ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈25.黎明〉
二十五、黎明
『星南が』
深夜一時だった。創から電話が来た時、彗の心は乱れた。
「ご家族は? ぼくが行ってもいいの?」
『親は、来ない』
創の声が震えた。
「いま行く」
彗は迷わなかった。すぐに着替えて、家を出る。白いウールのマフラーに、吐いた息が凍り付く。厳冬。二月の夜。まどろっこしくて、彗は駆けた。星南は、もう話すこともできないという。
走って滑って、横断歩道で転ぶ。雪と砂利が口に入ったが、吐き出し、立ち上がってまた走る。星南の孤独。運命への怒り。生への叫び。彗にそれをぶつけてきたこと。彗は傷ついた。しかし時間が経つと、不思議なことに彗の考えは変わった。
あんなに本気で、敵意を隠すこともなく、感情を剥き出しにして彗と接してくれたひとは、星南が初めてだった。孤独の殻に閉じこもっていた彗に、本気の一撃を喰らわせ、彗の感情を引きずり出したのは。
「星南ちゃん」
深夜一時半、大学病院に辿り着く。夜間救急口を通過し、そのまま階段を駆け上がる。五階まで、止まらずに走る。ナースステーションに会釈をすると、夜勤の看護師たちが瞬時に状況を察し、頷いた。廊下の突き当たりから二つ目の個室。中から声が聞こえる。歌っている。
「創」
息を切らせて、彗は、好きなひとを見た。彗が愛する創は、星南の手を取って歌っていた。
——アメイジンググレイス。
「星南ちゃんは?」
「三時間前から昏睡してる。もう、目を覚まさないかもしれない」
ベッドに横たわる星南を見る。体中に繋がった計測機器。酸素マスク。胸が上下するリズムは、一定ではないように思える。
「お兄さんのご友人の、一条さんですか」
背後から聞き覚えのある声がした。河野医師だ。前回会ったのは、創の舞台を観に行く準備をしていた時だった。
「会いに来てくれたんだね」
彗は、静かに頷いた。
「あの日のことは聞きました。星南さんね、あなたを傷つけてしまったって、悩んでいたんですよ。あなたに、本気で謝りたいって」
「そんな……」
血の気が引いた。絶句する彗の横で、創がぎゅっと目を瞑る。
「お話ししてあげてください。反応が目に見えなくても、星南さんには聞こえてますから」
彗の胸を、後悔が飲み込んでいく。一緒に舞台を観に行った星南。天使のようだった星南。豹変したことは、星南なりの生への強い思いの表れだったのかもしれない。
——それなのに、ぼくは星南ちゃんから逃げた。地獄を生きる星南ちゃんの叫びに耐えられなかった。
創が再び、掠れた声でアメイジンググレイスを歌い始めた。神様のもとへと近づく歌を。
「手を触ってあげてください」
河野医師が囁く。彗は、そっと星南の手に触れようとした。彗の人差し指がこわばり、警告を放つ。それでも彗は星南に触れることにした。星南の手は、氷のように冷たい。
「星南ちゃん。ぼくは、あなたに言われたことを今でも許せない。本気で謝られたって、多分許せない。けれど」
彗は言葉を飲み込んで、しばらく逡巡し、口を開いた。
「星南ちゃんと一緒にミュージカルを観に行った夜は、本当に楽しかった。おしゃれして、ちょっと背伸びした星南ちゃんは、とっても可愛かった」
創を見た。真っ暗な闇を纏っている。今の創は、彗と同じ時空間にはいない。
「ぼくに妹がいたらこんな感じなのかなって、ぼくは今もうれしいんだ」
だんだんと視界が滲んでくる。
「ぼくにひどいことを言った日。後で気づいたんだ。誰かに本気で敵意を剥き出しにされたのは、あれが初めてだった。ぼくに本気でぶつかってきた星南ちゃんは——」
それ以上は言葉にならなかった。彗は、創の背をそっとさすりながら、声にならない声で泣いた。
星南が旅立ったのは、夜が明けるほんの少し前だった。創は、冷たく固まっていく星南の手を取った。
「王女様。夜明けにございます」
「ポラリスの王国」の台詞を呟いた創は、なぜかほんの少しだけ、安心しているように見えた。星南が苦しみから解放されたことを、創なりの方法で祝福しているようだった。
窓の外で、夜が白く消え去っていく。今日は、バレンタインデーだ。
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