【日本音楽史】⑦19世紀前半~中盤(化政文化~天保期・幕末にかけて)
日本の音楽史を古代から令和まで概観していくシリーズです。
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過去には西洋音楽史編(クラシック史+ポピュラー史)もまとめておりますので、そちらも是非チェックお願いします。
●クラシック史とポピュラー史を繋げた図解年表 (PDF配布)
●分野別音楽史
●メタ音楽史
【概観 日本音楽史】
ここまでの記事 ↓
まえがき
①古代~上代
②平安時代~鎌倉時代
③室町・戦国・安土桃山
④17世紀前半~中盤(江戸時代初期)
⑤17世紀後半~18世紀初頭(元禄時代の周辺)
⑥18世紀(享保期 ~ 宝暦・天明文化)
<今回>⑦19世紀前半(化政文化~天保期・幕末にかけて)
※時代区分と記述範囲について
前回の記事まででも何度もお伝えしている通り、日本史のお勉強における「文化史の区分」では、江戸時代後期の文化は通常、大きく「化政文化」と括られます。元号で確認すると、「文化」時代が1804年~1818年、「文政」時代が1818年~1831年。これらの「文化・文政」年間の文化を合わせて「化政文化」と呼ばれています。
ただ、元禄文化のときと同じように、化政文化もその1804年〜1831年の期間内だけに単発的に文化が興ったのではなく、もちろんその前後も含めて連綿と流れは続いています。元号としては、文政のあとは「天保の改革」でもお馴染みの「天保」年間(1831〜1845年)に入り、幕末へと続きます。
そこで今回は「化政文化〜天保期・幕末にかけて」として19世紀前半~中盤を見ていこうと思います。次回書く予定の幕末の記事ではいよいよ西洋音楽の流入が起こり、そちらを中心に記述することになると思うので、化政文化の延長上の流れにある邦楽文化については幕末期~明治にハミ出した話であっても今回の記事のほうで触れておこうと思います。
それでは参りましょう!
◉浄瑠璃・歌舞伎
18世紀後半に人形浄瑠璃・義太夫節はその人気を歌舞伎に譲った形にはなってしまったものの、その後も発展は続いていました。また、歌舞伎の人気はそもそも浄瑠璃の人気の要素を取り入れたことも理由の一つに挙げられるため、浄瑠璃文化の継承は幅広い分野で続いていたと言えるでしょう。
そうした中、18世紀末に植村文楽軒が大坂で始めた人形芝居の一座は、19世紀に人形浄瑠璃界で最も有力で中心的な存在となっていきました。初代・植村文楽軒の没後も一座は大坂内で場所を移しながら継承・発展していき、幕末から明治にかけて一座はその名を「文楽座」というようになりました。これを由来として、人形浄瑠璃全般のことを別名で「文楽」と言うようになったのです。
正確には、人形浄瑠璃と文楽はイコールではないらしいですが、現在一般的には同じ意味として用いられています。
一方で江戸では18世紀を通じて豊後節系の流派(宮園節、新内節、常磐津節、富本節)が派生しており、特に常磐津節が歌舞伎音楽にも取り入れられて欠かせない存在になっていました。19世紀の化政期に入った1814年にはさらに、富本節から派生して清元節が創始されます。清元節もまた、常磐津節と同じように歌舞伎の伴奏音楽として発展した一方、純粋な観賞用音楽としての作品群もあります。
このようにしてさまざまな流派が分かれながら発展してきた浄瑠璃音楽は現在、義太夫節・河東節・一中節・常磐津節・富本節・清元節・新内節・宮薗節の8流派が残っています。
さて、「化政文化」では文学の分野も栄えており、読本・洒落本・滑稽本・人情本などといった世俗的な文学が大いに盛り上がっていました。歌舞伎業界でもこの時期には爛熟期に入ります。そして、歌舞伎の内容が合巻としても書かれたり、読本が歌舞伎の原作になったりするような、芝居と文学の相互交流もこの時期に始まります。錦絵では、俳優や名所を色鮮やかに描いて人気を集めるなど、メディアミックス的な文化展開も盛り上がっていきました。
歌舞伎ではまたまた新たなジャンルも生まれます。歌舞伎作家の四代目・鶴屋南北(1755~1829)は、独創性に富んだ脚本を書き、役者の初代・尾上松助とともに、「うらめしや~」で有名な『東海道四谷怪談』などの「怪談物」を確立したり、役者の七代目・市川團十郎らとは、当時の庶民の生活が実際の様子に近い形で生き生きと描写された「生世話物」というジャンルも確立しました。頽廃と怪奇の中に毒のある笑いを加味したその作風は、文化文政時代の爛熟した町人文化を色濃く反映していることで知られています。
さらに幕末~明治にかけては、河竹黙阿弥(1816~1893)が盗賊を主人公とした「白浪物」と呼ばれる一連の演目を書き、「江戸歌舞伎最後の花」となりました。
◉地歌・箏曲
箏曲の世界では、三味線音楽の地歌と結びついて上方で発達した生田流箏曲と、江戸っ子好みの浄瑠璃などの歌唱様式を取り入れた山田流箏曲の二大流派が出揃い、19世紀に入りました。
生田流箏曲では、歌と歌の間に半独立した間奏部分の「手事」が挟まった「手事物」の形式が盛んとなっていましたが、文化文政時代に入ると、京都では手事物をさらに複雑化させて京風に優美にまとめた「京流手事物」と呼ばれる一連の楽曲が多く作られるようになります。これは松浦検校が創始したと言われ、多くの手事物の地歌を作曲しました。松浦検校につづいて、菊岡検校も追随していきます。
さらに京流手事物を発展させた中心人物に八重崎検校(1776~1848)がいます。彼は、もとの三味線の地歌に対していくつもの異なる “手付け” (新たな作曲・合奏)を付け足す「替手式箏曲」を行いました。松浦検校の作曲した地歌などに対して、原曲の三味線の旋律とは違う旋律を工夫するなどして編曲を複雑化させ、合奏の効果を高めたのです。
つまり京流手事物は、松浦検校や菊岡検校が確立したものを、八重崎がより工夫・洗練させたことによって、合奏音楽として更に音楽的価値の高いものに完成したスタイルということです。
ただ、当時の箏曲は、武士の娘や武家屋敷へ奉公する女子の教養として学ばれていたため、江戸時代の一般庶民にとっては、三味線音楽のほうがポピュラーだったようです。このように教養音楽として展開した箏曲ですが、八重崎のさらに弟子の世代になると、新たな創造的運動が起きます。
この動きは、光崎検校や吉沢検校によるものでした。彼らは、それまで三味線音楽に追随する形であった箏曲の音楽に箏本来の独自性を持たせるべく、器楽的な作品を書いていきました。当時、先輩音楽家たちにより地歌系箏曲の作曲や演奏技巧の開発が頂点に達していた中において、新たな方向をさまざまに模索し、その模索の中の一つの方向性として、江戸時代初期の音楽である「組歌」や「段物」をよく研究し、自らの曲にも取り入れたのでした。
◉端唄・小唄・都々逸
三味線音楽では、「長唄」の登場に対して短い小品を意味する「端唄」という言い方も江戸時代中期に登場していましたが、天保年間(1830~1845)以降、この「端唄」が一ジャンルとして流行していくことになります。端唄は、江戸時代末期の一般庶民の娯楽の流行歌として気軽に親しまれました。
端唄は、江戸の町における庶民の遊びやお座敷・酒席の場で広く歌われるようになりますが、あくまで一般庶民の娯楽でしかなく、他の音楽のように家元制によって流派が生まれて伝承されたりすることはなかったため、一時の流行を経て衰退していきます。幕末には端唄をゆったりと渋く歌う「うた沢」が登場した後、今度は逆に端唄のテンポを早くしてさらにスッキリと粋にした「小唄」という形へシフトしていきながら、明治時代に突入します。
「小唄」は、明治維新以降も庶民に馴染み深い存在であり続け、大正~昭和初期のレコード歌謡に対しても「〇〇小唄」というような言い方がなされていきます。
また江戸時代後期は、庶民の新たな娯楽の場として「寄席」が登場しており、天保年間に一世を風靡した都々逸坊扇歌という寄席芸人が流行させた「俗曲(庶民的な唄)」のスタイルが「都々逸」です。
「都々逸」は、7・7・7・5の4句を重ねる26文字の定型詩です。都々逸はもともと、風刺・粋・艶を有し、男女の恋情・四季・心境などを題材とした町人文芸でしたが、都々逸坊扇歌は寄席の場で客からお題を求めて三味線と歌で謎ときをする「即興謎解き歌」が大人気となったことで、一般に知れ渡っていきました。都々逸坊扇歌が歌った節回しは比較的簡単であったことから、誰でも歌える大衆娯楽として、生来の歌好きだった江戸の人々に受け入れられて広まりました。
こうして江戸時代末期に流行歌として現れた「小唄」や「都々逸」といったスタイルが、明治以降の庶民音楽にも引き継がれていきます。
◉江戸時代を通じて広がった各地の民俗芸能
江戸時代、「風流踊り」の広まりによって、各地に特徴を持った音楽が育て上げられていた民俗芸能にも触れておきます。
その代表の1つが、祭囃子です。神道行事のなかで演奏され始め、京都祇園祭の囃子に影響を受けた江戸の神田囃子・葛西囃子が元となって、全国各地に「竹笛・宮太鼓・締太鼓・鉦」の編成で賑やかに演奏する器楽が広まりました。
民俗芸能のもう1つの代表が、田植え歌、木挽き歌、酒造り歌などのさまざまな仕事歌です。豊作や豊漁を願ったり、厳しい労働を効率よく行うために歌われていたものも、次第に三味線の伴奏が付けられて、お座敷歌や酒盛り歌などにも派生しました。
これらの民間音楽は、参勤交代によって整備された道路交通網で中央と地方の文化交流が起き、広まっていったものです。さらには、陸路だけでなく、海路を往来する船乗りによっても伝播は起こりました。海運によって伝播した民謡でとりわけ有名なものとしては、「ハイヤ節」「おけさ節」が挙げられます。九州地方の港を発祥として、船乗りたちが「ハイヤエー」と叫ぶこの民謡は、大坂、新潟、北海道、とそれぞれの航路上の港に寄港した際に各地に伝わり、その土地ごとにアレンジされていったと考えられます。
(江戸時代に発展したこのような歌の世界は、第二次世界大戦を乗り越えて戦後・昭和30年代まで伝承されていくも、高度経済成長の中で次第に消滅の方向へと舵を切ってしまいました。)
※当時の西洋状況との比較
さて、18世紀末~19世紀前半は世界史的にもアメリカ合衆国の独立やフランス革命といった大きなターニングポイントを迎えた時期でした。産業革命によってヨーロッパ社会も急速に近代化していき、西洋諸国は帝国主義によって非西洋地域への植民地支配を強めていきます。技術力や軍事力の「差」は、ここから開いていったと見ることもできるでしょう。
ただ、多くの人が持つ歴史観としては、「幕末の黒船来航によって、鎖国していた “200年以上” の “西洋との差”を知らしめられた」という漠然としたイメージがあると思います。
西洋と非西洋を「進歩的/野蛮」という進化論的な目線で捉える価値観は、現在ようやく「植民地的差別だった」として反省されつつありますが、あえて西洋近代を「進歩的」、日本を「遅れていた」というふうに優劣をつけて捉えるにしても、その差は実際のところ19世紀前半の約50年の間に開いたものだったのだ、と言うことができそうです。
実際、この時期から日本近海に欧米諸国の船が急増し、武力衝突や様々な事件が起こるようになります。1825年に幕府は異国船打払令を発布して外国船の追放を図りました。しかし全国各地での外国船との摩擦・事件は収まらないまま、1840年に勃発した「アヘン戦争」において、清(現在の中国)がイギリスに大敗する事態が続きます。それまで江戸幕府は、清は強大な軍事力を持つ大国だと考えていたため、その敗北は大きな衝撃を与えました。これを受けて江戸幕府は異国船打払令を緩和していきます。
黒船来航に至るまでの19世紀前半にも、日本は西洋諸国にじわじわ翻弄されつつあったのだ、と言えるかもしれません。
西洋音楽史でも、フランス革命以降~19世紀初頭にドイツで活躍して後続に大きな影響を与えたベートーヴェン(1770~1827)が登場し、娯楽音楽とは異なる偉大なる「芸術音楽」という価値差別的なドイツ美学がここにようやく誕生した段階です。
一方で、ドイツ語圏以外では、気楽なスタイルでの音楽消費も続いていました。イタリアやフランスといった大国に遅れを取っていたドイツ人達がそれに対抗していくために作られた武器が、「美学」=「深淵で真面目なクラシック音楽」という価値観でした。
ベートーヴェンをきっかけに花開いたロマン派の第一波は、1827年のベートーヴェンの没後に更に花開いていきます。(詳しくは是非、西洋音楽史の記事もお読みください。)
「聴衆は音を立てず、静かに耳を澄まして、舞台上の深遠な芸術にじっと集中すべき」というクラシック音楽の「規範」は、それまで文化的劣勢だったドイツ人が、“音楽民族” というアイデンティティを確立するために強引に作られた価値観であり、それは19世紀半ばにようやく成立した文化でした。
他方で、帝国主義によって軍事力を増大させていた欧米諸国は、吹奏楽による軍楽隊も発達させていました。さらに、植民地支配を受けていた中南米諸国では、ポルカやワルツといったヨーロッパで流行していた社交ダンスの音楽も流入しており、アフリカルーツの黒人音楽のリズムと合流することでラテン音楽の発生に繋がっていきます。また、イギリスやアメリカでは、ヨーロッパ大陸の高尚な芸術音楽文化とは別のところで、大衆娯楽的な民謡も発展しつつありました。これらがすべて、こんにちのポピュラー音楽の源流となっています。
このように、クラシック音楽とポピュラー音楽の双方が急発展しつつあった混沌とした状況が、19世紀半ばの「西洋音楽」の実態です。
そんなタイミングで、日本にもついに黒船が来航し、開国することになったのです。
日本人は、このような「西洋音楽」を果たしてどう捉えていったのでしょうか?
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