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本能寺の変1582 【光秀という男】 結論 5~8/x №6-091 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【光秀という男】 結論 5~8/x    №6-091

はじめに ←目次 重要 ◎目次 【記事一覧】 
【五大要因】
 
1時代の風潮 2光秀の実像 3光秀の苦悩 4武田の滅亡 5信長の油断
【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
【重要コメント】 001 002
 【信長という男】
 
目次 1/5  2/5  3/5  4/5  5/5
 結論
 【重史052】 【重史146】 【重史169】
 【光秀という男】
 
目次 1/7  2/7  3/7  4/7  5/7  6/7  7/7
 結論 目 1~4/x 目 5~8/x
 1/x 目 2/x 目 3/x 目 4/x 目 5/x 目 6/x 目 7/x 目 8/x 目 9/x
 10/x 目 11/x 目 12/x 目 13/x 目 14/x 目 15/x 目 16/x 目 17/x
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 【重史241】 1/2 2/2 【重史001】 【重史101】 【重史006】
 【重史007】 【重史008】 【重史098】 【重史172】 【重史173】
 【重史181】 【重史190】 【重史174】
 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
 【さらなる夢】
 概略
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関連史料 1京都馬揃え 2ヴァリニャーノ来訪 3安土夜祭り
      4スペインの野望 5信長の「さらなる夢」 6光秀の思い
 
【重史140】 【重史141】 【重史142】
 【四国問題】    目次 【四国問題 概要】   十
 【足蹴事件】 目次 1/3 2/3 3/3 【重史040】 【重史041】
 【時は今・・・】 目次
 0521 目 0526  0527  0528 目 0529
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 3光秀と光慶  (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】
 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【光秀という男】 結論 5~8/x            №6-091

結論 目 1~4/x 目 5~8/x

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天正九年年1581、「京都馬揃え」 。              

信長は、これを光秀に命じた。

 正月廿三日、惟任日向守に仰せ付けられ、
 京都にて、御馬揃へなさるべきの間、
                      【重史191】『信長公記』

イエズス会の巡察師ヴァリニャーノが、上洛。
信長に、拝謁した。

 二月廿三日、きりしたん(切支丹)国より黒坊主参り候。 
 (中略)
 伴天連、召し列れ参り、御礼申し上ぐ。
                      【重史242】『信長公記』

この時、九州にいたルイス・フロイスも、これに同行している。
                      →【重史014】 【人物】

フロイスとの出会いについては、以下を参照。

【重史140】                   永禄12 156900313
  ①司祭が都に到着して三日を経、
  ②和田殿は、司祭が信長の許へ伺候する準備整えた。
  ③信長は、邸の奥に入っていて、音楽を聞いていた。
  ④信長は、贈物を見た後、ビロードの帽子だけを受理した。
  ⑤幾千里もの遠国から、はるばる日本に来た異国人たちを、
                             『日本史』

【重史141】                   永禄12 1569003**
  ①信長は、建築作業に従事しており、
  ②濠橋の上で待った。
  ③彼は、約二時間、ゆったりした気分で、彼と語らった。
  ④どれくらいの道のりがあるのか
  ⑤かくも遠隔の国から日本に渡ってきたのか
  ⑥信長は、仏僧の方を指さし、憤激して言った。
  ⑦予は、幾度も、彼らを殺害し、殲滅しようと思っていたが、
                             『日本史』

【重史142】 そ第11話㉙             永禄12 156900414
  ①通常二万五千人が働き、少ない時でも、一万五千人を数えた
  ②彼は多数の石像を倒し、頸に縄をつけて工事場に引かしめた。
  ③信長は、ほとんどつねに、座るために虎皮を腰に巻き、
  ④一兵士が、戯れに一貴婦人の顔を見ようとして、
  ⑤信長は、一同の面前で、手ずから彼の首を刎ねた。
  ⑥少なくとも、二、三年はかかると思われたものを、
  ⑦彼は、ほとんどすべてを七十日間で完成した。
                             『日本史』

信長は、きわめて、好意的だった。
ヴァリニャーノ一行を大いに歓待した。

フロイスは、この時の会見について、
「長時間種々のことについて語った」
「信長としては非常な好意であった」
「諸人皆驚いた」
と、本国に報告している。
        (天正九年四月十四日付「イエズス会日本年報」上124P)

信長は、東アジアにおける彼らの行動に大きな関心を示した。

そして、このことが、信長の「さらなる夢」へと繋がっていく。

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「御馬揃の事」
その当日である。

それは、正親町天皇御叡覧のもとで始まった。

 二月廿八日、
 五畿内隣国の大名・小名・御家人を召し寄せられ、駿馬を集め、
 天下に於て、御馬揃へをなされ、
 聖王へ、御叡覧に備へられ訖んぬ。
                      【重史200】『信長公記』

正に、「晴れの舞台」。

 扨(さて)も、儀式の御結構(=内裏)、美々しき有様、
 筆にも、詞(ことば)にも、述べがたく、
 何れも、々々々(=観衆)、晴(はれ)ならずと云ふ事なし。
                      【重史200】『信長公記』

光秀は、先頭集団の三番手として登場した。
一番、丹羽長秀。
二番、蜂谷頼隆。
三番、明智光秀。

 三番、惟任日向守、幷(なら)びに大和・上山城衆。
                      【重史201】『信長公記』

四番、村井貞成。

信忠以下、織田家の一族衆が、これにつづく。
これで、序列がよくわかる。

  御連枝の御衆。

  中将信忠卿、馬乗八十騎、美濃衆・尾張衆。
  北畠中将信雄、馬乗三十騎、伊勢衆。
  織田上野守信兼、馬乗十騎。
  同三七信孝、馬乗十騎。
  同七兵衛信澄、馬乗十騎。
  同源五(長益=弟十男)。
  同又十郎(長利=弟十一男)。
  同勘七郎。
  同中根(信照=弟)。
  同竹干代(信氏=甥)。
  同周防。
  同孫十郎。
                      【重史201】『信長公記』

その後に、
近衛前久他公家衆、
細川信良他旧幕臣衆、
信長の馬廻・小姓衆、
と、つづき、

柴田勝家も、越前衆を率いて参加していた。

  越前衆。
  柴田修理亮・同伊賀(勝豊)・柴田三左衛門、
  不破河内守(光治)・前田又左衛門(利家)・金森五郎八(長近)・
  原彦次郎(政茂)。
                      【重史201】『信長公記』

秀吉は、これには、参加していない。
秀吉は、播磨(姫路)にいた。
信長の側近 長谷川秀一に送った書状(三月五日付)の中で、
「参加できず、残念である」、と言っている。

【参照】 【重史202】             ✓ 天正09 158100305
  ①今度、御馬揃の儀、夥敷(おびただしく)、相聞え申し候事、
  ②参上せしめず候段、無念に存ずる計(ばか)りに候、
  ③爰元、(姫路城の)普請等、漸(ようや)く出来候、
                            「富田文書」

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やがて、信長の行列がやって来た。           →【重史243】

先手は、弓衆。
「二手に分けて、二段に参り候なり」

つづいて、信長の乗馬。
一番~六番。
信長は、無類の馬好きだった。

次、坊主衆。
武井夕庵(せきあん)・楠木正虎・長雲軒妙相・松井友閑らの吏僚。
皆、法体である。

その次、曲彔(きょくろく)持ち四人。
伴天連から献上された椅子。

その後に、小姓衆。                  →【重史244】
太刀持ち・長刀持ち等が続いた。

そして、信長が現れた。

  御馬大黒に召され、惣御人数廿七人。

  御行縢、地を金に虎の府(斑)を繍(ぬいとり)に、
  御鞍重(くらかさね)、御あをり、御手綱、腹帯、尾袋まで同前。
  紅の総房の鞦(しりがい)*1に、やうらく(瓔珞)*2を付けさせられ、

  *1 鞦(しりがい) 馬の鞍を安定させるために尾の下を通す帯紐。
  *2 やうらく(瓔珞) 飾り物

この時の、信長の装いである 。

御眉にて、ほうこう(頬当)めされ。
頭に、とうかむり(唐冠)。
首の後ろに、花を挿し。
小袖は、紅梅に白。

ここで、細川忠興の名が出てくる。
信長は、忠興のことをよく知っていた。
同の将来は、明るい。

肩衣は、べにどんす(紅緞子)。
袴、同。
腰に、ぼたんの作り花をさし。
白熊(はぐま=ヤクの尾毛)の腰蓑をつけ。
沓(くつ=履物)は、猩々皮(しょうじょうひ=ワインレッド)。

信長は、大勢の観衆を大いに魅了した。

  (信長の)花やかなる御出立(いでたち)・御馬場入りの儀式、
  さながら、住吉明神の御影向(ようごう=神仏が来臨すること)も、
  かくやと、心もそゞろに、
  各(おのおの)、神感(=神が感応すること)をなし奉り訖(おわ)んぬ。
                      【重史244】(『信長公記』)

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近隣諸国の大小名も、参加した。          →【重史245】
彼らの出で立ちもまた、華やかなものだった。
        
馬揃えは、辰の刻から未の刻(8時頃~14時頃)まで行われた。

中でも、信長の三人の息子たちは、特に、華やかさが際立った。
                           →【重史246】      
信忠(嫡男)、弘治三年1557の生まれ、この年25歳。
信雄(二男)、永禄元年1558 〃    〃 24歳。
信孝(三男)、同年       〃    〃 24歳。

信長は、大衆に絶大な人気があった。          →【重史246】

「天下安泰」
人々は、世の平和を実感していた。
すべては、信長のおかげ。

  貴賤群集の輩(ともがら)、かゝる目出たき御代に合ひ、
  天下安泰にして、
  黎民(れいみん=庶民)、烟戸(かまど)さ(鎖)ゝず、
  生前の思ひ出、有りがたき次第にて、上古・末代の見物なり。
                      【重史246】(『信長公記』)

正親町天皇は、大そう御喜びになられた。
「十二人の御勅使を以て」、「忝くも、御綸言(りんげん)」。

信長の功績は、きわめて大きい。
「信長の御面目」、「勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず」。

信長は、本能寺に帰った。
「晩に及び、御馬を納められ」、「本能寺に至つて御帰宅」。

めでたし、めでたし。
「千秋万歳、珍重々々」
                      【重史246】(『信長公記』)



 ⇒ 次へつづく




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