ぼくのSRYと、鍵のかかった初恋 〈18.こたつとお風呂〉
十八、こたつとお風呂
「彗。今夜は一人でいない方がいい。泊まっていけばいい。布団ならある」
靴を脱ぐ彗を見ずに、クリティカは呟いた。クリティカの家の玄関はきちんと掃き清められ、夏用のスニーカーと冬のブーツが一足ずつ、揃えて置いてあった。日本のお香の匂いがする。
「ネパールのお香じゃないんだ」
「そう。この香りが気に入ってる」
玄関の左側には洗面台とお風呂がある。クリティカに続いて短い廊下を進んだ。
「ワンルーム。家賃が安いから」
「ぼくの家もだよ」
部屋の真ん中にはこたつがあった。布団の部分が、赤紫色と青い色の布で作られたパッチワークになっている。彗が見惚れていると、「ネパールのお母さんが縫ってくれた」とクリティカが微笑む。
「部屋があたたまるまでこたつで待っていて」
「ありがとう。クリティカ」
電気ケトルがごうごうと音を立てる。
「何かぼくにできることある?」
「ない。座って待っていて」
こたつの中で体を丸めていると、クリティカが、ガラス製の紅茶のポットと茶葉の入った缶を持って戻ってきた。
「カモミールティー。神経のざわつきを鎮めてくれる」
カチッと音がして、ケトルから湯気が立ち上る。茶葉を入れ、お湯を注ぐと、くすんだ黄色の液体がポットの中に満ちていく。揃いの緑色のマグカップにカモミールティーが注がれた。
香ばしい匂いがして、キッチンの方へ向くと、クリティカがオーブンからセルロティを取り出しているところだった。
「温め直した。美味しくできたと思う」
「ありがとう、クリティカ」
「礼はいらない。好きなだけ食べればいい」
彗はセルロティに手を伸ばし、一口齧った。いつもの通りもちもちとしていて、ほんのりと甘い。
「美味しい」
彗の目が滲む。あたたかい涙だ。クリティカが彗の頭をそっと撫でた。
「今日は大変だったからね。もう一個食べてもいいよ」
「クリティカ、お母さんみたい」
クリティカが、声を上げて笑った。
「私はお母さんに恵まれた。だから、お母さんの優しさを知らないひとに、お母さんが私にしてくれたことをする」
「クリティカのお母さんってどんなひと?」
クリティカはブランケットを頭から被って、「うーん」と腕組みをした。きちんと洗濯されたブランケットからは、柔軟剤の品のよい香りが漂う。
「山のようなひと。何があっても動じない。それと同時に、鳥のようなひと。空を飛ぶようにして、状況を俯瞰する」
「いいね。すごく素敵なお母さんだよ」
「そうだね。私は運がよかった。来世でもまたお母さんの娘に生まれたい」
「羨ましいな」
「彗のお母さんは、ちょっとどうかしてる。彗を縛った。嘘をついて生きろと強要した」
「知ってる」
「彗のお母さんには何か、事情があるのかもしれない」
クリティカはカモミールティーを一口すすって、斜め上を見上げた。思案している。
「彗。私が彗にすることを、まずは自分自身にもしてあげて」
「どうして?」
「心が安定する。私のお母さんみたいに、山のように動じなくなる」
こたつの中で、体が徐々に温まっていく。
「クリティカは、どうしていつも、ぼくに優しくしてくれるの?」
クリティカが、三度瞬きをした。呆れているように見える。
「ぼく、何か変なこと言った?」
「彗。どうして私が彗に優しいかって? そんなの答えは明白でしょう? 彗が私に優しくしてくれたからだよ?」
「ぼく、つっけんどんで素気ないってよく言われるんだけど」
クリティカが息を吐く。意志の強そうな太い眉毛が下がる。
「私がどうして日本語を話せるようになったと思う? 彗が私に日本語を教えてくれたからでしょう?」
「へっ? ぼく、教えてたんじゃないよ。英語で話すのが面倒だから、ひたすらクリティカに日本語で話しかけていただけで」
「それがいいの。変に片言の英語なんか喋られたら、いつまでたっても私の日本語はうまくならなかったと思う」
「そうだったんだ……」
「それだけじゃない。クラスの中で彗だけが、私と他の日本人を同等に扱ってくれた。差別しないで、変わらない笑顔で接してくれた」
クリティカの瞳が、意志の力を帯びている。
「彗。いつも本当にありがとう」
クリティカが笑った。泣いてばかりいた彗も、やっと笑った。
「お風呂を沸かしておいた。体が冷えたはずだから、ゆっくり入ったらいい。着替えは新品があるから安心して」
彗は深く頭を下げて、バスルームへ向かった。浴槽にお湯が満ちていて、入浴剤のラベンダーの香りを嗅ぐと、疲労が浴室に霧散していく。
髪と体を洗い、彗は、浴室の鏡に映った体をまじまじと見た。腹部に手を当てる。精巣を摘出した時の傷跡は、ずいぶん目立たなくなっていた。他の部位の皮膚を使って、傷跡を消すという提案もあった。けれど彗は傷跡を残すことにした。傷跡を消せば、苦しんできた半生を、なかったものにしてしまう気がしたからだ。
浴槽に入る。体を寝かせて、肩まで紫色のお湯に浸かる。湯気で煙る浴室内で、息を吸いこみ、吐き出すと、頭の中に沈殿していた空気が入れ替わっていく。お湯の中で揺れる体をもう一度眺める。女性の体。けれど子宮と卵巣を持たない体。
「ぼくの体は、何のためにあるんだろう」
水泡が、背中をくすぐりながら水面へと浮上する。クリティカの話を反芻した。クリティカのお母さん。山のように動じず、鳥のように俯瞰するひと。
「母さんは、ぼくを産んだことを後悔している?」
婦人科で診断を受けた日から、母親が彗の前で笑ったことは一度もない。
「ぼくは、何を残せるのかな」
答えのない問いを、十三年間持ち続けてきた。今も答えは見つからない。けれど彗は、自分の体を秘密として抱え込むことをやめた。クリティカ、阿藤、創、博人。身を引き裂くような思いで、彼らに秘密を打ち明けた。誰も、彗を蔑まなかった。彗に背を向けることはしなかった。
「ぼくの体は、ぼくだけのものだ」
彗は腕を体に回して、自分自身を抱きしめた。そのまま体を丸める。きっと生まれる前も、こうして母親の羊水の中に浮かんでいたのかもしれない。
ラベンダーの芳香が、心を鎮めていく。
着替えて髪を乾かし、リビングに戻ると、LED灯は消されていた。お香の匂いがふわりと立つ。こたつは片付けられ、ベッドの脇には布団が敷いてある。キッチンのカウンターの上で、大きなキャンドルの炎が揺れていた。
「先に寝ていていいよ。私もゆっくりお風呂に入って来る」
「クリティカ」
「なに」
「ぼく、やっぱり創が好きだよ。星南ちゃんを安心させるために、創と嘘の契約を結んだんだ。創の彼女でいられるのは、星南ちゃんの前でだけ。創は苦しんでる。創の気持ちを、今は全部受け止めたいんだ」
「本当にどうしようもない子だね。彗は」
クリティカが口の両端を持ち上げる。
「おやすみ。彗」
クリティカがバスルームに入った。お湯が流れる音がする。その音があまりにも心地よくて、彗はすぐに眠りの世界へ落ちていった。
『王女様。夜明けにございます!』
夢を見た。少年の姿をした創が、赤子の星南を掲げて叫んでいた。
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