見出し画像

ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈6.こころの師〉

<<第一話
<<第五話

六、こころの師

研究室の窓を、氷雨が打つ。十一月も第三週を迎えた。灰色の空で、雲が水滴となる。空は、抱えきれない雨粒を見放す。雨は、夜には雪に変わるだろう。今日は、今年最後の発掘調査が行われているはずだ。じっとりと冷たい雨だから大変だろう。彗は発掘現場に通わなくなった。ミントグリーンのスマートフォンを、恨めしい思いで見つめる。

「どうして創の連絡先を聞けなかったんだろう」

あの日、来福飯店での出来事のあと、スマートフォンに博人からのメッセージが入っていた。そのメッセージを、彗は読んでいない。未読のままもう一か月経つ。何が書かれているのかもわからない。不義理をする憂鬱よりも、あの日の出来事を思い出す恐怖が勝る。彗の頬を撫でた博人の手。乾いた質感と、見た目よりもあたたかな温度が、彗を苦しめ続けていた。

こんなときこそ、創の軽やかな笑い声が聞きたい。けれど彗はどこへどうやって進めばいいのかわからない。これまでまともに人を好きになったことがないからだ。母親から言われ続けた言葉が、彗を恋愛から遠ざけ続けている。

彗は、母親を思った。母親はどうして、こんなにも執拗に彗を抑圧し続けるのだろう。十二歳のあの日から、母親と彗の間には、動かしがたい溝がある。母親とは、もう十か月以上連絡を取っていない。

『あなたを、決してあの人のようにはさせないから』

何度も、「あの人」が誰か、聞いた。しかし、母親は沈黙するだけだった。「あの人」が誰なのか分からないまま、彗は実家を離れた。

彗は頭を振り、邪念を捨てて細胞の培養にとりかかった。いつもの試薬を、いつものように添加し、いつものように細胞がシャーレの底から剥がれるのを待った。剥がれた細胞を、透明なピペットの管の中に吸い込み、吸ったり出したりを繰り返す。いつもはリズミカルに動く手先が、どうにも重い。ため息をこらえ、なんとか集中を保った。

研究室の実験台の前に座り、ほんの一滴ほどの試薬をピペットで量りとり、先がすぼまった透明なチューブの中に注いでいく。チューブを紙の箱に入れ、マイナス八十度の超低温フリーザーに保管する。フリーザーの中扉についた霜にそっと触れた。霜が融け、滴が扉を伝う。どうやら、彗の手はまだ温かいらしい。

「一条さん」

凛とした声が聞こえて、振り返る。生殖遺伝学研究室の教授、阿藤誠子あとうまこが立っていた。

「阿藤教授、お疲れ様です」
「最近土曜日にも研究室ラボに来ているけれど、研究で何かトラブルでもあった?」
「いえ。ただ休日に行くところがないのと、もっと追い込んで研究を進めないと、どうしようもないので」

阿藤は、首を少しだけ傾げ、くっきりとした二重瞼を開いた。阿藤の口元に、穏やかな笑みが宿る。

「ね。新しい珈琲豆を買ったの。ちょっと味見に付き合ってよ」

彗は頷いて、フリーザーの扉を閉じた。阿藤の後ろについて、実験室を出る。阿藤は服のセンスがいい。今日は、体型を強調しすぎない黒いブラウスに、きっちりとセンタープレスが効いた、カーキ色のパンツといういで立ちだ。阿藤は四十五歳。教授としては若い部類に入る。長い髪が、背中で揺れた。まっすぐな黒髪に、白髪は見当たらない。ごく控えめなサンダルウッドの香りを追って、彗は教授室へと歩いた。

教授室に入ってすぐに、論文や教科書が散乱した白いテーブルが目に入った。学生とディスカッションをした痕跡だ。このテーブルと、付属の四脚の椅子は、応接スペースとして使われる。彗は、応接スペースの奥の空間をちらと見た。壁に据え付けられた机には、大型のモニタが三つと、デスクトップパソコンが置かれている。教授しか入ることが許されない、神域だ。

「あった。これ!」

阿藤が奥から手を伸ばす。彗は珈琲豆の包みを受け取った。並んで三時間待ちはあたりまえの、有名店のロゴが印刷されている。彗は、応接スペースの一角にある小型の冷蔵庫から、ミネラルウォーターを取り出した。電気ケトルに入れ、沸騰させる。その間に、冷蔵庫の上の段ボール箱から、ペーパーフィルターとコーヒーメーカーを取り出す。フィルターを濡らし、コーヒーメーカーの漏斗部分に貼り付け、珈琲豆の粉を入れると、ちょうど湯が沸いた。

阿藤が最近買ったという珈琲ケトルに湯を移し、ゆっくりと珈琲豆の粉に注いでいく。湯気が立ち、脳が深煎りの香りに酔った。彗は無心で珈琲を抽出し続ける。

「いい香り」

テーブルの上の資料を片付けた阿藤が、白と水色のマグカップをテーブルに置いた。彗が、マグカップに珈琲を注ぐと、阿藤は白い方のマグカップを持って、席に着いた。

阿藤と二人、黙って珈琲をすする。

「美味しい」

目を閉じ、阿藤は感嘆の声を上げた。彗は、味を吟味できるほどではないが、深煎り特有の苦みが美味しいと思えるようにはなった。

「どう? 少し気持ちの整理はついた?」

阿藤に問われ、彗は何のことやら一瞬わからず、目を瞬いた。すぐに、阿藤は、学振に落ちた後の彗の変化を心配しているのだと気づく。

「学振のことでしたら、今もまったく整理はついていません」

「そっか。そうだよね」と阿藤は呟いて、珈琲を口に含んだ。

「私も昔、落ちたよ。学振DC2の一回目」

阿藤を含め、アカデミア研究者の経歴は、オンラインで全世界に発信されている。彗は、「そうでしたか」とも、「承知しています」とも言えずに、目の前の水色のマグカップを見つめた。

「学振に挑戦できるチャンスがなくなったわけじゃない。DC2もまだもう一度、それからPDもあるでしょう?」
「それは、そうなんですが」

阿藤は、大きな瞳に彗を映し、暫し沈黙した。

「一条さん。これはプライベートな質問だから、答えなくてもいいのだけれど」

白いマグカップを握る阿藤の指先は、ピンクに近いベージュに塗られ、つやつやと輝いている。マニキュアもジェルネイルも施したことのない彗の指先は、あまりにも無防備に見えた。

「一条さん、最近、プライベートうまくいってないよね」

はっとして、彗は顔を上げた。阿藤を見る。阿藤は、憐れみでも好奇でもない、まるで研究対象を見るような、先入観のない瞳をしていた。

「無理に答えなくていい。ただ、私は気を遣うのが苦手なの。遠まわしな質問が出来なくてね」

彗の手が、まだ熱いマグカップに縋る。手が少しだけ震えている。クリティカといい、阿藤といい、生殖遺伝学研究室にはストレートな物言いをする人物が多い。

『彗。阿藤教授に話してみるといい。阿藤教授は決して彗を差別しない』

クリティカの言葉が、頭をよぎる。今だと思った。覚悟を決めると、彗はゆっくりと息を吸った。

「阿藤教授に、ずっとお伝えしたかったことがあります」

阿藤の瞳に、体をこわばらせた彗自身が映っている。

「ぼくは、Y染色体を、SRY遺伝子を持っています。ぼくは、完全型のアンドロゲン不応症です」

彗は一度、阿藤を見た。阿藤は、テーブルの上に両腕をつき、手を組んだ。

「胎児期に、ぼくの体の中に精巣が作られました。ぼくの腹腔にあった精巣は、腫瘍化する可能性が高かったので、手術をして摘出しました。つまり、今、ぼくの体には、精巣も、もちろん卵巣も子宮もありません」

彗は、膝の上で両手を握りしめた。ひととき、奥歯を噛みしめる。食いしばった歯から声を絞り出すように、彗は続けた。

「ぼくには月経が来ない。卵子も精子もない。だから、ぼくは子供を作れないんです。どれだけ子供が欲しいと思っても、不可能なんです」

彗は、子供が好きだ。十二歳までは、将来は母親になると、当たり前のように思っていた。もしも、愛するひとができて、そのひとの遺伝子を残したいと思えたなら。愛するひとの子供を産むことが出来たなら。そうしたら、何があってもその子を守り抜いてみせるのに。

「一条さん」

阿藤が差し出した上質なタオル地のハンカチから、サンダルウッドが香ったとき、彗はやっと我に返った。彗は虚空のような目をして、涙を流しながら、なぜか口元だけで笑っていた。

「ぼくという存在は、果たして進化的に意味を持つのでしょうか。いつも最後は同じことを考えてしまって、本当はとても苦しいんです」

彗は、目をぎゅっと閉じ、震えながら阿藤の言葉を待った。どんな回答も、怖い。

「あなたは、自分を『アンドロゲン不応症のぼく』という主語で括って生きていくの?」

彗は目を開き、涙を流したままで、「え」と呟いた。

「あなたは、まずはじめに、一条彗でしょう」

阿藤は、右手を背中に回して長い黒髪を掴み、肩から体の前に下ろした。

「生物学は、あなたの進化的な意味を決めるためにあるものではないわ。あなたの存在が適応的かどうかと考えてしまう思考の枠組み自体が、とても危険なの。わかるかな」

彗は、阿藤の言葉に頷いて、頭を抱えた。がんがんと痛い。

「一条さん。我が生殖遺伝学研究室の門を叩いてくれて、本当にありがとう。あなたは、本質的な研究ができるひとだと思っているわ。揺るぎない倫理観を持ち、人類の、ひいては生物界の英知に貢献できる、本物の研究がね」

彗は、泣き腫らした顔を持ち上げて、再び阿藤を見た。阿藤の顔に咲いた笑顔を見て思う。今、彗は、硬く厚い殻に、自力で穴をあけたのだ。

「ぼくは、女性です」

阿藤は、彗を真っ直ぐに見つめた。

「当然よ。あなたは女性だわ。無知な人間の心無い言葉に、どうか惑わされないで」

阿藤の声音が優しくて、彗は泣いた。しゃくりあげながら、子供のように泣いた。阿藤が、彗の手に触れた。温かく、乾いた手だった。母親の前ですら、こんなに泣いたことはない。

「ぼくはずっと、『ひとを好きになってはいけない』と母に言われ続けてきました。その言葉に背くのが怖くて、自分の気持ちに蓋をして生きてきました。けれど最近、ぼくは初めてひとを好きになりました。この気持ちをどう扱っていいのか、まだわかりません」

心の扉を開け放ってしまった。阿藤を困らせてしまったかもしれない。おそるおそる阿藤と目を合わせる。阿藤は、彗を見て、頷いた。

「あなたの人生よ。あなたが選べばいいわ」

阿藤の瞳は、泉のように静かで、彗を拒んではいなかった。

彗は、家に帰ると、ダイニングテーブルの上で観察記録を開いた。今日の日付を書き入れる。母親の胎内で体を丸める、赤ちゃんの絵を描いた。

『このひと、病院の温室で見かけた』

クリティカが言っていたように、大学病院の温室に行けば、創に会えるのだろうか。阿藤は彗を肯定してくれた。この気持ちのまま、創に想いを伝えることができたなら。

>>第七話


全話収録のマガジンはこちらです



いいなと思ったら応援しよう!