ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈1.壊れた日の出会い〉
あらすじ
「あなたは子供を宿すことができない。だから恋をしてはいけません」
十二歳の彗は、母親に恋愛を禁じられた。彗は、女性でありながらY染色体を持つという秘密を抱えたまま育った。大学院で、自分を運命づけた「SRY遺伝子」の研究に打ち込む彗は、ミュージカル俳優の創に出会い、初めての恋に落ちる。しかし創は、異父妹の星南を想っていると明かす。やがて脳腫瘍が、星南のいのちを奪う。彗は、生きる気力を失った創と共同生活を始めることに。親友からの告白と、母親との衝突が彗を揺さぶる。「ぼく」と自分を呼ぶ女性は、恋をして生まれなおす。愛しいひとと偽りなく向き合うため、世界に自分を開いていく。ある女性の愛を描く、長編恋愛小説。
一、壊れた日の出会い
一条彗は、スカートを履かない。十二歳の五月、診断を受けたあの日から。白い診察室を思い出す。よく晴れた気持ちのいい午後だった。隣に座った母親が着ていた、やわらかな濃紺のワンピースがふわりと揺れ、石鹸のいい匂いがした。医師が診断名を告げた瞬間、母親は彗の手を握りしめた。整えられたつややかな爪が、震えと共に、彗の掌に食い込んだ。
『男の子に選ばれてはいけません』
『ひとを好きになってはいけません』
『あなたをあの人のようにはさせないわ』
だれかの陰口をそっとこぼすように、母親は毎日、彗に耳打ちをした。スカートを履かないこと。髪を伸ばさないこと。化粧をしないこと。そして、恋愛をしないこと。母親との約束は、彗の心の奥で光を待っていたちいさな性の芽を、ことごとく摘みとってきた。大人になってからも、絶え間なくずっと。
わからない。「あの人」とは、誰を意味するのだろう。
彗のお気に入りだった赤いチェックのフレアスカートは、病院に行った次の日の朝、切り刻まれ、ごみ箱に捨てられていた。
◇
「一条さん」
彗は三度瞬きをした。記憶の海から浮上する。
「僕と付き合ってください」
プードルを思わせる、もしゃもしゃとした黒髪の男の子の瞳が、潤んでいた。彗はそっと息を吐くと、男の子を傷つけないための言葉を探した。
「ぼくには事情があって、恋愛ができません。だれとも。もちろんきみとも」
初めて自分のことを「ぼく」と呼んだ日に、母親が見せた安堵の表情が、今でも彗の脳裏にこびりついている。もう大人なんだと自分に言い聞かせるように、鼻腔を広げて深く息を吸い込む。理学部C棟の機械部屋は、いつも埃の古い匂いがする。パイプ椅子を軋ませて立ち上がり、彗は、灰色や黒の実験機器が眠る部屋を出ようとした。
「待ってください。せめて、僕の気持ちを聞いてください」
縋るように言われたので、彗は仕方なく振り返ることにした。この子は理学部の一年だという。現役であれば、博士課程一年の彗の六歳下だ。まだ二十歳にもならない。なんて若い男の子だろう。
「実習で、染色体の観察を教えてくれましたよね。ほら、タマネギの根の。その時に好きになりました。知的で、きれいで、大人の女性。僕、一条さんの全部が好きなんです」
彗は、額の真ん中で分けた、さらりとした短い黒髪をかき上げた。息を吸いこむ。男の子から告白されたのは、今回だけではない。告白されたとき、いつも彗は同じ質問をすることにしている。
「ところで、きみの性染色体は何型だと思う?」
「XY型でしょうけど? 僕、男ですよ?」
何も知らない瞳に苛立って、視線をぶつけた。自分の性に疑問を持たずに生きていられることが羨ましくて、奥歯を食いしばる。
「そうか。きみにも、SRYがあるんだね」
「エス・アール・ワイ? 何のことですか?」
「受験勉強で出てこなかった?」
彗は、思わずため息をつきそうになった。
「とにかく、ぼくと付き合うのはやめておいた方がいい。きみにふさわしい女の子が、きっとすぐに見つかるよ」
彗はスチールの重い扉を押し開けて、灰色と黒の部屋を後にした。悪いが、今は愛の告白どころではない。インディゴのデニムのポケットからスマートフォンを取り出し、電話をかける。三回目のコール音の直後、低く落ち着いた声が鼓膜を揺らした。
『どうした? 彗』
「博人。学振、また一次で落ちた」
電話の向こうで、文学部考古学研究室の前田博人が静かに息を吸った。
『彗。少し話そう。今から発掘現場を見においで』
十月第一週の金曜日。木々の葉の緑が、赤や黄色に変わり始めた。並木道を吹き抜ける風を肺の中に導き入れ、そのまま大声で叫び出しそうになる。日本学術振興会特別研究員、通称、学振。受かれば、生活費と研究費が支給されるだけでなく、研究者としてポストを争う時にも有利だ。
落ちた。それもまた一次選考で。必死に積み重ねてきた研究が、彗という人間ごと、土台から全て否定されたようにすら思える。指先から熱が逃げていく。
「研究を剥奪されたら、ぼくには何も残らないのに」
彗が呟いた言葉を、秋風が攫った。
発掘現場は、意外にも彗が暮らす理学部からほど近い、研究農場の一角にあった。博人によると、大学構内には縄文時代の遺跡が多く眠っているという。農場に新たな研究施設が建設される案があり、工事の前にまず遺跡の調査が始まったそうだ。右手に持ったビニール袋の中で、差し入れの飴玉がしゃらしゃらと鳴る。
表面の土が掘り起こされ、黒い土がむき出しになった区画に目を遣る。黄色いアウトドアパーカーを羽織った、背の高い姿を見つけた。博人だ。博人は、小学校のプールくらいの広さの堀の中で、バインダーに綴られた書類に何かを書きこんでいる。堀の中央には、直径十メートルくらいの円形の窪みがあり、ところどころに漬物石のような丸みを帯びた石が、まとまって置いてある。
電話口で彗が尋ねると、博人は静かに答えた。考古学分野で、学振DC2の一次選考を通過していると。堀の中の博人は、秋の陽を浴び、背筋を伸ばして立っている。彗からは、ずいぶん遠い。
「博人! おめでとう!」
彗は、大声を出して思い切り博人に叫んだ。数人の作業員が、ぎょっとして彗を振り返る。気にしないふりをして、堀の土手に座って待つ。隣に、歩いて来た博人が座った。
「彗。大丈夫か?」
「何が?」
「学振のこと。だって彗は普段から、誰よりも努力して研究を——」
「やめてよ、嫉妬しちゃうから」
彗は、ふざけるように笑って、博人の背中を思いきり叩いた。博人が、大袈裟に「いてて」と前のめりになる。博人がポケットから、石のようなものを取り出し、彗に差し出した。白と薄緑色が混ざり合った棗のような形をしたそれは、撫でてみると硬くひんやりとしている。
「翡翠の玉のレプリカだよ。高貴な人物の副葬品なんだ」
「きれいな色だね」
「彗に」
「ぼくに? どうして?」
博人が困ったように目を細めたとき、突如、歌が聞こえた。
反射的に彗は背筋を伸ばした。翡翠の玉を落としそうになって、慌てて握ってそのままポケットに入れる。彗が一番好きな歌だ。男声の高音がどこまでも伸びていく。囁くように撫でたり、天空のドームを刺すように突き抜けたり。
彗は、立ち上がって声の主を探した。堀の対岸に、ライトグレーの作業着の背中を見つけた。頭に巻いたタオルから覗いた、白に近い金髪が、太陽光を浴びて眩しく光っている。
時が止まった。彗は、歌う背中から目を逸らせなくなった。大好きなミュージカル曲だ。「異常」という烙印を押された者たちが、それでも自分自身として生きるための、覚悟の歌。彗の脚が、次いで腕と指先が震える。
「彗? どうした? 大丈夫か?」
「大丈夫。なんでもない」
彗は動揺した。心が暴れている。初めての感情だ。体から何本もの手足が生えて、それぞれが勝手に動き、踊りだしたような。扱い方がわからない。立ち上がった博人は、少し前かがみになって、彗と目線を合わせると、静かに彗の肩を叩いた。
「彗はよく、『なんでもない』って言うけどさ。何か伝えたいことがあるなら、言葉にして言わなくちゃ」
彗は、小さな子供のように博人に頷いて、胸に手を当てた。指が、はっきりと心臓の鼓動に触れる。
「あの人は?」
彗は、よろけながら博人の袖を掴んだ。彗の視線を追った博人が、少しだけ寂しそうな顔をする。
「高校の時の友達。呼ぼうか?」
彗は、博人を見ずに頷いた。きらきらと輝くような歌声の主から目を離したくなかった。
「創!」
歌声が止み、創と呼ばれた人物が、くるりと振り返る。立ち上がると、彗と同じくらいの背丈だ。創は、博人に手招きをされると、首に巻いたタオルで汗をぬぐい、歩いてくる。彗の目の前に、創が立った。
博人の日焼けした肌とは違う。白く、透きとおった肌だ。金色の髪が、秋風に揺れている。奥二重の瞼の下の黒い瞳は、どこか慎重そうで、不思議な余韻を感じさせる。唇は花びらのようにほのかに紅い。作業着から、衣類用洗剤の清潔な香りがふわりと立つ。その瞬間にはもう、彗は引き返せない場所まで飛ばされていた。
「彗。俺の親友」
博人が初めて彗を「親友」と紹介した。創が、博人に促されて、彗を見る。彗と創の目が合った。彗の脳が、炭酸水のようにしゅわしゅわと泡になって溶けていく。
「長谷川創っていいます」
「ぼくは、一条彗です。彗は、彗星の彗」
唇が震えて顔が引きつった。「ぼく」という一人称が、むず痒い。創は、少し首を傾げると、納得したように小さく頷き、太陽のように笑って彗に手を伸ばした。彗に会えたことが、とんでもなく嬉しいというように。
彗は、創の手を取った。触れれば水も凍りつきそうだった彗の指先が、創に温められていく。創が手を離す前にと、彗は焦った。
「さっききみが歌ってたあの歌、世界で一番好きな歌なんだ」
「彗さん、ミュージカル好きなの?」
創はいきなり彗を名前で呼んだ。不思議なことに彗は、嫌な気分にはならなかった。
「うん。あのミュージカル映画、狂ったように何回も観た」
「僕もだよ! って、まだ言ってなかったね。僕、劇団北極星でミュージカル俳優やってます。俳優業だけでは食っていけなくて、時々バイトでここに来てるんだけどね。博人のつてで」
創は、鈴が転がるような、軽やかな声で笑った。彗の瞳孔が開き、全身の肌が粟立つ。気づかれていないことを祈りながら、彗は手を解いた。創の手の温度が、彗の手に刻印される。
理由はなかった。敢えて言うのなら、創が放つ底なしの光が理由だった。彗は、ものすごい引力で、創に惹かれていく。彗の人生の舞台に創が登場したこの一瞬の間に、それまでの時間はすっかり色褪せていた。
『あなたがありのままで愛されることは決してないのよ。夢を見てはいけない。体のことは、生涯嘘をついて生きていきなさい』
あの日、母親から言われた言葉が、甘く酔いかけていた彗の頭を殴る。そうだ、ひとを好きになってはいけないのだった。何度も何度も母親から教えられてきたではないか。本当のことを知られれば、彗は好奇の目で見られ、好いてくれていたはずのひとは、いとも簡単に彗の元から去るのだと。
けれど、母親の言葉を思い出してもなお、彗の血は沸いている。彗の体を形作る全ての細胞が、長い眠りから覚めたのだ。十二歳のあの日から十三年を経て、彗は初めて恋をした。長谷川創という人間に恋をした。この恋は、彗の人生において、間違いなく最大のバグだ。
ちいさな芽に、光が当たった。彗は、光を求めてしまった。
愛されたい。
愛されたい。愛されたい。
愛されたい。愛されたい。愛されたい。
ありのままの自分をさらけ出して、このひとに愛されたい。
——ああ。ぼくに、誰にも言えない秘密さえなければ。
☆全話を収録したマガジンは下記となります☆
☆各話個別のリンクは下記となります☆
ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋〈2.クリティカのセルロティ〉|樹立夏
ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋〈4.創についての観察記録〉|樹立夏
ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋〈7.ブーゲンビリア〉|樹立夏
ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋〈10.好きなひとが好きなひと〉|樹立夏
ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋〈12.家族が欲しい〉|樹立夏
ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋〈14.幕が上がる〉|樹立夏
ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋〈15.ポラリスの王国〉|樹立夏
ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋〈16.カーテンコール〉|樹立夏
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