心と言葉の日本語文法(10)日本語文の分析(2)「吾輩は猫である。」
【例2】
吾輩は猫である。
【解説】
夏目漱石の「吾輩は猫である。」という文で表現されている思考を分析してみる。その結果は、つぎのようになる。

「認識」=命題:「わたしが猫であること」
「判断・態度」=対事的モダリティ:「わたしは」「である」
「伝達」=対人的モダリティ:「吾輩」「である」
以下、各要素について説明をしていく。
認識(命題/叙述内容)
ここでの「認識」(命題/叙述内容)は、「わたしが猫である」ことである。
対事的モダリティ(判断・態度)
ここでの対事的モダリティ(判断・態度)の第1は、「~は」を用いて「わたし」をトピック(主題)とするという判断・態度である。
もし「わたし」ではなく「猫」のほうをトピック(主題)とする判断をおこなっていれば、「吾輩は猫である。」ではなく「猫は吾輩である。」という表現になっていたはずである。
ここでの対事的モダリティ(判断・態度)の第2は、「~である。」によって断定をしている判断である。
日本語の「である」には、強い断定の判断・態度が含まれている。
例題1での「ようだ」が弱い判断・態度であることとは判断・態度内容は違うものの、それが果たす役割としては同じものである。
対人的モダリティ(伝達)
この文で「伝達」の役割を果たしているのは、「吾輩」「~である」という表現である。
「吾輩」は、聞き手/読み手に対して話し手/書き手の社会的ポジション(ここでは男性、年配、など)を伝達するための表現である。
これを、「わたし」「わたくし」「僕」「オレ」「あたい」などにすると、別の社会的ポジションを聞き手/読み手に伝達することになる。
「~である」は、うえの「判断・態度」の項で述べた強い断定の判断・態度とともに、自分が聞き手/読み手に特に丁寧な気持ちも表現しない、ということを相手に対して伝達している。
そのため、一般的には中立的ではなく少し横柄なイメージとなる。話し言葉では用いることがほぼ不可能といえる。
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