ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈28.二人〉
二十八、二人
創が彗の部屋で暮らし始めてから、三週間が経った。四月。昨日は大学の入学式だった。大学に入ってもう八年目になる。ずいぶん長く学生をやっているものだ。まだ土埃が舞う大学構内を、研究農場に向かって歩く。道中、様々なサークルの学生が看板を掲げていた。新入生を勧誘しているのだ。
鳥が鳴き交わす声が聞こえて、空を見た。早春の晴天を、渡り鳥の群れが行く。V字に編隊を組んで、風を受け、進んでいく。薄手のベージュのダウンジャケットのポケットから両手を取り出し、一度ゆっくりと目を閉じて、彗は、覚悟を決めた。
「時間通りだね。彗」
午後二時ちょうど。春が来て、調査が再開された発掘現場の土手に、博人が座っていた。堀の内側は、部分的に青いビニールシートに覆われている。シートがざわざわと風で鳴る。土の匂いが濃い。もうすぐ雨になるだろう。
「座って」
彗は何も言わず、博人の隣に座った。博人と会うのは、創の舞台の夜以来だ。博人は、少し痩せていた。肌は相変わらず日焼けしていて浅黒い。彗は、トートバッグから缶入りのコーヒーを取り出した。一本を博人に渡す。手の皮膚が少し痛いほどに、熱い。
「ありがとう」
博人は、プルタブを弾いて缶を開け、ブラックコーヒーを一口飲んだ。喉仏が上下する。博人は、男のひとなんだなあと思う。
「春だね。ここに来る時、フクジュソウを見た」
彗は呟いて、発掘現場を見回した。太古の人々の営みが、土の下に眠っている。ひとは、誰かのいのちの上に、いのちを重ねていく。渡り鳥の合唱が、沈黙を埋めた。
「学振DC2、正式採用おめでとう。博人」
「今日は彗の話を聞きに来たんだよ。彗、最近どうしてた?」
博人が彗を見た。彗は、前を向いたまま、「そうだね」とこぼす。
「一緒にミュージカルに行った、創の妹の星南ちゃんがね、亡くなった」
「……知ってる」
「萌香さんが言ったの?」
「うん」
「やっぱり最低だよ、あの子」
医学部生の萌香との関係が続いているのだ。優しい博人は食いつぶされていないだろうか。
「それで。創がね、体調を崩して。いろいろあったんだ。今は、ぼくの家にいる」
博人が目を見開いた。博人のふたつの瞳が、無音の悲鳴を上げている。
「彗は、創が好きだね。本当に。創には伝えたの?」
「まだ。今気持ちを伝えたら、創は混乱して壊れてしまうだろうから」
博人が、ふと空をみつめた。紺碧の宇宙までを見透かそうとしているようだった。
「俺、結婚するんだ」
「まさか」
「うん。萌香と」
彗は絶句した。博人が安易に結婚などするはずがない。何故だ。何故萌香と。
「ねえ博人。余計なことってわかってるけど、どうして萌香さんと?」
「萌香はね。俺じゃなきゃだめだって言った。世界の中でただ一人、俺じゃなきゃだめなんだって」
彗はやっと博人を見て、気づいた。博人の目が、涙を湛えていた。
「俺は、彗が好きだったよ」
博人が、泣き出しながら笑った。彗は、博人の涙を拭うことも、気休めの言葉を発することも、できない。ふつふつと正体不明の怒りが湧いてくる。好きにすればいい。さっさと萌香と結婚すればいい。萌香と家庭を持って、子供を作って、「普通の幸せ」を叶えればいい。
「博人は、もっと思慮深い人間だと思っていたよ」
「彗?」
「一時の感情なんかに流されずに、将来を見越して行動できるのが博人でしょう」
「彗。お願いだから、もうそれ以上言わないで」
彗は、両手を握りしめた。爪が手のひらにめり込んでいく。
「妥協してはだめだよ」
言葉を放って、彗は、「お前が言うな」と思った。自分が今一番言ってはいけないことを言ってしまったと愕然とした。博人の顔を、もう見ることもできない。
「……いい」
「博人」
「もういい!」
博人が、初めて彗に声を荒げた。彗は、胸を撃ち抜かれたように、動けなくなった。
「散々俺を振り回しておいて……。どうしてだよ!」
彗は、刃をしまうことなく、博人と向き合う覚悟を決めた。
「そうだね。その通りだよ。認める。だけど博人、これが博人との最後になっても言う。萌香さんが博人を好きでも、博人が萌香さんを好きでいないと、いずれ関係は破綻する」
低い声を絞り出しながら、彗は、強烈な違和感と戦っていた。ずれている。乖離している。自分と創との関係を棚上げしている。博人は、彗にだけはこの言葉を言われたくなかったはずだ。
「博人。一緒にいてあげられなくて、ごめん」
博人は、手で顔を覆い、声を上げて泣いた。博人の泣き声が、空と土と木々に吸収されていく。
「彗。これで最後だよ。もう、会わないし話さない」
「わかった。今までありがとう、博人」
「本当に、彗は残酷な人だね」
博人はその場でスマートフォンを取り出すと、メッセージアプリを開き彗をブロックした。
「最後に言う。博人は絶対に幸せになるべきだよ」
博人は顔を上げなかった。博人を徹底的に叩きのめしてしまった。胸が裂けるような罪の意識が暴れるまま、彗は博人に背を向けて歩き始めた。博人が、一歩、また一歩と遠くなっていく。
空から雨粒が落ちてくる。大粒の雨に打たれながら、彗は歩いた。顔を上げ、瞼に雨を受けて進んだ。博人に傘を差し出すことは、もうできない。これで本当に良かったのだろうか。わからない。わからない……。雨にまぎれて、彗は声を出さずに泣いた。
ずぶ濡れでマンションに辿り着いた彗は、エントランスの扉を開けて啞然とした。
「彗」
振り向いたその顔を見て、彗はその場に倒れ込みそうになる。白髪をきっちりと染めたセミロングの髪が、ベージュのトレンチコートの肩でふわりと揺れていた。
「母さん」
彗の母、一条真奈美が、光のない目をして、口元だけで笑っていた。
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