本能寺の変1582 【信長という男】 目次 結論 №6-017 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【信長という男】 目次 結論 №6-017
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→【人物】
【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【信長という男】 目次 結論 №6-017
光秀は、信長の性格を知り尽くしていた。
「打てば響く」
信長は、大いに気に入った。
そして、抜擢。
以後、光秀は、出世街道を驀進する。
すなわち、
信長の性格が、光秀の意志決定に大きな影響を及ぼした。
特に、以下の部分に注意!!
信長は、典型的な戦国武将。→②⑥
猜疑心が強く、疑い深い。→⑱
粘り強く、執念深い。→⑩
信長は、絶対専制君主。→⑨
誇り高い男。→③
命に背く者は、決して、容赦しない。
信長は、目的意識が強い。→⑤⑦
信念の人。→⑦⑤
「天下布武」
「さらなる夢」
信長は、合理主義者。→⑪
無駄を嫌う。
信長は、完璧主義者。→⑭
なかなか、難しい性格である。
この様な信長の期待に、見事に、応えたのが、光秀と秀吉の二人だった。
信長は、せっかち・性急・気が短い。→⑮
「人間五十年」
時間と戦っていた。
結果として、
これらが、ベースとなり、
光秀を、最終局面に追い込むことになる。
光秀の心理面に大きなプレッシャーを与えていた。
つまり、
信長自身の性格が、光秀を突き動かし、
この事件を引き起こす大きな原因の一つになった、
と言える。
そして、ついに、その限界を突破する日がやって来る。
それが、「本能寺の変」。
天正十年1582、六月二日だった。
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