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本能寺の変1582 【光秀という男】 結論 18~19/x №6-095 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【光秀という男】 結論 18~19/x   №6-095

はじめに ←目次 重要 ◎目次 【記事一覧】 
【五大要因】
 
1時代の風潮 2光秀の実像 3光秀の苦悩 4武田の滅亡 5信長の油断
【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
【重要コメント】 001 002
 【信長という男】
 
目次 1/5  2/5  3/5  4/5  5/5
 結論
 【重史052】 【重史146】 【重史169】
 【光秀という男】
 
目次 1/7  2/7  3/7  4/7  5/7  6/7  7/7
 結論 目 1~4/x 目 5~8/x 目 9~14/x 目 15~17/x 目 18~19/x
 1/x 目 2/x 目 3/x 目 4/x 目 5/x 目 6/x 目 7/x 目 8/x 目 9/x
 10/x 目 11/x 目 12/x 目 13/x 目 14/x 目 15/x 目 16/x 目 17/x
 18/x 目 19/x 目 20/x 目 21/x 目 22/x 目 23/x 目
 【重史241】 1/2 2/2 【重史001】 【重史101】 【重史006】
 【重史007】 【重史008】 【重史098】 【重史172】 【重史173】
 【重史181】 【重史190】 【重史174】
 【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
 【さらなる夢】
 
概略 20/x
 関連史料 1京都馬揃え 2ヴァリニャーノ来訪 3安土夜祭り
      4スペインの野望 5信長の「さらなる夢」 6光秀の思い
 
【重史140】 【重史141】 【重史142】
 【四国問題】    目次 【四国問題 概要】   十
 【足蹴事件】 目次 1/3 2/3 3/3 【重史040】 【重史041】
 【時は今・・・】 目次
 0521 目 0526  0527  0528 目 0529
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 3光秀と光慶  (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】
 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【光秀という男】 結論 18~19/x           №6-095

結論 目  1~4/x   目 変の一因
      5~8/x   目 京都馬揃え
      9~14/x 目 ヴァリニャーノ来訪
    15~17/x 目 安土夜祭り
    18~19/x 目 スペインの野望
    20~21/x 目 信長の「さらなる夢」
    22~25/x 目 逆風

18/x

ここで、東アジアを取り巻く国際情勢と「イエズス会」の動向にについて。

1580年1月。                   →【重史256】
スペイン、ポルトガルを併合。

 一五八〇年一月、ポルトガル国王ドン・エンリーケの死に伴い、
 スペイン国王フェリペ二世が三万の軍勢を率いてポルトガルの首府リスボ
 ンに入り、他の王位継承の候補者達をしりぞけて、
 一五八一年四月ポルトガル国王に即位し、
 以後一六四〇年のポルトガル独立に至るまで、
 六〇年間ポルトガルはスペインに併合されることになる。

スペイン、ポルトガルの領土については干渉せず。

 ポルトガル領インド、即ち東インドに於けるポルトガルの利権に対して
 は、スペイン国王は一切干渉しない旨の約束を最初に行っている。
               (「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎著) 

1581年2月~7月。(陰暦)
ヴァリニャーノ、信長との出会い~安土の「夜祭り」・別れ。

 5/x ヴァリニャーノが、上洛。信長に、拝謁した。
 6/x 「御馬揃の事」、その当日である。
 7/x そして、信長が現れた。
 8/x 正親町天皇は、大そう御喜びになられた。
 9/x フロイスの見た「京都馬揃え」。
10/x ヴァリニャーノの見た安土
11/x 信長は、ヴァリニャーノ一行を安土城に招待した。
12/x ヴァリニャーノは、、シナの事情に精通していた。
13/x ヴァリニャーノは、安土にセミナリオ(神学校)を開校した。
14/x ヴァリニャーノは、安土に一ヶ月ほど滞在した。
   信長は、覚醒した。「さらなる夢」が芽生えた。
15/x 一、信長は、ヴァリニャーノに気に入りの屏風を贈った。
16/x 二、信長は、ヴァリニャーノに経済的援助を約束した。
17/x 三、信長は、ヴァリニャーノのために「夜祭り」を執り行った。

1582年6月。(陰暦) 
「本能寺の変」
信長、死す。

その半年後。
1582年12月。
この時、ヴァリニャーノはマカオにいた。
天正遣欧少年使節団の一行を伴っていた。       →12/x 【人物】

ヴァリニャーノは、スペインのフィリピン総督に以下の書簡を送った。
スペイン国王は、フィリペ2世 (在位1556~98) 。
フィリピン総督は、ドン・ゴンサロ・ロンキーリ・デ・ペニャロサ。

スペインは、東アジア各地を征服しようとしていた。   →【重史256】
イエズス会の布教活動は、これら征服事業と同時並行で行われた。

 これら東洋に於ける征服事業により、現在いろいろな地域に於いて、
 陛下(スペイン国王)に対し、多くのそして大きな門戸が開かれており、
 主への奉仕及び多数の人々の改宗に役立つところ大である。

 これら征服事業は、霊的な面ばかりでなく、
 それに劣らず陛下の王国の世俗的な進展にとって益する。

スペインの最大の目的は、シナを征服することだった。

 そしてそれらの征服事業の内、最大のものの一つは、
 閣下(フィリピン総督)のすぐ近くのこのシナを征服することである。

ヴァリニャーノは、スペインの征服事業に加担していた。

 私がこの地でえた経験を基に、その件のため判るいくつかの重要な事柄に
 ついて、
 閣下と相談することが出来れば大変嬉しく思う。

イエズス会は、スペインに従属していた。

 私がこのことを閣下に書(き)送るのを望んだのは、
 イエズス会が主や陛下(スペイン国王)に対して忠誠を尽くすべきところか
 ら、
 凡(すべ)てに於いて、
 より大なる主の光栄と陛下への奉仕を願うが故である。
                      1582年12月14日付
         【重史256】「フィリピン総督宛ヴァリニャーノ書簡」
               (「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎著)

19/x

ヴァリニャーノは、日本についても論じている。     →【重史257】

 日本のキリスト教界については、閣下に書(き)送るべきことが沢山有る。
 何故なら私は日本に三年近く滞在して、今年当地(マカオ)に戻って来た
 からである。

日本への布教は、最も重要な事業の一つである。

 私は閣下(フィリピン総督)に対し、霊魂の改宗に関しては、
 日本布教は、神の教会の中で最も重要な事業の一つである旨、断言する
 ことが出来る。

ヴァリニャーノの日本人観。

 何故なら、国民は非常に高貴且つ有能にして、理性によく従うからであ
 る。

日本は、征服事業の対象外。
不向きな国である。


 尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。

理由は、二つ。

一、日本の国土。
  不毛で貧しい。


 何故なら、
 日本は、私がこれまで見て来た中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、
 求めるべきものは何もなく、

一、日本の軍事力。
  きわめて、強力。
  征服不可能である。

 また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練をつんでいるので、
 征服が可能な国土ではないからである。

日本は、利用すべき国。
重要なパートナーである。


 しかしながら、シナに於いて陛下(フィリペ2世)が行いたいと思っている
 ことのために、
 日本は時とともに、非常に益することになるであろう。

 それ故日本の地を極めて重視する必要がある。
                      1582年12月14日付
               「フィリピン総督宛ヴァリニャーノ書簡」
          【重史257】(「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎著)

ヴァリニャーノの心の中には、信長がいた。
天正九年1581、二月出会い~七月別れ。

すなわち、
信長の存在が抑止力になった。
つけ入る「隙」を与えなかった。
そういうことになる。

天正十年1582、六月。
信長没後、その路線は、→秀吉→家康へ。

結果、日本は、侵略されず。
その様な見方もできよう。



 ⇒ 次へつづく




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