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ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈32.歌えない〉

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三十二、歌えない

「劇団に戻ろうと思う。ずいぶん休職しちゃったから、戻りづらいんだけど」

四月半ば。創が彗の家へ来てから、一か月が経っている。土曜日の朝、部屋の掃除をしながら、創がなんでもないように彗に告げた。

「もう、大丈夫?」
「たぶんね。大丈夫だと思う」

創は、星南が死んだ翌日に、劇団に退職を願い出ていた。仕事をやめて、後を追う準備をしようとしていたらしい。創は坂口医師の助言で、休職願への差し替えを申し出た。劇団は、突然の退職願を受理しないまま、待っていてくれた。

「久しぶりに歌うから、緊張するな」

創は、ベッドカバーを外して洗濯機に入れながら、小さく鼻歌を歌った。かすかで規則的な空気の振動が、彗を泣かせそうになる。彗は、青いカーテンの奥の、開け放った窓から入って来る空気を吸い込んだ。残雪の匂いは消えた。生き物の匂いが、大気に満ちている。

月曜日。彗は、朝、創と一緒に家を出た。創が地下鉄駅まで無事歩いて行ったことを確認し、大学へと歩き出す。

「いつまでこのままでいられるのかな」

創が元気を取り戻しつつある。創のこころにやっと太陽が差し始めた。元気になった創は、家へ帰る。彗の部屋から出ていく。とても喜ばしいことなのに。

ピンク色の液体培地の中に泳ぐ細胞を慈しみながら、彗は創との日々を思い出した。ピペットで細胞を吸う。いつものように、ゆっくりと。細胞が培地の中で均一に分散するまで、細胞を吸っては吐く。クリーンベンチのフードに顔が映った。瞳孔が、震えている。

——僕は、星南ちゃんの代わりにはなれない。

一日を終え、マンションに帰ると、部屋には明かりがついていた。ドアの前に立つ。コンソメのいい香りがして、ふっと気持ちがほぐれる。扉の向こうにいるであろう創を思い描くと、創が死のうとしていたことも、真奈美が乗り込んできたことも、何故か全てが大切なことのように思えた。慌てて手の甲で涙を拭う。できるだけ何でもないように。この気持ちを悟られないように。

「創。劇団はどうだった?」
「ああ。僕ね、歌えなくなったんだ」

創はそれだけ言うと、キッチンに向き直ってコンソメスープをかき混ぜ始めた。

「歌えなくなったって……。ブランクがあったから?」
「そういうわけでもないみたい。ただ、何のために、誰のために歌うのか、そこが分からなくなってる」
「誰のためにって……?」

創は、彗を見ずに、換気扇の排気口を見つめたまま、立ちつくしている。

「星南は、僕が歌うと喜んでくれた。僕、星南のためにミュージカルをやってたんだって、やっと気付いたんだ」

彗は、動けなくなった。息が止まる。やはり、星南だ。創が歌う理由は、星南の存在そのものだったのだ。

「心配しないで。次の作品のオーディションには落ちそうだけど、僕の劇団って、俳優業だけやってるわけじゃないんだ。劇団の広報とか、運営とか、俳優以外の仕事もあるから。だから、僕が失職することはたぶんない。仕事が軌道に乗ってきたら、もう彗に迷惑はかけない。家具だって買い直せるだろうし、この部屋を出ていくから」

星南。死んでもなお、創を惹きつけて離さない、北極星ポラリス

「行かないで」
「彗?」
「お願い。この家を出ていくなんて言わないで」
「どうしたの?」
「どうしたのって、そんな態度ある?」

彗は無意識のうちに両手を握りしめていた。

「ぼくがいままで、どんな気持ちで創に向き合ってきたか、わからないの?」
「彗。ちょっとどうかしてるよ。落ち着いて。研究室で嫌なことでもあったの?」
「ちがう。どんな気持ちでぼくが創と接してきたか、わからないのって聞いてるの!」

創は、首を傾げた。金色の髪の根元が伸び、黒くなっていることに気付く。どんな姿の創でも、彗は好きだ。やつれている顔すら、こんなにも愛おしいのに。

「わからない」

創が、混乱した様子で呟いた。ああ、しまった。純粋な創の心に、不法侵入してしまった。自己嫌悪と創への想いが、彗の中で混濁していく。

「わからないよ……。彗にはすごく感謝してる。けどね、彗。気持ちは全部言葉にしなきゃ、わからないよ」
「もういい!」

彗は、玄関にかけたばかりのコートを羽織り、そのまま外へ出た。創と同じ部屋で眠るなんて無理だった。早足でずんずん進む。彗は、大学へと戻った。大学に辿り着くと、時刻は夜十時を回っていた。まだ誰かが研究室にいるかもしれない。それでもいい。詮索されたっていい。とにかく、今夜は。今夜だけは、あの部屋には帰りたくなかった。

実験室に、学生は誰もいなかった。彗は、学生部屋の扉を開けると、電気をつけた。

「ひっ!」

ソファに、クリティカが目を見開いたまま寝そべっていた。クリティカは、ぐるりと目だけを動かして、彗を見つめた。

「怖いよ。ホラー映画に出てきそう」
「もう誰も来ないって思ってた。だから寝てた」
「実験の待ち時間?」
「そう。三十分前にスタートして、四時間待ち」
「クリティカ。なんか、嫌なことでもあった?」

クリティカが、「うーん」と伸びをしながら起き上がった。

「ごめん。彗。今日は、セルロティ、作ってない」

クリティカは、長い髪をざっくりとお団子にまとめた。

「クリティカ。ぼくでよければ聞く」

数十秒の沈黙の後、クリティカは、左の肩をもみ、首をぐるりと一周回した。

「ネパールに、私の恋人がいる」
「恋人?」
「そう。恋人だった・・・ひとが」

クリティカから恋愛話を聞くのは初めてだ。目頭を押さえたクリティカの大きな両目に、涙が溜まっていく。

「私は、日本で学位を取ったら、ネパールに帰って学校の先生をするつもりだった。恋人も教師。結婚して一緒に暮らす約束をしていた」

クリティカの声がくぐもって揺れる。彗は何も言わず、クリティカの言葉を待った。

「だけど、恋人のお父さんが、恋人に新しい見合い相手を探した。私よりも七歳も若い、可愛い女の子。私みたいに勉強ばかりしている女は認めないって。さっき、恋人から別れようって連絡が来た」

クリティカは、両手で顔を包んだ。低い呻き声は、すぐに嗚咽に変わった。

「私、研究を諦めてネパールに帰ればよかったの? 結婚相手に求められるものって、女の価値って何? 私が、もっと若くて、男に従順な女であればよかったの? 家族を増やすことだけが、ひとの価値じゃないでしょう? 私は、勉強がしたかった。学問が好きなの。ただそれだけ。でもどうして? 学問と引き換えに、どうして大切なひとをあきらめなければいけないの?」

いつも気丈に振る舞うクリティカが、小さくなって震えている。彗は、ソファの横に畳んであるブランケットを広げ、クリティカを包んだ。クリティカは、彗に縋るようにして泣いた。彗は、ブランケットの上からクリティカの背をさすった。クリティカは、人生を賭けて日本に来た。どんな言葉も、今のクリティカを救うことはできない。自分の無力さのせいで、彗の奥歯がぎしっと鳴る。

「彗は、幸せになってよね」

ぼつりと呟いたクリティカは、幾分落ち着いているように見えた。

「そっくりそのまま返す。クリティカこそ、幸せになるんだよ」

長い睫毛についた涙を拭って、クリティカがため息を吐く。

「ひとは不完全だよ。こころも、体も、だれかと補い合って初めて満たされる仕組みになっている。自分を補完できる存在を探してしまう。ひとりでも生きていけそうなのに、割り切れないのは、どうしてだろうねえ」

彗は、クリティカの言葉に、静かに頷いた。「次のひとを探せば」なんて、到底言えるはずもない。

「創を好きになった時はね、理由がなかったんだ。ただ、創に会った。それから、好きになった。もう後には退けなくなっていた。それだけだった。創に会うまでの記憶が、全部書き替えられたみたいに」

こんな状況なのに、クリティカは優しく微笑んで、隣に座る彗の膝に手を置く。

「クリティカも、そうだったんでしょう?」
「うん。彼は、私と同い年で、高校の同級生だった。一年の春。理科の時間に、彼に教科書を貸してくれって言われた。その時はもう、彼以外のことは考えられなくなっていた。あーあ。彼が別のひとと家庭を持ったら、もう、私が入る隙間はなくなるんだね」

クリティカの目が赤く腫れあがっている。

「クリティカ。話してくれてありがとう」
「すべてがなくなるわけじゃない。彼のこころには、私がまだ、きっといる。だから彼と私は、記憶の底でつながっている」
「そうだね。クリティカらしい考え方だよ」

ブランケットの中から伸ばしたクリティカの手が、彗の肩を撫でる。

「彗。どんなに苦しい結果になっても、創にはきちんと彗の気持ちを伝えるべきだと思う」

彗は、はっと息を飲んだ。クリティカの大きな二つの瞳が、彗を捉えて離さない。

「伝えないと、彗は前には進めない」
「クリティカ……」
「がんばるんだよ、彗」

彗は、研究室で夜を明かすことをやめた。ひとつは、クリティカをそっとしておくため。もうひとつは、創に謝るため。

夜十一時を回った。誰もいない大学通りを、ひたひたと歩く。空に、月がかかっていた。雲間に見え隠れする乳白色のシルエットが、優しい。マンションの前に着く。部屋の明かりがついていた。玄関を開け、リビングを目指す。

「おかえり。彗」

テーブルの前で体育座りをしている創が振り向く。

——ぼくは、あんなに取り乱して、ひどいことを言ったのに。

「お腹空いたでしょ」

創は立ち上がると、キッチンへと移動し、どんぶりにスープを注ぎ始めた。

「そろそろ帰って来る頃かなって思って、あたためといた」

どんぶりの中には、琥珀色のスープと、荒く切った玉ねぎとニンジン、ジャガイモ、ソーセージが沈んでいた。

「はい。召し上がれ」

スプーンと共にどんぶりを受け取った彗は、立ったままスープを一口すすった。野菜とソーセージの味が、コンソメスープに溶け込んでいる。食道、次いで胃が、じんわりと上から順に温まっていく。

「美味しい」

創が、彗の髪を撫でた。彗の心拍数が跳ね上がる。

「もっとおしゃれに盛り付けようと思ったんだけど、どんぶりしかなくてさ」

創がとてもおかしそうに笑ってみせるので、彗は思わず破顔した。これからの未来に、何が起こるかなんてわからない。わからないから、毎日の小さな一歩をすべて、正解にしていくしかない。

「創。さっきはごめん」
「何が?」

創は、スープをすする彗を、満足げに眺めている。

——いつかぼくのもとを去るきみといる生活に、ぼくはこんなにも救われている。

>>三十三話(最終話)


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