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本能寺の変1852 その一因 概説大 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 概説大 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】  
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 241022 

「本能寺の変」の「原因・動機」は、一つだけではない。

 以下、「その一因」を1~5+1に大別する。
  只今、進行中!! 

1時代の風潮

 そのような時代だった。               →そ第78話②

 戦国の世である。
 相互不信の時代であった。
 油断、すなわち、死。
 光秀の人格・性格は、この様な時代の中で形成された。 →そ第78話①

2光秀という男

 そのような人物だった。               →そ第78話②

 光秀は、不忠者。
 信長と、同じ穴の狢。
 光秀は、典型的な戦国武将だった。

3光秀と光慶

 そのような年齢だった。               →そ第78話②

 光秀の年齢。
 嫡男光慶のこと。
 粛清の怖れ。
 光秀は、明智の将来が不安っだった。

 (1)光秀の素性

  1素性  光秀は、美濃の出身である。
       光秀は、土岐氏の家臣だった。

  2争乱  光秀は、土岐氏の家督騒動に巻き込まれた。

  3下剋上 光秀の人間性は、争乱と下剋上の中で形成された。

  4没落  土岐氏が、消滅した。
       光秀は、牢人に落ちぶれ果てた。

  5再興  これが、光秀の悲願。
       立身出世の原動力になった。

  6転機 この事件が、転機となった。
      やがて、光秀は、細川藤孝と巡り会う。

 (2)光秀の年齢

  
光秀は、高齢だった。
  しかし、老人ではない。
  光秀は、甲斐遠征が出来る年齢だった。
  光秀の年齢は、六十代前半以下。            →そ第5話

  1三人の娘
  
    
光秀には、三人の娘がいた。
    光秀の三女は、細川忠興へ嫁いだ。
    光秀の長女*は、織田信澄へ嫁いだ。
    光秀の二女*は、荒木村次へ嫁いだ。

  2光秀と勝家・一益

    柴田勝家は、大永二年1522の生れ、六十一歳。
    滝川一益は、大永五年1525の生れ、五十八歳。
    丹羽長秀は、天文四年1535の生れ、四十八歳。
    羽柴秀吉は、天文六年1537の生れ、四十六歳。 

  3土岐の家臣

    本能寺の変と頼純殺害の年から、光秀の生年を推測する。
    1本能寺の変の時、五十歳とした場合。
    2本能寺の変の時、五十五歳とした場合。
    3本能寺の変の時、六十歳とした場合。
    永禄十一年1568、信長は三十五歳。          

  4光秀、最大の敵

    光秀の最大の敵は、時間だった。
    嫡男光慶は、若すぎた。
    信長は、当然、このことを知っている。
    秀吉は、後継問題に、すでに、先手を打っていた。

  5結論

    光秀の生年は、大永四1524±四年ぐらい。
    光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。

  6光秀の人格形成
 
 
  光秀の人格・人間性は、争乱と下剋上の中で形成された。
    →本能寺への道

 (3)光秀と光慶


4光秀の苦悩

 そのような理由(わけ)があった。           →そ第78話②

 解決方法は、ただ一つ。
 なれど、・・・・・。

5志向の相違

 そのようなタイミング(時機)だった。         →そ第78話②

 光秀は、分岐点の上に立っていた。
 すなわち、迷いがあった。

+「信長の油断」

 甲斐遠征→勝頼の首→武田効果→中国出陣。
 光秀は、出来る男(キレ者)。
 その先が、見えていた。

 ここで、事態が急変する。
 光秀は、いよいよ、追い込まれた。
 「本能寺への道」
 その始まりである。

 信長は、その光秀に、戦(いくさ)支度を命じた。

 そして、五月二十九日。
 自身は、丸裸で、上洛する。
 これすなわち、信長の「油断」。           →そ第78話②

 結局、このことが、最大の要因となった。

 六月一日、夜。
 光秀は、これを見逃さず。
 「決断」した。

 
信長が、あの日、
 上洛せねば・・・・・、  
 軍勢を率いていれば・・・・・、
 「本能寺の変」は、起きなかった。 

 信長は、自ら、「死」を招いたのである。

 史実を直視すべし。
 これまでの認識を改めるべきである。


さる程に、不慮の題目出来(しゅったい)侯て、

                       →【重史016】


     →その一因 目次中




 ⇒ 次へつづく

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