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【日本音楽史】⑯1960年代 「ナベプロ帝国」のテレビ時代

日本の音楽史を古代から令和まで概観していくシリーズです。
以下リンクに記事をまとめていきますので是非フォローお願いします。

■参考文献リストはこちら

過去には西洋音楽史編(クラシック史+ポピュラー史)もまとめておりますので、そちらも是非チェックお願いします。

●クラシック史とポピュラー史を繋げた図解年表 (PDF配布)
●分野別音楽史
●メタ音楽史


【概観 日本音楽史】 
ここまでの記事 ↓
 まえがき
 ①古代~上代
 ②平安時代~鎌倉時代
 ③室町・戦国・安土桃山
 ④17世紀前半~中盤(江戸時代初期)
 ⑤17世紀後半~18世紀初頭(元禄時代の周辺)
 
⑥18世紀(享保期 ~ 宝暦・天明文化)
 ⑦19世紀前半(化政文化~天保期・幕末にかけて)
 ⑧黒船来航と西洋音楽
 
⑨明治政府の洋楽導入大作戦!(明治時代前半)
 ⑩19世紀末~20世紀初頭「世紀転換期」の混沌(明治時代中期)
 
⑪明治時代末期~大正時代前半 ― 民衆へも定着し始めた「洋楽」
 
⑫1920年代「モダニズム」の開花(大正末~昭和初頭)
 
⑬1930年代の頽廃「エロ・グロ・ナンセンス」の時代
 ⑭1940年代の凋落 「戦時下」から「占領下」へ
 ⑮1950年代 ― 占領の残響と日本の再出発
 <今回>⑯1960年代 「ナベプロ帝国」のテレビ時代


この記事シリーズでは常に複数の書籍の情報を統合して再構成し記述しているため、個別の出典元を厳密な学術論文の引用形式に即して一文ごとに註記することはしておらず、そのソースについては全体として一括で上記の参考文献一覧の記事でご確認いただきたいのですが、特に今回の記事内容は、第一項(ナベプロ周辺)→ 戸部田誠『芸能界誕生』(2022) 、第二項(演歌批判)→ 輪島裕介『創られた「日本の心」神話:「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(2010) 、第三項(リズム歌謡周辺) → 輪島裕介『踊る昭和歌謡:リズムからみる大衆音楽』(2015)  でそれぞれ詳しく議論されている内容を中心にまとめておりますことを予めここでお断りしておきます。もちろん、その他多数の書籍や資料内容も参照・解釈して執筆していることも重ねてご承知おきいただいたうえでお読みいただければ幸いです。




◉ロカビリー以降の「ポップス」とナベプロ


◆「カヴァー・ポップス」ブーム

1950年代末、東京の若年層を中心に巻き起こったロカビリー・ブームでは、基本的に外国曲のカバーが歌われていました。

当時のロカビリー・ブームを象徴するイベントだった「日劇ウエスタン・カーニバル」では平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎の三人が「ロカビリー三人男」と呼ばれて活躍し、1958年1月に平尾昌晃「リトル・ダーリン」、2月にミッキー・カーチス「小熊のテデー」、4月に山下敬二郎「バルコニーに坐って/ダイアナ」と、彼らは皆、同時期にレコードデビューを果たしています。さらに同年7月には平尾昌晃の歌う「星はなんでも知っている」も大ヒットしていましたが、これらの楽曲はいずれも当時のアメリカン・ポップス/ロックンロールのヒット曲を日本語化したカバーソングでした。

こうした動向がさらに加速し、1960年代初頭にかけて、外国曲に日本語詞を付ける「カヴァー・ポップス」の全盛期となりました。エルヴィス・プレスリー、ポール・アンカ、ニール・セダカなどのヒットソングが相次いで日本語化され、広く人気となります。

そもそも日本では戦前、レコード産業の成立した当初から「ジャズ・ソング」として海外のポピュラーヒットソングのカバーは行われており、戦後もブルース、ブギウギ、シャンソン、マンボ、カリプソなどといった洋楽をリアルタイムで日本語化したものが多く存在していました。ただ、ロカビリー・ブーム以降、海外ヒットソングは「ポップス」と呼ばれるようになり、「ジャズ」と括られていた旧世代のポピュラー音楽や歌謡曲と区別されるようになりました。

つまりこの時期、「ポップス」という語はそれだけで、「(特にロックンロール以降の)洋楽」という意味合いで使われていたのです。

そして、このような東京のジャズ喫茶上がりのロカビリアンたちによるカバーソングの動きは、作詞家・作曲家・歌手がレコード会社と専属契約を交わして制作を行う「専属制度」の下で成り立っていた従来の歌謡曲シーンとは別の界隈の動きとして展開していたものでした。

日本人作家による歌謡曲界は、戦前から続くいわゆる「大手レコード五社」と呼ばれるコロムビア・テイチク・ビクター・キング・ポリドールがそれぞれ独占的に作詞家と作曲家を抱え、彼らが書いた曲を自社スタジオで専属歌手に歌わせるという「専属制度」のシステムで制作されていました。そのような中、1955年に東芝レコードが設立されます。東芝では当初、クラシックやシャンソンのレコードを扱っていましたが、1958年には流行歌へも参入します。しかし設立されたばかりの東芝レコードには当然、作家も歌手もスタジオも専有していません。そこで頼られたのが渡辺晋で、「日劇ウエスタン・カーニバル」を通じてナベプロに見出されたロカビリアンたちによる「カヴァー・ポップス」が次々とレコード化されていったのです。

その東芝専属第一号レコードとなったのが、前述の山下敬二郎のデビュー盤であり、B面曲である「ダイアナ」(ポール・アンカのカバー)が大ヒットとなります。この曲は彼の代表曲となっただけでなく、日本のロカビリーの代名詞のような楽曲として認知されるまでに至りました。


これを契機として欧米のヒット曲に日本語の歌詞を付けて歌う「カヴァー・ポップス」の全盛期が1960年前後に幕を開け、専属作家のいない東芝にとって大きな鉱脈となったのでした。

代表的なヒットとしては、ブライアン・ハイランドの 「Itsy Bitsy Teenie Weenie Yellow Polka-Dot Bikini」 をリアルタイムで日本語化させた「ビキニスタイルのお嬢さん(ダニー飯田とパラダイス・キング)」や、そのB面曲として収録されたジミー・ジョーンズのカバーソング「ステキなタイミング(坂本九)」、コニー・フランシスのカバーである「ヴァケーション(弘田三枝子)」「可愛いベイビー(中尾ミエ)」、ニール・セダカのカバーである「恋の日記(ミッキー・カーチス)」などの多くの例を挙げることができます。


ロカビリアンたちが歌っていたアメリカのヒット曲は、当初のジャズ喫茶では英語のまま歌われていたものが、レコード化されるに際して日本語の歌詞を付けてもらうようになったものでした。その際に非常に多くの訳詞を手掛け、重要な役割を果たした訳詞家が、さざなみ健児です。

実は漣健児は、ポピュラー音楽専門の月刊誌『ミュージック・ライフ』の編集長である草野昌一のペンネームでした。編集者と訳詞家という二つの顔を持っていた草野は、こうしたカヴァー・ポップスで多くの訳詞を手掛け、カバーソングの発展を大きく後押ししました。ロカビリー・ブームに拍車をかけたのは漣健児の訳詞によるところが大きいとまで言われているほどです。また、こうしたカバー盤が『ミュージック・ライフ』誌で大々的に紹介されることによって、さらなる話題となっていきました。

ところで、1950年代末まで日本での外国曲のカバーソングは、その多くが無許可であり、外国の著作権はほとんど顧みられていませんでした。敗戦直後は、アメリカ側も占領政策の文化面での効用の面から黙認する姿勢をとっていましたが、日本が主権を回復して復興が軌道に乗ってもなお、楽曲の無断使用が横行し続けていることが、次第に問題視されてしまいました。

さらに、1959年1月にはフランスからクラシック作曲家のジョルジュ・オーリックが来日します。オーリックは、通常のクラシック音楽史においては戦前の「近代音楽」に属し、エリック・サティの後輩である「フランス六人組」のうちの1人としてひっそりと登場する作曲家ですが、その一方で戦後にはフランス映画の音楽でも活躍してポピュラーヒットを生み出した、映画音楽史上の重要な作曲家でもあったことを、当noteの西洋音楽史編の過去記事でも触れています。

そして実は、当時彼はフランスの演奏権管理団体「SACEM」の会長でもありました。オーリックは日本のJASRACに対して、外国曲のカバーに際し権利者に正当な対価が支払われていないことについて強く抗議しました。この頃のJASRACは楽譜の管理程度しかやっておらず、オーリックは「楽曲に対して勝手に新たな歌詞をつけてはならない。レコード化する場合・ラジオやテレビや映画で使用する場合も、著作権者の許諾を得て必要な対価を支払う」といったことを要求したのです。ここで初めて日本のポピュラーミュージック界に「著作権」という概念がもたらされたのでした。

こうした圧力をきっかけとして、草野昌一も出版ビジネス、権利ビジネス、作家の保護などといったことを勉強し、アメリカの音楽出版各社ときちんと契約したことで、「訳詞家・漣健児」としての活動が飛躍していったのでした。加えて、渡辺晋らナベプロにもそうした「権利ビジネス」というアイデアが草野を通じてもたらされることになります。

このようにして、日本でのカバーソングは海外への正当な権利処理を経て行われるようになったのですが、その一方でオリジナル曲の制作の機運が盛り上がり、ロカビリアンたちはカバーソングと日本オリジナル楽曲の両輪で活動していくことになります。




◆日本オリジナルの「和製ポップス」への動き

ちょうど著作権法が厳密に適用されるようになった1959年、『青春を賭けろ』『檻の中の野郎たち』という、ロカビリアンが大挙して出演する二作の映画が制作されました。この二作の映画は一週違いで公開(1959年7月28日/8月4日)され、十代を対象とした夏休み映画だったといえます。キャストも重複しており、二作同時進行で制作されたものだと考えられます。

この映画の制作に携わっていたのもナベプロだったのですが、ロカビリーをテーマにした映画であるにもかかわらず、上述の著作権問題の観点から肝心のロカビリー楽曲については既存曲の無断使用が許されなくなり、日本人による新作オリジナル曲が急遽必要となってしまいました。

そんなタイミングと前後して、渡辺晋のもとに活動の相談にやってきていたのが、かつて「渡辺晋とシックス・ジョーズ」で活動を共にしたものの袂を分かち「ジョージ川口とビッグ・フォー」で渡辺晋を出し抜いて1950年代のジャズブームを牽引したピアニストの中村八大でした。ジャズ人気の凋落とともに活動に行き詰まった中村八大は、渡辺晋に頭を下げに訪れており、渡辺晋はそんな中村八大にロカビリーを勉強するよう命じていました。

そして、ロカビリー映画の音楽問題に悩んでいた渡辺晋は、ちょうど仕事をもらいに来た中村八大に映画の音楽担当を依頼します。中村は大喜びでこれを引き受けましたが、中村と面識がなかった東宝側のプロデューサーからは、「翌日までに10曲の楽曲を用意するように」とオーディションが課されます。

それまでジャズ一筋でやってきた中村は作詞家のツテもなく、途方に暮れながら帰路につきますが、その途中でたまたま放送作家の永六輔とばったり出会いました。永もまた放送作家一筋で作詞の経験はありませんでしたが、中村の相談に即座に応じ、そのまま2人は中村の自宅へ直行し、夜を徹して作業に取り掛かります。2人はそれぞれ10曲分の歌詞とメロディーを制作、そこから原稿を突き合わせて調整を行いつつ、同時に中村が編曲を進めます。さらに写譜屋を呼んでオーケストラ用の譜面を書き起こすという作業を一日がかりで行い、こうして突貫工事で完成した10曲を持って中村が東宝撮影所へ直行し、プロデューサーへ楽譜を手渡しました。結果、これらの作品が認められ、中村の音楽は映画に正式採用されることとなったのでした。

そして、二作の映画に採用されたこれらの楽曲の中から、水原弘の歌う「黒い花びら」「青春を賭けろ」といった曲が大ヒットとなります。そして、ここに誕生した、永六輔作詞・中村八大作曲の最強タッグ「六八コンビ」によって、このあとさらに数々の名曲が生み出されていくことになります。

この頃、レコード会社大手5社(コロムビア、テイチク、キング、ビクター、ポリドール)は、所属する専属作家が作る歌謡曲の新作レコードを毎月発売していましたが、ロカビリーに代表されるような潮流は反映されていませんでした。

巷では、日劇ウエスタン・カーニバルによって興ったロカビリーブームで新しい動きが生まれているにもかかわらず、大手からの新譜はそれらとはかけ離れている・・・。戦前からの大御所作曲家となっていた服部良一や古賀政男は、そうした状況に対して深い危機感を抱いていました。

そこで服部良一は、作曲家仲間の有志とともに立ち上がり、各社の作曲家たちに呼びかけて、1958年末に「日本作曲家協会」を設立します。初代会長には古賀政男が就任。さらに古賀や服部は、グラミー賞を参考にして、日本にまだ存在していなかったディスクグランプリを構想しました。「戦前派の歌謡曲と戦後派のロカビリーとの世代間にできた空白を埋め、“新しい日本の歌” を育成する」という理念が掲げられ、1959年、「日本レコード大賞」が制定されます。古賀は自ら運営委員長を引き受け、「私財をなげうってでも大賞を実施する」とまで宣言しました。

しかしこうした理念は、ほとんどのレコード会社の経営陣には全く理解されませんでした。テレビ局も同様で、絶大な力を持つレコード会社を敵に回すわけにはいかず、協力は得られません。そんな中で唯一、前向きな姿勢を示したのがラジオ東京テレビ(現在のTBS)でした。レコード会社各社の了承を何とか取り付けて、1959年12月27日、第一回レコード大賞発表会『輝く!日本レコード大賞』が生中継されました。ただ、放送はわずか30分のローカル枠であり、会場は2000人収容にもかかわらず、集まった観客は200人程度と、盛況とはほど遠い状況でした。

レコード会社からの反発を受け、マスコミからの十分な協力も得られず、経費の不足分は古賀が自己負担してまで始められた第一回レコード大賞。その第一回大賞に選ばれたのが、水原弘「黒い花びら」だったのです。この受賞は、結果的に旧態依然としたレコード会社に大きな一撃を食らわせることになります。

本来、こうした賞では第一回目に権威ある作品を選ぶことで、その価値を高めていくのが通例ですが、古賀や服部は敢えて、レコード会社と専属契約を結んでいない新人作曲家の作品を選んだのです。

古賀や服部はかつてレコード会社に大きな恩恵を受けて仕事をしてきた作曲家でしたが、同時に「専属制」という束縛に苦しめられてもきていました。そこで、中村八大のような作曲家が新しい音楽を生み出している現状に注目し、「彼に栄誉ある賞を与えることで音楽業界の構造を変える端緒としよう」というふうな思惑があったのではないかともいわれています。実際、その後「六・八コンビ」は専属制度の壁を越えてさまざまな歌手に幅広く作品を提供するようになり、専属制度が形骸化するきっかけとなっていきます。

また、既存の専属制度から生まれる歌謡曲とは異なる、洋楽志向のシンガーたちが歌った日本オリジナルの日本語楽曲は、「和製ポップス」というジャンル名で呼ばれるようになりました。

現代の我々からすると、この「和製ポップス」という語は何重にも違和感を覚える表現かもしれませんが、当時の意味で「ポップス=洋楽」ということから、「洋楽的感覚の強い日本曲」のような意味として出現し、使われていったということです。

ただし、専属制度の解体の動きに繋がったとされるこのような動きですが、これをもって「古臭くダサい邦楽から脱皮し、日本の音楽が洋楽化した」ということでは全くありません。「洋楽志向の日本楽曲」という試行は、戦前から現代まで、幾度となく繰り返され続けている連続的な動きです。

そもそも大正時代のレコード流行歌の開始地点で、それは「洋楽風」の試みでした。それが、世代が進むにつれて古くなると「(悪しき)日本風」と読み替えられ、最新の洋楽を志向する新たな動き・ジャンルが現れます。しかし、それが古くなると、再びそれが「(悪しき)日本風」と読み替えられ、さらに最新の洋楽を志向する新たな動き・ジャンルが現れるのです。

現代の我々の耳で当時の楽曲を聴いても「和製ポップス」は洋楽風というより「古い歌謡曲」のようにしか聴こえないように、「和製ポップス」はその後、「歌謡曲・演歌」の一部として包含されていきます。そして、後の時代にはそうした旧来の日本の歌謡曲と区別して、更に新たな洋楽志向の動き「ニューミュージック」が出現します。さらに、「ニューミュージック」も「歌謡曲」に包含された後には、新たな洋楽志向のジャンル「J-POP」が出現することになります。さらに時間がたつと、「J-POP」すらも「(むしろ非・洋楽風の)日本曲」というニュアンスが含まれるようになって、現在に至るのです。

狭義の「ロカビリー・ブーム」自体として騒がれたのは1950年代末のごく短期間でした。1960年代初頭の「カヴァー・ポップス」ブーム全盛期になると、音楽はバンド中心ではなく歌手中心で成り立つようになり、ジャズ喫茶からシンガーだけが引き抜かれてデビューするようになります。ジャズ喫茶やそこで行われるバンド演奏はシンガーにとっての芸能界への「踏み台」となってしまい、「カヴァー・ポップス」の盛り上がりで本来のロカビリーの流行が廃れていくと、倒産するジャズ喫茶も相次いだといいます。

しかし、米軍基地ルーツのロカビリアンたちによって、当時にとっての洋楽志向の新しい「和製ポップス」が生み出されていったことで、それまで強固だった歌謡曲の専属制度に外部からの切れ込みが入ったという意味では、ロカビリーが日本の歌謡界に与えた影響は大きかった、とは言えるでしょう。



◆ナベプロが支えた3つのテレビ番組

「日劇ウエスタン・カーニバル」の成功を受けて、渡辺晋・美佐夫婦が次に狙いを定めたのが「テレビ」でした。ナベプロはテレビ局との関係を深めていき、1960年代初頭の「カヴァー・ポップス」やその影響を受けた「和製ポップス」が、この時期に放送開始した数々のテレビ番組でさかんに紹介されてお茶の間へ広まっていくことになります。その代表的な番組が、フジテレビ『ザ・ヒットパレード』、日本テレビ『シャボン玉ホリデー』、そしてNHK『夢で逢いましょう』の3つです。

前回触れた通り、日本でテレビ放送が始まったのは1953年のこと。NHKが1953年2月にテレビ放映を開始し、民間テレビ局第一号としては日本テレビが同年8月28日に放送を開始。まだこの頃はラジオや映画が全盛で、テレビは「電気紙芝居」などと揶揄されて一段も二段も下に見られていました。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう。これでは “一億総白痴化” だ」という批判が流行語となったほどです。

映画は戦後、製作本数・観客動員数が増加の一途をたどり、1958年にピークを迎えますが、1958年はテレビ電波を発する東京タワーが完成した年でもあるのが象徴的で、これ以降、庶民の娯楽の座は次第に映画からテレビに移り始めます。ラジオについても、NHKラジオ受信契約数は横ばいから下降線の傾向になっていっているのに対し、テレビは急速な上昇傾向にありました。

1959年には民間から皇族に嫁ぐことになった美智子妃が注目の的となり、皇太子ご成婚のパレードがテレビ普及の決定打となりました。この年をもってテレビが「普及」したとされています。こうして、1960年代は本格的にテレビの時代の到来となります。

歌謡曲では、1958年に開局したNHK高知支局の放送でジャズ歌手のペギー葉山がもともと民謡だった「南国土佐を後にして」を歌ったところ評判を呼び、その後NHK『歌の広場』で取り上げられて全国から多数の反響を得て、1959年にレコード化され大ヒットとなっています。ある意味ではこれが「テレビから生まれたヒット曲」の最も先駆的な例と言ってよいかもしれません。1960年代に入っても、映画からは日活の小林旭や東宝の加山雄三といったスターは登場していきますが、この辺りを境にスターやヒット曲が生まれる発信源の比重はだんだんと、映画ではなく本格的にテレビが中心となっていきます。そこで活躍したのが、ナベプロ所属のタレントたちだったのでした。


1955年開局のラジオ東京テレビ(現TBS)に続いて、東京で4番目の局としてフジテレビが放送開始したのも1959年で、このフジテレビの開局とほぼ同時に始まった音楽番組『ザ・ヒットパレード』の存在が、まずテレビ業界とナベプロ・音楽業界が深く結びつく大きなきっかけとなります。

番組の企画内容は「人気のある洋楽曲を日本人がチャート順に日本語カバーして歌う」というもの。番組を企画したフジテレビディレクターは椙山すぎやま浩一(のちの作曲家・すぎやまこういち)であり、彼もまた、番組の立ち上げに際してナベプロの渡辺晋に相談を持ち掛けていました。

当初この企画はフジテレビの制作部からは支持されておらず、「3ヶ月もちますかねえ」と揶揄されるほど期待されていませんでした。しかしすぎやまが「最新のアメリカン・ポップスを日本人に歌わせる」という企画を渡辺晋に説明すると、晋は「なるほど、その手があったか」と即賛同し、助け舟を出すことを約束します。なんと出演者の提供はもちろん、番組が軌道に乗るまでは製作費・出演料はタダでいい、という破格の条件を提示したのです。

つまり、この番組は渡辺プロが製作費全額負担の自社制作という形で始められたのでした。渡辺プロのスタッフは、すぎやまにタレントたちのスケジュールをつまびらかにし、最大限自由に使わせました。唯一の条件は「企画制作・渡辺プロダクション」とクレジットすること。これはもちろん、日本のテレビ界で初めてのことで、プロダクションが出演者とスタッフを丸ごと提供し実質的に番組制作を行う「ユニット方式」「ユニット番組」という方式の始まりになります。渡辺晋は「テレビの時代が来る」と確信し、最低限の予算しか与えられていないことを知りながら、そこに大胆な投資を決断したのでした。

結果的に番組は、晋の思惑どおり、すぐに視聴率20%を超える大人気番組となりました。ミッキー・カーチスや長沢純の総合司会により、毎週人気歌手が多数出演してステージが繰り広げられ、テレビがお茶の間に浸透するきっかけを作ったとまで言われるほどの、当時を代表するテレビ番組となります。

渡辺プロのタレントたちの人気もみるみる上がっていき、新人はこの番組に出て知名度を上げることができました。そのうえ「渡辺プロ」というプロダクション自体の名前も売れ、制作費として安定した収益を得ることができるようになりました。

『ザ・ヒットパレード』は1959年から12年間続き、最大で30%の視聴率を獲得。「カヴァー・ポップス」がお茶の間へ浸透していく原動力となります。この人気音楽番組の出演者の選択権を握っていたことによって、渡辺プロの業界内地位は飛躍的に高まり、渡辺プロはテレビ界において絶大な力を持つこととなったのです。


『ザ・ヒットパレード』が開始した二年後の1961年、渡辺プロはそのノウハウを活かして、今度は日本テレビで音楽バラエティ『シャボン玉ホリデー』を自ら制作し始めます。この番組では、渡辺晋のジャズ時代からの古い仲間であったハナ肇とクレイジーキャッツや、坂本九と同年生まれの双子姉妹ユニットのザ・ピーナッツなど、渡辺プロが抱えるタレントが主役に据えられ、歌やコントが繰り広げられたのでした。自社のタレントを売り込むだけでなく、テレビ界にバラエティ番組を定着させようという戦略もあったといいます。

この番組の中でひときわ人気を博し、視聴率アップに貢献したのが、クレイジーキャッツの植木ひとしでした。「お呼び出ない」「はい、それまでよ」など、番組内で次々と流行語が生み出されていきました。彼のキャラクターに目を付けた渡辺晋は、植木をメインにしたオリジナル曲を企画。彼の口癖である「スーイスイ」「スラスラスイスイ」を取り入れた「スーダラ節」を完成させ、番組内で歌われました。


「スーダラ節」は1961年に東芝レコードから発売されましたが、実際に制作を行ったのは東芝ではなく渡辺プロでした。これがレコード会社以外で「原盤」が制作された初のケースとなります。

それまでの日本のレコード制作においては、当然ながらレコード会社が絶大な力を持っていました。レコード会社はレコードに関するすべてを取り仕切っており、レコードに関するほぼすべての権利を保有することで利益を得ていました。芸能プロダクションが口を出せるのは、興行についてのみ。テレビ局との折衡もプロダクションではなくレコード会社の宣伝部が行っていたのです。つまり、芸能プロダクションは、レコード会社やテレビ局に比べて、最も弱い立場にありました。もっと言えば、レコード会社やテレビ局にとって芸能プロダクションは、雑務を担う “便利屋” のようなものにすぎませんでした。

しかし、ナベプロは「スーダラ節」の原盤を渡辺プロで制作すると言い出したのです。これはレコード会社としては一大事でした。レコード会社からしてみれば、原盤の権利を渡すということは、レコード会社が得ていた利益の大半を失うということになってしまうからです。もちろん、大手5社にそんな話をすれば、一笑に付されるのがオチだったでしょう。しかし、東芝レコードは新興の会社で、渡辺晋の口利きによって水原弘や山下敬二郎のヒット作を手掛けることが出来たという恩もありました。東芝は「やむを得ない」と、苦渋の決断をします。1961年8月に発売した「スーダラ節」は大ヒットを記録し、渡辺プロは多大な利益を獲得したのでした。

実は渡辺晋はこのころ、著作権関連について広く学んだ草野昌一(漣健児)から、このような「原盤制作」というビジネスがアメリカで盛んに行われていることを教わっていました。「原盤(音源)」を自社で作り、それをレコード会社に売り込み、原盤使用料契約を結ぶというやり方は、製作費のリスクはあるが権利を保有できるため、曲がヒットすれば大きな利益を得ることができます。

原盤制作を恒常的に行う態勢作りのため、1962年、渡辺プロは渡辺音楽出版という「音楽出版社」を設立。渡辺プロのタレントが歌う歌は渡辺音楽出版社の作詞・作曲家が手掛け、作られた自家製の原盤をレコード会社に供給するという体制を確立しました。こうして、ヒット作りにはプロダクションの存在が欠かせなくなってしまいます。「スーダラ節」をきっかけに、日本に原盤ビジネスがもたらされたのです。

芸能プロダクションの企画・製作にしたがって、支配下の音楽出版社が原盤を制作し、レコード会社はそれを販売するだけ、という新しいレコード制作の在り方もまた、旧来の専属制が崩れ始める一因となっていきます。芸能プロダクションとレコード会社との力関係は大きく変わり、逆転していきました。


『シャボン玉ホリデー』の開始と前後して、NHKも1961年に音楽バラエティ『夢で逢いましょう』の放送を開始しています。音楽とトーク、ダンス、コントを見せる30分の生放送でした。中でも、この番組の名物コーナーとなったのが『今月のうた』。毎月、番組から楽曲が発信されていき、数多くのヒット曲が生まれたのですが、その楽曲制作を行っていたのが、永六輔作詞・中村八大作曲の「六・八コンビ」でした。

中でも最大のヒット作といえるのが、1961年10月/11月の「今月のうた」として発表された「上を向いて歩こう」です。その反響は凄まじく、同年10月にレコードが発売されると爆発的なヒットとなります。これを歌った坂本九は、テレビが生んだ新しい時代のスターに君臨しました。永六輔・中村八大と合わせて、この布陣は「六八九トリオ」とも呼ばれました。

発売から3か月で30万枚を突破し、『ミュージック・ライフ』誌に掲載されていた当時の国内盤売り上げランキングでも1位を独走するなど、売り上げだけを見れば相当なものでしたが、“不良の音楽” とされたロカビリー出身の坂本の独特な歌い回しが耳に合わない保守的な層も多く、その層からの評価は高くありませんでした。日本レコード大賞にも選ばれていません。しかし、そうした評価は世界での大成功により覆されます。

この楽曲は海を渡り、「SUKIYAKI」というタイトルでイギリスやフランスでも話題となり始めたのです。ついに翌々年の1963年にはアメリカのビルボード誌で一位を記録する快挙を成し遂げました。


『夢で逢いましょう』出演者の一人だった黒柳徹子は、当時は「全米ビルボード1位」というのがどれほど凄いことなのか判らず、「SUKIYAKI」として世界各国で発売されていることに対して坂本九に「よくやった」「おめでとう」と言ってあげることができなかった、作詞の永六輔や作曲の中村八大も、特に喜んでいる素振りもなく、普通にしていた、と語っています。

「上を向いて歩こう」以外にも、『夢で逢いましょう』の「今月のうた」コーナーからは、永六輔作詞・中村八大作曲によって「遠くへ行きたい」「こんにちは赤ちゃん」などのヒット曲が次々に生まれました。梓みちよの歌った「こんにちは赤ちゃん」は1963年のレコード大賞を受賞しました。


このようにして、多くのヒット曲がテレビから生まれる時代になり、渡辺プロは黄金期を迎えます。映画や舞台・ラジオ出身のスターがテレビにも進出するというそれまでのケースではなく、「テレビが生んだスター」として、クレイジーキャッツ、ザ・ピーナッツ、坂本九が台頭したほか、伊東ゆかり中尾ミエ園まりナベプロ三人娘(またはスパーク三人娘)と呼ばれました。

渡辺プロは、放送局に自社のタレントを送り込み、傘下の音楽出版社が管理する音楽を使用させ、その使用料を徴収するというシステムで多大な利益を得ていました。『ザ・ヒットパレード』『シャボン玉ホリデー』『夢で逢いましょう』という3つのテレビ番組の大成功によって、「ナベプロなくしては歌番組やバラエティ番組は作れない」と言われるほどの独占状態が築き上げられ、こうして渡辺プロダクションは、音楽芸能世界を掌握するに至ったのでした。




◉ “歌謡曲” 界 本流の展開と “演歌” への道


◆御三家の登場と「青春歌謡」

洋楽志向の若者たちを主たる購買層とするひとつのシーンが形成されつつあった「ポップス」の界隈に対して、強固な専属制度を基盤としていた “本流” の歌謡曲界では、三橋美智也・三波春夫・村田英雄らの歌う田舎調歌謡と、対抗するフランク永井・マヒナスターズ・松尾和子らの歌う都会調歌謡が、共に全盛期となっていました。

作曲家陣においては、船村徹遠藤実「田舎調」の旗手として活躍する一方、吉田正「都会調」のスタイルを確立していました。吉田は、フランク永井・マヒナスターズ・松尾和子といった米軍基地出身の歌手が歌うに相応しいジャズやハワイアンの要素を織り込んだ楽曲を打ち出していました。

吉田は、その門下から多くの歌手を輩出したことでも知られ、「吉田学校」と表現されるほどでした。その出身者には鶴田浩二三浦洸一といった一群が挙げられますが、そのラインナップに加わって、吉田門下に新たに登場したのが、橋幸夫です。都会派歌謡の開拓者である吉田ですが、実は田舎調の路線にも挑戦しようとしており、そこでロカビリーに対抗する形で、当時まだ17歳の少年だった橋幸夫に古風な歌謡曲を歌わせてヒットさせる形となったのです。

橋幸夫は、1960年潮来いたこ笠」で鮮烈なデビューを果たします。ロカビリーブーム真っ只中において、ロカビリー歌手のような10代の若者が「三度笠と着流し」という和装姿で、既に時代遅れだった典型的な股旅物を歌う、という “ギャップ” が注目を集めたとされ、それはつまり、現在と同じく当時の段階でも既に和服や古風な要素というものが一種の「コスプレ」的な衣装として受け取られていた、ということが指摘できます。この受容スタイルはその後、平成時代の氷川きよしにまで引き継がれていきます。

当時、映画でも時代劇が全盛で、浪曲調や民謡調といった日本調歌謡のヒット曲も続いていました。そうした中で、坂本九よりも二歳年少の高校二年生だった橋幸夫という若手が和装することで新鮮なヒットを創出させようとしていたのです。実際にこれが画期的なコンセプトとなり、橋幸夫の登場によって第二回レコード大賞から「新人賞」が新設されたほどでした。日本調・田舎調はそれまで春日八郎、三橋美智也、島倉千代子など大人が歌うことが常識でしたが、橋幸夫は「10代の歌はロカビリーだけでは無い」ということを示した形となったのでした。


橋幸夫はもともと、小学生のころから遠藤実の門下生でした。当時の歌謡界では徒弟制度が色濃く、大物作曲家の元で修業し、その庇護を受けてデビューするのが通例でした。しかし、遠藤が専属していたコロムビアのオーディションに、橋幸夫は「若すぎる」という理由で不合格となってしまいます。納得のいかなかった遠藤は他社のオーディションを探し、橋は異例ながらビクターからデビューすることになります。専属制度がまだ強く残っていた当時、他社からデビューするとなれば、遠藤は自分の元から橋を手放さなければなりません。それでも遠藤は橋のデビューにこだわり、ビクター専属であった吉田正に橋を引き渡すことになりました。引き渡し時には遠藤自身が橋に同行して吉田のもとへ挨拶に出向いたといいます。こうして橋幸夫は、遠藤実から吉田正へと託され、ここで吉田正は作風を広げることに成功したのでした。

橋幸夫はその後、エレキギターやロックビートを取り入れた「リズム歌謡」も歌っていき、都会調/田舎調という区分を越境した立ち位置の若手として位置付くことになります。


一方、1960年にホリプロを立ち上げた堀威夫がスカウトし、遠藤実のもとに預けられ、1963年6月「高校三年生」でデビューしたのが舟木一夫です。着流し姿の橋幸夫に対して、舟木一夫は学生服姿で登場し、10代を象徴するイメージを表象していました。舟木は「高校三年生」を始点として「修学旅行」「学園広場」「花咲く乙女たち」など、高校生活を主題とした歌を次々にヒットさせ、「青春歌謡」というジャンルで称されました。

実は「舟木一夫」という芸名は、もともと遠藤実が橋幸夫に用意していたものでした。つまり、もしも橋幸夫がコロムビアのオーディションに合格し、そのまま遠藤門下としてコロムビアからデビューしていた場合、彼が「舟木一夫」を名乗っているはずだったのです。この話はファンの間でも有名エピソードとして知られています。


実際の「舟木一夫」がデビューした1963年、コロムビアの常務兼レコード事業部部長だった辣腕プロデューサーの伊藤正憲が、会社の方針に反旗を翻して独立し、「日本クラウン」が設立される、という事件が起こりました。レコード会社最大手だったコロムビアで発生したこの内紛・独立騒動は「クラウン騒動」と呼ばれています。このクラウンから1964年にデビューすることになった新人が、西郷輝彦でした。西郷輝彦は初恋をテーマにした「君だけを」でデビューし、大きな話題となりました。


橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の三人は日本中を沸かすスーパースターとなり、「御三家」と名付けられました。彼らが歌う、10代を主役とした歌謡曲は「青春歌謡」と呼ばれ、ヒットを連発しました。三人とも非ナベプロ。この「御三家」ブームは、絶大的なタレント層を誇っていた渡辺プロと対照的な立ち位置として盛り上がったと言うことができるでしょう。

この御三家の「青春歌謡」に追従するかのように三田明「美しい十代」でデビュー。梶光夫、安達明、久保浩といった後続が生まれ、「青春歌謡」や「学園ソング」が60年代歌謡曲の一つの大きな潮流となります。


戦後復興期から高度経済成長期にかけて、集団就職列車に代表されるように都市の労働力として多くの若者が地方から都会へと移住。1947年生まれの「団塊の世代」の中学卒業が1962年で、集団就職のピークが1961年からの約五年間でした。そうした背景が「青春歌謡」ブームにも影響していたとみられ、特に1964年の井沢八郎「あゝ上野駅」はその状況を題材とした代表作に挙げられます。




◆田舎調(民謡調・浪曲調)の系譜

上述のように橋幸夫は幼少から田舎調の遠藤実に育てられ、デビュー以来「股旅物」を多く歌い、しかもそれは都会調で活躍していた吉田正の作曲によるもので、若さと古い素材のギャップを武器にアイドル的人気を獲得して「御三家」「青春歌謡」として立ち並び、後にはリズム歌謡へも進出、というふうに越境的な立ち位置で活躍していました。その一方でもちろん「田舎調」ド真ん中の系譜といえる、民謡や浪曲を取り入れた潮流も、歌謡曲界でまだまだ継続して発展しています。

船村徹は、1961年に村田英雄の歌う「王将」を作曲して大ヒットさせましたが、企画時点で「明治生まれでないとこんな企画は持ち込まない」と難色を示されたほどの時代錯誤的なものだったといいます。それほかの歌謡曲に比べても、船村の「田舎調」が提示する日本らしさは、古臭く下品なものとして映っていたようです。


同じころ、遠藤実の門下からはこまどり姉妹も登場しています。ここで注目したいのは、ここまで「田舎調歌謡」の楽曲は決して「演歌」とは呼ばれていなかった一方で、色街やお座敷といった妖しく猥雑な反社会的・水商売の世界で歌われる “流し歌” に対しては「演歌(歌)」と表現される場合があった、という点です。

(現在の公的な報道において「ホスト」や「デリヘル嬢」が「接客業」や「風俗店店員」などと言い換えられて報道されるように、当時の報道において「流し」を改まった形に言い換える場合に「演歌師」という語が用いられていたのが主な用例だったようです。)

「流し」の稼業を涙を忍んで耐えるイメージが強調されてプロモーションされていたこまどり姉妹は、そのような文脈の「演歌」の語が「田舎調歌謡」と結びけられていく先駆的な例として位置付けることができます。

三味線を抱えた「流し稼業」の「演歌」イメージを携えたこまどり姉妹は、当時売り出されたばかりの「ザ・ピーナッツ」にあやかって「純日本調のザ・ピーナッツ」「演歌版ザ・ピーナッツ」というふうに対比されて表象されました。


続いて1962年に25歳でデビューしたのが北島三郎でした。北島もまた、函館から上京後に船村徹の弟子となり、正式デビューに至るまでの6年間の下積み時代に渋谷で「流し」を生業にしていました。こまどり姉妹の場合と同じく、色街の「流し」と結びついていた猥雑でアウトローな「演歌(艶歌)」の語と、「田舎調・日本調」の歌謡曲との接続点がここにも見出されます。北島は、流しの「アウトロー」のイメージを前面に出し、「やくざっぽい」雰囲気を最大の魅力としてデビューしたのでした。

その結果、デビュー曲「ブンガチャ節」は、夜の巷で「流し」が歌う猥歌をいかにも “それ風” の歌手が歌うということが「放送にふさわしくない」とされ、二週間で発売禁止になってしまったほどでした。しかし発禁に負けず、続く2枚目のシングル「なみだ船」が早くも大ヒットし、歌手としての地位を築きます。北島はその後も「やくざ」「仁義」のイメージを前面に出して活躍。この人気は、同時期に東映映画で「任侠映画」というジャンルが確立されつつあった時代潮流とも共鳴していました。北島三郎はその後、「函館の女(1965)から始まる「○○の女」シリーズなどによって北島流の演歌を確立していきます。


それまで、健全な西洋歌曲と比べても「猥雑・下品・頽廃的」として否定されるべきものであった「怪しい色街の “流し” “演歌”」の不健全イメージが、この時期の「田舎調歌謡曲」のフィールドにおいては、こまどり姉妹の「涙を忍んで下積み稼業を耐える」イメージや北島三郎の「やくざ」「仁義」「任侠」というイメージに媒介されて、むしろ庶民の心情や文化伝統の真正なる表現として肯定的に意味付けられるようになったことで、戦後日本文化における「 “日本的” なもの」への否定的評価が転換し、克服されていきます。その過程において、「田舎調歌謡曲」と「演歌」が統合されて捉えられるようになっていった、と考えられるのです。

「猥雑なもの」とされながらも戦前・戦後と連綿と続いた「お座敷ソング」の系譜としても、五月みどりがこの時期に「おひまなら来てね」「一週間に十日来い」などを唄うなど、一定の人気を保っていました。そうした流れも含めて、「歌謡曲/演歌」の統合が起きようとしていたのでした。


北島三郎に続く担い手として、1964年デビューの都はるみが注目されます。都はるみは「アンコ椿は恋の花」でブレイク。浪曲風の歌い方をデフォルメしたような「唸り節」が特徴とされました。さらに都はるみと並んで、同年デビューの水前寺清子も注目されました。水前寺清子は「涙を抱いた渡り鳥」でブレイク。さらに、「出世街道」でヒットを放った畠山みどりの出現も、「浪曲歌謡」の系譜をさらに広げていきました。これらの潮流によって、浪曲由来の「こぶし」「唸り」を意図的に強調する歌唱法が「歌謡曲/演歌」を規定する一要素として特徴付いていくことになります。


こうした浪曲調歌謡曲の隆盛に対して敏感に反応し、この時期の作風に取り入れたのが、古賀政男美空ひばりでした。二人のタッグによって1964年末に発売のやわらや、1966年「悲しい酒」が放たれ、この2曲のヒットによって美空ひばりは、現在一般に流通する「演歌の女王」のイメージが決定づけられることとなります。

1964年の東京オリンピックでは、柔道が初めてオリンピック正式競技となったことや、そこで日本選手が金メダルを獲得する活躍を見せたことによって柔道ブームが過熱しており、「柔」はその熱気に追随した楽曲として大ヒットとなり、1965年のレコード大賞受賞曲にもなりました。


古賀政男にとっては、当時の船村節を凌駕するために「古賀メロディー」を自己変革していく必要がありました。そこで、美空ひばりへ接近。新興勢力である船村徹中心の浪曲歌謡路線を踏襲することによって、古賀政男はその長いキャリアの中で最後の黄金時代を築くことに成功したのです。

ここで留意すべきなのは、この2曲の路線は美空ひばりの典型的スタイルというわけでは無いという点です。「浪曲調」路線を踏襲した曲調は、「その時のブームの一つ」として取り込まれたものと解釈できるものです。

この時期の歌謡曲界には、現在の意味での「演歌」の典型とみなされる歌手・曲調・歌唱技法が出揃ってはいますが、当時の歌手はそのスタイル一筋では無く、その時々で流行を取り入れて様々な楽曲を歌っていました。そして、その雑多性を最も反映していた歌手が美空ひばりだったといえます。美空ひばりは驚くべきレパートリーの広さを持っており、それは「その時々に流行しているものならばなんでも取り入れる」というレコード産業および映画産業の基本姿勢を最も忠実に反映していたためでした。彼女は万能選手であることによって歌謡界と映画界に君臨していたのです。

こうした流れにある中で、古賀政男と美空ひばりのキャリアにおける爛熟期のヒットとなった「柔」「悲しい酒」は、むしろ全盛期を過ぎた二人の大物が新興勢力の船村の泥臭い方向に擦り寄ったことで成功した楽曲だということができます。しかし、この2曲があまりにも巨大な「代表曲」となってしまったがために、そのほかの多様な側面は塗りつぶされ、このあと「演歌」ジャンルが本格的に成立するに伴って(この路線の)美空ひばりが「演歌」の代表的存在に位置付けられてしまった、という流れが実際のところのようです。




◆夜の巷の「地方もの」「ブルース演歌」と有線放送

このように、不健全な夜の街の “流し” の要素や「演歌」の語が、この時期のレコード歌謡の領域で「田舎調・浪曲調・日本調」の歌手イメージと結びついていくようすをみていきましたが、実際の夜の街では “流し” が歌っていた歌は「和風・日本調・お座敷調」だけではありませんでした。したがって、多様なルーツを携えたそのような “流し” の要素と歌謡曲歌手との結びつきも当然、「田舎調歌謡」の領域以外でも発生しています。

まず注目されるのが、1950年代後半から1960年代にかけて、日活映画界から台頭したスター、小林旭です。小林旭は日活映画で、“タフガイ” の石原裕次郎と対をなす “マイトガイ” のニックネームで売り出され、人気を博しましたが、彼の歌った歌謡曲のレパートリーは無節操なまでに多彩でした。

1960年には「アキラのダンチョネ節」「アキラのズンドコ節」など、民謡調のコミックソングもヒットさせており、民謡歌手ではないが民謡調で売り出された融合感覚は、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」のヒットとも関連性がみられます。ただ、小林旭は民謡調にとどまらず、当時の歌謡曲の総合的な実態を反映するようにジャズやラテンなどの洋楽テイストも採り入れた、ありとあらゆる曲調を歌いこなしました。このレパートリーの広さと、「ギター流し」のイメージが相関しています。

夜の街でギターを携え、お客のリクエストに何でも応える「流し」は、要は「何でも歌うヤツ」という存在。このイメージを決定づけたのが、小林旭主演の日活映画『渡り鳥シリーズ』でした。

ペギー葉山盤のヒットを受けて1959年に小林旭主演で制作された映画『南国土佐を後にして』が成功した後、その流れを受けて制作されたのが、同年公開のアクション映画『ギターを持った渡り鳥』でした。その作中で小林旭が歌い、同年にシングルとしても発売された同名主題歌も大ヒットを記録しました。この映画の主人公こそが「ギター流し」という設定であり、以降1962年まで、主人公の設定を引き継いだ合計8作の『渡り鳥シリーズ』が制作されました。この一連の映画シリーズを通じて、日活アクションスターとしての小林旭は多様な音楽を歌いこなす「ギター流し」のイメージも広まっていったのでした。


この時期の「流し」出身歌手として、アイ・ジョージも挙げられます。彼はメキシコ風の衣装で外国曲を歌う「ポピュラー」の歌手でした。現在の意味での「演歌」からは遠い存在ですが、ありとあらゆる場所であらゆるレパートリーをギター一本で歌うという「世界の流し」を自称しており、これはまさに「渡り鳥アキラ」のイメージと親和的です。彼は自伝の中で「流し」の地位について「一般の社会の常識では流しはやくざの部類に入ると思われている」と、「流し」が一種のアウトローであることを認めている点でも、注目に値します。そして、アイ・ジョージはジャズやウエスタンが得意であったため、そのようなヤクザのイメージは克服されるべき「苦境」であったように位置づけられていました。

対して、そのようなヤクザな「流し・艶歌」イメージを肯定的に転換させたのが先述の北島三郎ですが、彼も「ギター船」「ギター仁義」「ギター泣け泣け」「想い出ギター」など、“ギター” の語がタイトルに入った楽曲を多く歌っており、「ギター流し」のアウトローなイメージがまさに「演歌」と結びついていた例でもありました。

さらに、こうした夜の巷の「流し」の業態の中で、作者不詳の楽曲や既存の専属制度の枠外にある楽曲が歌われ、それがレコード会社の垣根を越えた競作の形でこの時期にレコード化され、一種の「艶歌の新曲」となってヒットした例もみられるようになります。

例えば、1961年発売の「北上夜曲」「北帰行」は、戦前に歌われていたメロディーが戦後、左翼系の「うたごえ運動」によって広まり、大衆化した楽曲ですが、「北帰行」は小林旭によって歌われヒットします。「北上夜曲」は当初の発売版以上に、和田弘とマヒナスターズ多摩幸子によるバージョンが有名となり、それはすなわち都会調歌謡・ムード歌謡の文脈に位置付くミュージシャンによって再解釈された形となりました。

1964年にブームとなった「お座敷小唄」は、こまどり姉妹「祇園エレジー」、久美悦子「裏町小唄」、紫ふじ美「しらゆき小唄」などタイトルを変えて各社で作られましたが、ここでも代表的なバージョンとなったのは松尾和子とマヒナスターズによるものでした。楽曲自体は、七五調の歌詞やヨナ抜き音階・ピョンコ節の旋律など明治~大正期の俗謡を思わせるものですが、アレンジはマヒナスターズのトレードマークであるスチールギターを使った「都会調・ムード歌謡」のサウンドとなっており、また、後述するラテン系ニューリズムの「ドドンパ」も用いられていました。

さらに、1966年には「夢は夜開く」という楽曲が売り出され、多くの歌手がカバーするスタンダードになっています。1966年版を歌った園まりは上述のとおり日劇ウエスタンカーニバルから出発し、初期は「スパーク三人娘」としてナベプロから登場していたロカビリー・ポップス系統の歌手でした。しかし、そのような当時のポップス系女性歌手の多くは、次第にフランスのシャンソンやイタリアのカンツォーネのような落ち着いた曲も歌うようになり、そのような「無国籍歌謡」と呼ばれた流れの連続に、洋風・ジャズ・ブルース風の「ムード歌謡」も位置づくようになっていました。



このように「夜の巷の歌」が歌謡曲化されて「ムード歌謡」として流行するようになったのと同じころに、日本各地の盛り場を歌った「ご当地ソング」が多く表れ、大ブームとなります。

レコード歌謡において「ご当地もの」「地方」という題材は、大正期の中山晋平「波浮の港」以来、常に重要なスタイルではありましたが、1960年代中盤以降は、「地名+ブルース」というタイトルで、地方都市の盛り場を「都会調歌謡」のスタイルで歌う例が急増していったのです。

こうした楽曲を広め、「演歌」ジャンルの形成とその維持において現在まで非常に重要な役割を果たしたのが、有線放送です。お茶の間向けのメディアとなったテレビや、逆に若者向けのメディアに変貌しつつあったラジオとは異なり、もっぱら「盛り場」に音を届けていたのが有線放送でした。そして、有線放送を介して盛り場で流れる歌のことを「演歌」と呼ぶようになった、という解釈もできるほど、有線放送と演歌は密接に関係していきます。

このスタイルを確立したのは、美川憲一「柳ヶ瀬ブルース」でした。もともと美川憲一は古賀政男の指導を受け、1965年に青春歌謡路線でデビューしていました。しかし1966年にムード歌謡路線の「柳ヶ瀬ブルース」が120万枚を売り上げる大ヒットとなったことで、「新潟ブルース(1967)」「釧路の夜(1968)」とご当地ソングのヒットを連発し、スターダムを駆け上っていきます。


民謡や浪曲由来の「こぶし」を強調させた高音が魅力の「日本調・田舎調」とは真逆の、ジャズ・ハワイアン・ブルース由来の低音を魅力とした洋風の「都会調・ムード歌謡」は、高度経済成長期以降の東京に憧れる地方都市(=「小東京」)の洋風盛り場の夜のイメージを体現していました。

そして、美川憲一に並んでそのイメージを最も理想的に体現させた歌手として、青江三奈森進一が登場します。青江三奈は1966年「恍惚のブルース」でデビューし、森進一も同年「女のためいき」でデビュー。この2人はハスキーボイスを武器として一世を風靡しました。各地の盛り場を舞台として「夜の女」の官能を歌い大ヒットを連発し、「ためいき路線」と表象されました。


ここで注目すべきは、この二人のバックグラウンドは基本的に洋楽であることです。両者とも、もともとはキャバレーやクラブでジャズやシャンソンを歌っていたのです。

そして、両者とも既存の専属制度に収まりきれない部分も持っていました。森進一はナベプロ所属であり、作家の師事よりも所属事務所の原盤制作が作風に影響する新システムのほうに組み込まれていたのです。青江三奈についても、彼女のレパートリーは当時の専属制度で想定される枠組みでは処理しきれない特徴が多く、専属作家以外の作曲家による作品が早くから多くを占めていました。その象徴がデビュー曲「恍惚のブルース」であり、この曲を手がけた浜口庫之助の活動領域は、「夜のブルース・ムード歌謡」が当時どのような位置にあったのかを理解するうえで注目に値します。

浜口庫之助は、戦後の進駐軍ジャズではなくそれよりも前の段階、昭和初頭のモダニズム文化としてのジャズの流れを汲む人物です。戦前からハワイアンやラテン歌手としても活躍し、エキゾチックでリズミックな要素を楽曲に取り込むことを得意としていました。その作風を、当時の若者向け音楽と大人向け歌謡の双方に横断的に行使していたのです。

浜口は大人向け「ムード歌謡」に並行して、西郷輝彦「星のフラメンコ」などの青春歌謡も作曲し、さらに若者向け「和製ポップス」や、後述する「GS(グループサウンズ)」「フォークソング」などまでも同時に手掛けています。

特に明確な例としては、GSであるスパイダースの「夕日が泣いている」、フォークソングのマイク真木「バラが咲いた」、そしてムード歌謡の「恍惚のブルース」という、ジャンル上は別々に扱われがちな三つの代表曲が、すべて同じ1966年に同じ浜口の手によって作曲されていることが挙げられます。現在のジャンル観から眺めれば、マイク真木やスパイダースのような存在は「日本のポップス/ロックの起点」として語られ、逆にマヒナスターズや青江三奈は「演歌」側の文化に整理されることが多いため、両者が同じ文脈に置かれることは違和感が大きいかもしれません。しかし、浜口の作曲視点で捉えるならば、これらはすべて「外来スタイルを日本の歌謡へ適応・応用する」という一貫した営みの範疇にほかならず、このことは「西洋風ポップス」と「日本風演歌」という二項対立そのものを根底から揺るがす決定的事実です。

ただし、作家視点ではそうであっても、フォークやロック(GS)を「若者によるまったく新しい対抗文化」として純粋化したい当時の消費者側にとっては、浜口のような存在がそれらを古臭い商業歌謡へと回収してしまう「巨悪」に映ってしまった側面もありました。

ちなみに、同じ1966年にはさらに、城卓也「骨まで愛して」千昌夫「星影のワルツ」布施明「霧の摩周湖」などもヒットしています。ロカビリーの平尾昌晃が作曲家としてもデビューしたのが「霧の摩周湖」であり、布施明もまた、ナベプロ所属でした。

ムード歌謡の系譜は、黒沢明とロス・プリモス鶴岡正義と東京ロマンチカといったグループを経て、前川清がボーカルを担当する内山田洋とクール・ファイブが1969年に「長崎は今日も雨だった」をヒットさせ、ムード歌謡にさらにコーラスの要素が強調される形となったのでした。


この時期にはもう決定的に「ムード歌謡」と「演歌」ジャンルの同一化が進んでいましたが、サウンド面に注目すると、このようなコーラスやサックスが特徴的な音楽性は、当時のアメリカでブラックミュージックのスタイルの1つとして存在していたドゥワップやソウルミュージックなどに沿っているものであり、日本的では全くなく、むしろロックンロールやソウルといったアメリカンスタイルのほうがよっぽどルーツに近い音楽です。しかしそれが日本においては、「有線放送」と「大人の夜の街」のイメージの下で「演歌」に収斂されていくことになってしまったのでした。

こうして昭和40年代以降、「都会調歌謡」は青江三奈・森進一・美川憲一らに代表される「ご当地ソング」「ムード歌謡」「ブルース歌謡」へと推移し、有線放送というメディアに乗って地方都市のネオン街へと届けられて流行。それが、「浪曲調・田舎調」とは全く別の、「演歌」ジャンル形成のもう一つの決定的要素として育っていったのです。




◆社会イベントや映画スターと歌謡曲

1960年代は高度経済成長のピークとともに、多くの国家的イベントや政治的闘争などが旺盛になった時期でした。そして現在、歌謡曲史を振り返る際、「歌は世につれ、世は歌につれ」というフレーズがよく添えられるように、世相とヒット曲を無理やり結びつけて語られる傾向が見受けられます。ここで、社会イベントや世相と結びついたこの時期の歌謡曲もみていきます。

1960年には、「日米安保闘争(60年安保)」と呼ばれる大規模な政治闘争が日本各地で繰り広げられました。日本の独立回復時に結ばれた旧安保条約は日本の独立回復と引き換えに米軍の駐留を認めるものでしたが、改定案では日本の集団的自衛権への関与の可能性や、条約の事実上の無期限延長を可能にするものとなっており、野党や国民はアメリカの戦争に巻き込まれる危険性や条約が国民に十分な議論を経ずに強行採決されようとしたことに強く反発。国会を取り囲む数百万人規模のデモへと発展するなど過激化し、歴史的な社会運動となりましたが、最終的に新安保条約は、デモ隊が国会構内に突入するなどの混乱の中で、強行採決によって自然成立してしまいます。

この「日米安保闘争」と関連付けて語られることが多いのが、西田佐知子「アカシアの雨がやむ時」です。この楽曲が支持された背景として、安保闘争後、反対運動の成果ゼロという結果に疲れた若者たちが西田佐知子の乾いたボーカルと廃頽的な詞に共鳴し、歌われたことで広まっていった、というストーリーが語られるのです。そのため、テレビ番組では当時の世相を反映する楽曲として、安保闘争(とりわけ樺美智子死亡による抗議デモ)の映像のバックで流れることがしばしばあります。


1960年代は、映画界(主に日活)からのスターも続々と歌謡曲へ進出していました。石原裕次郎と小林旭が対をなす形で人気となっていたことは既に述べている通りですが、他にも日活の青春アイドルスターとして人気のあった吉永小百合も歌謡界に登場し、橋幸夫とのデュエット「いつでも夢を」がヒットしました。さらに続いて倍賞千恵子「下町の太陽」をヒットさせ、歌謡界にその地位を確立しました。


さて、1960年代の社会イベントといえば、なんといっても1964年に開催された東京オリンピックでしょう。この国家的イベントを後押しし、祝祭をプロモーションする役割を担ったのが「東京五輪音頭」でした。

この楽曲は、NHKが東京オリンピックのPRソングを作るために歌詞は一般公募、そして作曲は古賀政男に依頼することがあらかじめ決められていました。そして、古賀によるメロディーが完成した後は、その権利を特定の一社が独占するのではなく、各レコード会社が競い合う形でそれぞれ録音・制作する方針が採られていました。

この曲は現在では三波春夫による歌唱が圧倒的に有名ですが、ビクターでは橋幸夫、キングは三橋美智也、日本コロムビアは北島三郎と畠山みどりによるデュエット、東芝は坂本九、といった具合に、各レコード会社が抱えるスター歌手が担ぎ出されてレコードが発表されました。


高度経済成長を背景にした人生応援歌として、水前寺清子による「365歩のマーチ(1968)」も取り上げなければならないでしょう。先に浪曲調歌謡の文脈で触れた水前寺ですが、本作では浪曲特有の重さは後景へ退き、軽快でリズミカルな歌唱へと転じました。ジャケット写真もそれまでの着流し姿から一変し、マーチングバンドの衣装に身を包んだ水前寺がポーズを取るビジュアルが採用されています。それまでの演歌的な方向性とは異なる楽曲提供に対し、水前寺自身は当初疑念を抱いたといいます。しかし、日本社会が高度経済成長の勢いの中で自信に満ちていた時流と見事に噛み合い、累計100万枚を越えるミリオンセラーとなり、結果的に水前寺の最大のヒット曲にして水前寺の代表曲として定着しました。

楽曲はその後、国民的応援歌の一つといえるほどに広く浸透し、数多くのCMやアニメ作品で使用されて老若男女に知られる存在となったほか、カバーも半世紀以上にわたり続けられています。


1970年、今度は大阪で日本初の総合万国博覧会が開催され、ここで万博ソングとして有名になったのが「世界の国からこんにちは」でした。この曲は、実際には公式なテーマソングではありませんでしたが、開催当初、東京オリンピックのときほどの社会的な盛り上がりが生まれていなかったことから、新聞社各社がさまざまなキャンペーンを競うように展開し、その中で毎日新聞が企画したのが「テーマソングの歌詞の一般公募」というアイデアだったのです。集まった歌詞に対して作曲を中村八大が担当し、「東京五輪音頭」のときと同様にレコード会社各社が競う形で制作されました。ビクターが吉永小百合、コロムビアが弘田三枝子、ポリドールが叶修二、クラウンが西郷輝彦、東芝が坂本九で制作されましたが、またしてもテイチクの三波春夫による歌唱盤が圧倒的な知名度を得ることとなり、三波春夫はこれらの国家的イベントソングのヒット二連発によって、揺るぎない「国民的歌手」の地位を確立するに至ったのでした。




◆戦前のリバイバルブームと「ナツメロ」の誕生

このように、高度経済成長や国家的イベントの連続で歌謡曲の新作が活性化したのと並行して、この時期には戦前の歌謡曲のリバイバルブームも発生しました。

1964年の東京オリンピックに続いて、1968年には「明治百年」という歴史的な節目も控えており、日本の近代を回顧し明治維新後の100年間を総括する社会的気運が高まっていたのです。こうしたムードに呼応し、戦前のレコード歌謡を再評価する動きが興ります。その対象は、昭和初期のモダンな洋楽系流行歌から軍歌・軍国歌謡などにまで及び、「なつかしの歌声・名曲」ブーム(「ナツメロブーム」)と呼ばれる動きに連なりました。

この動きによって、藤山一郎、東海林太郎、霧島昇、渡辺はま子、ディック・ミネ、灰田勝彦、淡谷のり子、二葉あき子といった、その時点では既に一般的な人気を失っていた戦前・戦中の人気歌手が復活し、当時の現役歌手に対抗する形で権威的な地位を獲得していきます。彼らが一堂に会する歌謡祭が催されたり、次々とテレビ界に登場するなどして、当時の現役歌手に匹敵するプロモーションが展開されていったのです。

きっかけとなったのは、1965年のテレビ東京『歌謡百年』という番組でした。番組名からもわかるように、「明治百年」という区切りに合わせて日本近代の歌謡史を振り返るコンセプトで放送されたこの番組は、当初の予定どおり三ヶ月間の放送で終了したものの、視聴者の反響が大きく、1966年の大晦日に『歌こそわがふるさと・想い出のメロディー集』という特別番組が放送。さらに1968年に『なつかしの歌声』という名前でレギュラー放送へと再昇格され、同局を代表する人気番組になります。

この『なつかしの歌声』は更に、その特番として1968年末に『なつかしの歌声大会』も放送され、翌年末から『なつかしの歌声 年忘れ大行進』として継続。現在の『年忘れにっぽんの歌』につながっていきます。さらにNHKも対抗して毎年夏に同様のコンセプトの『思い出のメロディー』を放送開始しました。これらの番組は、悲惨な戦争体験と戦後の混乱を乗り切り、高度経済成長の中で安定した老境を迎えた中高年層が視聴者層の中心となり、歌に郷愁を求めたことで、熱狂的な支持を集めたのでした。

これらの番組の最大の特徴は、戦前の “最初期” のレコード歌手本人が、自分の「持ち歌」を当時の音源に忠実な歌唱で歌う、という点です。戦前の歌謡曲を昔のままのスタイルで再演されることが重要な価値として権威化され、さらに、そうしたスタンスが若者批判へも重ね合わせられていきました。ちょうどGSやアイドル歌謡が若者文化を席巻していた時期に、中高年層の「今の音楽は乱れている」という感情の受け皿としてナツメロブームが機能していたと言えます。「失われた日本男児の規範」「本物の歌唱とは何か」という道徳的・文化的なメッセージとしてブームは消費されたのです。

たとえば、東海林太郎の直立不動の姿勢や厳格な態度には「古武士の風格」といった形容が冠せられ、さらに彼は「現在の歌手はすべて失格」というような厳しい批判も発言しました。これが中年以上の男性のノスタルジアに訴える「日本男児の人生訓」として流通していきます。また、淡谷のり子も、「今の歌手は歌手じゃなくてカス」などといった発言で毒舌タレントとして人気を博すなど、当時のロカビリー・ポップス・アイドル黎明期の若手歌手たちに対する批判としての意味を持っていったのです。

これは一種の伝統復興運動ともいえるものでしたが、しかしながら、ここで「伝統」として見出された昭和のレコード歌謡は、その時点ではせいぜい30年程度の歴史にすぎません。「明治百年」「歌謡百年」と謳っておきながら、「録音した歌手本人がその持ち歌をオリジナル盤に忠実に歌う」というテレビ番組の特性上、「オリジナル盤」や「創唱歌手」を固定できない明治~大正期の流行歌は「ナツメロ番組」で扱われなかった、という点でも歪さを含んでいました。

振り返れば、そもそも昭和初期には彼ら・彼女らの歌唱はむしろ、軽佻浮薄な「流行歌」、頽廃的なモダン文化・若者文化であるとして批判される側にあったものです。しかし、そのような彼らの「持ち歌」が「ナツメロ」としてカテゴリー化され、この時期に一種の「真正な文化遺産」に認定されていくことになります。そして、歌手の容姿や歌声の変化と視聴者自身のライフストーリーが重ね合わされたり、「昔の歌手は若者歌手と違って正しくきちんと歌えている」から「昔の人は偉かった」というように、視聴者が特定の視点で現在と過去を結びつけ、文化的記憶を醸成していったのでした。

このような「近頃の若者は」「最近の音楽は」という批判パターンは太古から現代まで繰り返され続けているもので、その主張には客観性・正当性は無く、単なるノスタルジーでしかない、ということを裏付けます。

さらに注目すべき点は、このナツメロブームが本来ハイカラな洋風文化だった戦前の歌謡曲を「西洋とは無縁な、古臭い日本風の “演歌” の原型」として再定義する役割を果たしてしまったことです。復習になりますが、昭和初頭のレコード歌謡というのは、民謡や俗謡とは明確に区別される、クラシックやジャズのノウハウを用いた楽譜に忠実な歌曲であり、書生節とも呼ばれたそれまでの庶民の「街頭演歌(演説歌)」をむしろ追いやった存在でした。しかし1960年代後半以降、すべてが一括して「ナツメロ」というカテゴリーに収められ、これが「演歌の源流=古くから続く日本の歌」である、という新たな歴史叙述が構築されていったことによって、戦前・戦中の洋楽系流行歌が持っていたモダンな側面は意図的に薄められ、代わりに「日本のこころ」「伝統文化」というナショナリズム的な意味合いが強く付与されるに至ったのです。

現役歌手によるナツメロカバーも、この流れをさらに加速させます。代表的な例は、1968年に爆発的なヒットとなった森進一のカバーアルバム『影を慕いて』です。このアルバムは全曲が古賀政男の作曲作品のカバーで構成されていましたが、当時、森進一と古賀メロディーの結びつきは「想像し得ない」「意外な組み合わせ」と受け止められました。現在では古賀メロディーが演歌歌手の「必修科目」のような位置づけとなっていることとは対照的です。この試みが、「ナツメロ」として真正性を保証された「古賀メロディー」と、当世風の「夜の女の嘆き」を歌う「演歌(艶歌)」という、その時点では相異なるものを縫合する実践となったのです。こうした試みの成功によって、この時期に再浮上してきた「演歌(艶歌)」という言葉に「過去から連綿と続く日本的な歌謡伝統」という意味が付与されることになりました。

こうして1960年代後半からの戦前歌謡リバイバルは、単なる懐古趣味に留まらず、「演歌」というジャンルを「日本固有の伝統音楽」として後付けで再定義する決定的な契機となったのでした。ナツメロブームは、「演歌=古い日本」と「ポップス=新しい西洋」という二元論的図式を作り上げ、その図式が後のJ-POP時代に至るまで根強く日本の音楽言説に残っていくことになってしまいます。




◆「新左翼」の思想転換と五木寛之の『艶歌』

それまでは演歌と呼ばれていなかった「民謡調」「浪曲調」と、むしろ洋風寄りだった「都会調」「ムード歌謡」が、夜の巷の  “流し歌”  “やくざ歌”  のイメージを介して「演歌/艶歌」の語で結びつき、さらに、戦前ではむしろ明治演歌を追いやった側のポジションであるモダンな歌謡曲までもが「ナツメロ」として、連綿と続く日本の真正文化であるかのように権威化。それら全ての要素の総和が、現在の「演歌」ジャンルとなります。当時の若者向けロカビリーやポップスの潮流に対する「大人向けの歌謡曲」として次第に一つのジャンルのようにみなされるようになったものが、60年代末、「演歌」として総称される際に「日本のこころ」「伝統文化」という神話的意味も加えられたわけですが、この呼称の定着と再定義の流れの背後には、実は戦後日本の左翼系知識人・文化人の言説の変化も一つの役割を果たしていました。


日本のレコード歌謡は戦前、その黎明期から、家庭向きでない「俗悪文化」として批判されてきましたが、戦時中は国家による検閲を受け、戦後になるとむしろ批判は一層強まりました。「低俗」「頽廃」と道徳的に非難され続け、戦後の歌謡曲はすべて戦前の延長線上にある「反動的」「封建的」な負の遺産だとみなされてしまったのです。

そのような「流行歌批判」を積極的に行ったのは、戦後に勢力を大きく伸ばした日本共産党をはじめとする左翼系勢力でした。彼らは、敗戦後の日本に「健全で進歩的な文化」を建設するために「俗悪文化」を駆逐する必要がある、として大衆の啓蒙に努めていました。朝鮮戦争期に「お座敷調」の春歌が流行した際には、「桃色歌謡」「エロぶし」などと槍玉に挙げ、日教組・PTA・主婦連合会からなる「日本子どもを守る会」が激しい非難と追放運動を展開しています。この時期の「放送禁止・追放」の担い手は、政権側ではなく左派勢力によるものだったのです。また「古賀メロディー」に対しても「民衆の頽廃を象徴する反動的音楽」だと断じ、日本の後進性の指摘と道徳的な非難に終始していました。

そんな彼らの音楽実践の中心だったのは、日本共産党系の「うたごえ運動」や鑑賞運動の「労音(勤労者音楽協議会)」でした。そこではソ連の音楽政策が「西洋芸術音楽の正しい帰結だ」として理想化され、ロシア民謡や労働歌が広められていきます。この文脈で、1950年代末~1960年代初頭には若者向けの健全な娯楽として「うたごえ喫茶」が成功し、「幸せなら手をたたこう」などの楽曲がヒットしていました。

日本共産党の文化工作隊から「うたごえ運動」の活動家へと進んだ人物に、「見上げてごらん夜の星を」 などを作曲したいずみたくが挙げられます。 明瞭な和声進行に基づく単純なメロディーとコーラスのハーモニーを強調する作風は、「うたごえ運動」の依拠したソビエト的音楽観と親和的でした。こうした機能的な和声進行とコーラスが「健全で家庭向き」の音楽特性とみなされたことは同時に、既存の日本の音楽全般を「劣った」「遅れた」音楽とみなす価値観を補強しました。旧来の日本の音楽の貧しさが嘆かれ、外国の優れた音楽から学ぶことが必要だと叫ばれていったのです。

ところが、1960年安保闘争のころを境に、状況は一変します。

当時の国際情勢では、ハンガリー動乱やフルシチョフによるスターリン批判などによって東側諸国の間でソ連支配の権威が揺らいでおり、国内でも日本共産党の過激な武装闘争路線への転換と失敗、分派対立などによって「党」への信頼が失墜していきました。そうした中でさらに、1960年の安保闘争失敗によって、既成左翼に反発する新左翼という勢力が台頭したのです。

この影響が文化理解にも及び、従来の左派系知識人の啓蒙思想や特権的態度への嫌悪から、それまで既成左翼が「克服すべき低俗」と決めつけて非難してきた民衆的な文化表現を、むしろ「土着文化」「民衆的」「被抑圧者の声」として肯定的に捉え直していく動きに繋がったのです。音楽面でも、それまでの既成左翼らによる偏見的な大衆音楽理解とレコード歌謡蔑視・非難に対抗し、それまで忌避されていたレコード歌謡の中でもとりわけ蔑視されていた側面を殊更に称揚する論調が急速に広がっていったのでした。うたごえ運動やフォークダンスは「党の裏切りの象徴」として忌避され、「敵の敵は味方」という論理で、それまで否定されてきた歌謡文化への再評価が進んだというわけです。

それまでの知識人たちは、西欧・アメリカ、東欧・共産主義国家、あるいは理念的な “西洋近代” など、何かしらの「目標」を設定し、「遅れた日本」の大衆を啓蒙することで文化的な「上昇」を目指す、という図式に立っていました。しかし、その図式が転覆され、既存左翼が「克服」すべきと見做した草の根・土着的な文化へ「下降」することで真正なる民衆文化を獲得しよう、という方向性が「60年安保」以降の左派知識人らの方針となります。しかしそれは、社会的に「上」に属する高学歴インテリ層が、あえて「下層」を理想化し強調するという傲慢さも孕む、極めてエリート主義的な振る舞いでもありました。

このような新左翼的レコード歌謡論の嚆矢となったであろう議論として重要なのが、思想雑誌『思考の科学』1963年10月号(差別の特集号)に掲載されている、寺山修司・森秀人・多田道太郎らによる座談会です。ここでは、流行歌・歌謡曲を「抑圧された人々の表現」であるという考え方が示され、そのモデルとして「黒人ジャズ」や「ブルース」が引き合いに出されました。

このなかで寺山修司は、「歌謡曲」を「孤絶したアウトローが一人で歌うもの」だと規定し、うたごえ運動的なコーラスによる「連帯」を否定します。対比的に「孤絶・逸脱」を肯定し、歌謡曲にもその要素として「さびしさ・暗さ」を求めて美化したことで、後の「演歌」に付随するイメージを提示した形になったといえます。

寺山修司が個人的な自己体験を引き合いに出してそのような考えを語ったのに対し、森秀人は同様の主張を当時最先鋭の左派理論・思想潮流を踏まえながら展開しました。「流行歌は、疎外されている階級に訴えかけることで成立する」と主張し、流行歌の「階級的意義」を強調したのです。森は、近世の「股旅やくざ」や「遊女」、そして現代の「チンピラ」や「バーの女」といった、社会からの「疎外」と「性的逸脱」によって特徴づけられるアウトロー的な人物こそが「真正な大衆文化の担い手」であると位置づけます。安保闘争の後に流行した「アカシアの雨がやむとき」を例に、歌謡曲の「疎外された大衆の、女の魂を生々しく歌う」「成熟した女の性を歌う」という側面を称賛し、西田佐知子や松尾和子を評価したのでした。これによって、それまで知識人が目標としていた「健康で明るい歌」を階級的な思想理論の切り口から否定してみせたのです。

さらに、1965年にはジャーナリストの竹中労が著した『美空ひばり―民衆の心をうたって二十年』がベストセラーとなります。竹中は「占領下で日本文化はアメリカナイズされた」という問題意識を起点に、エリート階級による日本的な歌への攻撃を批判し、「その攻撃に耐えて民衆の民族的音楽を守った唯一の存在」として美空ひばりを称賛しました。「左翼を自称するエリートたちは敗戦後、真の民衆文化を軽視して日本民族の愚劣さをあげつらい、それを証明することが “民主化” の第一歩であるかのような議論をさかんに行った」と既成左翼を糾弾。その文脈で、美空ひばりを「民族文化の担い手」と位置づけたのです。竹中にとって美空ひばりとは、アメリカの文化的侵略に対して「民族」の誇りをたったひとりで守るジャンヌ・ダルクのごとき存在でした。

竹中は、占領下でアメリカの文化帝国主義を実行する代理人として、米軍基地を出自に持つ芸能プロダクション(特に渡辺プロ)を激烈に批判します。対照的に、美空ひばりだけが「戦火によって断絶した民族のしらべ」を守った「民族芸術家」であると称賛したのですが、ここで、美空ひばりのことを「エリートが嫌った文化=真の民衆文化」「アメリカの文化侵略に抗う民族音楽家」という図式に持ち込む印象操作を含んで論じてしまった結果、ロカビリー期や軽い曲調の美空ひばりは切り捨てられてしまいました。

本来、アメリカ由来の音楽も含めて幅広い曲調を歌ってきたはずの美空ひばりのレパートリーのうち、「哀愁波止場」や「悲しい酒」といった「暗さ」「感傷性」を持つ楽曲だけがクローズアップされてしまったのです。

当時、美空ひばりは新左翼の論壇内でも評価が低かったため、この論考は新鮮さをもって受け止められ、現在まで続く「演歌の女王」としての美空ひばり像が神格化される源流となっていったのでした。


寺山・森・竹中らによるこれら一連の議論においては、いずれも「流行歌」「歌謡曲」という呼称が用いられており、「演歌/艶歌」の語は一切登場していません。この枠組みをほぼそのまま継承しつつ、そこに「艶歌」という呼称をあてがい、ある種の概念規定を行ったのが小説家・五木寛之でした。五木が1966年に発表した小説『艶歌』はレコード会社を題材とした作品で、その後シリーズ化されて幾度もテレビドラマや舞台にもなっているのですが、この作品が「演歌」ジャンルの概念規定に決定的な影響を与えたと考えられています。

小説は、当初は日本流行歌を軽蔑し西洋趣味に傾倒していたインテリディレクターの高円寺竜三が、昔ながらの「艶歌」志向へと回帰し、専属制度や流し出身の作家とともに泥臭く楽曲を制作する姿を描きます。小説内では、合理的な制作に基づく「明るく健全な洋風ポップス」と、西洋音楽の価値体系とは相容れない長年のカンによるヤクザじみた制作に基づく「暗く感傷的な “艶歌” 」の構図がわかりやすく対比され、後者の「古き良き」魅力を再発見していく過程が強調されました。高円寺竜三は作中で「艶歌の竜」と呼ばれるようになります。

この「艶歌の竜(高円寺竜三)」のモデルとされているのが、コロムビアの馬渕玄三という実在のディレクターです。馬淵は、島倉千代子・小林旭・こまどり姉妹・美空ひばり・畠山みどり・水前寺清子・北島三郎らを手掛けた人物でした。上述したコロムビアの内紛「クラウン騒動」で新たにクラウンレコードが立ち上げられた際の設立メンバーでもあります。

馬淵は、歌謡曲制作において、当時既に過去の芸能となりつつあった浪曲の要素を敢えて強調する企画戦略を採りました。たとえば、浪曲調の畠山みどりは、もともと浪曲経験がなかったにも関わらず、馬渕の戦略によって浪曲要素がギミック的に強調されてデビューしています。ザ・ピーナッツにあやかって「純日本調のザ・ピーナッツ」として三味線を抱えた艶歌調が強調されたこまどり姉妹のイメージ戦略も、馬渕によるものでした。馬渕は同時期に小林旭の売り出しも依頼されており、こまどり姉妹と小林旭の「流し」イメージは対称的ながら共通項であるともいえます。

ただ、この小説が実在の人物や事件をモデルにしているにせよ、「近代派」と「土着派」の明確な対比や、後者の象徴である「艶歌の竜(高円寺竜三)」の属性は、五木のフィクションです。レコードの制作方法についても現実世界の馬渕は、小説内ではむしろ敵の属性とされるような、その時々の流行に基づいた明確な方針を立てて歌手イメージの決定と楽曲制作を行う、市場分析と宣伝を重視するタイプでした。しかし、五木の創作的意図によって、「艶歌」は西洋近代的制作システムとは異なる、古くから連綿と日本の大衆歌謡に存在する土着的な音楽文化であり、しかも現在は既に危機に瀕している音楽ジャンルである、というストーリーが演出されてしまったのです。

作中で描き出された「艶歌」像は明らかに、寺山・森・竹中らの議論を継承・強化するものであり、後の「演歌」を語る枠組みの原型となりました。「艶歌」を「日本人のブルース」と形容し、音楽的には貧しいが、日本人にとって欠かせない「ナショナルソング」として民衆性を擁護したのでした。

さらに、五木はここで、「こぶし」や「唸り」を「エンカ」の中心的な特徴だと位置づけます。この視点は、現在では演歌の特徴として常識となっているものですが、実際のところは、こうした歌唱法は当時の流行歌・歌謡曲のうちの「浪曲調」という、戦後に登場した一部の路線のみに由来するものでした。高音のこぶしが魅力の「浪曲調」とは対照的な低音の魅力の歌謡曲にブルース由来の「都会調・ムード歌謡」もありましたし、さらに、それよりも前の流行歌では、クラシックを出自とする歌手が歌唱を担っていました。しかし、浪曲風の歌唱が「被抑圧者の声」としてピックアップされ、実際にはそれまで別モノの概念だった「浪曲調」と「艶歌」が結びつけらたのでした。

五木による「艶歌」の定義によれば、東海林太郎の「日本調」と、淡谷のり子の「和製ブルース」は共に含み、なおかつ軍歌のような溌溂とした歌曲や「リンゴの唄」は排除する、というような区分がなされます。その指標として「暗さ」や「感傷性」が挙げられますが、この基準は、五木以前には存在しなかった分類です。つまり五木は、当時の「盛り場の流し歌」と親和的だった特定のレコード歌謡群を、明治・大正期の「エンカ」という古い言葉で同一の音楽カテゴリーに包摂したのです。五木は当時の「流し」のレパートリーを、「抑圧され、差別されてきた人々の怨念悲傷」の反映として、もっぱら「暗さ」を強調する形で審美化し、それに「艶歌」という呼称を与えることで、レコード歌謡以前の明治・大正期の演歌の歴史との連続性を意図的に創出したのでした。

この五木の「艶歌」像は、ジャズ評論家によっても「艶歌は日本のブルースだ」と論じられるほどに飛び火し、急速に一般化していきます。その後、さまざまな別名を持っていた松山数夫という歌手が、五木寛之にちなんだ新しい芸名「五木ひろし」で再デビューしますが、それほど「演歌」と五木寛之とのイメージが急速に結びついていったことが伺えます。

新左翼系知識人が既成左翼を批判するために構築した知的潮流の連鎖の結果として、当時の歌謡曲の特定範囲に「演歌」というラベルが付与され、後世に「演歌=日本伝統の哀愁歌謡」という強固な観念が残されていくことになりました。こうして1970年代以降~現在に至る、独立した「演歌市場」が形成されていくことになります。




◉リズム歌謡~エレキブーム~GSへの変遷


◆ニューリズムとしての「ツイスト」ブーム

1950年代末の “狭義” の「ロカビリー」ブームが、そこから切れ目のない形で「カヴァー・ポップス」ブームへと連続していったようすは、今回の記事冒頭で既に述べたとおりです。

「最新の洋楽」というようなニュアンスで「ロカビリー、ポップス」と大きく括り、当時の日本のタレントたちがカバー元として参照していたアメリカ歌手の多くは、世界的には1950年代末の急速なロックンロール熱の沈静後に台頭した「ティーンポップス」と呼ばれる一群でした。

当時アメリカ本国では、ニューヨークの「ブリルビル」という建物を拠点とする作家陣によって生産された10代向け楽曲が音楽市場を席巻し、ロックンロールの初期衝動が弱まったあとの若者文化を担っていました(詳しくは西洋音楽史編をお読みください)。日本でのカヴァー・ポップスの隆盛も、こうした世界的潮流と連動していたといえます。

こうした中で、特に「若者が熱狂するダンス音楽」としてのロックンロールの側面を継承したようなムーブメントとして盛り上がりを見せていたのが、ツイストです。当時のアメリカでは、音楽に合わせて素人の若者たちが踊る『アメリカン・バンド・ツイスト』というテレビ番組から、チャビー・チェッカーの「ザ・ツイスト」(1960) という楽曲が大ヒットとなり、その踊り方そのものがダンスジャンルとして広まり、社会現象になっていたのです。

(特定の “ロック” 視点に偏った従来のポピュラー音楽史観では、この熱狂はエルヴィス・プレスリーとビートルズのあいだに挟まれた「停滞期」におけるくだらない馬鹿騒ぎだと見なされ軽視されてきましたが、ティーンポップス期の若者音楽は、実際には8ビートを中心としたアレンジ手法が洗練されていった音楽的に重要な時期だったと見ることもでき、人種論的にも白人・黒人・ラテン系が入り混じる文化統合が最も進んだ時代でもあります。そのため、この時期のポップス史を見直す動きも昨今ようやく現れつつあります。)

こうしたツイストの熱狂が、1961~62年ごろに日本へ到達します。ここで、ブームの中心となった人物が藤木孝でした。藤木は1959年にナベプロと契約してテイチクレコードから歌手デビューした人物で、特に1962年にツイストヒットを連発し、「ツイスト男」と呼ばれました。この人気絶頂の中で藤木は歌手引退を表明し、渡辺晋の反対を押し切って退社、俳優へと転身しましたが、その短期間の活躍が日本のツイスト導入の象徴的存在となりました。


この波は歌謡界全体へと波及し、既存のスターたちも次々とツイストを日本独自の形で取り入れた楽曲を発表していきました。特にツイストを歌謡界に大々的に紹介する役回りとなったのが小林旭で、「アキラでツイスト」やカバー曲「ペパーミント・ツイスト」などを発表して話題となりました。


さらに、何度も述べている通り、当時の流行ジャンルを何でも取り入れて歌っていた美空ひばりも、当然のようにツイストも取り入れ、「ひばりのツイスト」「ブルー・ツイスト」を吹き込んでいます。


他にも、スリー・ファンキーズ「でさのよツイスト」や、弘田三枝子「かっこいいツイスト」ジュリー藤尾「インディアン・ツイスト」など多数の楽曲が生まれていき、ヒットしました。また、ツイスト派生のダンスである「マッシュポテト」を扱った楽曲のカバーも行われ、園まり「マッシュポテト・タイム」目方誠「マッシュポテト」といったカバー曲が吹き込まれています。

さらに、こうしたツイストのブームが反映された映画として『下町の太陽』が挙げられます。この作品では、物語展開の重要な舞台として下町の不良っぽい工場員が参加する「ツイストパーティー」が採用されており、当時の「ツイスト」の注目度が伺えます。

このような「ツイスト」ブームですが、実は日本の歌謡曲界においては、1950年代からレコード会社によって仕掛けられた「ニューリズム」のキャンペーンの連続の中にも位置づけられるものなのです。前回の記事で触れた通り、「ニューリズム」の輸入は「マンボ」から始まり、「チャチャチャ」「カリプソ」などと続いており、その文脈で「ロックンロール」「ツイスト」も扱われた、という側面が指摘できます。

マンボブーム以降、日本の流行歌産業においては世界各地から「ニューリズム」が次々と輸入され、その音楽に合わせたダンスの「正しい踊り方」とセットで「今年の新しいリズム」として流行させる仕掛けが定着していたのでした。




◆謎の “国産ラテン” リズム「ドドンパ」のブーム

ツイストとほぼ同時期、1960年ごろに「国産ラテンリズム」として突如登場し、1961年にかけてブームを巻き起こしたのがドドンパです。スウィング感のあるハネたリズムで2拍目と4拍目にアクセントがつきつつ、3拍目に連符が挟まれるのが最も特徴的です。このリズムは、1950年代の「マンボ」や「カリプソ」の輸入の流れを引き継いだラテン系の「ニューリズム」の一種でありながら、日本独自の特徴を持った不思議なジャンルでした。

ブームを決定づけたのは、当時17歳の渡辺マリが歌う「東京ドドンパ娘」(1961年)の記録的なヒットでした。渡辺マリは、江利チエミの後任として東京キューバンボーイズの専属歌手を務めていた少女歌手でした。

さらに、またもや繰り返しになりますが、流行りのスタイルはなんでも歌っていた美空ひばり「ひばりのドドンパ」を歌っています。


さらに、歌謡映画『東京ドドンパ娘』や、時代劇『ドドンパ酔虎伝』といったドドンパを題材にした映画も制作され、映画『ろくでなし稼業』の主題歌・宍戸錠「ろくでなしの唄」にもドドンパが用いられています。さらに、ドドンパを直接タイトルに冠していない歌謡曲でもこのリズムがしばしば用いられており、北原謙二「若いふたり」(1962) や、和田弘とマヒナスターズ・松尾和子「お座敷小唄」(1964) でも用いられていました。

ドドンパは、マンボやカリプソのブームを受けたラテン系ニューリズムの一種であったと同時に、時代劇や小唄調といった和風要素とも非常に相性が良く、「ニューリズム」としての表面的なブームが去ってからも数年間、一種の定型的なリズムパターンとして流行歌の語彙に入り込んでいきました。


ドドンパの起源をめぐっては諸説ありますが、初期の記述では「フィリピン経由のラテン音楽」として紹介されているものが散見されます。戦前アメリカ植民地だったフィリピンは、日本人にとって「本場アメリカ」を体現する場所の一つであったと同時に、それ以前の宗主国・スペインの影響も強くあり、ラテン文化と交錯したイメージも一般的な感覚となっていました。そうした背景から「フィリピンマンボ」「オフビート・チャチャ」というラテンリズムが東アジアに普及しており、これが日本で「ドドンパ」へと変容したとみられています。

その過程で、“和製ラテン歌手” とも呼ばれたアイ・ジョージが大きな役割を果たしていました。彼によると、アロージャズオーケストラのメンバーがラテンセッションを行う中で、フィリピンの変形マンボ・チャチャの三拍目をさらに連符にすることで、この「純国産・ドドンパ」が誕生したといいます。

渡辺マリ、アイ・ジョージ、フィリピンバンドのどこを起点とするかについては解釈が分かれますが、いずれにせよ、ドドンパはラテン系ニューリズムと和風歌謡を結んだ例として独特の位置を占めています。




◆ニューリズムの終着地「リズム歌謡」

ドドンパやツイスト以降も、ボサノヴァ、タムレ、サーフィン、スカ、スイム、アメリアッチなどといった、新たな「ニューリズム」の日本への移入が試みられ続けました。しかし、これらはマンボやツイストのように特定のダンスと音楽との強固な結びつきを前提とするリズムだったとは言い難く、これらを日本で「今年のニューリズム」という枠組みで紹介すること自体、次第に無理が生じてきていたといえます。

そして、この「ニューリズム」ブームの一つの終着点となったと位置付けることができるのが、橋幸夫「リズム歌謡」です。橋は、和装が印象的な股旅歌謡の「潮来いたこ笠」でデビューし、“御三家” の一人として青春歌謡を歌った文脈で既に紹介していますが、その後、エレキギターやポップス的なビートを歌謡曲に導入した「リズム歌謡」という枠組みでもヒットを飛ばしていたのでした。

その嚆矢は1964年の「恋をするなら」です。都会調歌謡を主戦場としていた作曲の吉田正は、1961年~1962年にヨーロッパとアメリカを視察しており、日本にも同様にサーフィンミュージックやエレキサウンドが普及することを直感。そのようなサウンドを橋幸夫に歌わせたのです。その後「リズム歌謡」は西郷輝彦、舟木一夫、三田明らの歌でもヒットしていきました。


「青春歌謡御三家」の筆頭格としてポップスからは最も遠いイメージのある橋幸夫がいち早くエレキギターとダンスビートを導入しヒットしたことは、ニューリズムを毎年仕掛けてきた側から見ると、ニューリズムの一連の流れがその後のエレキブームやGSの起爆剤となり、和製ポップスの黄金時代を準備した、というふうな視点でも捉えられました。

当時10代だったいわゆる「団塊の世代」は、1960年代半ばからビートルズが大流行し、あたかも全員一斉に熱狂していたかのように語られがちですが、「自称ビートルズ世代は実は橋幸夫世代だ」と揶揄されることもあり、実際にはその当時ビートルズを聴いていたのはクラスでもごく僅かで、大多数は橋幸夫を聴いていたというのが世代の実像としては近いようです。そして、当時の橋幸夫はリズム歌謡を歌っていた時期であることから、当時の若者は「後期ニューリズム世代」とでも言い表せるはずの立場にあったのです。

エルヴィス・プレスリーからビートルズという単線的な洋楽ロック史観に押し込めた邦楽史記述ではなく、複雑多様な音楽潮流を「ニューリズム」という枠組みで横断的に捉えることは、マンボブームからGSまでを連続的に理解する上で有用な手掛かりにはなります。しかし、事後的に「ビートルズ」が世代の象徴として意味づけられ、「俺達はビートルズをリアルタイムで聴いていたんだぜ」とマウントを取りながら自己神話化して語っていった結果、「橋幸夫世代」「ニューリズム世代」とは胸を張って自称することができないという価値観が形成されてしまったことは、戦後日本の大衆音楽史に語りにおける問題点でもあります。

これ以降「ニューリズム」という枠組みで流行が演出される時代は一旦幕を閉じます。それは、戦前から続いてきたレコード会社の「専属制度」の崩壊という日本の流行歌産業の大きな構造転換と重なっていました。当時のレコード会社において、それまでセクションがはっきり分離されていた洋楽部と邦楽部の垣根は崩れていき、この時代からは、洋楽部が主導して作られる「和製ポップス」の全盛期に突入していくのですが、その際に、歌謡曲の枠で「舶来」要素を扱うにあたって「ニューリズム」の実践は先行モデルにはなったものの、一方で「ラテン」の要素自体は古臭いものとして受け取られるようになっていってしまったのです。それには、先述した「演歌」の成立過程が関係していました。

「都会調歌謡」「ムード歌謡」が「大人向けの夜の巷の音楽」として「演歌」に包摂されていく過程で、1960年代初頭の地点では洋楽寄りの要素として受け入れられていたラテン要素も若者向け音楽から分離してしまい、一気に水商売臭い、おっさん臭い、ダサいイメージに塗り替わってしまったのでした。



◆「エレキブーム」と「エレキ歌謡」

当時のアメリカ音楽史としては、1950年代後半のロックンロールブームから1960年代初頭のティーンポップ期を経て、1960年代中盤、イギリスからアメリカへバンドが次々に進出する「ブリティッシュ・インヴェイジョン」が巻き起こり、特にビートルズやザ・ローリング・ストーンズが世界的人気を博していきましたが、日本ではビートルズよりも先に、アメリカのインストゥルメンタルグループであるベンチャーズのギターサウンドが、若者の心を掴んでいました。

ベンチャーズは、1964年に「急がば回れ」や「パイプライン」といった楽曲が大ヒットしています。そして、ベンチャーズと並ぶもう一組の人気バンドとなっていたザ・アストロノウツとともに、1965年1月に来日。二組の強力なエレキグループが来日したことを契機として、日本で一大「エレキブーム」が巻き起こります。ちなみにベンチャーズは1962年にも初来日していましたが、当時は大きな話題にはなっていませんでした。この1965年の来日が決定的な引き金となり、「テケテケテケテケ」でおなじみの特徴的なエレキギターのサウンドが一世を風靡したのです。

若者たちはこぞってエレキギターを買い求め、アマチュアバンドを結成する動きが全国で広まりました。当時、ビートルズやザ・ローリング・ストーンズといったブリティッシュ・ロックの真似をしようにもノウハウに欠けていた日本の音楽少年たちに、ベンチャーズはエレキギターの遺伝子を植え付けた存在となりました。

このようなアマチュアエレキバンドの空前のブームを受けて、1965年の夏からはテレビで多数のアマチュアバンドコンテストの番組が放送開始されます。その筆頭はフジテレビ『勝ち抜きエレキ合戦』で、数々のアマチュアバンドが参加して盛り上がりを見せました。さらに、テレビ東京の『トーナメントショー “ゴー!ゴー!ゴー!”』やテレビ朝日の『エキサイトショー』、日本テレビの『世界へ飛び出せ “ニュー・エレキサウンド” 』といった番組も同時期に放送開始され、注目を集めました。

この流れを汲んで活躍したプロのグループとしては、寺内タケシとブルージーンズザ・シャープ・ファイブなどが挙げられます。特に寺内タケシは、日本版ベンチャーズとも言える活躍を見せたと同時に、エレキギターで民謡を演奏する「エレキ民謡」などにも挑戦しており、それまでとは全く異なる切り口から「和洋折衷」を試みる独自の先進的な取り組みを行っていたということができます。


そして、映画界においてエレキブームと重なるところで活躍したのが、渡辺プロダクションに所属していた俳優の加山雄三でした。1965末には加山雄三の主演する東宝映画『エレキの若大将』が封切られ、大成功します。寺内タケシも出演しており、映画もエレキを弾きまくる内容となっていました。その主題歌「君といつまでも」も1966年に大ヒット。エレキブームを象徴する存在として熱狂的な人気を集め、大スターとなりました。加山に続いて、荒木一郎「空に星があるように」や、市川染五郎(六代目)「野ばら咲く路」など、加山と同じく俳優歌手によるヒットも生まれました。


加山は学生時代にカントリーやプレスリーに熱中し、アマチュアバンドの経験があったため、撮影の合間に弾き語りしていたところを渡辺美佐にスカウトされたのが、歌手デビューのきっかけだったと言われています。

加山雄三はファッションリーダーの役割も果たし、「若大将」の「不良っぽさ」に多くの若者が憧れましたが、「君といつまでも」はストリングスアレンジの魅力も含んだ穏やかな楽曲であり、あくまでも従来の「歌謡曲」の枠内での「エレキ歌謡」という潮流に収斂されていきました。青春歌謡の御三家らもブームの影響を受けてエレキ歌謡を歌っており、それは先述の「ニューリズム~リズム歌謡」の流れに位置付くものでした。

このようにエレキブームが若者の間で加熱した一方、大人たちの側からは、エレキは「音楽ではない」「雑音」「公害」「騒音」「反社会的音楽だ」と見なされてしまいます。当時の大人たちの眉をひそめさせた「大音量」も、いま聞けば拍子抜けするほど大人しく感じられますが、エレキバンドに合わせて踊るダンスパーティーは非行の温床だとして問題視され、睡眠薬やシンナーとも結び付けて語られるなど、エレキブームは社会問題化してしまいました。

世の親や教師たちはエレキ少年を不良扱いし、各地の小・中学校ではエレキギター禁止令が敷かれるなど、全国的なエレキ追放運動に発展。教育委員会や警察がエレキギターの追放・禁止を呼びかけるという事態まで招いてしまいます。

エレキの人気にブレーキがかかり始めた1966年6月、ザ・ビートルズが来日し、「GS」ブームへとシフトしていくことになります。「GS」の登場により、エレキブームそのものは短命に終わった形となりました。



◆ビートルズの来日公演

ザ・ビートルズの来日公演は1966年6月30日から7月2日までの3日間、日本武道館で全5公演が行われ、延べ約3万人の観客を集めました。

開催が正式発表された際、当時のマスコミはこの現象を「ビートルズ台風」「ビートルズウイルス」などと呼び、若者の熱狂と非行の増加の結びつきを強調して批判的に報じ、中学や高校の過剰反応や街中での一斉補導などの事態を呼び起こしてしまいます。

マスコミが騒ぐと同時に、右派の論者からも強い反対論が噴出しました。日本武道館はもともと東京オリンピックの柔道会場として建設された「武道の殿堂」であり、そこでコンサートを行うこと自体がそもそも問題視されてしまったのです。右翼活動家や政治評論家によって「日本武道振興の為に作らた伝統的格闘技の殿堂でロック・コンサートを行うなどとは武道館の精神を冒涜し日本の若者を伝統的な価値観から堕落させる」といった意見が叫ばれ、排斥運動が激化。ついには佐藤栄作首相の耳に届き、政府までが武道館使用に難色を示す事態になったのです。

さらに、このような右派による反対運動だけでなく、左派の識者や文化人もまた、この熱狂を「幼稚で粗野なもの」「野蛮」だと見下し、ビートルズに熱中する行為の愚かしさから距離を取ってやり過ごそうとしていたという点も注目すべきです。

現在の視点では、1960年代後半のビートルズや当時の(サイケデリック)ロックというジャンルは、「反体制的=左翼的」な運動と結びついたカウンターカルチャーの文脈で語られがちですが、当時のビートルズはまだカウンターカルチャーへと完全に舵を切る直前(ビートルズがアイドル的イメージから脱皮して急速に変化していくのは、訪日後のフィリピン~アメリカ公演以降、ライブ活動を取りやめてからのこと)であり、特に日本ではアイドル的なイメージのみで受容されていたのです。つまり、左派の論者から見れば、武道館での熱狂は、自分たちが擁護する「反体制」とは結びつかない、単なる若者の「低級な」戯れに過ぎなかったのです。

右翼・左翼関係なくビートルズを「害毒」として扱うメディアや文化人らに対して、若者擁護派や若者自身の意見は、「四人は紳士である」「ビートルズは低級ではない」という立場に集約されていきました。

当時のビートルズの「否定派/肯定派」の対立は、「大人/若者」の世代間対立の構図がそのまま投影されていたといえますが、ここで注目すべきは、ビートルズ否定派にしろ肯定派にしろ「低級であることは悪い」という共通の土俵の上で争っていたという点です。肯定派は、否定派の攻撃に対して、「紳士」イメージへと地位を格上げすることで価値を担保して弁解しようとしていたのです。

当時のビートルズ受容イメージは、訪日前年の映画においても邦題に「4人はアイドル」と付け加えられていたことからよくわかります。1965年の地点で、「ビートルズの4人はアイドルである」という認識が少なくとも日本の映画関係者のなかに存在しており、そのイメージが伝播して受容されていたと考えられます。

現在から振り返った視点で当時のロックやカウンターカルチャーに見出されている「逸脱していること」「低級であること」自体を価値とする考え方や、既存の価値体系に反発しドロップアウトしていくことを表現とするアウトサイダー的な評価軸は、当時のビートルズ肯定派にも存在していない価値観でした。この地点で反体制的・政治批判精神を伴って認識されていた音楽ジャンルはロックでは無く、ボブ・ディランに代表されるフォークソングのほうだったのです。

いずれにせよ、ビートルズ公演について賛否が巻き起こっていた中で、主催者側には武道館を選択せざるを得ない事情がありました。ビートルズ側はチケット価格を10代の小遣いで買える水準に抑えるよう要望していたため、収益確保には収容人数が多い会場が必要でした。また、6月末の来日という梅雨の時期であったため、雨天による中止や延期を避け、決められた公演回数(5回)を確実に実施するためにも屋内施設であることが必須でした。これらの条件を満たす1万人規模の屋内会場は、事実上、武道館以外に存在しなかったのです。

主催である読売新聞社の社主・正力松太郎は反対勢力を懐柔するため、一時的に会場変更のそぶりを見せたり、ライバル誌を利用して「武道館は使わない」という記事を出させたりといった政治的パフォーマンスを行いました。最終的には「女王陛下から勲章を授けられた英国の国家的音楽使節」という名目と、正力氏自身の政治力で、武道館での開催を押し切ったのでした。

公演期間中には、テロの懸念などから延べ3万人以上の警察官が動員され、武道館のアリーナを取り囲むほどの過剰な警備が敷かれました。ファンの熱狂に警戒し、警備を万全にするため、「アリーナ席にはお客さんを入れない」「観客は席を立ちあがることも禁止」という厳戒体制によって、他国でのビートルズのコンサートに比べても非常に静かなコンサートとなったそうです。

ここで、ビートルズメンバーは自分たちの演奏力の低下を初めて自覚し、ショックを受けました。これは、ビートルズがライブ活動の限界を感じ始めた決定的な瞬間の一つとなります。(さらにその後のフィリピン公演では暴動に巻き込まれ、彼らは1966年8月のサンフランシスコ公演をもって一切のライブ活動を止めることを発表します。ここから、ビートルズはライブ演奏を前提としない、現実に再現できない録音上での表現・実験に没頭していくことになったのでした。)

さておき、ビートルズの日本公演は成功裏に終わり、音楽ライブ公演開催に強い反発のあった武道館がロックコンサート会場としての新たな地位を獲得する結果にまで繋がりました。ビートルズは武道館で初めてロック・コンサートを行ったバンドとして名を刻み、その後、武道館はミュージシャンにとってのステータスとなる「ロックの聖地」の一つとなったのです。



◆「GS(グループサウンズ)」ブームの到来

ビートルズ来日公演のころを境に、それまでのエレキブームや御三家ブームと入れ替わるように「グループ・サウンズ(GS)」と総称されるバンド編成でのパフォーマンスがアイドル的人気を強めていくのですが、ここでビートルズが日本に与えた影響は、自作自演の精神性や音楽内容ではなく「自分たちで演奏して歌うバンド」というパフォーマンス上のコンセプト面でした。

それまで日本でバンドサウンドといえば、ベンチャーズやアストロノウツなどをコピーするギターインストのスタイルを指しており、クルーカットに短髪で、技巧を競う演奏が理想とされていました。また、エレキブームに包摂された “若大将” 加山雄三も、音楽的実態は映画スターによるただの歌謡曲。そうした中、演奏しながら自ら歌うビートルズのスタイルは当時の日本人にとって新鮮に映り、長髪の若者がエレキギターを抱えて歌いながら演奏するというスタイルが一気に模倣の対象となっていきます。

ただ、GSブームに先立ち、「ボーカル主体のエレキバンド」は既に、かまやつひろし堺正章らが在籍したザ・スパイダースや、フジテレビ『サ・ヒットパレード』の専属バンドとしてスタートしたブルー・コメッツなどがロカビリーの延長線上で活動していました。彼らはロカビリーブームからエレキブームを経てGSブームへと至る橋渡し的存在だったといえるでしょう。ブルー・コメッツはナベプロ提携の事務所(大橋プロダクション)、スパイダースはホリプロ。このようにGSブームの裏にも、芸能プロダクションによる仕掛けという側面がありました。

スパイダースが所属していたホリプロの創業者・堀威夫は、海外の音楽動向もチェックしており、「イギリスでビートルズというグループが大人気」という情報を得て、いまひとつブレイクに至らないスパイダースにビートルズのスタイルをとらせようと思いついたのです。

この頃、エレキギターを弾くのならベンチャーズのスタイルを模すのが普通でした。しかし、スパイダースはそうしなかった、というより、ベンチャーズのような演奏自体ができなかったのです。もうベンチャーズなんかを追いかけたところで、間に合わない。そこで、ビートルズのスタイルをとらされたわけですが、それが大正解となりました。スパイダースはみるみる他のバンドを圧倒していきます。

ビーチボーイズやアニマルズといった海外バンドが来日し、スパイダースはそういった公演の前座を務めるようになりました。ついには「外タレの前座といえばスパイダース」という評価が固まっていったのでした。そうした末に、1966年、遂にビートルズが来日を果たすのですが、スパイダースは「本物のビートルズが来て演奏するのに、コピーバンドが前座に出ても太刀打ちできない」として、断ってしまいます。

そこで、ビートルズ来日公演の前座は、尾藤イサオ、内田裕也、ブルー・コメッツ、ブルージーンズらが出演したほか、コミックバンドのザ・ドリフターズが短時間ながら盛り上げて注目を集めました。

ここで、ビートルズ来日以降の日本の芸能界が、この〈来日時のビートルズの印象〉を模倣して一つのジャンルを形成した、という点が重要な点です。GSは、ビートルズが日本に置き土産とした「アイドル性」「熱狂性」の再現を目指すべく、芸能界が歌謡シーンに仕掛けたブーム現象だったのでした。

ビートルズ公演の直後、同1966年に、サベージ「いつまでもいつまでも」ワイルド・ワンズ「想い出の渚」ブルー・コメッツ「青い瞳」、スパイダース「夕陽が泣いている」がそれぞれヒットし、バンドスタイルによる歌謡のブームが高まっていきます。

ブリティッシュロックに影響を受けていたスパイダースですが、ホリプロの堀はあくまでヒット曲を出すことにこだわり、歌謡曲のヒットメーカーである浜口庫之助の作曲による「夕陽が泣いている」を提案(演歌の項で先述の通り、浜口は同年に青江三奈のムード歌謡「恍惚のブルース」も作曲しています)。旋律はやはり歌謡曲的でしたが、百万枚を超える大ヒットになり、GSの先駆的存在としてスパイダースは一躍人気グループとなります。


機をとらえたホリプロの堀は、スパイダースのブレイクを見越して事前にスカウトし準備を進めていた数々のグループを一斉にデビューさせていきました。ヴィレッジ・シンガーズ、パープル・シャドウズ、オックス、ザ・モップスなどがいずれもホリプロ。1967年に入って一気にGSバンドが音楽シーンを席捲していき、ブームが最高潮に達する中で、ホリプロは50%に近いシェアと誇ることになります。

さらに、そこにナベプロからはザ・タイガース、そしてホリプロ内に設立されたスパイダクション(現・田辺エイジェンシー)からは、ザ・テンプターズが1967年にデビュー。この二組はGS最盛期の代表的な存在としてブームを牽引していきました。他にも、カーナビーツ、ジャガーズ、シャープホークス、ズー・ニー・ヴー、ダイナマイツ、ザ・サニー・ファイブなどのバンドが登場し、1969年までに100組以上のバンドがレコードデビューを果たしたといわれています。

彼らは、スパイダースやブルーコメッツよりも一回り若い、ロカビリー時代を通っていない世代でした。このような第二世代といえるバンド群の活躍によって、1967年~1969年にかけての約3年間「GSブーム」が花開きました。

沢田研二(ジュリー)を擁するタイガースは「モナリザの微笑」「花の首飾り」などのヒットを放ち、ジュリーの甘いマスクに少女たちが熱狂しました。一方、荻原健一(ショーケン)擁するテンプターズは「神様お願い」「エメラルドの伝説」などがヒット。さらに、この1967年にはブルーコメッツの「ブルーシャトウ」も大ヒットし、レコード大賞を受賞しています。


さらに、再三の繰り返しとなってしまいますが、流行りのスタイルを何でも歌っていた美空ひばりも、当然のように、ブルーコメッツの伴奏に乗せた「真赤な太陽」というGS楽曲を1967年に歌っています。演歌の代表作として紹介した「悲しい酒(1966)」の翌年のことです。


GSバンドのヒットソングは基本的に、甘いストリングスアレンジが施された穏やかな歌謡曲ばかりで、はじめから英米のロックバンドとは違う道を歩んでいました。アイドル性が重視され、少女マンガのおとぎ話のような甘い歌詞が多く歌われていました。彼らの活動はビートルズ来日の熱狂を身近な対象に求める少女ファンのニーズに応えるものだったのです。

メジャーのGSバンドはどこにいってもファンとマスコミに囲まれ、追っかけのために家出する少女が出現する騒ぎにもなったほどでした。言ってみれば、やや小規模な「ビートルズ台風」が、国内のあちこちで再現されたわけです。

たとえばオックスは、ライブ中にボーカルがステージ上で「失神」する(つづいてファンがバタバタと倒れる)というパフォーマンスで評判を呼びましたが、これはまさに「アイドル性」と「熱狂性」を代理で再現した極致といえるものでしょう。GSバンドマンのファッションにおいても、髪型も服装もビートルズの影響下にありました。

GSのファンは圧倒的に若い女性が多かったため、人気グループは各社のチョコレートのCMにこぞって起用されました。タイガースは明治、テンプターズは森永、カーナビーツは不二家、といった具合です。少女をターゲットとした消費文化の広告塔に、GSバンドが位置づいていたのです。

また、このGSブームによって、日劇ウエスタン・カーニバルが息を吹き返します。「ウエスタン・カーニバル」の出演者のラインナップを初期から追ってみると、当初のカントリー&ウエスタンからロカビリー、ポップス、そして60年代後半にはGS主体へ、と当時の流行とリンクする形で変遷していることがわかります。GSバンドの集まる「ウエスタン・カーニバル」は、もはやウエスタンとは縁もゆかりもなくなっていましたが、タイトルはそのまま「ウエスタン・カーニバル」。そこでは、ロカビリー期以上に、各バンドの親衛隊たちが熱烈な応援をして競い合っていました。“敵” のバンドの演奏時には舞台にガラス瓶が投げられるほど過激なものだったといいます。


このように、GSは極めて産業的なビジネスプランニングに大きく依存していたという点が指摘できるのですが、それは音楽面も同様でした。海外では、(特にビートルズ以降のロックにおいて)自分たちで曲を作って演奏する「自作自演」の価値が重要視されていきましたが、日本のGSは、作詞作曲をプロの作家に委ねてヒット曲を量産する体制のままでした。

「演者が自作せずに作家から曲を貰う」という構造面では、GSは従来の歌謡曲とそう変わらないものだったともいえるのですが、一方で、GSの原盤制作は芸能プロダクション各社が手掛けていたため、作家もレコード会社と契約していない非専属の作家を使うケースが多い傾向にありました。そのため、GSの台頭によって、専属制度の解体が決定的に進んだという効果もあったのでした。

レコード会社は、芸能プロダクション傘下の音楽出版社から原盤を買い付けて販売する、という形をとるようになっていたのですが、その際、もともとから外部の原盤を買い付けるスタイルでビジネスを行ってきた洋楽セクションでGSが扱われたのです。GSのレコードが洋楽レーベルから発売され大きな市場を得たことで、旧来のレコード会社による専属制が大きく揺らぐことになります。また、このことによって、「和製ポップス」という語が当時の業界用語として「洋楽セクションから発売される和製曲」というような意味合いを帯びることにもなりました。

「洋楽セクションから発売される和製曲」としての和製ポップスの第一号は、1965年に発売されたエミー・ジャクソン「涙の太陽」だとされます。これは、横浜のアメリカンスクールに通う日英混血の少女(日本名:深津エミ)が、レコード会社の方針によって、アメリカ人の「エミー・ジャクソン」として洋楽部から売り出されたものでした。

その裏には、当時、アメリカのCBSレコードが日本コロムビアに対して合併を求めてきており、その干渉をかわしてうまく懐柔するために、日本コロムビアの洋楽部内で独自の原盤制作を行い、その売上分を洋楽レーベル使用料として米CBS側に支払うことで返事を引き延ばそうとしていた、という裏事情がありました。ただ、洋楽カバーが盛んとなっていたこの時期に、日本人にも洋楽にひけをとらない音楽が出来るはずだという精神にも溢れており、1966年に入ると他のレコード会社もコロムビアに追従して、洋楽レーベルから和製ポップスを発売し始めます。しかし、その多くは単なる日本語の歌で洋楽らしさは薄れており、「和製ポップス」はレコード会社における単なる発売部署の違い、となってしまった側面があったのでした。

GSブームの火付け役とされるブルー・コメッツの「青い瞳」も同じくCBSレーベルから発売され、GS成立前の「日本製の洋楽(和製ポップス)」として位置付いています。当時「和製ポップス」の語が第一義的にはこうした日本製作の洋楽レーベル楽曲に対して用いられ、ザ・ピーナッツなど邦楽レーベルから出ていた洋風の日本製楽曲は当時は「無国籍歌謡」などと呼ばれることも多かったようです。

当時ブルー・コメッツはフジテレビ『サ・ヒットパレード』の専属バンドで、同番組はアメリカのヒット曲を日本の歌手が日本語訳で歌うヒットチャート形式をとっていましたが、そのチャートは制作側の都合で決定しており、ブルー・コメッツの「青い瞳」もこうしたマッチポンプ式の番組内チャート入りをきっかけとしたヒットでもありました。この時期の同番組は事実上「GS番組」となっていたといえます。番組を指揮していたフジテレビ社員のプロデューサー・すぎやまこういちは、その後ナベプロ所属のザ・タイガースの作曲を多く手掛け、後の「ドラゴンクエスト」にまで至る作曲家活動をここから本格化させていきます。

また、GSの多くは、草野昌一(=訳詞家・漣健児)が社長を務めた「新興音楽出版社(現・シンコーミュージック・エンタテイメント)」が原盤権を保有しており、同社の発行する雑誌『ミュージック・ライフ』でもGSの新譜が大々的に取り上げられていました。このように、ラジオ・テレビ・芸能プロダクション・音楽出版社といった諸勢力が、レコード会社の洋楽部と結びついて従来の専属制度外で制作し、メディアを通じて流行させていく、という強力な回路がどんどん形成されていったのでした。

こうした流れにある中で、非専属の作詞・作曲家たちにチャンスがめぐってきていたのです。すぎやまこういちをはじめとして、作詞家では阿久悠、なかにし礼、橋本淳、安井かずみ、岩谷時子、有馬美恵子、山上路夫ら、作・編曲家では、筒美京平、鈴木邦彦、村井邦彦、川口真、などといった、特定のレコード会社と専属契約を結ばない職業作家による楽曲制作が、旧来の専属制度を凌駕していきました。

彼らがGSに提供した音楽は、作詞作曲面では従来の歌謡曲とそう変わらないものでもありましたが、8ビートのリズムやエレキギターを取り入れたバンドサウンドというアレンジ面においては、当時の英米ロックも意識されていました。その点で、この時期がサウンドプロダクションの重要な転換点にあったことに間違いなく、美空ひばりの例のようにGS以外の女性ソロ歌手の歌謡曲のスタイルにもそれが反映されていきました。

特に、黛ジュンは「1人GS」とも呼ばれ、1967年の「恋のハレルヤ」をきっかけに次々ヒットを飛ばしました。1968年「天使の誘惑」はレコード大賞を受賞しています。

ここから、いしだあゆみ「ブルーライトヨコハマ」ピンキーとキラーズ「恋の季節」泉アキ「恋はハートで」中村晃子「虹色の湖」小畑ミキ「初恋のレター」、といったヒットが続いていきました。


(同時期の欧米でもそうだったように)この時期、マルチトラックレコーディングの登場によって、アレンジや演奏に変化が生じ始めていました。その象徴的な例として挙げられるのが「ブルーライトヨコハマ」におけるスタジオレコーディングであり、これを「ビート革命」あるいは「アレンジ革命」と位置づける見解も存在します。

ただし「ビートルズやロックが古臭い日本の音楽を洋風に啓蒙・変革した」というように「演歌/ポップス」の二元論的構図によってロックを特別視することには、注意が必要です。この点については、演歌の項やリズム歌謡など、ここまでの指摘とも合わせて理解すると分かりやすいでしょう。それ以前の歌謡曲においても、編曲面では常に当時の最新の洋楽の要素が取り入れられてきており、その延長線上で「歌謡曲にロック的な要素も導入された」タイミングが「(専属制度の崩壊という)日本の音楽産業の転換期と重なっていた」という形で捉えることも可能であり、この視点は意識しておく必要があります。

さておき、こうした「アレンジ革命」の主要人物であった、なかにし礼・鈴木邦彦コンビや橋本淳・筒美京平コンビは、70年代には阿久悠、都倉俊一らとともにシーンの中心に躍り出て、歌謡曲は新たな黄金時代を迎えていきます。とりわけ、筒美京平は偉大なヒットメーカーとして平成時代まで、多岐にわたる作風で活躍していくことになります。


さて、GSブーム自体は1968年後半には早くも失速し始め、1969年頃にはブームの終焉が明白になってしまいます。GSはあくまでロックミュージックの形式を借りた芸能・アイドル文化の一部であり、音楽的内容よりもルックスやアクションといった視覚的要素が前面に押し出されていった結果、一種のキワモノのような位置にもなってしまったのです。

やはり従来の音楽基準からするとノイズでしかないエレキギターのサウンドは大人への反抗を象徴する存在となり、激しい世代間対立が決定的となってしまいます。思想性や政治性は伴わなくとも、その分「アナーキーさ」という意味で「不良」であり、GSは若者世代による大人世代への反発と受け取られてしまいました。

このように、まずエレキギターそのもののマイナスイメージがロカビリーやエレキブームから拭えていなかったうえに、男の長髪が「反社会的」だという決めつけも根強くありました。長髪であるという理由だけでNHKへの出演が制限されることもあり、ライブ会場の入り口で学校の先生が生徒を追い返すというようなことも行われます。遂には、GSに対する会場貸し出し拒否の広がりや、GSのコンサートに行った生徒が停学処分になるといった事態にまで発展していきました。さらに、タイガースの公演では過熱したファンの負傷事件なども重なってしまい、マイナスイメージは強まってしまいます。

一方、当時は学生運動で騒然としている時代状況でもありました。大人たちからは「反社会的」と見なされる一方で、学生運動に身を投じる若者たちからは「女子相手のミーハーなブーム」「軽薄で商業的な存在」として非難されてしまいました。反社会的な運動が実際にはロックではなくアコースティックなフォークソングと結びついていた当時、フォーク側から見ると「エレキ=女・子供だまし」という認識は根強く、GSは「ビートルズのものまね」に過ぎないという批評も相まって、薄っぺらいものだと捉えられてしまったのです。

GSバンドの多くは、デビュー以前には都市部のジャズ喫茶などでビートルズやローリング・ストーンズのカバーを演奏するコピーバンドとして活動しており、ブレイク後も同様の行為を繰り返していました。しかし、量産された「歌謡曲」としてのGSは、同時代の英米ロックが辿った変化と大きく隔たりが生まれてしまっていました。

まさに「GS時代」だった1967年~1969年の三年間、海外ではロックがカウンターカルチャーと結びつきを深め、思想表現やアート性を強めていました。ビートルズもまた、港町出身の若者という初期のイメージを脱し、西洋社会の正統性そのものに疑義を突きつけるアウトサイダー的存在へと変貌していった時期でした。

しかし日本では、そうした変化の手前で時が止まったままでした。ポール・マッカートニーのLSD擁護発言、ジョージのインド神秘主義への傾倒、ジョン・レノンのオノ・ヨーコとの結婚といった出来事は、断片的に醜聞のように報道されてはいましたが、彼らの行動の本質的な意味が理解されることはなかったのです。商業ベースの過密スケジュールをこなすのに精一杯だった人気GSメンバーには、そういった深い側面を気にする余裕はありませんでした。

1969年以降、GSブームの終焉とともにバンドの解散が相次ぎ、その中の一部のメンバーは芸能界的な枠組みから距離を置いて「ホンモノのロック」を志向する形でバンドを再編成していくことになります。こうして1970年前後に「ニューロック」と呼ばれる動きが始まるのですが、その時点ではすでに「進んだ洋楽/遅れた邦楽」という図式が拭い難いものとして立ちはだかってしまっていました。GSの反動として、ニューロックの担い手たちは極端なアンチ商業主義のスタンスを取らざるをえなくなり、洋楽コンプレックスの呪縛に長く苦しめられることになってしまいます。

一方、リアルタイムで英米のカウンターカルチャーの動きを汲み取ろうとする動きも見られていましたが、それはエレキギターではなくフォークギターでした。当時、ジャズ喫茶を踏襲して出現しつつあった「ロック喫茶」においても、そこに出演するのはフォークの弾き語りやフォークグループが中心となっていたのでした。

70年代に入るとGSはほぼ姿を消し、わずかな転身組を除いて、ほとんどのグループは1971年までに消滅しています。このようにGSブーム自体は数年で終わったものの、タイガースの沢田研二、テンプターズの荻原健一、スパイダースの堺正章など、GS出身者から後のアイドル的存在も生まれており、その影響は決して無視できないものでした。

60年代前半、渡辺プロによって音楽制作の現場がレコード会社から切り離され、テレビが新たな若者音楽と芸能界の主戦場となり、さらに60年代後半のGSによって作家の専属制が崩されたことで、レコード会社の利益の取り分は減ってしまったものの、音楽産業自体の規模はどんどん拡大していき、こうして昭和後期~平成に直接的に繋がる芸能ビジネスの原型がこの時期に形成されたのでした。




◉「フォークソング」二つの動き


芸能界がGS(グループ・サウンズ)の華やかな狂騒に沸く裏側で、もう一つの大きなうねりとなったのがフォーク・ムーブメントです。この動きはアメリカの「フォーク・リバイバル」に端を発しています。

歴史の浅い国であるアメリカでは、第一次世界大戦後に「世界のリーダー」として一気に国際政治での存在感を強めましたが、その前提として「文化的なアイデンティティ」が必要になっていました。ヨーロッパとは違う、だがヨーロッパに匹敵する「歴史的なルーツ」が探される中で、地方の音楽文化の調査が進み、カントリーやブルースが体系化されていったのです。南部・農村部の民謡フォークを発掘・収集・体系化する動きも進み、そのような音楽に対して一般市民の関心も高まってきている中、1940年代には左翼的な活動家たちが政治的なメッセージを土着の古い民謡に乗せて歌い回ったために、フォークミュージックが政治性と大きく結びつきます。ウディ・ガスリーやピート・シーガーによって「民謡フォーク」は社会運動的に歌われ、戦後には共産党との結びつきも深まっていったのです。

アメリカ社会は50年代の保守的な時代を経て、60年代に入ると黒人の地位向上を働きかける公民権運動や反戦運動が一気に盛り上がりました。そんな社会に呼応するように「フォーク・リバイバル」の波もさらに広がっていったのでした。キングストン・トリオによる「トム・ドゥーリー」が1958年にヒットしたことに端を発し、1950年代末~1960年代前半にかけてアパラチア民謡やイギリス・アイルランド民謡を再評価する「フォーク・リバイバル」の動きが一気に盛り上がっていき、ブラザーズ・フォー、ジョーン・バエズ、ボブ・ディランらが台頭。彼らは普段着っぽい衣装で簡素なアコースティックサウンドを奏で、当時ティーンポップ全盛だった音楽業界の裏で、フォークは政治志向の強い大学生の支持を集めたのです。

アメリカにおける歴史文化的な民謡であるトラディショナル・フォークと区別して、フォーク・リバイバルから生まれた新作フォークは「モダン・フォーク」「コンテンポラリー・フォーク」などと呼ぶこともあり、現在、アメリカ音楽史において単に「フォークミュージック」という場合、一般的にはモダン・フォークの意味合いになります。

こうしたサウンドの影響が日本にも及び、1961年のキングストン・トリオ、1962年のブラザーズ・フォー、1963年のピート・シーガーの来日公演を通じて、アメリカンフォークの第一次ブームが生まれました。特にボブ・ディランの「風に吹かれて(1963)」が世界的にヒットした時期と重なり、日本では「カレッジ・フォーク」や「キャンパスフォーク」が広がっていきます。アコースティックギターを中心とした編成で、簡素なアレンジで演奏できるフォークは、高度な音楽的素養を必要とせず、またエレキギターと比べると安価に楽器を入手できることもあって、大学生や高校生を中心に多くのアマチュアシンガーやグループが生まれたのです。

1964年の東京オリンピックを経て、都市化と若者文化の台頭が顕著となっていく中、こうしたカレッジ・フォークのシーンから生まれた最初のスターが、マイク真木でした。大学生によるフォークミュージックの代表的存在となっていたマイク真木ですが、1966年に「バラが咲いた」でレコードデビューし、これがヒットしたことで、「和製フォークソング第一号」として歌謡界でも注目されることになったのです。

しかし、演歌・GSの項でも触れたように、この楽曲はプロの歌謡曲作家である浜口庫之助の手による作品でした(青江三奈「恍惚のブルース」と、スパイダース「夕日が泣いている」が同年の作品)。

また、当時エレキブームからGSブームへと移行する真っ最中にあり、GSバンドと位置付くザ・サベージやワイルドワンズのそれぞれのデビュー作「いつまでもいつまでも」「想い出の渚」も、マイク真木に続くフォークミュージックのようにも扱われていました。

続いて、黒沢久雄率いるブロード・サイド・フォーがフジテレビ系ドラマ『若者たち』の主題歌「若者たち」で、森山良子「この広い野原いっぱい」でそれぞれデビュー。お茶の間にも受け入れられる「歌謡フォーク」としての地位が確立されていきました。

この流れはさらに加速し、1968年から1969年にかけて、フォー・セインツ「小さな日記」、はしだのりひことシューベルツ「風」、ト・ワ・エ・モア「或る日突然」、千賀かほる「真夜中のギター」などが「カレッジフォーク」としてヒットしました。


これらの楽曲は、旧来のレコード会社専属制度ではなく、外部のプロダクションが原盤を制作し、レコード会社の洋楽レーベルから発売されるという、GSと共通する新しいビジネスモデルの上で成立していたものでした。特に「バラが咲いた」はGSと並んで、旧来の専属制度を崩壊させたきっかけの楽曲として知られています。

しかし、GSにおける「ロック」の扱いと同じく、歌謡界に曲調のみが取り入れられただけの「フォーク」ブームに、「自作自演」「社会派」的な要素は含まれておらず、後に続くもう一つの潮流から「これはフォークではない」「商業主義的だ」と激しい反発を招くことになってしまいます。

その対抗軸となったのが、京都や大阪を拠点とした「関西フォーク」です。彼らはボブ・ディランらが体現した「プロテスト(=抗議) ソング」の精神を色濃く受け継いでいました。1960年代、高度経済成長の真っ只中にあった日本は、東京オリンピックに向けて高速道路・東海道新幹線・原子力発電所建設などのインフラ整備が進み、工業化・都市化の波が全国に及んだ一方で、社会の急激な変容に対して若者たちの違和感が噴出し始めた時代でもありました。ベトナム戦争の激化や70年安保改定を控え、機動隊と学生デモ隊の衝突、催涙ガスと火炎瓶の炸裂というような過激な学生運動のムーブメントが巻き起こる中、関東の商業フォークに対して、関西フォークは若者の声の代弁として支持を広げていたのです。

関東での当初のカレッジフォークは生まれ育ちの良い大学生のムーブメントという色が強かったのですが、関西フォークは反体制的・社会的メッセージが強く、「アングラ・フォーク」とも呼ばれました。商業主義を嫌い、アマチュアリズムに重きを置く活動は芸能界のそれとは一線を画すもので、「自分のメッセージを自分の言葉で歌う」ことが信条に掲げられ、自分たちの手によるオリジナル曲の制作が(ピート・シーガーやボブ・ディランのコピーと並行して)始まっていたのでした。

ただし、関西フォークの若者への広がりにはラジオの深夜放送も大きな役割を果たしていました。テレビが家庭内娯楽の優位に立ち、ラジオは独自の生き残りの道を模索しなければならなくなった時期に、ラジオの深夜放送は大人向けのお色気路線から受験生などの若者向けの路線に変わり始め、フォークがその格好の素材となったのです。その点では、一概に反商業と括ることはできない側面もあったかもしれません。

関西フォークは高石友也、中川五郎、岡林信康、高田渡、五つの赤い風船らが活躍。特に岡林信康の「友よ」や高石友也の「受験生ブルース」といった楽曲が熱狂的に支持され、独自の盛り上がりを見せました。特に「友よ」は、歌詞中で繰り返される「夜明けは近い」というフレーズが強いメッセージ性をもつものと受け止められ、社会変革を訴える歌としてデモ活動や政治集会などで盛んに歌われるテーマソングのような存在となります。これによって岡林は「反体制の象徴」となり、関西フォークを代表する教祖的な存在となっていきました。


一方高石友也は、1967年に「高石事務所」を、1969年には会員制の「アングラ・レコード・クラブ(URC)」を設立します。「反メジャーレコード会社」を標榜したURCは、「日本初のインディーレーベル」とも評されています。当時の日本では、英米におけるカウンターカルチャーだったロックは「GS」という形で芸能界やメジャーに取り込まれてしまっていた一方で、関西フォークを中心とした自作自演型のフォークは、反体制的であったり反商業主義を標榜するものであり、英米でロックが獲得していった「カウンターカルチャー」の精神を、日本では関西フォークが体現することとなったのでした。

そうした中、この時期のフォーク・ムーブメントを象徴する存在として異質な存在感を放ったのが、ザ・フォーク・クルセダーズでした。関西のカレッジフォーク界で人気だったザ・フォーククルセダーズは、1967年に解散記念のLPを自主制作。そこに収録されていた「帰って来たヨッパライ」は、テープの早回しを使って歌声を加工した実験的な作品でした。これがラジオ関西で放送されたことをきっかけに、奇抜な歌声と奇想天外な歌詞も相まって注目を集めます。人気を受けてこの曲がシングルカットされると、180万枚を越える歌謡界の大ヒットになりました。

音楽実態としてはアコースティックなフォークの枠を超えた「スタジオ・ワークによる実験ポップス」でしたが、それがフォークとして受容された点に当時の特徴があります。「帰って来たヨッパライ」は、プロの作家が書いた曲を歌手が歌う従来のシステムではなく、大学生だった彼らが自主制作で世に出したものです。このDIY精神自体が、当時の基準では「フォーク」というカテゴリーに分類される最大の理由でした。

また、「死んで天国へ行ったが、神様に追い返される」という不謹慎なユーモアや、テープの回転数を変えた奇妙な歌声は、当時の「真面目な歌謡曲」や「お説教くさい芸術」に対する強烈なアンチテーゼにも位置付きました。「既存の価値観からの逸脱」というアナーキーな姿勢が、反体制的だった当時のフォーク・ムーブメントの精神性と合致したのです。

さらに、当時の日本において、「フォーク」という言葉は非常に広義で曖昧なものであったため、「エレキを持った不良(GS)」や「旧式の歌謡曲」とは違う「既存の芸能界の外側からやってきた新しい若者表現」の総称としてフォークというラベルが貼られていた点も指摘できます。


さて、こうしたフォークブームの熱狂はみるみる高まっていき、1960年代末には社会現象へと発展します。反戦運動や学生闘争の拡大といった殺伐とした時代状況に呼応してフォークソングも用いられ、1968年から1969年にかけて「第二次フォークブーム」となります。

その象徴的な舞台となったのが、東京・新宿駅西口広場です。ベトナム戦争の激化・泥沼化を受けて、1969年頃、大学のキャンパス闘争を追われた全共闘系の学生や反戦市民団体がこの場所に集まり、政治的議論とともにフォークソングを歌う集会が自然発生的に行われるようになりました。当初は小規模な「仲間内の戯れ」のような集まりでしたが、次第に規模が膨れ上がり、それ以前から警告を発していた警察は、1969年6月28日についに機動隊導入に踏み切り、多数の逮捕者が出てしまいました。反戦歌を歌っていた若者グループが警察に追われると、別の場所に集まって歌い続ける、という彼らの姿をマスコミは「フォークゲリラ」と呼びました。

アメリカの反体制集会で多く歌われた歌がボブ・ディラン「風に吹かれて」であれば、日本では岡林信康「友よ」が合唱されていました。

同じころ、URCを設立した高石友也らは、さらに野外イベントのフォークキャンプなどを企画していきました。フォークゲリラやフォークキャンプなどといった草の根的な活動が拡大していき、その集大成となったのが、1969年に岐阜県・はな湖畔にて開催された全日本フォークジャンボリーです。

高石事務所と中津川労音が協力したこのコンサートには、高石友也、岡林信康、五つの赤い風船、中川五郎、高田渡ら、いわゆる関西フォーク系のアーティストと、遠藤賢司やジャックスといった面々が出演し、約3000人を集めました。既存のホールや野外音楽堂ではない野原で、若者らの手作りのコンサートを成功させたことは大きなインパクトとなりました。

翌70年の第二回では約8000人、第三回は約25000人を集め、数万人を動員する巨大イベントへと成長していきましたが、一部の聴衆がこれを「商業主義だ」と批判し、幻想の崩壊が始まります。最終日には約30人の若者が「商業主義粉砕」を叫んでメインステージを占拠し、コンサートを中断させるという事態に至ってしまいます。

これは、当時の学生運動が安保闘争の失敗や内部闘争の激化によって挫折感が高まり、袋小路に迷い込んでしまっていた左派の状況と重なっていました。世界的にも、カウンターカルチャーの失速とともに、ヒッピーたちの「フェスティバル幻想」がもろく崩れ去った時期でした。日本では1972年の「連合赤軍事件(浅間山荘事件)」という凄惨な結末を経て、若者の政治への情熱が急速に冷え込んでいく中、反体制的であった「フォーク」もまた、政治の道具であることを止め、より個人の日常生活や内面を吐露する「新しい歌の世界」へと姿を変えていくことになります。




◉ジャニーズとGS ― アイドル史の始動


現在、アイドル史やアイドル論といえば、まず真っ先に女性アイドルの系譜が語られがちな傾向があります。戦後日本の女性アイドル的存在としては、1950年代の「三人娘」(美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみ)がまず想起され、それに続いて、1960年代には映画界から登場した吉永小百合を挙げることができます。1962年に橋幸夫とのデュエット曲「いつでも夢を」で日本レコード大賞も受賞した際、吉永はまだ17歳という若さでした。また、彼女のファンは「サユリスト」と呼ばれるなど、ファンの姿も現在のアイドル文化に通ずる部分があります。

ただ、この時期はまだ「アイドル」とは呼ばれておらず、総じて「スター」と呼ばれていました。美空ひばりや吉永小百合らに代表される映画スターたちは、映画という遠い世界でキラキラと輝く存在であり、庶民にとって、映画館に「浮世離れした格好良さ・美しさ」を観に行く存在でした。

これに対して、1960年代に登場したテレビのスターたちはそうではありません。テレビのスイッチを入れれば無料で見られる存在。親しみがあり、視聴者の疑似恋愛の対象にもなれる存在だったのです。その親近感を加速させたのが、カラーテレビです。

日本のカラー放送は1960年から開始されるも、当初はカラーテレビが非常に高級品であり、すぐには普及していません。しかし、1964年の東京オリンピックを皮切りに、その次のメキシコオリンピック(1968)、アポロ11号の月面着陸(1969)、大阪万博(1970)、と視聴者の購買意欲を掻き立てるビッグイベントが続いたことで、カラーテレビは爆発的に普及していきます。これにより、テレビスターの存在にもリアリティが出て、親近感が増していったのです。

そうした潮流の中、60年代に「ぶりっ子路線」として登場したアイドル的存在として、山本リンダがいます。デビュー曲「こまっちゃうナ(1966)が大ヒットし、アイドル前史を彩りましたが、この楽曲はなんと遠藤実の作曲でした。当時は舌っ足らずな口調を売りにした、いわゆる「可愛い子ちゃん歌手」のイメージで、彼女のキャリアにおける第一次ブームとなりましたが、「こまっちゃうナ」の後は長らく大きなヒットに恵まれず、セクシー路線へと転換した1970年代の第二次ブームまで、人気は低迷します。


同時期の男性スター史もまた、同様の軌跡を辿っています。映画スターとしては、石原裕次郎、小林旭、加山雄三らについてもここまで記述してきましたし、TVスターとしてもナベプロの面々や、歌謡界における青春歌謡の「御三家」などが、近しい存在として挙げることができます。

ただ、この段階でもまだ「アイドル」という概念は無く、彼ら・彼女らは、アイドル的存在でありながらも、総じて「スター」と呼ばれていました。

「アイドル」という概念が日本で明確に意識され始めたのは、ザ・ビートルズの来日前後だったといえるのではないでしょうか。来日前年に公開されたビートルズ映画に『4人はアイドル』という邦題が冠されていたことに象徴されるように、この時期、日本の芸能界には彼らをアイドルと定義する新しい認識が芽生え始めていました。

その後、本格的なテレビ時代の到来とともにGSブームが巻き起こった過程で、徐々に「スター」と並行して「アイドル」の呼称が用いられるようになったようです。


1960年代に立ち現れた日本の男性アイドルの潮流において、GSに並ぶもう一つの大きなトピックとなるのが、ジャニーズアイドルです。

男性アイドルの一大事務所として最近まで長年君臨してきたジャニーズ事務所(現 STARTO ENTERTAINMENT /SMILE-UP.)。その最初のグループであるジャニーズ(便宜上「初代ジャニーズ」とも呼ばれます)がデビューしたのが1962年でした。

創設者である日系二世のジャニー喜多川は、現在の代々木公園一帯に広がる当時の米軍居住区「ワシントンハイツ」を拠点に、近所の少年たちを集めて野球を教えていました。1962年1月、ジャニー喜多川は、彼の率いた野球チーム「ジャニーズ少年野球団」のメンバー中から4人を連れて、当時大ヒットを続けていたアメリカのミュージカル映画『ウエスト・サイド・ストーリー』を観に行きます。

かねてより劇場ベースのコンサートや舞台ショーに関心を持っていたジャニーにとって、この「歌って踊る」映画体験は決定的な契機となり、芸能業界への参入を決意します。ジャニーとともに少年4人らも映画に強い感銘を受けて、野球のトレーニングからダンスのレッスンへと切り替えられました。それが初代ジャニーズの原型となったのでした。

1962年4月、初代「ジャニーズ」が正式に結成されます。当初は大きな舞台ではなく、ロカビリアンたちの後を継ぐように、ジャズ喫茶で外国曲をレパートリーとして活動しているにすぎませんでしたが、日本初の「歌って踊れるグループ」の誕生となりました。年端もいかない少年たちが歌って踊るというスタイル自体が、当時のショービジネスにおいて極めて画期的であり、この領域は、以後しばらくジャニーズの独壇場となっていきます。

6月にはジャニーズ事務所が設立されますが、これはジャニー喜多川の個人事業の称号であり、当初は渡辺プロの系列会社としてのスタートでした(株式会社になるにはここから13年の年月がかかります)。この頃のジャニーは経済的にも恵まれているとはいえず、専用のレッスン場もない状態で、近くの公園や広場で歌やダンスの稽古を行っていたといいます。

同年8月、ジャニーズはテレビ黎明期を代表するNHKの音楽バラエティ番組『夢で逢いましょう』において、ナベプロ所属の人気歌手・田辺靖雄のバックダンサーとしてテレビデビューを果たします。

この番組は、テレビ番組とはいえ、実質的には “舞台ショー” でした。モノクロ生放送という制限のなか、リアルタイムでセットチェンジをしながら歌やダンスを映し出すというこの番組は、むしろ舞台との連続性を持つ部分があったのです。ジャニーズはここで番組のレギュラーとなり、経験を積んでいきました。

一方、ジャニーはテレビだけではなく生の舞台にも力を入れ、1963年1月、「ロコモーション」を歌う伊東ゆかりのバックダンサーとして「第19回日劇ウエスタン・カーニバル」でジャニーズが初舞台を踏み、以降、日劇ウエスタン・カーニバルに継続して出演していきます。ロカビリーブームが終わり、GSブームが来るまで、日劇ウエスタン・カーニバルをつないでいたのはジャニーズだったとまで言われています。

並行して、引き続きジャニーズはテレビ出演も継続しており、数々のトップスターのバックで踊っていましたが、まだレコードデビューはしませんでした。ジャニーズタレントは、まず先に芸能界のデビューがあって、その数年後にレコードデビューする、というパターンがここから受け継がれていきます。

現在まで踏襲されている「お披露目」と「歌のデビュー」の時間差商法は、ファンにレコードデビューを渇望させる「焦らし」効果があるともいわれています。また一方では、歌のデビューが遅いのではなく、あえて早めのお披露目をすることで経験を積ませる「現場主義」という見かたもあります。

1964年12月、ジャニーズは『夢で逢いましょう』の「今月の歌」として発表された「若い涙」でついにレコードデビューを果たします。作詞は永六輔、作曲は中村八大という、安定の「六八コンビ」によるもので、「上を向いて歩こう」と全く同じ状況です。アレンジは服部良一の息子・服部克久が担当していました。


一度レコードデビューしてからは短期間で17枚のシングルをリリースします。それを支えたのは、中村八大、いずみたく、浜口庫之助といった新進作曲家たちでした。

ジャニーズは、当時全盛だった「御三家」とは違い、歌って踊れる点を大きなウリとしていました。少年ダンスグループというジャンルはジャニーズ一強となって、テレビ界を席捲するようになります。テレビのレギュラーを増やし、舞台も経験してレコードデビューも果たしたジャニーズは、いよいよ押しも押されぬスターとなり、このころから「おっかけ」も登場したようです。ジャニー喜多川の運転するクライスラーは東京のファンにはおなじみで、インターネットも携帯電話もない時代に「オリキ(重度のおっかけ)」の間では「ジャニーズに会うならこの車を探せ」が合言葉となって広がっていたといいます。

また、それぞれの個性を生かした「全員スター制」にも当初からこだわっていました。4人それぞれの個性が分かれ、人気は互角。仲良しムードの形成と、それぞれのタレントを「推し」にして応援しようとするファン心理によって、ファンの総数の増加に繋がりました。

ここからジャニーズ事務所のタレントは原則として異なるタイプのタレント4~6名によって構成される「全員スター制」が基本となり、「誰か一人だけで保たれているグループ」という状況を避けて長続きさせるとともに、「○○担当」という形で個別タレントを応援する「オリキ」が生まれていくことになります。

ジャニーズは1965年に紅白に初出場を果たしました。デビュー間もないジャニーズが紅白に出場できたのは、当時ジャニーズ事務所がナベプロの管理下にあり、当時芸能界のトップであったナベプロの力によるところも大きかったとみられます。

同年には弟分グループとして「嶺のぼるとジャニーズ・ジュニア」が結成され、これが後のジャニーズJr. (現「ジュニア」)の原型とされます。また、初代ジャニーズに憧れて事務所に集まる少年たちも現れ始めまていました。

1966年にはさらに弟分グループとして「ハイソサエティー」が結成されています。日劇ウエスタン・カーニバルにも出演するようになりましたが、メンバーの入れ替わりも激しく、その理由の一つにジャニー喜多川による性虐待もあったともいわれています。ちなみにこの同年7月には、ジャニー喜多川の姉・メリー喜多川の子として藤島ジュリー景子が誕生しています。

さらに、この時期はGS前夜であり、エレキブームが盛り上がっていた時期ですが、ジャニーズの主戦場であったダンスという分野と比較してみると、それはアマチュアとプロの対比になるという側面もありました。1960年代半ばのエレキブームはアマチュアバンドブームでもあった一方、ダンスという分野はこの時期、プロによる独占と言ってよい状況でした。とりわけ、ジャニーが志向するミュージカルのようなショービジネスのダンスを身に付けるには、特別な訓練を積む必要がありました。初代ジャニーズは、ジャニー喜多川による演出・プロデュースのもと、その特権を十分に生かそうとしていたのだといえます。

同1966年8月、ジャニーズは人気絶頂の中で本格的なダンスレッスンのためロサンゼルスへ4ヶ月間の長期滞在を敢行。全米デビューに道を付け、日米を股にかけて活躍する国際的スターになるはずでした。プロフェッショナルなダンスというアドバンテージをさらに確実なものにしようと試みたこの渡米ですが、しかしながらこれが “アイドル” としては仇となってしまいます。

1967年1月に帰国したとき、日本の歌謡界の状況は一変していました。ジャニーズが帰国後に日本で待ち受けていたのは、GSブームでした。日本にジャニーズが居ない間に、かつてバックバンドとして起用していたブルー・コメッツやスパイダースが台頭しており、ブームにあらがえない流れができていたのです。

そこでジャニーズもGS風の楽曲「太陽のあいつ」を発表してはいるのですが、「歌って踊れるグループ」よりも「歌って演奏するグループ」のほうがアイドル人気を獲得する潮流が完全に出来上がってしまっていました。ジャズ由来のバックバンドを携えたジャニーズの音楽形態は、それだけで旧来的な印象が拭えず、GS調を取り入れてみたところで、パフォーマンス形態として時代遅れと見なされてしまったのです。

また、GSのように「歌って演奏するか」、ジャニーズのように「歌って踊るか」というこの対立は、単なる人気争いではなく、その背後には、男性アイドル像の基本路線の対立という側面もありました。訓練された身体表現としてのダンスを武器にした「王子様」的存在と、楽器を携え自ら演奏することで自立性を体現する「不良」的存在との対立が、明確な二項対立として可視化されていったのです。

GSの「不良性」は政治性というよりエンタメ・パフォーマーとしての「不良キャラクター」の原点となり、後のロックに付随する「ツッパリ」「ヤンキー」「やんちゃ」といったイメージが、ここで定まった「不良」イメージのバリエーションとして展開していったと考えることが出来ます。

スパイダースにとって「いちばんの強敵」はジャニーズだった、と、かまやつひろしは振り返っています。やはりエレキバンドとダンスグループは、この時期、同じ「男性アイドル・スター」という土俵で争われる存在だったのです。しかしジャニーズの4ヶ月の長期渡航の間に、スパイダースは一気にジャニーズや御三家を凌ぐアイドル人気を獲得したのでした。

さらに、1967年9月には金銭問題をめぐる裁判が起こされ、その中で性加害問題も初めて話題に上がります。ジャニー喜多川は数十年に亘って、所属タレントへの性的搾取を繰り返してきたことが2020年代に入ってから社会問題となりましたが、1967年の地点では結局「裁判とは直接関係がない」として性加害についての徹底的な糾明が行われることにはなりませんでした。この時点で社会的な検証がなされなかったことを後年悔やむ声も少なくありません。

11月20日、初代ジャニーズは解散。表向きには「日本のショービジネスと方向性が合わないから」とされていましたが、明らかにGSの台頭が影響していたためだと考えられます。12月には渋谷公会堂でサヨナラ公演が行われ、ブルー・コメッツやスパイダースも友情出演しました。

初代ジャニーズ解散後、事務所の主役は1967年8月に舞台デビューしていたフォーリーブスへとバトンタッチ。1968年に入ると、ジャニー喜多川はいよいよフォーリーブスを本腰を入れてプッシュし始めます。「太陽のあいつ」でのバックダンサーなどの下積みを経てからデビューしたフォーリーブスは、「楽器を持たないGS」とも呼ばれ、実際に日劇ウエスタンカーニバルでGSバンドと共演もしていました。まず既存歌手のバックダンサーをつとめた後に舞台デビューを果たし、ある程度の実績をつけ名前を広めてからレコードデビューさせる手法は、後のほぼ全てのグループが踏襲していきます。

絵面を見れば、楽団をバックに四人で歌って踊るという形式は、初代ジャニーズと同じであり、バンド形態であるGSとは違うものです。しかし、楽曲の作家陣を見てみると、GS期に台頭した職業作家によって書かれており、その意味では初代ジャニーズとの比較すると音楽面で「GS」的ではありました。

ただ、楽器を持たないフォーリーブスは、斬新な衣装と運動能力を駆使したバク転なども盛り込んだダンスやステップを売りにしたボーカルグループとして、GSとは異なる路線を明確にしていきます。彼らは中性的で甘い顔立ち、アクロバティックなダンス、整ったフォーメーションを武器に、旧来の「青春歌謡」的な男臭さとも、GSの「不良性」とも距離を取った存在として現在まで続くジャニーズ的アイドル像が打ち出されました。フォーリーブスは「ジャニーズ系」というイメージの原型を作った存在かもしれません。

結果として、GSブームはすぐに衰退しましたが、フォーリーブスはそうなりませんでした。一度はGSブームに敗れたかのように見えたジャニーズ事務所ですが、GSブームに対抗するコンセプトを打ち立てたことによって、GSが急速に衰退していく中でも人気を維持し、70年代にかけて息の長い活動を続けていきます。

1968年9月、フォーリーブスはソニーレコード設立と同時にその第一号アーティストとしてレコードデビューを果たしました。さらに、テレビにも積極的に進出していましたが、テレビは映画と異なり一般家庭の日常生活に入り込むメディアであったことからある種「健全さ」が求められており、その中でフォーリーブスは視聴者からの親近感をもたれるようになり、いわば「親しみのある王子様」として独自の地位を築いていきました。

こうして、日本の男性アイドルの基本構図として「王子様」と「不良」という二つの類型の対抗関係が、この時期に明確化したのでした。「王子様」タイプを担ったのがジャニーズアイドルで、「不良」タイプを担ったのが、それ以外のロックスターとなっていったのです。




◉その他・諸分野の趨勢


◆アニソン(=「テレビまんがのうた」)の始動

現在、「アニソン(アニメソング)」という分野は日本の音楽において重要な一要素となっていますが、アニソン史が本格的に動き始めたのも1960年代のことです。ただ厳密には、その歴史は戦前まで遡ります。

日本に現存する最古のアニメは、1917年に公開された映画『なまくら刀』。わずか一分の無声映画でしたが、起承転結を盛り込んだ内容になっています。その後、1931年公開の『黒ニャゴ』が日本初のトーキー(音声付き)のアニメ映画となります。1929年に童謡として発売された「おいちにの兵隊さん」のB面曲「黒ニャゴ」を原作として制作された作品で、劇中にも同曲が使用されているため、これが「アニメに付随する歌」=「日本初のアニソン」と捉えることのできる例かもしれません。


同映画が人気を博したことで、童謡「茶目子の一日」を元にした映画『茶目子の一日』が作られるなど、同じパターンで数作が作られました。

1930年代以降、日本のアニメーション制作技術は着実に向上し、戦時期には既に高い水準に達していましたが、その多くは国威発揚を目的としたプロパガンダ作品として利用されていました。戦後になると、そうした技術的蓄積を基盤として、娯楽としてのアニメ文化が花開いていきます。輸入されたディズニー映画との競争に晒されながら、短編映画が継続的に制作されていったのでした。

1958年には東映が、日本初の長編アニメーション映画『白蛇伝』を公開。その後も東映はアニメ映画の制作を続けた一方、テレビでもアニメ作品の放映にも進出していきます。

テレビにおけるアニメーションの歴史を振り返ると、1957年の『漫画ニュース』が日本初の国産テレビアニメだとされています。その日のニュースを独自のアニメーション手法を用いて表現する内容で、当時は「アニメ」ではなく「テレビまんが」と呼ばれていました。この作品では山本直純服部克久といった作曲家が音楽を担当していましたが、映像が残っていないため、残念ながら現在では詳細を把握することは難しいです。

続いて、1958年にはテレビ用に制作された日本初の本格的「テレビまんが」にして、日本初の “カラー” テレビまんが『もぐらのアバンチュール』が制作され、ここでも山本直純が音楽を手がけました。

さて、漫画連載で既に名を馳せていた手塚治虫は、1961年にアニメ制作にも進出を志し、「手塚治虫プロダクション動画部」を設立。1962年に「虫プロダクション」と改称し、その第一作として長編アニメーション作品『ある街角の物語』が発表されました。音楽は高井達雄が担当しています。

そして、翌1963年には『鉄腕アトム』が放送開始され、日本初の30分放送枠用の連続テレビまんがシリーズとして、国産テレビアニメの草分け的存在となりました。これがテレビアニメ史、そしてアニソン史の決定的な転機となります。


放送開始後に発売されたソノシート『鉄腕アトム・第一集』は約120万枚を売り上げ、主題歌が作品人気と強く結びつくことを示しました。当初、主題歌「鉄腕アトム」はインストゥルメンタルでしたが、第31話から谷川俊太郎が歌詞を付け、上高田少年合唱団による歌唱版が使用されるようになります。当時もまだアニメは「テレビまんが」と呼ばれていたことから、主題歌は「まんがの歌」あるいは「テレビまんが主題歌」などと呼ばれていましたが、この時期に人々の身近な存在として定着していき、「アニソン」史の重要な参照点となっています。


この「鉄腕アトム」を皮切りに、子ども向けのテレビアニメ番組(テレビまんが)が次々と制作されていき、マーチ調の明るく楽想と、合唱団による歌唱を特徴とする主題歌も主流となっていきました。

最初期は『鉄人28号』(1963~1966)、『エイトマン』(1963~64)、『スーパージェッター』(1965~66)などのSFヒーローものが続きますが、1960年代後半になると、ギャグや女の子向けなどにも作品の幅が拡大し、主題歌の曲作りもジャズ調やミュージカル調など、徐々にバリエーションを増やしていきました。

1960年代のアニソンを代表する作曲家としては、宇野誠一郎、小林亜星、冨田勲らが挙げられます。

宇野誠一郎は、人形劇『ひょっこりひょうたん島(1964)のテーマソング作曲で人気を博し、活躍していきました。


小林亜星は、当初はCMソング作曲家としてヒットを放ったのち、アニソンも担当するようになり、『魔法使いサリー(1966)』『秘密のアッコちゃん(1969)などで活躍。


冨田勲は手塚治虫作品を多く手掛けており、『ジャングル大帝(1965)『どろろ(1969)などを担当しています。当時はクラシカルでドラマチックなサウンドを志向していましたが、1970年代にはシンセサイザーを使用した電子音楽の第一人者となります。

他にも、『ゲゲゲの鬼太郎(1968~)『巨人の星(1968~)『妖怪人間ベム(1968~69)『アタックNo.1(1969~1971)といったアニメの主題歌が現在にまで残っています。さらに、筒美京平『サザエさん(1969~)を作曲するなど、同時期のレコード会社非専属の作曲家の躍進がアニソンの分野にも反映されているようすも伺えます。


60年代~70年代前半までは、アニメと特撮の区別がなく、双方がざっくりと「テレビまんが」と呼ばれていました。

テレビにおける特撮ヒーロー番組の最初期の例としては『月光仮面(1958~59)』が嚆矢とされ、後続に多大な影響を与えました。その後、『ウルトラマン(1966~1967)(初代)が放送され、同時期のアニメ作品とともに、大人気となりました。


このような中、『タイガーマスク(1969~1971)ではOP・EDともに菊池俊輔が手掛け、70年代にかけて「テレビまんがの歌」の分野で幅広く活躍していくことになります。



◆CMソングと多様な職業作曲家

この時期、アニメの主題歌や劇中音楽を担当した作曲家としばしば活動領域が被っていたのが、CMソングです。

日本ではラジオ・テレビの黎明期から、数多くのCMソングがお茶の間を彩っていましたが、当時CMソングは市販のレコードとは異なる「広告音楽」として明確に区別されており、歌謡曲やクラシックのように一般の流通に乗ることはありませんでした。

1960年代、この黎明期のテレビ業界において、数々のCMソングの名作を手掛けたのが三木鶏郎です。三木は、「明るいナショナル」「ミツワ石鹸」「船橋ヘルスセンター」など、当時の人々の耳に残るメロディーを次々と生み出し、消費社会の中で重要度を増していたテレビCMの発展に大きく貢献しました。


三木の周辺には多才な人材が集まっていました。作曲家のいずみたく、作詞家の永六輔、そしてのちに小説家として大成する野坂昭如五木寛之も作詞家として、三木の門下でキャリアをスタートさせていたのです。

三木自身もCMソングだけにとどまらず、テレビまんが『鉄人28号』の主題歌など「アニソン」の作曲などでも活躍しました。この『鉄人28号』で三木とともに劇中音楽を担当したのが、越部信義です。

越部は高校時代からクラシックの作曲家を志して東京藝術大学作曲科へ進みましたが、在学中にジャズやラテン音楽に傾倒し、朝日放送のコンクールで審査員を務めていた三木に誘われたことで商業音楽の世界に足を踏み入れます。そこから越部は「おもちゃのチャチャチャ」に代表される子供向けの歌を数多く作曲。「おもちゃのチャチャチャ」は、キューバのラテンリズム「チャチャチャ」が採用されています。

1961年4月、NHKテレビで毎朝8:30~10分間の番組『うたのえほん』が開始され、のちに『おかあさんといっしょ』内のコーナーに吸収されます。歌を歌ったのが「うたのおねえさん」。ここで、文部省唱歌や、歌曲風のお行儀のよい「赤い鳥童謡」とは異なる、「リズム童謡」とでも言うべきポピュラー調の童謡が多く作られたのです。「おもちゃのチャチャチャ」をはじめ、「とんでったバナナ」「アイアイ」「アイスクリームのうた」などが発表され、大正期、戦後すぐに続き、日本の童謡の「第三期」と位置付けることが出来ます。

さて、越部は舞台音楽などでも幅広く活躍し、さらにアニメ音楽においては、三木が主題歌を書いた『鉄人28号』の劇伴を皮切りに、1969年『サザエさん』でも劇中音楽を担当するなど、多くのアニメ音楽を手掛けていきました。


また、1963年度から放送されるようになったNHKの歴史ドラマシリーズは『大河ドラマ』と呼ばれ、テーマ曲や劇伴においてクラシカルな書法が求められました。同時期のドラマやアニメ、映画などの劇中音楽も含めて、技法が成熟していきました。

関西圏では、キダ・タローが多くのテレビ番組・ラジオ番組のテーマ曲やCMソングを手掛け、「浪花のモーツァルト」という二つ名が付けられました。




◆フリージャズ渦巻く日本のモダンジャズシーン

戦前、ジャズは流行歌と一体化して受容されており、ミュージカルなども含み、レコード歌謡を大きく「ジャズ・ソング」と呼んでいたほどでした。1940年代にはアメリカでビバップなどの「モダンジャズ」が誕生しており、戦後日本では1950年代に熱狂的なジャズブームが巻き起こりました。

しかし、1950年代末のロカビリーブーム以降、最新の洋楽は「ポップス」と呼ばれて区別されるようになり、流行歌におけるジャズやラテンの要素は次第に古臭く受け取られるようになってしまいました。しかし、これがジャズのアンダーグラウンド化・純粋化を加速させ、本格志向のプレイヤーらによってモダンジャズシーンがジャズブーム後の日本で独自発展していきます。

1960年代に入ると、モダンジャズは文化人を中心に広く浸透していき、米国のジャズシーンとの時差は無くなりつつありました。陽気な大衆音楽だったスウィング時代と異なり、モダンジャズはしばしばシリアスな質感を伴います。米国で起きた変化と同様に、日本においても、ジャズが “踊る音楽” から “座って鑑賞する音楽” へと変質していったのです。

1961年には、当時の米国のモダンジャズ界で代表的存在となっていたアートブレイキーのバンドが来日し、国内のジャズファンを熱狂させました。サンケイホールでの10回連続公演を皮切りに、全国ツアーを敢行。その人気ぶりは、蕎麦屋の出前持ちが「モーニン」を口ずさむほどだったといいます。「モーニン」に代表されるようなブルース要素の強いモダンジャズは当時、「ファンキージャズ」と呼ばれていました(※ファンクとは無関係)。また、テレビ番組の収録では日本人ミュージシャンとのセッションも行われ、そこでブレイキーのバンドは最新の理論を駆使した演奏を披露したことで、日本人プレイヤーらに衝撃を与えました。1960年代の米国のジャズシーンでは「モードジャズ」が始動していた時期です。


秋吉敏子の渡米後、日本で活動を引き継いでいった渡辺貞夫も、1962年にバークリー音楽院を目指して渡米しました。彼の場合、現地でもみるみる活躍し、プロ活動に没頭しましたが、日本から把握していたアメリカと、現地で感じる実際のアメリカに大差は感じられず、見切りを付けて1965年に帰国。

1960年代前半は、ブレイキーを筆頭として多くの海外ジャズミュージシャンが日本公演を行い、国内のシーンは一見圧倒されたかに見えましたが、渡辺貞夫の帰国が起爆剤となり、再び日本人によるモダンジャズシーンが活性化していきました。

渡辺貞夫はまた、当時米国ジャズシーンでもブームの1つとなっていたボサノヴァを日本へ紹介する役割も果たしました。帰国後の1967年に渡辺貞夫が発表したアルバム『ジャズ&ボッサ』を皮切りに、国内でもボサノヴァを導入した作品が数多く発表されるようになっていきました。


一方で、1960年代は破壊的な「フリージャズ」の動きも活発化していました。フリージャズもまた、米国でモードジャズやファンキージャズの人気と同時期に、オーネット・コールマンに端を発するムーブメントとして興隆していたものです。

日本国内でも1960年代初頭ごろから銀座の喫茶「銀巴里」で毎週金曜に行われていたイベント「フライデー・ジャズ・コーナー」や、銀座の「ジャズ・ギャラリー8」といった場所が、前衛的なジャズのムーブメントを牽引する基地のような役割を担っていきました。高柳昌行金井英人らを中心に新しいジャズのセミナーが開かれ、日野皓正ら若い才能も集いました。

さらに山下洋輔、富樫雅彦、佐藤允彦、菊地雅章、猪俣猛、武田和命、西村昭夫、滝本国郎、本田竹彦といった面々が、緊張感のある新時代ジャズを牽引し、カルト的とも評される独自のシーンを形成していきました。

1969年にそれぞれ録音された、山下洋輔トリオ 『コンサート・イン・ニュー・ジャズ』には同時期のフリージャズの、日野皓正クインテット 『ハイ・ノロジー』には同時期のマイルス・デイヴィスの影響を色濃く感じることができます。




◆ヤマハの歩みと渋谷の街

日本の音楽史を語る上で、ヤマハの影響は外せません。1960年代、ヤマハは楽器メーカーとしても、音楽教育の面でも大きく影響力を広げました。

日本では戦前から舶来信仰が根強く、とりわけピアノの分野では、アメリカのスタインウェイ、オーストリアのベーゼンドルファー、ドイツのベヒシュタインが「世界三大ピアノ」として持て囃されていたため、日本の楽器メーカーであるヤマハがたとえこれらよりも高性能なピアノを生産しても、ブランドイメージというの曖昧な基準が障壁となり、評判として海外のピアノを長らく超えられずにいました。

そこでヤマハは、自動車の走行性能を測るようにピアノの性能を数値化し、音程の安定性や耐久性などの面で高性能であることを証明しようとするアプローチを採ります。これはいまだかつて他のピアノメーカーが行わなかったことであり、この経験と技術が、綿密な計算と数値に基づいて稼働する大量生産へと繋がっていきました。

ヤマハにとって生産工程の機械化は戦前から進めてきたことであり、最終的に目指していたのはアメリカのフォード・モーターに代表される大量生産システムでした。ヤマハの歴史において最重要人物である当時の社長・川上源一は1953年に欧米視察を行い、翌年から根本的な作業工程の見直しに着手。同時期のトヨタの工場システムも参照しながら、1960年代にかけて生産過程の改革を成し遂げました。もともと熟練した職人の手仕事によって作られる手工品だったピアノを、品質を下げることなく生産コストを引き下げ、近代的な大量生産を可能にした点が、製造会社としてのヤマハの大きな強みとなったのです。その成果として、1967年には新たなグランドピアノの機種「CF」「C3」が発表され、国内外で高い評価を獲得し、ヤマハ・ピアノは世界トップレベルのピアノと並び立つ存在となったのでした。

こうしてピアノの大量生産を実現したヤマハは、低価格かつ高品質な製品を市場に供給することに成功すると同時に、生産量の増大に見合う高い需要をいかに創出するかという課題にも力を入れていました。その中核を担ったのが音楽教育事業であり、1950年代に始まったヤマハ音楽教室でした。

1959年には、ピアノに加えてヤマハの主力商品となる電子オルガン「エレクトーン」の初代機種 「D-1」が発売され、音楽教室における基本楽器も、当初のオルガンから、1963年以降はエレクトーンへと移行していきました。

さらに音楽教室事業を発展させる形で、川上源一は1966年に財団法人ヤマハ音楽振興会を設立し、自ら理事長の座に就きました。ここで彼が当初から力を入れていたのが、ヤマハ音楽教育システムという独自の指導システムを中心に音楽を普及していくことでした。ここで浮上してきたヤマハ音楽教室の特徴の一つとして、独自の音楽資格制度の創出が挙げられます。

当時の日本には、音楽大学の卒業生がどの程度の能力を有しているのかを客観的に示す基準が存在せず、演奏家としての力量は海外コンクールの受賞歴などによって推し量られるのみで、音楽を「教える」スキルに至っては、それを評価する指標が確立されていませんでした。

こうした状況を背景に、1967年、ヤマハ音楽能力検定(ヤマハグレード)制度が開始されたのです。このグレード制度によって、従来は曖昧に捉えられていた音楽能力が段階的な認定資格として可視化されると同時に、音楽大学に進学しなくとも、ヤマハ音楽教室を通じて一定水準の音楽能力を証明できるという、従来の音楽大学を頂点とする日本の音楽教育とは異なるルートが成立することになりました。

川上源一は、10級あるうちの真ん中の5級を講師資格の最低条件に設定し、誰でもなんとか音楽教室で頑張れば5級を取れるように制度設計を行いました。これによって、ヤマハ音楽教室に通うことが音楽教師への道を開き、「音楽をやっていても就職には結びつかない」という社会通念をある程度は払拭することに成功します。また、ピアノ講師に加え、既存の音楽大学では教えられない「エレクトーン」という新製品の指導者を育成する仕組みとしてもグレードが機能しました。

また、ヤマハグレードの実技では、二人一組の試験官制度を採用し、その試験官になるために難しい試験を課すことで、不正を徹底的に排除するように努められました。その結果、民間企業であるヤマハと財団法人ヤマハ音楽振興会が主体となって行っている試験であるにもかかわらず、ヤマハグレードは国立くにたち音楽大学などいくつかの音楽大学でその説明会が開かれ、実際に試験を受け講師になる音大卒業生が輩出されるなど、その信頼度がある程度高くなっていきました。

ただ、やはり藝大を頂点とする既存の音楽権威に比べるとその影響力はまだまだ乏しく、ヤマハはグレード受験者の拡大と普及を目指し、車の合宿免許のように短期集中型の合宿を行い、「二週間みっちりやれば5級を取得できる」といった形で資格が獲得できるよう促されていた時期があったそうです。

ヤマハ音楽教室において現在にまで続く慣習となっていますが、音色が自在に奏でられる「エレクトーン」においては、「クラシック」も「ポピュラー音楽(ジャズ、ラテン、ミュージカル、ポップスなどを全て含む)」も幅広く演奏可能であった一方で、「ピアノ」においては完全にクラシック志向の指導が施されており、藝大を頂点とする既存の正統的芸術音楽観(ドイツ式の美学)が踏襲されていました。

つまり、ヤマハは戦後日本の音楽界においてクラシック界とポピュラー界の双方の人材育成を包括的に担う “ハブ” のような存在となっていたのです。

しかし、当の音楽大学や芸術大学が構成する「ガチ」のクラシック音楽界からは、“低俗” な「ポピュラー音楽」も含められている民間企業のヤマハの音楽教育などというものは総じて低級なものとして見做される傾向が根強く、ヤマハのピアノ教室出身者がクラシックで音大受験や留学を目指す際には「ヤマハ出身であることやグレード取得の件は隠し、決して言わないように」と指導されていたほどでした。

ちなみに、1960年には文部省とヤマハの後援のもと、中学校吹奏楽研究協議会が発足しています。1956年に全国吹奏楽コンクールが復活して以降、学校吹奏楽の文化も成熟・定着していきますが、そこにもヤマハの影響力が及んでいたのでした。


ヤマハのエレクトーンに関連して、同じ1960年代にはさらに日本の楽器産業に新たな動きも見られました。

高度経済成長期に数多く生まれた電子・電気機器メーカーの1つとして、1963年に、京王技研(後のKORGコルグ)というメーカーが創業していました。エレキブームやGSの全盛期であった1960年代には、特にギターメーカーが相次いで生まれていた時期です。しかし、多くの新興メーカーがギター製造から出発するなかで、京王技研はリズムマシンから楽器産業に参入した点がユニークでした。

ドラマーがいなくても電気でドラム音が出せないか?という発想から開発された独自の装置は、その奏でる「ドン」「カッ」という擬音と「オートマチック」を掛けて、「ドンカマチック」という商品名が付けられ、1963年に発売。史上初のリズムマシンとなったのでした。

さらに、京王技研はヤマハに申し出て、既に全国的な流通網を持っていたヤマハの流通網に「ドンカマチック」を流したのです。当時ヤマハの主力商品の1つであるエレクトーンは、電子とはいえオルガンであったことから、リズムを奏でる機能は搭載されていなかったため、エレクトーンのオプション機器として「ドンカマチック」をヤマハに売り込んだことで、京王技研はヤマハの流通網を利用できることになりました。

ただ、「ドンカマチック」の初期モデルはアンプ内蔵スピーカーを備え、ステージにおいて単体で自動演奏可能なプロ仕様の機器であったため、価格も高額で、何ならエレクトーン本体をも上回る価格でした。そこで、京王技研は機能を簡略化し、操作性を向上させた廉価版モデルを1966年に発売。

さらに1967年には「エレクトーンのオプション機器」としてのポジションをさらに明確にするため、スピーカーを搭載していない小型の「MINI POPS」を発売します。エレクトーンに直接取り付けることができ、リズム音はエレクトーンのスピーカーから出るようにしたのでした。ドラムやラテンパーカッションなど様々なリズムパターンに合わせて演奏できるようになったことで、エレクトーンという楽器でのポピュラー音楽の演奏効果が格段に高まっていきました。こうした流れにあり、1970年代にはエレクトーン自体にもリズムマシンが内蔵されるようになります。


当時の東京において、ヤマハの楽器店および音楽教室の総本山のような場所となっていたのが、銀座店でした。明治時代、山葉虎楠によって静岡県の浜松に創業された当時の日本楽器製造株式会社が、東京に進出した際に選ばれた土地が銀座であり、歴史ある楽器店の老舗として長らく地位を確立していたのです。しかし、1966年にヤマハ渋谷店が道玄坂にオープンします。この場所が、ここから先の日本の音楽にとって重要な新たな拠点の1つとなっていきます。

1960年代当初、若者文化の中心地は新宿にあり、渋谷は文化の匂いがしない「サラリーマンの街」と呼ばれていました。当時の新宿はモダンジャズブームの最盛期であり、1961年オープンの「DIG」や1965年オープンの「新宿ピットイン」といった伝説的なライブスポットが当時のモダンジャズシーンを牽引していました。渡辺貞夫、日野皓正などが演奏し、毎晩のように満員となっており、長らく日本のジャズシーンを牽引する場となっていきました。また、ロカビリーブームとは異なる、シリアスなジャズを嗜む場としてもジャズ喫茶が最盛期を迎えていました。さらに、新宿では寺山修司に代表される前衛演劇運動など、あらゆる分野のカウンターカルチャーが生まれ、そういった動きを集約する街でもありました。そうした空気感の中、カウンターカルチャーに欠かせない存在として、フォークも隆盛していました。

一方、そのような若者文化の熱気とは無縁の、田畑さえ広がっているような町だった渋谷ですが、1964年の東京オリンピック前後に行われた再開発によって、その町並みが一変することになります。

まず初めに渋谷へ進出したのがNHKでした。それまでの放送会館が手狭になったため、競技会場の近くに拠点を移し、業務の効率化を図るという目的だったといいますが、これが別の側面にも影響を及ぼします。ニュースや天気予報で渋谷を俯瞰した映像が全国に流れるようになると、「テレビに映る街を実際に生で見てみたい」という人々が渋谷を訪れるようになったのです。スタジオ見学とセットで楽しむプチ観光にも繋がりました。

NHKに隣接する渋谷公会堂も1964年に開館し、合わせるように西武百貨店が渋谷進出を表明します。さらにそれに応戦する形で、1967年に東急グループが、半ば西武を出し抜くように「東急本店」を渋谷にオープンさせ、その後西武は1973年「パルコ」開店へ・・・と続く、熾烈な競争と街のブランド化が加速していくことになります。

ちなみに、渋谷に隣接する原宿・代々木一帯でも、オリンピックを契機とした大きな変化が起きていました。戦後、米軍関係者とその家族向けの住宅として利用されていたワシントンハイツは返還され、山手通りと青山通りを結ぶ道路が開通します。原宿駅前の神宮橋の隣には表参道と代々木競技場を真っ直ぐに結ぶ五輪橋が建設され、そのたもとには超高級マンションのコープオリンピアが誕生し、新しい街のランドマークとなりました。

この頃から徐々に、広告カメラマンなどが原宿に事務所を構えるようになっていきます。当時の広告やデザイン業界の中心地は銀座でしたが、大手の代理店や制作会社に対して、若い世代のカメラマンやデザイナーたちは原宿セントラルアパートにプロダクションを立ち上げ、フリーランスとして次の時代を作ろうとしていました。朝鮮戦争の停戦以降、米兵たちが帰還していったこともあって、米軍関係者向けの住宅に空きができており、さらにそこはアメリカ文化に憧れを持っていた当時の若い世代のクリエイターのセンスに近い場所でもありました。加えて原宿は、新宿などと違って文教地区に指定されていたために風俗店やラブホテルが営業することができなかったこともあり、静かな環境と外国の匂いに惹かれた新世代のクリエイターたちが集まっていったのです。

渋谷一帯が「若者の街」へと変貌を遂げようとする最中にあった1966年、道玄坂にオープンしたヤマハ渋谷店は、当時のヤマハ及び川上源一の戦略において極めて重要な役割を担っていました。

川上源一は、クラシック音楽に限定されないポピュラー音楽文化の発展に、音楽教育を通じて寄与することを目指しており、それは商売上の理由以前に、「楽器を使って大衆が音楽に参加できる場を作りたい」という理念があったためでした。

グレード試験の創設と並んで、当時のヤマハ音楽振興会が行ったもう一つの象徴的な試みが、1967年に開催された「全日本ライト・ミュージック・コンテスト」です。関東甲信越大会では立教大学の細野晴臣が審査員を務めており、そこに出演していたのが、当時イギリスのシャドウズのコピーをしていた松本隆(バーンズ)であり、その年のフォーク部門第二位になって頭角を現したのが、ジャズドラマー富樫雅彦の門下生である角田博民(つのだ☆ひろ)の在籍したジャックスだった、という、その後の才能の原石が集っていました。

当時のヤマハ音楽教室の講師たちはクラシック出身者が大半で、ポピュラー音楽を評価・判断できる人材に乏しかったため、コンテストの審査員は川上源一自身と、彼が見初めたアマチュアミュージシャンが務めていたのです。細野晴臣がコンテストの審査員に抜擢されたのは、細野が当時ヤマハ池袋店に出入りしていたことがきっかけだったといいます。

さらに同じく1967年には、三重県志摩半島にヤマハリゾート・合歓ねむさとが開園し、1969年にはミュージックキャンプが併設されます。この地はグレード合宿の場としても利用される一方で、同年にはここで作曲コンクール合歓ねむポピュラー・フェスティバル」が開催されました。これが後のヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)へと発展し、1970年代~80年代を通じて数々のアーティストを生み出すことになります。

1966年に開店したヤマハ渋谷店は、まさにこうした一連の流れを体現する拠点でした。「クラシックの殿堂」と化していた銀座店に対して、渋谷店は、新しい世代の「ポピュラー音楽」の担い手を生み出し育てていきたいという川上源一のビジョンを反映した旗艦店の1つとして構想されたのです。

だからこそ、ヤマハ渋谷店は単なる楽器販売だけではなく、輸入盤をいち早く仕入れるレコード売り場、音楽教室、ライブのできるスペースも併設していたのでした。ビル内の教室には、レコーディングスタジオまで設けられていました。1階がレコード売り場、2階が楽器販売、最上階に練習スタジオと音楽教室という構成で、1970年代にかけて渋谷のヤマハは音楽の情報発信拠点となり、ミュージシャンたちの交流の場ともなっていくことになります。

渋谷のヤマハには、渡辺貞夫をはじめとして多くの著名人が出入りするようになっていました。さらに、デビュー前のサザン・オールスターズや、キャロルを結成したばかりの矢沢永吉も、渋谷ヤマハでの『ヤングステージ』という場に立っていたといいます。

実は渋谷の中でも唯一、道玄坂にある百軒店ひゃっけんだなという一角では、早くから独自の文化圏を形成していました。1960年代、百軒店はSAV、オスカー、ブルーノート、ありんこ、デュエット、渋谷DIGなど、多数のジャズ喫茶が軒を連ねていたのです。しかし、ほどなくして、世間でのジャズ喫茶ブームに陰りが見え始め、閉店が連鎖していきます。その中で、渋谷DIGはブラック・ホークと名前を変え、1969年にロック喫茶へとリニューアルします。これを機にジャズのフォービートに代わって硬直なエイトビートが百軒店に響くようになるのですが、ブラック・ホークに流れるロックは、主流のハードロックではなく、シンガーソングライター系やカントリー系、ソフトロック、ブリティッシュトラッドなど、それはどちらかというとフォーク系の一筋縄ではいかない選曲ばかりでした。

こうした環境下で1970年代前半、はっぴいえんど、はちみつぱい、シュガー・ベイブといった新しい潮流が芽吹くことになるのですが、こうした音源の仕入れ元が、同じ道玄坂にあったヤマハだったのでした。ヤマハ渋谷店は、数少ない渋谷の音楽発信地として当時の音楽ファンから重宝されていたのです。

このようにして、渋谷で新しい音楽に触れた若者たちが、すぐ近くのヤマハで楽器やレコードを買い、スタジオで練習し、コンテストへと向かうという、渋谷独自の音楽生態系が形成されようとしており、ヤマハ渋谷店はその中核を担っていたのです。これは、後に「渋谷系」と呼ばれるブームへ繋がる遠い源流とも位置付けることができます。

現在、日本の音楽史史観、とくに「ロック史」において、ニューミュージック~シティポップ~渋谷系を軸とする一視点が存在し、そこでは「はっぴいえんど」というバンドのみが日本の音楽や日本のロックの元祖のように神格化されて位置付けられている傾向があります。これは「はっぴいえんど史観」と呼ばれており、一定のロックファンに根強く信奉されている一方で、その史観の偏りを批判する意見も存在しています。

確かに、この流れのみが日本の音楽史・ロック史の唯一の大枠のように語られていることには大きな偏りがあると思います。一方で、この流れ自体が虚構である訳では無く、一つの潮流としては日本音楽史に存在はしているでしょう。ただ、この系譜において、詳しく調べてみると、そこにはヤマハ中心の教育音楽的文化や、スタジオミュージシャンという「プロフェッショナル」の影響力が非常に大きな役割を果たしていることが浮かび上がってきます。その点が矮小化され、粗雑なハードロック系とむしろ対立する洗練された「フォーク系」の系譜にあるはっぴいえんどが、あろうことか「日本のロックの始祖」として語られることで、様々な矛盾が生じてしまい、現在の日本の音楽史の語りにおける一番の問題点になってしまっているのではないでしょうか。という問題提起をここでしておき、次回の記事への布石とします。

このように1960年代から始まったヤマハの試みは、ピアノを通じたクラシック教育においては従来の藝大・音大の権威にも十分比肩する水準が目指されたと同時に、エレクトーン教育を核として幅広いポピュラー音楽の文化発展と人材育成も志向され、さらには70年代以降のフォークやロック、そして新しい歌謡曲が発展していく多種多様な原石が皆、ヤマハを通過しているという、日本音楽文化の隠された極めて重要な基盤だったということが指摘できるでしょう。



◆「現代音楽」/「現代邦楽」/「クラシック演奏界」

第二次世界大戦の頃を境に、欧米の学術的な芸術音楽創作界(=一般に “クラシック音楽史” として知られる系譜)では、既存の手法を否定する「現代音楽」の時代へと完全移行しており、戦後日本の「音楽」も、リアルタイムでそれに追従して前衛的な実験が試みられていました。(この時代、正統な学問的には「音楽」といえばそれだけで「西洋芸術音楽」のことを指していました。)

日本の西洋芸術音楽創作史の系譜としては、明治期の瀧廉太郎・山田耕作に始まり、戦前と戦後を繋ぐ世代として、現代音楽をリードした「3人の会」の芥川也寸志、黛敏郎、團伊玖磨や、映画音楽でも活躍した伊福部昭、早坂文雄、そして、松平頼則、柴田南雄らが登場していました。

さらに、戦後に台頭した面々としては、入野義朗、諸井誠、武満徹らが登場していますが、そのうち特に武満徹が1960年代の学問的な「音楽史」の一大トピックに挙げられます。

武満徹は1967年に、琵琶と尺八とオーケストラによる「ノヴェンバー・ステップス」を発表しました。この作品が、邦楽器と西洋オーケストラを対峙させた記念碑的作品として日本音楽史で高く評価され、歴史に残ることとなったのです。

この作品に前後して、邦楽器の導入は当時の現代音楽界において「前衛的な音響」を達成するための1つの方法論としてブームになっており、諸井誠は「竹籟ちくらい五章(1964)」、「対話五題(1965)」などを、武満満も「(尺八と琵琶のための)エクリプス(1966)」を、廣瀬量平は「2つの尺八のための『アキ』(1969)」などを書いて、現代音楽に邦楽器を導入しています。これらは従来の五線譜の秩序ではない図形譜や伝統的書法などで示され、邦楽器奏者の解釈の余地が与えられていました。

このように邦楽器が取り入れられた芸術的「現代音楽」は、邦楽界視点では「現代邦楽」というジャンルで認識されていました。伝統邦楽が悪しきものとして差別される風潮があった中で、この新しい潮流は一種の追い風となり、邦楽界にある種の「知的な地位」を確保させることには成功しました。しかし、西洋前衛芸術の範疇に入ったことで、伝統文化としての在り方からは乖離し、特権的で閉鎖的な分野となっていく側面も孕んでしまったといえるでしょう。

1960年代の邦楽シーンでは、1957年結成の「邦楽四人の会」や、米川敏子といった奏者が西洋前衛芸術へアプローチしたほか、1964年に長沢勝俊や三木稔の呼びかけで結成された「日本音楽集団」が楽器編成を拡張し、新たな展開を導きました。伝承面でも、師弟関係中心の学習法から脱却すべく1955年に設立された「NHK邦楽育成会」が、現代作品に対応できる演奏家を数多く輩出しました。尺八の分野でも山口五郎、二世酒井竹保、横山勝也、青木鈴翁、初代山本邦山、酒井松道らが台頭し、彼らの存在が西洋音楽畑の作曲家たちを刺激したという側面もありました。

西洋畑の作曲による無理な奏法に対応するために新たな邦楽器が開発されたり、筝曲・常磐津節・清本節・長唄・雅楽など伝統邦楽界の各分野の奏者が現代曲の演奏家としても活躍していき、伝統邦楽界でも「現代邦楽」が主要な一分野となったのです。

一方、1960年代の日本の現代音楽界に衝撃をもたらしたのが一柳慧です。1950年代の渡米中にジョン・ケージの思想に触れた一柳は、図形楽譜や不確定性の音楽を携えて1961年に帰国しました。彼が紹介した前衛音楽は、「ケージ・ショック」と言われるほどの衝撃を与えることとなったのでした。

さて、この記事で長々と見てきたように、1960年代は、幅広い「ポピュラー音楽」がありとあらゆる分野で目まぐるしく展開していた時代です。しかし、それらを全て黙殺し、ごくごく一部の限定された範囲の実践のみを「音楽」と呼ぶようになった「芸術音楽」界というものは、特権的立場に立ち、ひたすら奇を衒った表現のみを突き詰めている、極めて滑稽な分野となってしまったのではないでしょうか。

「創作界」がこのような潮流に至ってしまった一方で、演奏家としてのクラシック音楽界は、【バロック音楽~古典派~ロマン派~近現代】という史観と19世紀のドイツ美学に沿って「特定のレパートリー」を「正統」「真面目」に演奏することで、18~19世紀のヨーロッパの「名曲」が保存・権威化されていくことに大きく寄与しました。

1964年に放送が開始されたテレビ番組『題名のない音楽会』では、黛敏郎の司会のもと、クラシックを親しみやすく解説し、一般人へのクラシック音楽の普及に大きく貢献しました。

この時期に国内外のクラシック演奏界で活躍して評価を得た人物としては、小澤征爾(指揮者)、内田光子(ピアノ)、中村紘子(ピアノ)、江藤俊哉(バイオリン)、豊田耕児(バイオリン)、堤剛(チェロ)などが居ます。


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