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本能寺の変1582 【 重史 007 】 250509 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【 重史 007 】「多聞院日記」    250509

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別  
*加筆修正 250509 

【 重史 007 】◎第8話               250509

①惟任の妹の御ツマキ死におわんぬ、

②向州、比類なく、力を落とすなり、

                      「多聞院日記」

 天正九年1581、八月二十一日。            158100821    
 本能寺の変の前年である。
 この時、光秀は、郡山城の普請を検分するため奈良に入っていた。
                            →下【参照】
 以下は、多聞院英俊の記録である。

 光秀は、筒井順慶を与力としていた。
 光秀の指揮下にあった。

  廿一日、
  今暁、惟任帰られおわんぬ、
  殊に儀なく、珍重々々、

 光秀は、妻木氏を失った。
 この、きわめて、重要な時期に、・・・・・。
 「一段のキヨシなり」、とある。
 信長のお気に入りだった。
 光秀は、大いに落胆した。

  去る七日・八日の比(ころ)歟(か)、
  惟任の妹の御ツマキ死におわんぬ、
  信長、一段のキヨシなり、
  向州、比類なく、力を落とすなり、
                         (「多聞院日記」)

 光秀は、大きなダメージを受けた。
 その損失は、計り知れない。

 【参照】【重史006】 ◎第8話
  (四月)十八日、妻木惟向州妹、参宮、      天正07 157900418  
  (九月)廿五日、惟任姉(妹)妻木、在京の間、罷り  天正07 157900925
                            「兼見卿記」

 【参照】以下、「多聞院日記」の記述。

  天正四年1576、五月十日
   和州一國一圓、筒井順慶存知有るべきの由

  天正五年1577、十月十一日
   昨夜、松永父子、腹切り、自焼しおわんぬ、

  天正八年1580、八月二日
   去る二日、大坂、城渡しおわんぬ、
   近衛殿請け取られ渡して後、やく(焼)る様に用意しけるか、
   無残、二日一夜、明け三日までに、皆々焼けおわんぬ、
                            (八月五日条)

   順慶、二日に京に上り、昨夕歸り了、
   國中諸城、破るべしと云々、
                            (八月四日条)

  同年、八月十七日
   今日、平城破却と云々、
   当国、悉(ことごと)く以って、破るべしと云々、
   郡山一城迄残すべしと云々、

  天正九年1581、八月十九日
   十九日、
   一、佐久間(信盛)十津川の湯にて死ぬにつき、
     高野の宿坊の庫(くら)の物、請け取るべきの由、
     信長より仰せつけられ、上使、指し上らるゝのところ、
     悉(ことごと)く 以って討ち殺しおわんぬと云々、
     これにより、諸国の高野聖とらえらる、
     近日、手遣ひのあるべきの由、沙汰に及ぶと云々、
     則ち、来たる廿三日、陣ふれ(触)これ在りと云々、
     高野滅亡、時刻到来か、

   一、惟任日向守、郡山城普請見舞として、
     今朝、早々、成身院まで越しおわんぬ、
     十新、是へ来しおわんぬ、
     成(成身院)にて、一献これ在り、
     頓(やが)て、郡山へ同道しおわんぬ、
     人数百計(ばか)り歟と云々、

 【引用】4 光秀の苦悩 2志向の相違 ◎第8話 ◎小8 第8話



 ⇒ 次へつづく

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