【日本音楽史】⑧黒船来航と西洋音楽
日本の音楽史を古代から令和まで概観していくシリーズです。
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●メタ音楽史
【概観 日本音楽史】
ここまでの記事 ↓
まえがき
①古代~上代
②平安時代~鎌倉時代
③室町・戦国・安土桃山
④17世紀前半~中盤(江戸時代初期)
⑤17世紀後半~18世紀初頭(元禄時代の周辺)
⑥18世紀(享保期 ~ 宝暦・天明文化)
⑦19世紀前半(化政文化~天保期・幕末にかけて)
<今回>⑧黒船来航と西洋音楽
◉1853年の衝撃
西暦・1853年7月14日 (陰暦・嘉永6年6月9日)。
大統領親書の受け渡しのため、アメリカ合衆国海軍・東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる四隻の黒船艦隊は浦賀沖に来航していた──
幕藩体制崩壊のきっかけをもたらしたとされるこの黒船来航は同時に、日本の西洋音楽流入史の幕開けを告げる出来事でもありました。
日本史上で外来音楽が大量に流入し、音楽文化を根本から変化させていったという経験は一度ありました。6世紀~8世紀に起こった、アジア音楽の大量移入です。ここまでの記事で触れたとおり、大陸から仏教や漢字とともに流入した朝鮮半島・中国・ベトナムの舞楽は、平安時代になって日本風に整理されて「雅楽」として保存されていきました。また、伝来した楽器は雅楽の他にもその後の日本音楽(伝統邦楽)のほぼ全ての基盤となったほど浸透していきました。外来のものを大きく受容したのちに日本風にカスタマイズして堆積していく、という流れが、日本文化の特徴だといえます。
また、日本の「西洋音楽」との接触で言うと、実は戦国時代に布教で来日したザビエルの伝える「南蛮音楽」としてキリスト教の音楽も伝わってはいました。当時はルネサンス音楽の時期。このような西洋音楽は江戸時代には一部の隠れキリシタンが「オラショ」として歌い継いでいたり、鎖国中の唯一の窓口だった長崎の出島ではオランダ愛国歌などが歌われていたりしましたが、いずれも特定の場所やコミュニティに限った話であり、「日本の音楽」として広くは浸透していませんでした。
6~8世紀、16世紀後半に続いて、3度目の外来音楽との接触となったのが、1853年の黒船来航を端緒とする西洋音楽移入になります。
1850年前後は、世界史としても西洋音楽史としても情勢が変化し、時代の空気感が一変していく時期でした。特に注目すべき年号は「1848年」です。
ヨーロッパ情勢では1848年にフランスの「二月革命」を皮切りにベルリンとウィーンの「三月革命」、さらにヨーロッパ各地の民族運動へと飛び火し、フランス革命後の「ウィーン体制」を終わらせた「1848年革命」と続く一連の革命運動が連続。世界の政治思想に大きな影響を与えた、マルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が発表されたのも1848年です。
クラシック音楽では、ベートーヴェン没後の1830年代~40年代にかけて活躍していた「前期ロマン派」のメンデルスゾーン、ショパン、ヨハン・シュトラウスⅠ世らが1847~1849年にかけて相次いで死去。アイドル的演奏家だったリストがリサイタルを引退し、芸術的な作曲に専念するようになるなど、一時代の終焉と世代交代を思わせるような出来事が続いています。
植民地進出が活発であった他国に比べて、長らくまとまりのない諸邦乱立の後進地域であったドイツ語圏ではゲルマン民族のナショナリズムが煽られ、ドイツ地域統一の機運が高まっていたこの時期。ベートーヴェンを偉大なヒーローとして祀り上げ「音楽民族」としてまとまろうとする文化ナショナリズムも高まっており、イタリアやフランスの従来の「貴族的な娯楽文化」を糾弾し、ドイツ特有の「崇高で真面目な芸術音楽」を「普遍的な規範」として重視させようとする論調が激化。
こうして、芸術音楽と娯楽音楽に厳格な線を引き、偉大な“古典的作品”に静かに耳を傾けて芸術を“鑑賞”し学術的に探究すべきだという、ドイツ中心の価値差別的な「クラシック音楽」の文化が成立し、19世紀半ばのロマン派中期の爛熟へと推移していくタイミングが、1850年前後の「西洋芸術音楽」の状況です。急進的なドイツ思想を持っていた中期ロマン派を代表する人物にはワーグナーがいます。
一方で同時期、金管楽器の改良が進んでおり、金管楽器のみのブラスバンドもヨーロッパ市民のブームに。1840年~50年頃、ベルギーのアドルフ・サックスとドイツのテオバルド・ベームによって楽器の改良が進み、トランペットの演奏表現のヴァリエーションが増加したり、チューバ、フリューゲルホルン、ユーフォニアム、サクソフォーンといった新楽器もすぐさま軍楽隊の編成に取り入れられます。こうした新しい音色は、数々の紛争や革命とともに広まっていき、人々にとって身近なものとなりました。
特にイギリスでは民間のブラスバンドも発生し、労働者階級の間で各種コンテストも行われるようになります。これにより編成が固まっていき、英国式ブラスバンドと呼ばれるようになりました。この英国式ブラスバンドの在り方がアメリカ合衆国にも影響を与えます。特に、やはり1848年にイギリスからアメリカへ渡米したギルモアがアメリカの吹奏楽を発展させていきます。工業力の発展で楽器の大量生産も可能となっていました。
このような状況にあり、19世紀の真ん中を折り返した1853年に黒船来航の時を迎えます。
日本が初めて西洋音楽と本格的に関わっていく始まりの瞬間、日本人が初めて耳にした西洋音楽はズバリ、軍楽隊の演奏でした。その詳細は、笠原潔『黒船来航と音楽』(2001) などの研究書によって様々なことがわかってきています。
上陸の瞬間は次のようなものでした。サスケハナ号・ミシシッピ号の二隻から陸戦隊(100人)、水兵(100人)、士官・軍楽隊(100人) の合わせて300人ほどが、15隻以上のボートに分乗して上陸地点に向かい、最後尾のボートに乗った二隊の軍楽隊がボート上で演奏し「祝典に活気を添えた」とのこと。
先行して上陸場所を確保した大隊と軍楽隊が待ち構える中、ボートに乗ったペリーがあとから上陸。その後ペリーは前後を護衛されながら仮設された応対所に向かって「行進」していき、そこにも軍楽隊による演奏が伴われていたのでした。
演奏者は約40名。ペリー側の記録によると、『ヘイル・コロンビア』や『ヤンキー・ドゥードゥル』といった様々な「アメリカ愛国歌」が演奏されていたといいます。
沿岸には野次馬も含めて観衆多数。それまでの日本人が耳にしたことのない大音響の“リズム” が、人々を驚かせました。日本側資料でも、その「奏楽」に随って足並みを揃えて行進する様子が印象的に記録されています。また、密偵として観衆の中にいた薩摩藩士の記録では、
「太鼓の打ち様、トントントントントトトン大いに面白き打ち様成」
といった報告もなされています。一定のビートに合わせて集団を歩行させる行進曲は、江戸時代の日本で実践されていた三味線音楽の範疇には全く存在しないものであり、何よりもその「リズム」が日本人にインパクトを与えたのです。日本では行列を作って歩くことはあっても、皆が足並みを揃えて動きをコントロールされるということはありませんでした。
このような「規律ある動き」を伴った軍楽は、多くの野次馬や観衆にとっては「異国の珍しい音楽」とだけ映ったのかもしれませんが、幕府や武士たちにとっては「強烈な欧米の軍事力」の一要素として、日本側への脅威と映ったのでした。
圧倒的な軍事力を背景にペリーは徳川幕府に開国を強硬に迫ったわけですが、ここから日本は国防のために西洋式の軍隊を整備する必要性に気が付きます。ここで、軍艦や大砲などの用意だけではなく、規律のある集団行動を円滑に行うためのツールとして、「軍楽」を習得する必要性が認識されたのです。
このように極めて実用的な、近代的な軍隊の運用のための「音楽」を身に付けることが、日本の国防上の喫緊の課題となっていったのでした。
◉翌年、二度目のペリー来航
1854年の3月(嘉永7年2月)、ペリーは前回を上回る大艦隊で再び来日。横浜港で和親条約の交渉が行われました。このときももちろん、軍楽隊による奏楽が前回を上回る規模で行われ、日本側への武力の示威となったのでした。このとき演奏されたのは、『ヘイル・コロンビア』と、現在のアメリカ国歌である『星条旗』でした。
ペリーと幕府役人は横浜に作られた応接所で最初の交渉に臨みましたが、そのときに議題となったのが、船内で死去した艦隊員ロバート・ウィリアムス(享年24)の遺体の埋葬でした。協議の結果、遺体は横浜増徳院の墓地に埋葬されることとなります。
翌日には早速葬儀が行われました。艦艇から墓所までの街中を、葬儀の参列者が演奏に合わせて行進。ペリー側の記録によると、死者を悼んで演奏されたのはヘンデルの『葬送行進曲』だったようです。幕末の横浜元町でヘンデルが演奏されていたのです。
この葬列を、日本の住民達も物珍しく見物しました。この葬列の様子を描いた白描画が日本側にも残っています。応接場の警衛をつとめた松代藩士・樋畑翁輔によるものです。絵には、一行を先導する二人の幕府役人を含めて合計5人の役人が葬列に付き添っていることが確認できます。また、手前には葬列を見学する住民も多数描かれています。西洋式の葬送の響きは、当時の日本人にとって相当に珍しいものだったことでしょう。

さて、前年のペリー側の強引な態度が効果を生んで、開国の機運も高まっており、数回の会談を経て調印間近となった3月末には、江戸幕府側の要人約60~70人を船上に招いての大パーティーも開催されました。これはいわば、ペリー側の幕府関係者への接待攻勢と言えます。当時のアメリカの外交は、このような「アメとムチ」の使い分けが非常に上手かったようです。
黒船「ポウハタン号」で盛大に開かれた宴席では、ふんだんに用意された酒や食事を、日本人達はペリーが呆れるほどの勢いで旺盛かつ賑やかに飲み食いしたようです。さらに酒肴に加えて、軍楽隊が奏でる音楽も披露されたほか、余興として催されたのが、「ミンストレル・ショー」でした。
「顔や手を黒塗りにして黒人に扮した白人が、黒人訛りで歌い踊る」というこの差別的な娯楽は、19世紀半ばのアメリカにおいて、崇高な芸術音楽が展開されていたヨーロッパ大陸とは全く異なる一般大衆の文化として爆発的に流行していました。ヨーロッパ各地からの移民や、ユダヤ系移民なども増加し、さらにプランテーション農業のための黒人奴隷の需要も増加し投入が加速されていたこの時期、白人達は「黒塗り」のキャラクターを用いた差別的な演劇を通じて団結を深めていったのです。
はじめは簡単な幕間の茶番劇として始まり、1840年代には「エチオピアの図解者(Ethiopian delineators)」という一座を結成して、単独や小さいグループでの公演が登場。同じころ、複数の芸人たちによって一晩物のショーも演じられるようになり、1843年に結成された「ヴァージニア・ミンストレルズ」がヒット、これがミンストレル・ショーの始まりとなったといわれています。
フィドル、バンジョー、タンバリンといった形でヨーロッパ音楽からはみ出した肉体的なリズム感が人気となり、その後、二場面編成になるなどの発展をしていきました。「オリオ」と呼ばれる第二場において、動物芸やマジック、寸劇などが演じられ、総合的なエンターテイメントショーとして発展。ミンストレル・ショーはオペラをしのぐ人気を博し、アメリカ音楽の重要な位置を占めることになります。
さて、ニューヨークやボストンで成功した「ヴァージニア・ミンストレルズ」がイギリスへ進出した隙に頭角を現したのが、「クリスティー・ミンストレルズ」でした。この一座の舞台において積極的に取り上げられたのが、当時の新進作曲家であり、今では「アメリカ音楽の父」とも呼ばれるスティーヴン・フォスターの楽曲でした。フォスターはミンストレルショーに多くのオリジナル曲を書いて人気を博します。フォスターの楽曲の多くが、アメリカ民謡として今でも親しまれています。中でも、『草競馬(1850)』『スワニー河(1851)』はクリスティーミンストレルズとの契約で書き下ろされた楽曲でした。
ペリーが日本に来航したのは、一座の人気が絶頂を迎えていた時期だったのです。当時ミンストレル・ショーといえばこの「クリスティー・ミンストレルズ」の公演が代名詞となっていたほどで、ペリーも彼らのショーのファンでした。
日本には、この「クリスティー・ミンストレルズ」からの選抜メンバーが「ジャパニーズ・オリオ・ミンストレルズ」として連れてこられたのでした。
このときの横浜公演のプログラム(宣伝ビラ)が残されています。

タイトルには「エチオピアン・コンサート」と書かれ、続いて「合衆国蒸気フリゲート艦・ポウハタン号」と場所の記載。さらに「エチオピアン・エンターテインメントが、ジャパニーズ・オリオ・ミンストレルズにより当艦艦上で開催されます」と案内。「エチオピアン」という言葉は、この頃のミンストレルショー関連の文によく出てくる形容詞で、要は「黒人の」というような意味で使われていました。
さらに、曲目と歌手名も詳細に記されていますが、その中にはフォスターが1852年に作曲したばかりの『主人は冷たい土の中』も含まれていたことが注目に値します。アメリカ南部のプランテーションで働く黒人奴隷と主人の魂の交流をイメージして描かれた楽曲ですが、この最新曲が早くも幕末の日本に持ち込まれ、横浜公演で披露されていたのです。
ショー全体の構成を読み取っても、この横浜公演は本場アメリカでのショーの構成を忠実になぞったものであったことがわかります。もちろん構成だけでなく、使用楽器に関しても同じことがいえそうです。
このミンストレル・ショーの様子は、日本側の資料にも多く残されています。日本側委員の従者の中に絵筆の達者な者を紛れさせ、かなり克明に宴席の様子を記録させていたのです。有名なものとしては、高川文筌によるものがあります。

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高川文筌の絵に描かれた楽器群を見ても、バンジョーやタンバリン、フィドル(バイオリン)、カスタネットの四楽器で構成されていた当時のアメリカのミンストレルショーの定番楽器の編成と一致しています。
絵画だけでなく、文字の記録としても、「三味線二人、小弓二人、太鼓一人、四竹一人、横笛一人、鐘一人、又クロンボウ数人おどり候よし。又、我が浦賀与力も踊り候者これあり候よし。」と残されています。「三味線」はギター、「小弓」は胡弓の当て字でバイオリン、「太鼓」はタンバリン、「四竹」はカスタネット、「横笛」はファイフ、「鐘」はトライアングル。材質こそ違え、演奏の仕方が一致している楽器に見事に訳されて記録されているのは言い得て妙です。
また、「我が浦賀与力も踊り候者これあり候よし」=「武家側の人間も楽団と一緒になって踊った人もいた」というような、日本側のはしゃぎっぷりについては、アメリカ側の日記にも同じように記録されています。
このようにミンストレルショーの横浜公演は大好評であり、同じようなショーがこの後、5月29日に函館で松前藩の役人たちを迎えて、次いで6月16日に下田で幕府役人を再び迎えて、さらに7月14日には那覇で琉球政府要人を招待して開催されたということです。
ただ、彼らの艦隊が去ったあとは、いったん日本側の記録からはこうした洋楽エンターテインメントは姿を消し、直接的な影響は残りませんでした。
以上のとおり、ペリーが持ち込んだ「西洋音楽」には、儀礼用のクラシック楽曲から、身体を規律的に運動させるための愛国歌的な軍楽、そしてエンターテインメントのための民謡まで、様々な側面がありました。
この時点から21世紀の現在まで、日本は「西洋音楽」「洋楽」に対するコンプレックス的な問題を抱え続けていきますが、安易に使用される「洋楽」という言葉の指し示す音楽の範囲は、時代背景や文脈によって実に様々であることに留意しなければならないと思います。
従来の「学術的正解」に君臨し続けていた「クラシック音楽学」の芸術至上主義的な価値基準では、クラシック音楽の探求するドイツ的な美学の範疇に無い軍楽などの実用音楽や英米の民衆音楽について適切に批評することは困難であり、同じ意味で日本の西洋音楽受容について社会科学的・客観的に評価することも捻じ曲げられてしまっていた、と言えるでしょう。
また、戦後日本では最先端のロックやヒップホップに対して「洋楽」という言葉が用いられ、クラシックやジャズ的な歌謡曲は「古臭く日本的なもの」というようなイメージで捉えられてしまってきたと言えるでしょうが、西洋音楽が伝来した当初はまだジャズも生まれてすらいない段階で、クラシックや軍楽から当時のアメリカ民謡などまでが「洋楽」として対置されていたのです。
このような「洋楽」に対する「邦楽」は、雅楽・能楽・三味線音楽や民間の風流踊り・仕事歌などといった範囲であることが、ここまでの記事での伝統邦楽史を確認することで解像度を上げて理解できると思います。
◉洋式軍楽の伝習開始
洋式軍隊整備の必要に迫られた日本は早速、ペリー来航直後の1855年に長崎に海軍伝習所を設立し、オランダ軍人を教官とした海軍の実習を始めました。この伝習所では1859年に閉鎖されるまでの約4年間に、諸藩から派遣された多くの人材に近代的海軍の運営方法が教育されました。勝海舟、榎本武揚、五代友厚らもここで学んでいます。
西洋諸国の世界進出の背景には、近代的な火力を伴った兵器の革新と大量生産、そして戦術の革新がありました。日本が洋式軍隊へのアップデートを遂行するためには、兵器を揃えて準備するだけでなく、それらをスムーズに操作しながら、兵隊たちが役割分担して効率的に集団行動できるようになる必要がありました。
軍艦や大砲、小銃などのいわゆる「ハードウェア」は、購入して揃えれば済む話でした。しかし、手に入れたものはそう簡単に操作できるようなものではありません。大きな軍艦は大勢の人々がそれぞれの持ち場で自分の役割を果たすチームワークが求められ、大砲や小銃も撃つまでにいくつもの複雑な手順を正確にこなさなければなりませんでした。そして、小銃を持った歩兵たちがそれぞれバラバラに戦うようでは全く意味がなく、銃隊を編成し、号令によって組織的に行動してこそ効力が発揮されます。このような人間の動き方、すなわち「ソフトウェア」というべき側面をも西洋式に更新しなければならなかったのです。
伝習のカリキュラムでは、外国人海兵から直接、蒸気船の運用法、歩兵・海兵としての訓練、軍事関係の諸学術など、近代軍事教練を体系的に教わっていきましたが、その中の一つに、「週に十二時間の軍鼓の練習」も含まれていました。秩序や規律のある集団行動を円滑に行うための行進訓練にスネアドラムが必要であり、鼓手の早急な養成が求められていたのです。
つまり、日本の音楽史における西洋音楽受容の始まりは、珍しい異国の音楽を楽しむためなどではなく、軍楽隊を率いた欧米の強烈な軍事力に直面し、対等に交渉して生き残るために同じ軍事力を速やかに備える必要に迫られ、そのトレーニングのためのスネアドラムの習得からスタートしたものだったのです。
スネアドラムは、行進(ドラムマーチ)に加え、命令を伝達する合図(ドラムコール)としても用いられていました。叩かれるリズムパターンにはそれぞれ、進軍・静止・点火・右ヘ向ケ・集合・円陣・退軍・・・などの命令が割り当てられていました。ドラムの音が自分たちの命と直結しており、まさに「No Music, No Life」というべき状況でした。
従来の和太鼓とスネアドラムでは叩き方もリズムも全くの別物であり、当初の日本人は五線譜に書かれた西洋式の楽譜の読み方もわからないのが当然でした。そこで、能などの囃子太鼓で用いられていた記譜法から考案された独自の「鼓譜」も生まれ、感覚的にリズムを掴めるように工夫されたりしました。1856年に『西洋行軍鼓譜』という楽譜が刊行されています。スネアドラムのリズムの習得は日本の西洋音楽受容の第一歩となったのでした。

伝習生たちは教習後、それぞれ地元に戻って自藩の軍制のアップデートに取り掛かりますが、そこでは、海軍伝習所で使われたものを元にしたと思われる太鼓譜が全国で広く使用されました。各地のどの太鼓譜もほぼ同一の記譜法で書かれており、すなわち、幕末期には倒幕派・佐幕派ともに同じ教材・同じ楽譜を用いて同じ音を鳴らして軍を動かしていたのです。
ところで、幕末における薩摩藩とイギリスとの結びつきはよく知られています。1862年に起こった「生麦事件」(薩摩藩の島津久光の行列を横切った英国人を藩士が殺傷した事件)と、それをきっかけにした翌1863年の「薩英戦争」を経て、薩摩藩は攘夷から開国へと方針を変更し、イギリスとの交流を深めて近代化を推し進め、明治維新の中心となっていきます。薩摩藩もまた英国軍の影響を受けて洋式軍楽隊創設の必要性を痛感しました。薩摩藩の軍楽伝習隊は、明治維新後の日本の洋楽演奏をリードすることになる陸海両軍の軍楽隊のルーツとなります。
◉戊辰戦争と幕末鼓笛隊
幕末の各藩で西洋式軍隊へのアップデートが全国的に行われていったわけですが、当初国防のために取り入れられたはずの西洋式軍楽が初めて実戦で用いられることになったのは、戊辰戦争という内戦でした。
幕末動乱についての日本史的な詳細な解説は割愛しますが、少しだけ流れを押さえておきます。1867年11月(慶応3年10月)に第15代将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返す「大政奉還」を自ら行いましたが、これによって倒幕派らは逆に徳川家討幕の大義名分を失ってしまいました。いきなり政権を返上されても朝廷はスムーズに政治を行えるわけがなく、新政府でも実質的に徳川家が引き続き影響力を持つことが考えられました。
そこで薩摩・長州・尾張・福井・土佐の5藩からなる倒幕派は、1868年1月(慶応3年12月)御所を包囲し、岩倉具視の主導のもと、「天皇家中心の政治を行う」というメッセージを天皇の名によって宣言させ、これが「王政復古の大号令」と呼ばれ、徳川家の影響が及ばない形の新政府が、倒幕派らの手によって半ばクーデター的に樹立されたのです。
ここから、新政府軍と旧幕府軍との間で戊辰戦争が繰り広げられることになります。戊辰戦争は、1868年(慶応4年)1月の鳥羽・伏見の戦いに始まり、1869年6月(明治2年5月)の五稜郭の戦いに終わります。
この最中にも、1868年4月(慶応4年3月)には五箇条の御誓文が発表され、同年10月(旧暦9月)には明治改元が行われるなど、新政府の体制づくりは着々と進められていきました。明治維新は単一の出来事ではなく一連の政治的改革を指すため、その範囲については諸説ありますが、明治元年となった1868年を代表的な年号として理解すれば良いでしょう。
さて、こうした中で戦われた戊辰戦争ですが、その勝敗は、西洋式の訓練を受けた兵士をどれだけ多く擁しており、いかにうまく集団行動を用いた戦術を運用できるかによって、その勝敗が分けられたのでした。依然として伝統的な武士の戦い方が残ってしまっていた旧幕府軍に対し、調練ドラムを採用し西洋式の集団行動を見事に身に着けていた新政府側が勝利できたのです。
こうした幕末の軍楽では、西洋のスネアドラムのリズムに日本の篠笛が合わさった、折衷式のスタイルが誕生していました。幕末期特有のこの形態は「幕末鼓笛隊」と呼ばれます。幕末鼓笛隊で奏でられていた自己流の和洋折衷音楽の中で最も有名なのが「官軍行進曲」でしょう。
幕末時代劇において、官軍の東征や明治天皇の江戸城入りのシーンで楽隊が「ピーヒャララ」と演奏される様子が描かれることがしばしばあるので、現在でも耳にしたことのある方も多いかもしれません。
横笛の旋律は和風そのものですが、規則正しいリズムによる歩兵の行進は洋楽の「行進曲」の要素が明確で、それまでの武士集団とは明らかに異なる近代軍隊でした。
戊辰戦争の初戦となった鳥羽・伏見の戦いでは、幕府軍に勝利した薩摩・長州連合軍(官軍)がつづいて東征の途にのぼり、その際も上記のような鼓笛隊のリズムに乗せて、東征軍の士気を高めるためにこの頃作られたといわれる『宮さん宮さん』を歌い奏でながら進軍したといいます。トコトンヤレ節もしくはトンヤレ節とも呼ばれるこの楽曲は、日本初の軍歌であるとされています。
この楽曲は新政府軍の兵のみならず明治以降も広く人々に愛唱され、後に日本全国にまで流行し、バージョン違いもいくつか生み出されるなど、単なる軍歌・行進曲としては終わらない名曲となりました。昭和に至っても多くの歌手によって録音されていますが、大抵が上述の太鼓と横笛による「ピーヒャララ」の「官軍行進曲」をイントロとして繋げられています。
◉農民の防衛意識と伊澤修二の鼓手経験
日本の戦国期から続く武士軍団の最小の組織は、中級以上の武士による騎馬武者と足軽などの数人の歩兵の構成でした。洋式軍の銃兵中心の戦術を採用するためには、まずこの単位を崩す必要がありましたが、この編成を変えてしまうことは、身分制に立脚した武士階級の根拠自体にヒビを入れてしまうことになります。藩を守るための改革が、そのまま自分たちの存在意義の問い直しにまで繋がってしまうという構造が、「西洋軍楽」の導入にまで伴っていました。したがって、軍制改革のためには、兵農分離の社会体制と武士身分の秩序の両方を改革しなければなりませんでした。
正規の軍人である武士に加え、浪人、農民、アルバイト的に派遣された町民たちの混成軍が、幕末の内乱の主体となっていました。このように、この時期、領民を軍事組織に取り込もうとする動きは全国的に見られましたが、領民の立場からすると貴重な労働力を兵隊として取られて困惑することでした。日々の暮らしに直結する一揆などならまだしも、戊辰戦争については「何のために戦うのか」という明確な目的意識を持ちえませんでした。自分の年貢や利権に関係するのであればともかく、幕府と諸藩の政治力学や欧米列強の国際関係について思いを巡らせるのは困難だったのです。
長崎に滞在していたカッテンディーケは、日本人が「太鼓や歩兵の調練に大変熱心」であるにもかかわらず、「祖国防衛のために力を合わせる義務意識が薄い」と考察していました。長崎の一商人に「長崎が脅かされたときに町を防衛できるのか」と尋ねると、「そんなことは我々の知ったことでは無い。それは幕府のやることだ」と答えたといいます。
和太鼓と異なる西洋のドラミングで身体を訓練するだけでは充分ではなく、人民をどのようにして国政に参画させるのか、という課題が明治新政府に持ち越され、そこで西洋音楽のさらなる根本的な導入が必要となっていったのです。
さて、このあと明治期の日本の西洋音楽導入にあたって大きな役割を果たすことになる重要人物のひとりに「伊澤修二」という人物がいます。伊澤修二も少年時代、信州の高遠藩での鼓笛隊において、鼓手を務めていました。伊澤はドラミングを完璧に習得しており、優秀な鼓手だったそうです。
伊澤の鼓手経験は一般に「少年時代の1エピソード」として軽く触れられるだけにとどまり、「西洋音楽を導入するアイデアのきっかけとなった」という程度に結び付けられるのみですが、それだと短絡的すぎるという指摘も出てきています。
西洋式のドラムは芸術としてではなく「近代的な身体」のために導入されたものであり、そのさらなる課題として「国民教育」を考えるにあたり、伊澤や明治新政府らは「西洋音楽」を意識せざるをえなくなっていったのでした。
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