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本能寺の変1582 【光秀という男】 結論 9~14/x №6-092 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【光秀という男】 結論 9~14/x   №6-092

はじめに ←目次 重要 ◎目次 【記事一覧】 
【五大要因】
 
1時代の風潮 2光秀の実像 3光秀の苦悩 4武田の滅亡 5信長の油断
【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
【重要コメント】 001 002
 【信長という男】
 
目次 1/5  2/5  3/5  4/5  5/5
 結論
 【重史052】 【重史146】 【重史169】
 【光秀という男】
 
目次 1/7  2/7  3/7  4/7  5/7  6/7  7/7
 結論 目 1~4/x 目 5~8/x 目 9~14/x
 1/x 目 2/x 目 3/x 目 4/x 目 5/x 目 6/x 目 7/x 目 8/x 目 9/x
 10/x 目 11/x 目 12/x 目 13/x 目 14/x 目 15/x 目 16/x 目 17/x
 18/x 目 19/x 目 20/x 目 21/x 目 22/x 目 23/x 目
 【重史241】 1/2 2/2 【重史001】 【重史101】 【重史006】
 【重史007】 【重史008】 【重史098】 【重史172】 【重史173】
 【重史181】 【重史190】 【重史174】
 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
 【さらなる夢】
 概略 20/x
 関連史料 1京都馬揃え 2ヴァリニャーノ来訪 3安土夜祭り
      4スペインの野望 5信長の「さらなる夢」 6光秀の思い
 
【重史140】 【重史141】 【重史142】
 【四国問題】    目次 【四国問題 概要】   十
 【足蹴事件】 目次 1/3 2/3 3/3 【重史040】 【重史041】
 【時は今・・・】 目次
 0521 目 0526  0527  0528 目 0529
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 3光秀と光慶  (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】
 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【光秀という男】 結論 9~14/x            №6-092

結論 目 1~4/x 目 5~8/x 目 9~14/x

9/x

フロイスの見た「京都馬揃え」。            →【重史247】 
その著書『日本史』には、次のように書かれている。

「武将、七百人」
「群集、二十万人」
「絢爛(けんらん)豪華」
「天皇、御叡覧」

信長は、ヴァリニャーノ一行のため桟敷(さじき)を用意した。
「高台から見物できる」
「よく設備された立派な場所」
すなわち、貴賓席。
信長の厚遇ぶりがよくわかる。

「ビロードの椅子」

信長は、これを大いに気に入った。

「一度馬から降りて椅子に座って見せ」

信長は、誇り高い男。          →【信長という男】 目次 2/5
己が天下の支配者であることを、広く世に知らしめた。

10/x

信長が、安土へ帰った。                →【重史248】

ヴァリニャーノは、その後を追った。
信長のことを、もっとよく知りたかった。

ヴァリニャーノの見た安土。
安土は、日本でもっとも気品がある市(まち)。
安土は、清潔で美しい市(まち)。
安土の人口は、六千人。

安土は、信長の性格が見事に反映された市(まち)だった。

11/x

信長は、ヴァリニャーノの来着を待っていた。      →【重史249】
信長は、この年(天正九年)、四十八歳。
まだ若い。
体中に、気力・体力が漲っていた。

本願寺を屈服させた今。                →【重史222】
「天下布武」は、大きく前進した。

手の届く距離に近づいた。

信長には、大きな余裕があった。
時間的にも、精神的にも、軍事的にも、経済的にも・・・・・。

信長は、その後のことを考えた。
当然、そうなるであろう。

信長は、東アジアの情勢に大きな関心をもっていた。
正に、「興味津々」。
世界は、大航海時代(15世紀半ば~17世紀半ば)の真っ只中にあった。

なかでも、「シナ」について。
当時の中国は、明(1368~1644)の時代。

信長は、ヴァリニャーノ一行を安土城に招待した。    →【重史249】
「城を見せたいと言って」
色々と、話を聞きたいのである。

安土には、イエズス会の修道院があった。
「修道院にいるすべての司祭、修道士、同宿たち」
全員連れて来い、と言っている。

信長は、彼らを大いに歓待した。
「下にも置かぬように」
特別待遇である。

信長は、安土城のすべてをきわめて丁重に案内した。
「初めは外から、ついで内部からも」
「案内するために多くの使者をよこし」

信長は、彼らに最大限の敬意を表した。  
「自らも三度にわたって姿を見せ」
彼らの反応を、己の目で、直に、確認したかったのだろう。

信長は、誇り高い男。          →【信長という男】 目次 2/5彼らの感想=評価を気に懸けた。            →【重史249】 
「司祭と会談し」
「種々質問を行い」
「賞賛するのを聞いて」
「満足の意を示した」
それが、彼らの本国へ伝えられるのだから。

12/x

イエズス会は、シナ全土へ布教を拡大しようとしていた。

イエズス会は、シナの本拠地をマカオに置いた。
現代中国の澳門特別行政区。
明代は、ポルトガル人の居留地だった。

ヴァリニャーノがマカオに赴任した。  ↓略歴
三年前のこと。
先に述べた「ビロードの椅子」は、そこで入手したものである。
                         →9/x 【重史247】

そして、その翌年に、来日。  ↓略歴
二年前である。

したがって、・・・・・。

ヴァリニャーノは、、シナの事情に精通していた。
おそらく、そのことが話題の一つになっただろう。

信長は、シナについて、もっと、詳しく知りたかった。
好奇心の旺盛な男である。
当然、そうなるであろう。

「長時間」                           →5/x
「種々のことについて語った」 
「司祭と会談し」                         →11/x
「種々質問を行い」

となれば、・・・・・。

彼らこそ、貴重な情報源。
以後、頻繁な交流がつづく。

【参考】
以下、ヴァリニャーノの略歴を示す (「日本巡察記」) 。

 1539(天文八年) イタリアに生まれる。
           信長より、五つ若い。
 1566      イエズス会に入会。
 1573      東インド巡察師に任命される。
 1574      ポルトガルのリスボンより、インドのゴアに到着。
 1577      ポルトガル領マラッカ(マレーシア)に入る。
 1578(天正六年) ポルトガルの居留地マカオ(中国)に到着。
 1579(天正七年)  日本に到着 (第一次日本巡察) 。
 1582(天正十年) 天正遣欧少年使節団に付き添い、マカオ・マラッカ
           を経由して、ゴアに帰還。
           ここで、使節団と別れた。
 1590(天正十八年) 帰国する使節団に同行して、再び、来日 (第二次日
            本巡察)

 1591(天正十九年) 秀吉に謁見。
 1592(天正二十年) マカオに帰着。
            この時、書記として、フロイスを伴っていた。
            なお、彼は、三年後に日本に帰っている。
                         →『日本史』Ⅰ326P            
 1594(文禄三年)  マラッカを訪れた。
 1955(文禄四年)  ゴアに到着。
 1597(慶長二年)  マラッカを経由してマカオに帰還。
 1598(慶長三年)  最後の来日 (第三日本巡察)
            他の修道会との対立問題を緩和させるため。
 1603(慶長八年)  マカオに帰る。
 1606(慶長十一年) 病のため、同地で没す。
             享年66歳。

13/x

ヴァリニャーノは、安土にセミナリオ(神学校)を開校した。 →【重史250】
「ビジタドールは・・・セミナリヨをここに置くことを希望し」

学校長は、オルガンティーノ。        →【人物】 「日本巡察記」
「パードレ オルガンティーノが・・・集めた少年武士二十五、六人が」

セミナリオは、九州有馬にもあった。
現 長崎県南島原市南有馬町。
キリシタン大名有馬晴信の領地。

彼らの日本人観。
神学校の学生(少年武士)について。
「性質良く、才識あり、高雅にして言語洗練され」
「何事にも優れてゐる」

信長は、イエズス会の強力なスポンサー。
「信長は、聖堂を非常に壮麗宏大なるものとすることを希望して」

信長は、何度も、ヴァリニャーノと語り合った。
「数回、パードレと語った」
信長の傾注していく様子が、よくわかる。

全ては、信長のおかげ。
ヴァリニャーノは、そう思っていた。
「この聖堂ができたらば、当城のキリシタンは増加するであろう」
                      (「イエズス会日本年報」)

信長と彼らの関係は、きわめて良好なものだった。

14/x

ヴァリニャーノは、安土に一ヶ月ほど滞在した。     →【重史251】
「当所に約一ヵ月間滞在し」

ヴァリニャーノは、信長に、領内での布教を願い出た。
「この地方のキリシタンを巡視する許可を信長に請うた」

信長は、それを許可した。
むしろ、歓迎している。
「全領内希望の場所に、説教師を派遣することを許し」
「彼の大いに喜ぶところであると言った」
                      (「イエズス会日本年報」)

信長には、ヴァリニャーノと語り合う時間が十分にあった。
そういうことになる。

信長は、ヴァリニャーノから大きな刺激をうけた。
激動する世界。
新たな知識・情報。
等々。

信長は、覚醒した。
おそらく、この頃だろう。

信長の心の中に、「さらなる夢」が芽生えた。
「明」
信長の思いは、東シナ海の向こう側にあった。

ヴァリニャーノは、これを見逃さない。

フロイスも、当然、そのことを知っている。
彼の著述(「年報」『日本史』)を見れば、そのことがよくわかる。

イエズス会にとっては、好都合。
彼らは、そう考えた。

これについては、後述する。

光秀、また、然り。                      →21/x
信長は、オープン。
光秀が、これを知らぬわけがない。

信長の側には、光秀の妹御ツマキ(妻木)が仕えていた。      →21/x
信長のお気に入りである。           →【 重史 007 】250817
光秀の、貴重な情報源でもあった。

光秀には、余裕があった。                   →21/x
この時は、である。
「まだまだ、先のこと」
そう、思っていた。

以上。
話が長くなった。

これが、天正九年1581一月~四月の状況である。
5/x 6/x 7/x 8/x 9/x 10/x 11/x 12/x 13/x 14/x

【重要コメント】 001

要注意!!

これで、ようやく、繋がった。
「京都馬揃え」 → 「ヴァリニャーノ」「シナ」 → 信長の「さらなる夢」

イエズス会の巡察士ヴァリニャーノとの出会いを切っ掛けにして、
信長の「さらなる夢」は、その具体化に向かって、活動を開始した。

そのことが、
「志向の相違」を生み出す主要原因の一つとなり、
    →【五大要因】

次第に、
「光秀の苦悩」を構成する要因の一つに成長する。
    →【五大要因】

そして、
これに、諸因が重なり合って、

光秀は、極限状態に追い込まれて行く。



 ⇒ 次へつづく




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