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ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈9.リミット〉

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九、リミット

温室で創を待つ。恋人になれなくても、創に会いたかった。創についてもっと知りたいと思うからだ。彗は、ひとときでも創の隣にいることを選んだ。恋が成就することはない。それでもいい。

温室のベンチに腰掛け、暫し逡巡する。ずっと気になっていた博人からのメッセージを、やっと開封する勇気が出た。メッセージアプリを開き、博人のアイコンをタップする。

十月十八日。
『今日は本当にごめん。もし俺のことを許してくれるなら、今まで通り親友でいてくれるなら、連絡が欲しい。十月が終わるまで、待ってる』

スマートフォンの画面の右上を見る。
十一月二十九日 土曜日 午後四時。
彗は、頭を抱えてため息を吐いた。悩みすぎたのだと思い知った。今から以前の関係に戻れるだろうか。何もなかったように、また博人と笑いあえるだろうか。博人に触れられた頬の感触が、今も彗の顔から消えない。

「時間を巻き戻せたら。何も知らない頃に戻れたらいいのに」

呟いて、彗は白いブーゲンビリアを見つめた。創がじっと見つめていた花を。南国に咲く野生のブーゲンビリアは、きっともっと美しいのだろう。しっとりと湿った暖かい空気を吸い込む。植物の呼気の匂いがする。温室を見回す。遅い昼休憩だろうか。膝の上にコンビニのお弁当を広げて食べている看護師がいた。頭に包帯を巻いた小学三年生くらいの男の子が、母親のとなりに座っている。

入り口際のベンチを見た。赤紫色のコートを着た白髪の老婦人が、色鉛筆を持って、スケッチブックに絵を描いていた。温室ここの植物を描いているのだろうか。彗の視線に気が付いたのか、老婦人が顔を上げた。真っ赤な口紅を塗ったその顔に、覚えがある。

——麦わら帽子の、遺跡おばちゃんだ。

博人の発掘現場でボランティア作業員として働いていたとき、出土物の写真を撮る指示をくれた人物。遺跡おばちゃんは、彗に気が付き、「あれ!」と声を上げた。遺跡おばちゃんが、自分の隣を指さし、彗を手招きした。彗は、何が何やらわからぬまま、おばちゃんの隣に座る。

「あんた、あの発掘の時の子でしょう」

遺跡おばちゃんは、上着のポケットからキャラメルを取り出した。

「ほれ。おばちゃんのあいさつ代わり。食べてみな」

彗は、言われるがままにキャラメルを口に入れた。懐かしい甘さが、疲れた心に沁みる。

「美味しいです」

遺跡おばちゃんは、口の片方を持ち上げて笑うと、スケッチブックを彗の前で広げた。

「おばちゃんね、東野千代子ってんだ。チヨさんでいいよ」

チヨさんのスケッチブックには、植物たちの細密な水彩画が描かれていた。彗は、一目で見惚れた。

「ぼくは、一条彗です。彗星の彗です」
「いい字だ。けど『ぼく』って……。前も思ったけど、彗ちゃんは、お兄さんなの? お姉さんなの?」

チヨさんの世代にも、彗と同じ遺伝子型の人はいた。その時代を生きた彼らが通らなければならなかった苦難を思うと、彗の胸が激しく疼く。

「チヨさんの好きなように、受け取っていただいて結構です」
「そうかい。最近の子は、女の子でもそんな短い髪するもんね」

チヨさんも、キャラメルを食べた。キャラメルの包み紙を器用に折り鶴にするチヨさんを横目で見ながら、彗は存外穏やかな気持ちになっていく。

「ぼくのことを覚えていてくださって、うれしいです」
「そりゃあんた、私のことを十五歳も若く見積もってもらったんだからね。うれしくないわけがないさ」

チヨさんは、彗の頭をがしがしと撫でて、豪快に笑った。

「いかんいかん。キャラメルをのどに詰まらせるところだった。この年になるとね、ほら、嚥下障害ってやつに気をつけないといけないからさ」

冗談めかせて笑うチヨさんは、桜の老木のようだ。

「彗ちゃんは、どうしてここにいるんだい?」
「ぼくは、理学部の学生で、研究をしていて。医学部に顕微鏡を借りに来たんです。その帰りにちょっと、ここに寄る用事があったので」
「顕微鏡かい。いいねえ。わたしにも学があれば、そんな素敵なこともできたのかな」

彗がチヨさんを見つめると、チヨさんはぽつりぽつりと語り出した。

「私が生きた時代はほら。国中が貧乏だったからね。私の両親は、女の私に高等教育を受けさせる余裕なんてなかったのさ。兄ちゃんは天才だったから、この大学に通わせてもらってた。でも、もし兄ちゃんが女だったら、そうはいかなかったと思うよ。今はいいねえ。自由の風が吹いてる」

自由の風は、彗には吹いているのだろうか。彗はいつも、「普通の女の子」に擬態しながら生きてきた。特に困ったのは、生理の話題だ。彗に生理は来ない。生理痛も、生理用品も知らない。その話題が学校で出る度、彗は冷や汗をかいた。「ごめん、ナプキンある?」と言われることが、何よりも恐怖だった。彗は、自分では使わないナプキンをドラッグストアで買って、ポーチに入れて持ち歩いていた。辛かったし、今でも辛い。チヨさんには、彗の真実を語っても、わかってもらえないような気がした。

「亭主がね。入院しててね。もう長くないからさ。毎日お見舞いに来てるんだ」
「そうだったんですか」
「若い時はあんなに、私のことを家に縛り付けていたのに、私より先にこの世を去ろうなんて、まったく自分勝手にもほどがあるよ」

彗は、スケッチブックに目を落とした。

「標本画ですね」
「そう。次の春が来たら山に入って植物の絵を描くんだ。根っこの先まで徹底的に描くよ」
「本当に好きでないと、この絵は描けません」
「わかるかい?」

チヨさんは、真っ赤な口元で笑った。彗は、一度も口紅をつけたことがない。

「ロマンが好きなのさ。だから遺跡の発掘も手伝わせてもらってる。理科とか、歴史とかが好きだからね。それも全部、亭主が入院してから始めたんだ。あの人には悪いけど、やっと自由を手に入れた気分だよ」

チヨさんは、遠くを見つめた。失った時間を悼む目にも、夫の病状を憂う目にも見えた。

「彗ちゃん。前田くんとうまくいってないんだろ?」

彗は、一瞬怯んだ。

「顔に、うまくいってないって書いてあるよ」
「博人は……。前田くんは、何か言っていましたか」
「いや。何も。けど、あんたがボランティアに来なくなった日から、すごく寂しそうな目をしてる。知ってるかい? 発掘調査は冬が来て終わったけど、仕事はまだ終わってないのさ」
「というと?」
「持ち帰った出土品の分析を、博物館のバックヤードでやってる。前田くんが主導でね。私も、ボランティアとして通わせてもらってるよ」

知らなかった。発掘作業には続きがあったのだ。

「彗ちゃんが撮った写真を解析しながら、前田くんは彗ちゃんを待っているんだ。どうなんだい、前田くんのことは嫌いかい?」
「好きとか、嫌いとかじゃなくて……。博人は、友人で」
「逃げ上手だね、あんた」

チヨさんの目が、一段鋭く光る。

「いつまでも待たせてちゃいけない。期待と不安は、いっぺんに抱えきれない。ちゃんと前田くんと向き合うべきだと思うね」

彗は、動けなくなった。すべて正しいからだ。

「まあね。『口の軽いおばちゃんが何言ってんだ』くらいに思っといてよ!」

チヨさんは、もう一つ彗にキャラメルを握らせると、スケッチブックを畳んで、立ち上がった。

「そろそろ、亭主の検査が終わるころだから。行くわ」

彗は、何も言えず、礼をした。チヨさんが温室を出るのと同時に、創が現れた。創が彗に笑いかけ、彗は、手を挙げて応えた。すれ違いざまに、チヨさんが創と彗を横目で見て、真っ赤な口元を少しだけ歪めた。

彗は、創を見つめながら、ふと思った。この病院に入院しているという星南は、どんな顔をして笑うのだろうか。

>>第十話


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