心と言葉の日本語文法(7)表現の多機能性――ひとつの表現は複数の機能を併せ持つ
言語表現と言語機能の関係性において非常に重要な点は、ひとつの表現が複数の機能を併せ持つということである。
別の言い方をすれば、ある表現は、命題・対事的モダリティ・対人的モダリティという3つの機能のうちのどれかひとつの機能だけを持っているわけではないということである。
例をみてみよう。夏目漱石に有名な小説の出だしの有名な一文、「吾輩は猫である。」である。
吾輩は猫である。
この表現に含まれている命題、対事的モダリティ、対人的モダリティという3つの観点から分析をしてみると、その結果は次のようになる。
命題(認識・思考):「わたしが猫であること」
対事的モダリティ(判断・態度):「~は」「である」
対人的モダリティ(伝達):「吾輩」「である」
命題(認識・思考)
ここでの命題(認識・思考))は、「わたしが猫であること」である。
記号的に表現すると、「わたし=猫」である。関数的に「ある(わたし、猫)」と表現することもできるだろう[1]。
対事的モダリティ(判断・態度)
ここでの第1の対事的モダリティは、「~は」を用いて「わたし」をトピック(主題)とするという判断・態度である。
第2の対事的モダリティは、「~である。」によって断定をしている判断である。日本語の「である」には、強い断定の判断・態度が含まれている。
対人的モダリティ(伝達)
この文で対人的モダリティ(伝達)の役割を果たしているのは、「吾輩」「~である」という表現である。
「吾輩」は、聞き手/読み手に対して話し手/書き手の社会的ポジション(ここでは男性、年配、など)を伝達するための表現である。これを、「わたし」「わたくし」「僕」「オレ」「あたい」などにすると、別の社会的ポジションを聞き手/読み手に伝達することになる。
「~である」は、うえの対事的モダリティの項で述べた強い断定の判断・態度とともに、自分が聞き手/読み手に特に丁寧な気持ちも表現しない、ということを相手に対して伝達している表現である。
そのため、一般的には中立的ではなく、少し横柄なイメージとなる。ゆえに話し言葉では用いることがほぼ不可能といえる。
この分析を、表現のほうからみてみると、次のようになる。
「吾輩は」という表現は、
命題要素(わたし)、
対事的モダリティ(トピック)、
対人的モダリティ(社会的ポジション)
という3つの機能を併せ持っている。
「命題要素(わたし)」と書いたが、この「わたし」という表現も、命題要素としての機能だけではなく、対人的モダリティの機能(社会的ポジション)を併せ持っている。したがって、純粋に命題要素だけを表現しているわけではない。
日本語には自分自身を示すうえで英語の“I”や中国語の「我」のように純粋に命題要素の機能のみを持っている表現が存在しない。これは日本語の特性を考えるうえで最も重要な点のひとつである。
「猫である」という表現の「猫」については純粋な命題要素と考えてよい。
ただし、名詞がすべて純粋な命題要素なのではない。
たとえば、「猫」という表現であればモダリティ要素が含まれていないと考えてよいが、これが「ネコちゃん」であれば、そこには対事的モダリティ(猫に対する判断・態度)と対人的モダリティ(それを伝達しようという意志)が含まれている。同様のことが、多くの名詞表現に当てはまる。
「猫である」の「である」については、「心と言葉のグローバル日本語文法」の観点からみると、命題としての機能は持っていないと考えてよい。
「である」を外して「吾輩は猫。」だけでも、命題として機能を果たしているからである。
「である」が持つ機能は、対事的モダリティ(断定するという判断・態度)と対人的モダリティ(「です」とは異なり、相手に対する丁寧度が低い伝達)である。
以上をまとめると、次のようになる。
「吾輩は」=命題要素(わたし)+対事的モダリティ(トピック)+対人的モダリティ(社会的ポジション)
「猫」=命題要素(猫)
「である」=対事的モダリティ(断定の判断・態度)+対人的モダリティ(低い丁寧度)
「吾輩は猫である」という表現は、これらの命題要素・対事的モダリティ・対人的モダリティのすべてを一体化した「心のはたらき」を持つものである。
これを敢えて図示するとすれば、次のようになる。

いちばん内側の四角の層が命題、真ん中の四角の層が対事的モダリティ、いちばん外側の四角の層が対人的モダリティを表すものであると考えてほしい。
この図からつぎのことがわかる。
「吾輩は」という言語表現は、命題と対事的モダリティと対人的モダリティのいずれの機能も強く有している。
「猫」という言語表現は、命題の機能のみを強く有している。
「である」という言語表現は、対事的モダリティと外側の対人的モダリティという2つの機能を強く有している。
これまでの文法は、それぞれの表現が命題、対事的モダリティ、対人的モダリティのうちのひとつの意味を担っているということを前提として分析がなされていた。
だが、そうした方法論では言葉の役割の全容を解明することができない。また文法理論を実践の場で有効に活用するケースも限られてしまう。
これまで文法は実際の役に立たないと一般に思われてきた。その理由のひとつがここにあるのではないかと私は考えている。
[1] 自然言語の表現をこのような記号的な表現に移し替えたものを「心の文法」では「命題関数」と呼ぶ。これは記号論理学の命題関数の概念を借用したものだが、記号論理学の命題が真・偽を定めるためのものであるのに対して、「心の文法」での命題関数はそうした制約を持っていないところが本質的に異なっている。「心と言葉のグローバル日本語文法」の場合の命題関数は、「述部」を関数として「補足部」を変数とするのが基本形である。
