本能寺の変1582 【 重史 007 】250817 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【 重史 007 】「多聞院日記」 250817
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 250509 250817
【 重史 007 】◎第8話 250817
①惟任の妹の御ツマキ死におわんぬ、
②向州、比類なく、力を落とすなり、
「多聞院日記」
天正九年1581、八月二十一日。 158100821
この時、光秀は、郡山城の普請を検分するため奈良に入っていた。
→【重史173】250817
以下は、多聞院英俊の記録である。
光秀は、筒井順慶を与力としていた。
光秀の指揮下にあった。
光秀は、奈良を出た。
帰路へ。
廿一日、
今暁、惟任帰られおわんぬ、
殊に儀なく、珍重々々、
光秀は、妹の御ツマキ(妻木)を失った。
この、きわめて、重要な時期に、・・・・・。
「一段のキヨシなり」、とある。
信長のお気に入りだった。
光秀は、大いに落胆した。
去る七日・八日の比(ころ)歟(か)、
惟任の妹の御ツマキ死におわんぬ、
信長、一段のキヨシなり、
向州、比類なく、力を落とすなり、
(「多聞院日記」)
光秀は、大きなダメージを受けた。
これで、信長の周辺状況が分からなくなった。
その損失は、計り知れない。
光秀に、逆風が吹きつける。
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
