の「消齢化」論


「消齢化社会」とは、同研究所による造語で、《生活者の意識や好み、価値観などについて、年齢による違いが小さくなる現象「消齢化」が進んでいる社会》のことです。現在の日本は、それにあたるというわけです。

そして同書では、1992年以来続く、同研究所による多数の項目についての意識調査(「生活定点」調査)を分析し、「この20年または30年で、年代に基づく価値観や意識の違いが小さくなっている項目が多くを占める」ことを論じています。

たとえば、「ハンバーグが好き」という人の割合は、2002年には、20代では59.8%であるのに対し、60代では19.2%でした。しかし、2022年には「ハンバーグが好き」の割合は、20代68.9%、60代49.5%で、若者と中高年のあいだの差が明らかに小さくなっています。

そして同書では、以上の「ハンバーグ」のような「食」関連のほかに、さまざまな分野にかかわる項目をとりあげています。つまり、「夫婦はどんなことがあっても離婚しないほうがよい(“家族観”関連)」「木の床が好き(住)」「世界にひとつしかない自分の服や小物をつくりたい(衣)」「車にお金をかけたい(消費意識)」「男性でも育休を取るべき(働き方)」などですが、これらのどの項目でも、「消齢化」の傾向がはっきりみられるのです。

つまり、以上の項目の多数派では、「イエス」の回答は若い世代に多く、中高年では比較的少ないのですが(「離婚」など逆のものもある)、いずれにしても若い世代と中高年のあいだの差が近年は小さくなっているということです。

「生活定点調査」において、この20年または30年のあいだに「年齢による違いが10ポイント以上小さくなっている」項目は、20年で172項目、30年で70項目あります。これは、「違いが10ポイント以上大きくなっている」項目(20年で27項目、30年で7項目)を大きく上回ります。

そして、同書ではこのような「消齢化」の背景として、「元気なシニアが増えた」「年齢を気にしない人が増えた」「インターネットの普及」「日本経済の低成長が長く続いている」といったことを視点としてまず取り上げ、そこから分析をすすめています。さらに、「消齢化はこれからも続く」という見通しに立って、未来の社会やビジネスを論じています。

 

広い世代が「同じような時代」を生きてきた(社会学者・吉川徹)


これらのマーケティングにも関わる各論的な話は、たしかに興味深いです。しかし、私の(この小論の)おもな関心は「なぜ消齢化が起こっているのか」についての根本のところにあります。

そのような「根本」については、同研究所自身による記述ではなく、複数の識者へのインタビューをまとめた同書の第4章(有識者と考える「消齢化社会」)で、社会学者の吉川徹氏が触れています。吉川氏は、「広い世代が同じような時代を生きてきたことが、“消齢化”につながっている」と述べているのです。

 《生活総研が消齢化として議論しているのは、主に今の20代から50代までの世代の価値観が重なり合いつつある現象です。この広い世代が「大体同じような時代」を生きてきたことが、価値観が重なりあってきた理由です。学歴を例に取ると、今の18歳の大学進学率と、彼らの親世代である40~50代の大学進学率はほぼ同等です》

博報堂生活総合研究書所『消齢化社会』138ページ

 この吉川氏の発言の部分には、《消齢化を生み出したのは「変化のない社会」》という見出しがついています。こうした見方は、「社会の減速によって、世代・年齢による差が小さくなった」という、私の考えとまさに重なります。

また、吉川氏は「消齢化は、日本だけに限らない、欧米と共通の現象である」とも指摘しています。つまり、「世代によって価値観に差がある」という議論の枠組みは、産業化・近代化を前提としたものだったが、《先行して産業化・近代化したヨーロッパ、アメリカ、そして日本では、社会学的にはそれ自体が終わりつつある》と述べています。

「産業化・近代化が終わりつつある」とは、社会の急激な発展・変化の終焉、つまり減速のことだと言っていいでしょう。そして、激しい変化が終わった「変化のない社会」で、人間もあまり変わらなくなったということです。

(第9回へ続く)
次回は、文化の減速についてより具体的に述べます。文化の減速の事例としてファッションをとりあげ、1970年代以降、ファッションの変化がそれ以前の数十年間にくらべ減速し、新しいものが生まれにくくなっていることを論じます。


いいなと思ったら応援しよう!