【日本音楽史】④17世紀前半~中盤(江戸時代初期)
日本の音楽史を古代から令和まで概観していくシリーズです。
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●クラシック史とポピュラー史を繋げた図解年表 (PDF配布)
●分野別音楽史
●メタ音楽史
【概観 日本音楽史】
ここまでの記事 ↓
まえがき
①古代~上代
②平安時代~鎌倉時代
③室町・戦国・安土桃山
<今回>④17世紀前半~中盤(江戸時代初期)
◉幕府による伝統芸能の保護
戦国時代には危機的状況にあった宮廷音楽ですが、豊臣政権・徳川政権が積極的に助成していったことで血脈を絶やすことなく伝承されていきました。平安時代以来の伝統を持ち、依然として宮廷文化の中心にあった雅楽は、武家社会の格式を示すために幕府も重視し、大名や寺社での公式行事にも取り入れられました。
さらに、雅楽のみならず、声明、平曲、能楽などこれまでの多くの音楽文化も保護されます。特に能楽は幕府が行う儀礼に不可欠な公式芸能=「式楽」として重要視されます。将軍家の式典や重要な催しでは能が必ず演じられ、大名たちも能楽を学ぶことが武士のたしなみとされたのです。能楽は武士社会の格式を示すものとして位置づけられ、体制の中でも特権的な地位を築いていきました。
また、江戸時代に整備された陸路・水路の発展や参勤交代の制度によって、音楽文化の各地域への伝播も盛んになっていきます。
◉「かぶき踊り」から歌舞伎の成立へ
室町時代以降、各地の村で発展していた念仏踊り・盆踊りの中からは、さらに「風流踊り」という集団舞踏が出現して大流行していきました。(風流踊りは現在でも各地の民俗芸能のなかに「太鼓踊り」「花傘踊り」「羯鼓踊り」「かんこ踊り」などの名前で残っています。)この風流踊りの一種として登場したのがややこ踊りです。ややこ踊りは、その名の通りややこ(=幼女)による踊りをもともと意味していましたが、その後は遊女が小歌(当時の流行歌)を歌いながら踊る “小歌踊り” の意味にも転じました。
ところで、慶長年間(1596~1615)について、『慶長日件録』や『時慶卿記』などの当時の資料には、宮廷内で公家の若者たちが異様な恰好をして奔放な行動を取っていた様子が記されています。また、宮廷では、当時民間で流行していた “ややこ踊り” なるものを見ようと踊り手が招かれたという記録もあり、さらにはこれらを「不道徳」として粛清を叫ぶ記事も出現する始末。宮廷の若者たちのあいだに、一種の「風紀の乱れ」と見られてしまうような、異類異形の民間芸の流行が起こっていたのです。この様子から、「ななめに傾く」=「かぶく」という言葉を用いて、常識はずれの恰好をしたり異様な風体をしている者が「かぶき者」と呼ばれるようになっていたのでした。
さて、同じ時期、「ややこ踊り」の名手として頭角を現していたとされる人物に、出雲出身の阿国さんという女性、通称「出雲阿国」という人物がいました。記録によると江戸幕府が開かれた年である1603年の4月16日、京都の四条河原町で、この女性が「異風な男」の真似をして風変わりな踊りを披露した、とのこと。出雲阿国は宮廷の若者達に流行っていた異様な姿の「かぶき者」の真似をする、という奇抜なアイデアで、刺激的で妖艶な踊りを披露し、見物人から見物料をとったと言われています。これが評判となり「かぶき踊り」と呼ばれるようになりました。当初、能のお囃子を模した音楽で踊られていたそうです。
次第に他の遊女たちも、男達の興味を引こうと出雲阿国に混じって「かぶき踊り」を始めました。それが一座となり、京都近辺で見世物として人気を集めます。興行主も刺激的な踊りを好んで取り入れさせました。次第に簡単な三味線伴奏も付けられるようになり、形式が整い「女歌舞妓」「遊女歌舞妓」と呼ばれるようになります。現在で例えれば、ホステスやキャバ嬢のような人達がかなり際どい恰好で地下アイドルの活動を行うようになった、というようなイメージになるでしょうか。時の幕府は「風紀の乱れ、ゆゆしき問題」として、1629年にこれを禁止しました。
ところが「女性が演じるのがダメならば、女性じゃなければいいだろう」と、少年を女に仕立てて、形を変えて「かぶき踊り」を興行し始めます。これを「若衆歌舞伎」といいます。現在で例えると “男の娘のメンズ地下アイドル ”、という感じでしょうか。音楽的には、この段階になると三味線に加えて小鼓・大鼓や小太鼓・大太鼓、篠笛なども加えられるようになっていました。
しかしこれはこれで、今度は男色(同性愛)の興味を集めてしまい、なんと大名や旗本が若衆と男色に耽る事態まで起こったため、1652年にまたまた禁止されてしまいました。
しかし、これでもまだまだひるまない運営サイドは、「むさくるしいオッサンに演じさせれば文句はないだろう」と、前髪を剃り落とした成人男子による「野郎歌舞伎」を幕府に許可させます。その後も制約を発想の転換で克服していき、その過程で次第に容姿よりも技芸が強調されるようになり、寸劇の形が主流だったものから、能や浄瑠璃の筋立てを取り込んだ演劇性の高い演目が中心となっていきます。音楽的にも「歌舞伎囃子(鳴り物)」という歌舞伎独特の効果を出すジャンルが作り上げられ、音楽として大きく発展。
17世紀前半に紆余曲折を経た「かぶき踊り」は、17世紀後半にはこのようにして発展していき、こうして確立された野郎歌舞伎のスタイルが、現在まで継承される歌舞伎の原型となったのでした。
◉人形浄瑠璃の誕生と発展(古浄瑠璃)
盲僧(琵琶法師)の平曲から派生した語り物芸能「浄瑠璃」は、戦国時代に伝来した新楽器の三味線を取り入れることによってさらに発展していました。江戸時代初期の主な浄瑠璃太夫としては杉山丹後掾と薩摩浄雲が居ます。
さらに奈良時代に伝来した散楽の中の種目として「傀儡まわし」「傀儡子」という人形操りの芸能が寺社などに伝承されており、この芸能と浄瑠璃が合わさることで、三味線伴奏による人形劇「人形浄瑠璃」が成立します。
人形浄瑠璃は17世紀中盤にかけて江戸、京都、大坂の三大都市で発展し、様々な流派が興りました。その先の浄瑠璃と区別して「古浄瑠璃」と呼ばれるこの段階の浄瑠璃は、金平節、播磨節、外記節、肥前節など多くの流派が挙げられます。
世界にも人形劇の文化は存在しているものの、そのほどんどが子供向けのものです。しかし日本の人形浄瑠璃では、ちょっとした角度や動きによって、人形たちがまるで生きているように動き、様々な表情を繊細に表現できる、深い文学性を伴ったミュージカル演劇であり、世界的にも珍しい大人向けの人形劇として発展していくことになります。
◉三味線組歌の発生
このように、歌舞伎や浄瑠璃などにも取り入れられ、江戸時代に最も広く使われていった楽器が三味線でした。三味線音楽は歌舞伎や浄瑠璃においては伴奏としての役割で発展しましたが、その一方で単に伴奏楽器としての役割にとどまらない独自の歌曲も生まれており、一つの芸術ジャンルとしての「三味線音楽」が育まれていきます。
三味線音楽を発展させたのは、琉球から伝来した三線を三味線へと改良発展させていった琵琶法師ら盲人の音楽家たちでした。盲人音楽家らの集団は「当道」「当道座」などと称されていました。当道の最高位にあたるのが「検校」で、これ以降、江戸時代の音楽史には「〇〇検校」という名前の音楽家がたくさん登場します。
琵琶に慣れた彼らは当初、平曲などを三味線で演奏していましたが、さらに当時流行していた歌にも使われ、流行歌や民謡の歌詞と三味線音楽を組み合わせた歌曲のことである「三味線組歌」が創作されていきました。
「三味線組歌」は文禄年間(1592~96)のころに京都の石村検校が始めたといわれ、その後、虎沢検校、山井検校、柳川検校らによって受け継がれ、京都の「柳川流」として体系化されていきました。
1664年の『糸竹初心集』という本は、近世邦楽の記譜法・楽譜を含んだ信頼しうる最古の出版物として残っています。この本には「伊勢踊り」「海道下り」などの歌が記譜されていますが、同じ歌詞が狂言や民謡でも伝承されており、人々はこうした歌に三味線を付けて「三味線組歌」として歌ったのだと考えられています。
やがて、三味線独自の音楽も作られていき、こうした三味線弾き語りスタイルの音楽を総称して「地歌」と呼ばれるようになるのですが、「三味線組歌」は「地歌」の最初期のポジションとして位置づけられます。
◉近世箏曲のはじまり
九州・久留米(筑紫)では、寺院に伝承されていた箏伴奏の雅楽曲がまとめられ、戦国時代~安土桃山時代のころに筑紫箏として発展していました。
江戸時代、この筑紫箏を学んだ八橋検校(1614~1685)が、筑紫箏を基にしながらそれまでの伝統的な箏の演奏様式を一新し、現在に繋がる日本の箏の基盤を築きました。箏による音楽のことを「箏曲」といいますが、特に八橋検校が創始した近世箏曲以降のことを「箏曲」と示すことが多いです。
八橋検校の最も重要な革新は、箏の新しい調弦法を考案したことです。それまでは雅楽で用いられていた「律音階(ド・レ・ファ・ソ・ラ)」に基づく調弦だったのが、八橋検校は当時三味線音楽など民間で一般的になりつつあった、半音を含む「都節音階」(ミ・ファ・ラ・シ・ド)を箏に応用し、現在も用いられている最も基本的な調弦法「平調子」を考案したのでした。
他にも、独奏楽器としての性格を明瞭化した演奏法の改良や、「段物」といった楽曲形式の基本形を確立し、箏曲の発展と一般への普及に努めました。「六段の調」「みだれ」などを作曲し、日本の器楽曲として高い評価を得ている一方で、歌との親和性も高め、八橋検校は「近世箏曲の祖」に君臨したのです。
伝統的に雅楽で使われていた箏を「楽箏」というのに対し、八橋検校によって始められた近世箏曲以降の箏および箏曲は「俗箏」とも呼ばれます。
八橋検校の音楽を起点として、近世箏曲の世界はこのあとも盲人の検校たちによって展開され、さらに花開いていくことになります。
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