心と言葉の日本語文法(1)――私たちは、日本語の文法を知らなければならない
ふつうの日本人にとって、日本語の「文法」は、とても縁遠い存在である。
日本語の文法などなにも知らなくても日常生活でなにも困らない、と誰もが思っている。実際のところ、私たちがふだんの生活で文法を意識する場面など、ほとんどない。
読み書きの際にも、辞書のお世話にはなっても、「文法」のお世話にはならない。そんなものを知らなくとも、私たちは日本人なのであるから、日本語の文章は読めて書ける、と誰もが(無意識に)思っている。
だが、はたして私たちは本当に日本語の文法など知らなくてもよいのだろうか。
そうではない。
日本語がどのような言語なのかを知ることは日本人が日本人として自分自身の姿を知ることにほかならない。
そして自分自身を正しく知らないかぎり、他者を正しく知ることはできない。
私たちは、自分が日本人であることを正しく知るために、そしてそれを通じて他者を正しく知るために、日本語の文法を知らなければならない。
私たちは、日本語の文法を学校で習っていない
ところが、そもそも日本人は日本語の文法について、学校でなにも習っていない。
詩人の富岡多恵子氏は、学校では文章の書き方をなにも習わなかったとして、次のように述べている。
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作文の時間はあったが、しかし、今思いかえしてみると、作文の上手下手の判断は、幼いながらも、その内容、即ち、作文の書き方の特異な観察力や、個性的なものの見方や感覚の上に下っていたように思えてならない。
作文の良し悪しは、どちらかというとそのできばえは情緒的、文学的な判断で行われ、科学的な根拠はないように思えた。そして、その中学生が世間へ出た時、名文家の文章というのはあっても、正確で上手な日本語の文章というのは、なかなか見つからず、手本もないのであった。(略)
もしわたしが今中学生ならば、『朝七時に起きて歯をみがいて食事をした』ということを、正確に書き記す日本語を作文の時間に教わりたいと思っている。
――朝、わたしは七時に起きて、それから歯をみがき、朝食をした。
――朝七時に起き、歯をみがき朝食をした。
――わたしは朝七時に起きて、歯をみがき、そして朝食をとった。
――朝、七時に起きた。歯をみがいた。それから朝食をとった。
――朝の七時に起きて歯をみがき、朝ごはんを食べた。
このうちのどれがもっとも日本語として正確に内容をあらわしているのか、どれがもっとも現代の日本語らしい日本語なのか、わたしには今もってわからない。
はっきりいえば、『朝、七時に』と『朝七時に』とはちがうし、『朝の七時に』ともちがうことを、わたしは教えらえたことはなかった。句読点の打ち方も教わらなかった。(『現代の随筆 富岡多恵子「言葉の不幸」』毎日新聞社、pp12-14)
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文章の書き方以前に私たちは、日本語という言語について、学校でなにも教えてもらっていないのである。
