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ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈10.好きなひとが好きなひと〉

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十、好きなひとが好きなひと

温室に入ってきた創は、両手にアイスクリームを掲げていた。彗は、創が右手に持っていた、ぶどう味の紫色のアイスクリームを選んだ。創が隣に腰を下ろす。どうやら創は、フード付きのパーカーが好きなようだ。水色のパーカーの襟元を見つめた。彗は、黒いタートルネックセーターに、いつもの白衣姿だ。

温室で会う日は、交代で互いにアイスクリームを驕り合うことに決めている。温室の一番奥のベンチに二人、並んでアイスクリームを食べる。ベンチに置いた創の右手と、彗の左手の距離は、一向に縮まらない。彗は、それでもいいと気持ちを飲み込んだ。笑顔の仮面を被っても、創のそばにい続けたかった。

「彗。研究って、終わりが来るものなの?」

創が、澄んだ瞳を大きく開いて、彗を見つめた。生まれた時からこの瞳に見つめられていた星南が、羨ましい。

「終わりかあ。一応、論文にまとめて仕事として区切りはつくけど、研究は終わらないね。生命現象を完全に解明することなんて、永遠に不可能だよ」
「かっこいい」

創が笑うと、下まぶたに薄く皺が寄る。形のよいばら色の唇が、左右対称に持ち上がる。舞台に出るために、無意識にいつも表情を管理しているのかもしれない。せめて、二人でいる時は、作為的な表情であってほしくはない。彗は何でもないような顔をしながら、指を強張らせる。

「創は? 舞台のことはぼくには何もわからないけど、大変そうだってことはわかるよ」
「そうだね。楽しいことばっかりじゃない。けど、楽しいことだけの舞台って、きっとものすごくつまらないんだと思う」
「オーディションとか、あるの?」
「うん。何段階かある。最終的には五人くらいに絞られる。『ポラリスの王国』の時も、五人だった」
「最終オーディションでは、何をするの?」
「作品にもよるけど、演技、歌唱、ダンスの審査がメインかな。今回は殺陣の審査もあったよ」

楽しそうに語る創の横顔を、いつまでも眺めていたかった。ミュージカルの話をする時、創の声は一段と弾む。誰かが温室の扉を開けたのか、外の冷気が、しっとりと湿った暖かい空気を切り裂いていく。

「星南は、バレエダンサーを目指していたんだ」

創が、不意に遠くを見た。温室のガラスの壁の、ずっと向こうを見ていた。冬の始め。外では、大粒の雪が舞っている。

「けれど今は、真っすぐ立つこともできなくなった」

ほっそりとしながら、おそらくしなやかな筋肉がついているであろう創の背に、触れることができるなら。

「星南の今の夢はね、製薬会社で研究員をすることなんだ。自分の病気について研究して、新薬を開発したいんだって」
「すごい」

創が、彗を見つめた。白に近い金髪と、滑らかで透明感のある皮膚。創は瞳に彗を映しながら、暫く何かを考えているようだった。

「星南に彗のことを話した。発掘現場で出会った、生物学者の卵がいるって」
「それは光栄だな」

彗は照れて、ついおどけた。しかし創の目線は、真っすぐなままだった。彗は、その場を茶化そうとした自分を恥じた。

「彗。星南に会ってくれない?」
「ぼくが?」
「星南が、彗に会いたがっているんだ。研究の話をしてほしいって」

心臓を思い切り掴まれたかと思った。会えば星南と自分を比べてしまうのではないか。しかし、星南に会ってみたいという気持ちが勝った。創が愛するひとは、どのように創を惹きつけるのか。気になって仕方がない。母親がここにいたら、間違いなく彗を止めるだろう。彗は静かに、胸の内で十字を切った。悪魔祓いをするみたいに。

「ご病気なんだよね? 星南さん。あくまで星南さんに無理がない範囲でなら、会ってみたい」
「本当? きっと星南、すごく喜ぶと思う。彗、ありがとう!」

創は急いでアイスクリームを食べ始めた。

「え? 今日これから?」
「だめ? 今日は星南、体調がいいんだ」
「だめ……じゃないけど」

創の瞳は、黒く深い。まるで瞳の奥に宇宙が広がっているようだ。彗を見た創が、ふっと柔らかく笑う。

「創、どうしたの?」
「彗の瞳は綺麗だね。ぜんぜん汚れてない」

耳から順に、彗の体は熱を帯びた。創の言葉が嬉しくて、けれど恋人にはなれないから悲しくて、彗は「ありがとう」と言って俯いた。

彗は白衣を脱いで畳み、トートバッグに入れた。二人で温室を出て、病院の廊下を歩く。売店で星南に何かを買おうかと思ったが、詳しい病状が分からず、安易に贈り物はしない方がいいと思った。

ロビーを横断し、エレベーターホールへと向かう。途中、大時計の下に、水槽があった。まるまると太った鯉や金魚たちが、悠々と泳いでいる。水槽の傍では、入院着姿の小さな男の子が、点滴をしていない方の腕を水槽に伸ばしていた。男の子の母親は、屈んで男の子の肩に手を置いている。

エレベーターに乗り、五階を目指す。隣を見ると、いつの間にか創はマスクをしていた。彗は、肩にかけたトートバッグの中から、サージカルマスクの袋を取り出し、開けた。慌ててマスクを着ける。星南は、どんなひとなのだろう。若くして苦難を引き受けざるを得なかった、創が愛するひとは。

エレベーターの扉が開く。「こっち」と、創は右側を指さす。創の後について、病棟の廊下を歩く。創は、病棟の廊下を足早に進む。廊下に面したナースステーションにさしかかった。創は、「長谷川です」と看護師に声を掛けた。若い男性の看護師が、「どうぞ」と頷いて、彗を見た。「友人です」と創が答える。「友人」。彗は、創の「友人」なのだ。彗のまぶたが震えた。

廊下の突き当たりから二つ目の個室のドアの前で、創が止まった。「長谷川」というネームプレートが見える。本当に、今日ここに来てよかったのだろうか。創に問おうとして、横を向いた。初めて見る創が、そこにいた。創は、光がまるでない、極夜のような瞳をしている。思わず彗は声を掛けようとした。マスクの下で彗の唇が動く一瞬前に、創は静かに目を閉じた。

「彗。今だけでいい。僕の彼女になってください」
「え?」

目を開けた創が、彗に微笑んだ。胸の奥が痛む、不協和音のような笑顔だった。声が震えている。創がドアを三回ノックする。病室の中から、「はーい」と声がする。創は、瞬きをすると、再び瞳に光を宿して彗に微笑み、ドアを開けた。

創の背中の向こうに、少女がいた。窓から入る午後の陽が眩しくて、彗は目を細めた。後光のようだ。少女は、創と同じ、透き通った白い肌をしている。頭にかぶった水色のキャップは、病棟に来る前、ロビーのコンビニエンスストアに売っていたものだ。

——きれいに澄んだ、明るい褐色の瞳。

「お兄ちゃん! とうとう連れてきたんだね、彼女!」

——彼女? ぼくが、創の?

彗は、訳が分からず、混乱した。

「星南。まずは自己紹介」
「はいはーい! こんにちは、長谷川星南です。兄がお世話になってます!」

星南は、彗が思っていたよりもずっと、底抜けに明るい。星南の瞳は、くるくると愛らしく動く。

「はじめまして。一条彗です」
「すいって、漢字ではどう書くんですか?」
「彗星の彗だよ」
「かっこいい! お兄ちゃん、こんなイケメン女子が好きだったんだ」

星南は、悪戯っぽく笑うと、掛け布団の上に置かれたシャチのぬいぐるみを抱きしめた。手の甲に、点滴の管が繋がっている。星南が、彗と創に「座って」と、目くばせをした。星南は、足の先から頭のてっぺんまで、彗をじっくりと見つめた。

「星南。じろじろ見過ぎだよ」
「えー。いいじゃん! かっこいいんだもん! 彗さんは何センチ?」
「一六七センチ」
「お兄ちゃんと同じくらいか」

星南の瞳の底には、何かが棲んでいる気がした。天使か。あるいは。内心動揺した彗の心に、さらに正体不明の波紋が生じる。午後の太陽光がベッドに降り注ぐ。消毒薬の匂いがかすかに漂っている。ベッドに据え付けられたテーブルの上に、教科書を見つけた。半身を起こしている星南は、彗の視線に気づき、テーブルの上に置かれた教科書を持ち上げた。

「高校生物か」

星南は、ぱらぱらとページをめくり始めた。

「ねえ彗さん。細胞分裂ってさ。止められるの?」

彗は一瞬、星南の質問の意図を読み取ろうとした。

「私の頭の中では、がん細胞が増え続けているんだ。だから」
「星南。彗を困らせちゃだめだろ」
「教えて、彗さん。私、見たまんまの図太い性格だから」

星南は、創を牽制するようにじっと睨んで口を膨らませた。その表情が可愛らしくて、彗は警戒を解いた。

「知りたいんだね? 星南ちゃんは」

星南は、黙って頷いた。彗は、星南の瞳を覗き込みながら、細胞の誕生と死のメカニズムを伝えた。通常、DNAが損傷した「異常な」細胞は、分裂をやめる仕組みがある。その結果、異常な細胞は分解され、「廃棄」される。しかし、チェックポイントが壊れると、損傷した細胞は増殖して、暴走する。現代の分子標的薬は、異常な増殖を引き起こす因子を狙って攻撃する。

語り終えると、星南は目を見開いたままで、ため息をついた。青白かった星南の頬に、赤みが差す。午後の太陽光を掬うように、星南は両手を合わせて閉じた。

「すごい。大学の講義を聴いてるみたい」
「彗は研究者の卵だからね」

創が胸を張った。

「星南ちゃん、ぼくの説明、面白かった?」

星南が、大きく頷いた。星南は、彗の一人称に疑問を抱いていないようだ。一瞬、創が放った言葉で動揺したことを忘れるほど、星南は美しかった。

「私、大学の薬学部に入って、勉強して、治療薬の開発に携わりたいの」
「素晴らしい目標だよ」

星南は、すっかり彗に心を開いて、興奮気味に話し始めた。バレエダンサーになりたかったこと、病気で叶わなくなったこと。新しい夢を見つけたこと。彗は時計を見た。あまり長居をしては、星南の体に障ると思ったからだ。彗が創に目くばせをしようとした時、病室のドアが開いた。

「星南ちゃーん。疲れちゃうよ。そろそろストップ!」
「はあい」

褐色の髪を頭の後ろでおだんごにまとめた看護師に、星南はしおらしく頷いた。

「お兄ちゃんの舞台、観に行くんでしょ。だったらまずは体調を整えないとだね」
「菅原さん、いつもありがとうございます」

創が、菅原と呼ばれた看護師に頭を下げた。

「星南ちゃん、心は元気が有り余ってるからね。私たちの名前もすぐ覚えて。いつもお話ししてくれるんだよね」
「病院って意外と面白いし、ぜんぜん退屈じゃないよ。人間観察できるし」
「看護師の私たちのことも観察してるってこと?」
「そうだよ。だれがだれと付き合ってるとかね」

菅原は、「ええ?」と声を出した。星南は、お腹を抱えて、鈴が転がるような声で笑った。星南の笑い方は、創とよく似ている。

「ねえ、彗さん。また来て」
「いいの?」
「うん! 研究の話とか、大学の話とか、聞きたい。あとは、お兄ちゃんとのなれそめとかね」
「星南」
「はいはーい。もうやめます。彗さん、こんなお兄ちゃんだけど、よろしくね!」

嬉しそうに手を振る星南に、彗も手を振り返した。病室のドアを閉めると、創の目からまた、光が消えていた。

創の言葉が、彗の頭の芯を揺さぶり、心を溶かし続けている。

『今だけでいい。僕の彼女になってください』

>>第十一話


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