【日本音楽史】⑬1930年代の頽廃「エロ・グロ・ナンセンス」の時代
日本の音楽史を古代から令和まで概観していくシリーズです。
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【概観 日本音楽史】
ここまでの記事 ↓
まえがき
①古代~上代
②平安時代~鎌倉時代
③室町・戦国・安土桃山
④17世紀前半~中盤(江戸時代初期)
⑤17世紀後半~18世紀初頭(元禄時代の周辺)
⑥18世紀(享保期 ~ 宝暦・天明文化)
⑦19世紀前半(化政文化~天保期・幕末にかけて)
⑧黒船来航と西洋音楽
⑨明治政府の洋楽導入大作戦!(明治時代前半)
⑩19世紀末~20世紀初頭「世紀転換期」の混沌(明治時代中期)
⑪明治時代末期~大正時代前半 ― 民衆へも定着し始めた「洋楽」
⑫1920年代「モダニズム」の開花(大正末~昭和初頭)
<今回>⑬1930年代の頽廃「エロ・グロ・ナンセンス」の時代
◉古賀政男の登場
1929年「東京行進曲」(作詞・西條八十/作曲・中山晋平/歌・佐藤千夜子) の大ヒットによって全国中に流行歌旋風が吹き荒れたまま1930年に突入した日本。前回紹介したように、日本の流行歌制作においてこの時期に、作詞家・作曲家・歌手がレコード会社と専属契約してレコード制作を行う「レコード会社専属制度」が完全に定着します。そして、1930年代に入ると、昭和歌謡曲界を代表する大作曲家となる古賀政男がそこに登場します。
古賀政男は1920年代、明治大学でマンドリン倶楽部の創設に参加し、在学中からマンドリンやギターの演奏家として活動していました。そして古賀は、大学卒業直後の1929年6月に明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会にて、「影を慕いて」というオリジナル楽曲をギター合奏曲として発表。このとき、その演奏会にゲストで出演していた佐藤千夜子がこの楽曲を流行歌にすることを古賀に勧めたのです。そして1930年10月にビクターで「影を慕いて」は佐藤千夜子の歌唱・明大マンドリン倶楽部の伴奏でレコーディングされ、翌1931年1月「日本橋から」のB面として発売されました。ただ、このレコード自体はあまり売れませんでした。
この地点での古賀の自覚としてはまだ単なるマンドリン・ギター演奏家であり、作曲については自信を持っていませんでしたが、日本コロムビアの営業マンが『日本橋から/影を慕いて』のレコードを発見し、作曲者である古賀に着目します。そして1931年、古賀は日本コロムビア専属の作曲家として契約することになりました。このときに歌手・藤山一郎(本名:増永丈夫)と出会ったことが大きなターニングポイントになりました。
東京音楽学校に在籍中であった増永(藤山)は、家計を助けるためにレコード吹き込みの仕事を始めるようになったのですが、東京音楽学校の学則では校外演奏が禁止されていたために、「藤山一郎」の芸名を用いて正体不明の流行歌手として活動することにしたのです。藤山は1931年から1932年にかけておよそ40もの曲を吹き込み、その中で古賀政男が作曲し1931年9月に発売された「酒は涙か溜息か」が100万枚超えの売り上げを記録する大ヒットとなります。同年に発売された古賀作曲の「丘を越えて」もヒットし、藤山と古賀は一躍スターダムにのし上がったのでした。
歌のヒットと同時に藤山一郎という歌手への注目が巷間で高まり、あるとき東京音楽学校宛に「藤山一郎とは御校の増永丈夫である」と暴露する投書が届いてしまいました。学校当局は藤山を問いただし、あわや退学処分ということになりますが、声楽家として藤山を評価していた人々が退学に反対し、学業成績の優秀さやアルバイトで得た収入をすべて母親に渡していることを理由に擁護に回った結果、今後のレコード吹き込み禁止と停学1ヶ月の処分に落ち着きます。
この時、藤山はまだ吹き込みを行っていなかった「影を慕いて」を既に吹き込み済みであるとして学校にリストを提出し、レコード発売を可能にしました。こうして処分後に吹き込まれた藤山一郎版「影を慕いて」が1932年3月に発売され、こちらも大ヒットとなりました。
停学が解除されると藤山は処分どおりレコードの吹き込みを止め、学業に専念。1933年3月に東京音楽学校を首席で卒業後に、ビクターの専属歌手となりました。ビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月学費援助を行っていたのでした。「酒は涙か溜息か」などのヒット曲がコロムビア発売であったことから藤山はコロムビア入社も考えましたが、停学となって以来長らく接触が途絶えた上、ようやく交渉を開始してからも藤山が求めた月給制を拒絶したために、ビクター入社を決めたのでした。
さて、こうして流行歌作曲家として台頭した古賀政男の哀愁を帯びた旋律は「古賀メロディー」と呼ばれ、現在では「日本的な昭和演歌の源流」と位置付けられてしまっていますが、前回の記事でも指摘したように、この時期のレコード流行歌は本来の演歌を廃れさせた存在であり、この当時は舶来のイメージが伴われて流行していたことに留意すべきです。特にそれまでの流行歌には無かったギターやマンドリンを用いた古賀のサウンドは「ラテン風」「南欧風」などと見なされており、実際にリズムの面でもハバネラなどラテン音楽の特徴がみられます。初期の「古賀メロディー」を歌った藤山一郎も東京音楽学校の「モボ(モダンボーイ)」で、完全に西洋芸術音楽の声楽技術に基づいた歌唱であり、従来の「日本風」とはむしろ反対に位置する音楽だったのです。
この時期、佐藤千夜子や藤山一郎と同じく東京音楽学校出身者で流行歌歌手として登場したのが淡谷のり子です。1930年にデビューし、1931年の藤山一郎の「酒は涙か溜息か」のB面として収録された同じく古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がA面とともにヒットし、その名が知られるようになりました。こちらもまた、明大マンドリン倶楽部による伴奏となっています。後に「ブルースの女王」として有名になる淡谷のり子ですが、このころはまだ声楽的なルーツに基づいた歌唱法で歌う流行歌歌手として活動していたのでした。淡谷のり子は当時、最先端のファッションに身を包んで都会を闊歩する「モガ(モダンガール)」の代表ともいえる存在でした。
やはり東京音楽学校を中心として当時の芸術音楽界から見ると流行歌風情を軽蔑する気風は強く、藤山一郎が処分を受けたのと同じように、淡谷のり子もまた、流行歌を歌ったことで東京音楽学校の卒業名簿から名前が抹殺されてしまいます。
◉ジャズとレヴューと「エロ」文化
昭和に入るとジャズやダンス文化は都会人の生活に馴染み深い存在となっており、日本のジャズの最先端であった大阪だけでなく東京にもダンスホールが続々と建設されていました。1928年と1931年の警視庁による取締規則で舞踏場の新設は制限されてしまったものの、帝国ホテル、交詢社、芝園倶楽部など取締規則の対象にならなかったホールも多く、ダンスができる場所は東京都内に相当数あったようです。1933年頃からは市川ダンスホール(千葉)、熱海ホール(静岡)、浦和ダンスパレス(埼玉)、桐生ダンスホール(群馬)など郊外にもダンスホールが新設されていきます。こうしたダンスホールでは、昼はレコード、夜はジャズバンドやタンゴバンドが伴奏をしていました。
1930年代初頭のダンスホールの客層は主に学生で、若者のダンスホール通いは社会問題にまで発展してしまいます。批判の高まりを受けて、1934年10月10日からは都内ホールでの学生と未成年者の出入りが禁止になりますが、都内の学生たちは取締規則のない郊外のホールへ出かけたり、学生服から着替えてホールに入店するなど悪知恵を働かせました。また、それを利用してダンスホールの隣に貸服屋ができるなど、学生のダンスホール通いを助長するような商売も現れます。つまり、それほどまでに若者にダンス文化が浸透していたのです。ダンスホールは「悪の温床」などと報道され、そこに流れるジャズのイメージも一般的な大人にとっては悪印象で、ジャズは相変わらず「不健全な音楽」として認識されていた側面もありました。
1927年に公演された宝塚少女歌劇の『モン・パリ』を画期として、レヴューもまた1930年代に欠かせない娯楽文化の一つとなっていました。矢継ぎ早に変わる場面展開が特徴のその形式は当時の日本で目新しい形式として注目され、宝塚を筆頭に松竹歌劇団なども代表的なレヴュー一団となりました。1930年代のレヴュー人気を支える大きな要素のひとつが「ジャズ」でした。宝塚では、たとえば1932年に雪組が上演した『フーピーガール』をはじめとして、作品の中に本格的にジャズ音楽を取り入れるようになります。同様に松竹もまた、1933年の『ジヤズ東京』や1934年の『ジヤズ日本』など、民謡をモダンにアレンジしてジャズ風に仕立てた演目を上演していました。
このように、宝塚や松竹が少女歌劇によるオペレッタ式の「正統派レヴュー」を発展させていく一方で、東京・浅草には「極めて安価」で「テンポの速い」スタイルを特徴とする、いわゆる “インチキ・レヴュー” が次々と出現します。これらの団体のレヴューには脚線美や肉体美を強調する演出がつきもので、それは大正期に隆盛を誇った浅草オペラの流れを汲んでいたのでした。
浅草オペラがかつて大きな人気を誇った理由のひとつには、薄手の衣装越しに見える女性俳優の肉体が放つ強烈な色気、すなわち「エロ」がありました。それを忠実に受け継いでいたのが昭和初期のレヴューであり、スパンコールのきらびやかな薄い衣装や短いスカートをまとった若い女性たちがチャールストンを踊り、ジャズと寸劇で進行するバラエティーショーは、まさに浅草オペラの人気の継承であったといえます。
「オペラ」から「レヴュー」へと演目の名称が変わっても担っていた人々は同一で、たとえば浅草電気館の「電気館レヴュー」には、かつて浅草オペラ界で最大勢力だった根岸歌劇団に所属していた俳優たちが参加していましたし、浅草日活富士館での「日活レヴュー」には東京少女歌劇団の元メンバーたちが中心となっていました。このように、浅草オペラ出身の俳優たちは、自らレヴュー団を主宰したり、その一員として活動したりしながら、興行街に広く進出していたのです。そして、いずれのレヴュー団体も多かれ少なかれ、若い女性の性的魅力を前面に押し出したパフォーマンスで客を集めていました。
そんな中でひときわ人気となった団体が、1929年に立ち上げられたカジノ・フォーリーでした。カジノ・フォーリーは浅草喜劇の出発点といえる存在であり、やはり浅草オペラ出身の役者である榎本健一が在籍し、一座の中心となりました。カジノ・フォーリーの存在が広く知られるようになった大きなきっかけは、川端康成が1929年12月12日から『東京朝日新聞』夕刊に連載した小説『浅草紅団』でそのモデルとして取り上げられたことでした。この小説を通じて世間の注目を集めたカジノ・フォーリーは、瞬く間に人気劇団となり、「本家エロレヴュー」という異名でも知られるようになります。カジノ・フォーリーで「エロレヴューの女王」としてその名を馳せていたのが、河合澄子でした。河合は浅草オペラ時代から澤モリノと拮抗するアイドル人気を誇っており、文豪の川端康成が熱中したともされているほどでしたが、このころにはエロを看板とするダンサーになっていたのです。
このカジノ・フォーリーを「本家」として、「エロ充満レヴュー団」「アイラブユー・レヴュー団」「プリンス・レヴュー団」「メトロ舞踏団」「小川大演芸団」など、数多くのエロレヴュー団が浅草に出現したのでした。いずれの団体も、露出度の高い衣装で「ハダカダンス」と称される踊りを披露したり、「100%エロガール」といった挑発的なキャッチコピーを使った広告で観客の興味を引いたりするなど、性的要素を前面に押し出した演出で集客を狙っていました。
カジノ・フォーリーでは当初、大道具も小道具も不足していた中で、幕間無しのスピード展開でテンポよく場面が進行するスタイルがとられていました。そうした中で特に榎本健一の抜群の体技によるシュールなナンセンスギャグが繰り出されて観客の笑いを取っていきます。激しい動きが繰り出されるエノケンの演技に客席は抱腹絶倒し、エノケンは「喜劇王」というポジションを確立していきました。このように、エロ要素に加えて「ナンセンスコメディー」という新たな要素もまた、浅草のレヴューにおける主要な魅力として浮上し、両者の融合が進んでいきました。
昭和初期当時の文化的風潮全体を象徴する言葉として、「エロ・グロ・ナンセンス」という言葉があります。「エロ」の本質は江戸時代の浮世絵に既に存在していたし、明治時代の娘義太夫や大正時代の浅草オペラは女性演者の発散する色気によって大人気を博していましたが、それはあくまで秘められた魅力であり、青少年を性的魅力で魅了するのは道徳的な堕落だという建前があくまでもありました。ところが昭和に入ると、「エロ」という言葉が出現し、性的な演出について「それはエロだ」とあっさりと定義づけられたのです。ジャーナリズムでも大手を振って「エロ」という言葉がメディアを賑わすようになり、「エロ」の語が日常的に使用されるようになります。当初は「エロチシズム」などと正式なまま用いられていましたが、1930年頃から「エロ」という省略形が転がり始めたようです。
大正期以降、エプロン姿の “女給” が男性客をもてなす「カフェー」も街に蔓延し、次第に「エロ」を売りにしたサービスが強調されていました。当時のカフェーには、チップをはずむと女給とふたりきりになれる「スペシャル・ルーム」なる部屋があり、そこでは特別な「恋のサービス」が提供されたといいます。このようなカフェー、ダンスホール、レヴューなどといった華やかな施設が昭和初期の「エロ文化」を象徴していたのでした。主義や思想に敏感な学生を息子に持つ親もまた「テロよりはエロ」「赤色に染まるなら桃色のほうがマシ」などと言い出す始末。
「エロ」という言葉の浸透と並行して、「グロテスク」を略した「グロ」という言葉も同時期に流行し始めます。「グロ」は当初「変態性欲」を指す言葉として使われていましたが、次第に意味が広くなっていき、常識の枠から外れた奇異な現象や世界の異文化といった、より幅広い対象を含むようになったようです。大正から昭和初期にかけて活躍した作家の江戸川乱歩は、本格派の探偵小説を発表する一方で、怪奇的なグロテスク趣味で彩られた通俗路線の作品も書き、「エログロ作家」と評されたほどでした。
さらに、前述したカジノフォーリーに代表されるナンセンスコメディーと性的要素の融合も進み、「エロ・グロ・ナンセンス」という言葉でそれらの文化的潮流が一括りに表現されるようになったのです。戦前にはまだサブカルチャーという概念は存在していませんが、これらの文化はまさにサブカル的性質を帯びた現象であったともいえるでしょう。
一般的に昭和初期の日本の世相は暗い時代であったというイメージが根強くありますが、時代は常に多面的で、影があれば光があります。新聞の朝刊の広告面には連日のようにエロ出版の広告が掲載され、そうした出版界や新聞紙面のエロの蔓延は、治安維持法による思想弾圧で国民に不満や圧政感が溜まらないようにるすためのガス抜きではないか、との見解も当時からありました。社会不安を裏返しにした刹那的な享楽主義を、第一次世界大戦後の世界的な軍縮の流れと左翼的思想の流行も後押しして、暗黒時代などとは言い切れないどころか軽佻浮薄をきわめたのが、実際の昭和初期の世相だったのです。
キナ臭さと享楽的な文化が並存するアンビバレントな社会傾向は、2020年代現在の状況とどこか似ているように感じるのは気のせいでしょうか?
さて、カジノ・フォーリーで頭角を現したエノケンは、人気が高まるとともに一座を離れ、その後「新カジノ・フォーリー」「プペ・ダンサント」を経て、「ピエル・ブリヤント」という新たな団体へと活動の場を移していきました。これらの団体では、エノケンと二村定一の二人が座長を務める体制となり、コンビとしても高い人気を得るようになります。二人は1931年に「エロ草紙」という楽曲をレコードに吹き込み、これがエノケンにとってのレコードデビュー作となりました。また、「プペ・ダンサント」には当時まだ駆け出しのレコード歌手であった淡谷のり子も出演しており、のちの大歌手の初期キャリアの場としても重要な役割を果たしています。
あまりにも目に余るエロ興行に対して、警視庁はついに1930年11月に取り締まりに乗り出します。これを契機に、軽喜劇を中心とする演芸ジャンルに対して検閲の圧力が本格化していくことになりますが、レヴューに由来する「エロレコード」が多く制作されたのは、公演に対する厳しい取り締まりが始まった後のことであり、隆盛したタイミングとして若干の時間差が見られました。
昭和初期、図書や新聞、映画には検閲があり、ラジオ放送の場合も逓信省の管轄のもと、放送の2~3日前までに内容を事前審査するという体制がとられていました。しかし、レコードだけには検閲がありませんでした。図書には出版法を適用することができましたが、レコードは取り締まるための法律が整備されていなかったのです。そのため、レコードはエロ表現にとって最後の “自由な領域” となり、レヴュー発のエロソングだけにとどまらず、この時期には多くの「エロレコード」が急増していきます。(昭和初期のエロと音楽文化に関する詳細は、毛利眞人『ニッポンエロ・グロ・ナンセンス:昭和モダン歌謡の光と影』(2016)によって多くのことが明らかにされています。)
1930年代初頭の流行歌史は、中山晋平や古賀政男といった巨匠作曲家による「トップ・ヒット曲」が今なお語り継がれていますが、その陰には無数の流行小唄や映画主題歌が雲霞のごとく出現していました。後世までしっかり伝わらずに取りこぼされてしまった一過性の流行歌というものはいつの時代にも大量にあり、決して珍しいことではありませんが、昭和初期が特異的なのは、そうした楽曲群の多くが内容においてエロ一色に塗り立てられたという点です。
1930年8月新譜の「新東京行進曲」(作詞・西條八十/作曲・中山晋平)という楽曲の四番歌詞に、
昨日チャンバラ 今日エロレヴュー
モダン浅草 ナンセンス
と歌われたのが、レコードにおける “エロ” という語の初出だとされます。この直後から、堂々と “エロ” をテーマにしたレコードが続々と発売され始めます。
1930年~31年にかけて発売されたそのタイトルは、淡谷のり子が歌唱したその名も「エロ行進曲」を筆頭に、「エロの唄」「エロ感時代の歌」「エロ小唄」「エロエロ行進曲」「エロ娘」「エロ町小唄」「浅草エロ小唄」「エロ・オンパレード」など、ド直球に「エロ」の語を使用した露骨なタイトルばかり。加えて、「ザッツ・オーケー」「恋のセレナーデ」「銀座ステップ」「あなたのものよ」「かたく抱いて頂戴ね」などといった楽曲も、当時のエロブームを反映した歌として登場しています。
1931年2月新譜の「ねえ興奮しちゃいやよ」は、歌唱の青木晴子があろうことかラジオのお昼のジャズ放送で歌う予定にしていましたが、放送二日前に差し止めとなってしまいました。
1931年から1932年にかけて、エロ流行歌はますます咲き乱れ、そのタイトルはキャッチ―な短略型に変化していきます。「誓つてね」「ネエあなた」「キッスして」「感じたわ」「ホテルホホ」など、タイトルを並べただけで事が起こってしまおうという勢いです。
正式な検閲制度が存在しない野放し状態だったとはいえ、度が過ぎたレコードに対して何らかの対応を取ろうとするのが官僚心というものであり、図書と映画の検閲を行う内務省警保局は文部省とレコード検閲について検討を始めていました。
国民たちが享楽的なエロ文化に浮かれている裏で、政治情勢としては戦争の影が迫っていました。それに伴って、時局を反映した軍国調の楽曲も増加し始めます。とはいえ、まだ日本が本格的な戦争に突入する前の段階であり、軍国調一辺倒ではなく、多様な流行歌の中の一部に戦争を主題とした楽曲も含まれていた、というのが実態だったようです。ただ、このような時局レコードが1932年以降増加することによって、狂乱のエロ小唄ブームは一旦落ち着いていきます。
1931年の柳条湖事件を発端として満州事変と呼ばれる日本軍(関東軍)と中国との武力衝突が開始。これに前後して、「満州前衛の歌」「起てよ国民」「守れよ満州」といった楽曲が登場していました。戦意高揚のため、軍部は軍国美談を世間に公表し、それに乗じて、朝日新聞社は1932年に社員の作った「満州行進曲」を発表します。さらに、中国で散った日本軍兵士を讃える「肉弾三勇士の歌」も懸賞募集。次いで毎日新聞も「爆弾三勇士の歌」を募るなど、類似の動きが起こっていきます。両社はレコードメーカーとタイアップし、山田耕作、中山晋平、古賀政男、古関裕而など、各作曲陣による作品が生まれ、宣伝戦が繰り広げられたのでした。
このころ、NHKは「流行歌」という呼称の卑俗な含意を嫌い、「流行するかどうかまだわからない段階のものまで “流行歌” と呼ぶのが放送用語として相応しくない」として「歌謡曲」と言い換えるようになりました。やがてエロレコードは「エロ歌謡」、時局レコードは「軍国歌謡」と呼ばれるようになります。「軍歌」が明治期から作られていた陸軍省・海軍省などの官製の曲や唱歌に近い楽曲を指すのに対し、「軍国歌謡」は戦時色をもったレコード流行歌のことを指します。
こうした中、五・一五事件を描写・称賛した記念レコードまでもが1933年に登場しました。これに対して「テロの賛美」だとして、歌詞カードに対して出版法を適用することでレコードが発売禁止となってしまいました。これをきっかけとして、レコード検閲への動きが一気に推し進められることになります。1934年3月に「出版法」が改正され、レコードが出版物と同じく正式に検閲対象となり、レコード原盤の差し押さえと押収、破棄が可能となったのです。このように思想的な側面によって促進された取り締まりでしたが、レコード検閲が開始されると、それまでのエロ歌謡が次々と摘発されていきました。
ただ、当初は検閲官も取り締まりの線引きに苦慮したのか、問題点を挙げながらも「不問に付す」という案件が多かったのでした。その処分もメーカーへの自粛要請にとどめる案件が多く、手探りで検閲基準を構築していったさまが伺えます。しかし次第に能率は上がり、思想関連とエロ関連の二本立てで検閲を行いながら、徐々に監視の目を厳しくしていきました。
◉芸者歌手と新民謡運動
「ラテン調」の古賀メロディーや、「モダン」なジャズソング、更に享楽的な「エロ歌謡」が世を席捲していた一方で、芸者出身の歌手が歌う「日本調」の流行歌も登場します。音楽学校出身の声楽家ばかりだったそれまでの流行歌手とは異なる、多くの日本人に耳慣れた芸妓特有の歌唱法で大衆に支持されたのです。芸者歌手たちは「鶯芸者」とも称され、レコードだけでなく映画やラジオにも出演してアイドル的人気を獲得します。こうした芸者歌手の代表が小唄勝太郎で、1932年12月発売の「島の娘」で一世を風靡しました。
この曲のヒットによって、歌い出しが「ハァ~」で始まるこの歌を模倣した類似曲が多発し、“ハァ小唄” というジャンル名が冠されて広まるほどのムーブメントとなりました。多くの類似曲が乱発される中、「島の娘」に続いて小唄勝太郎がヒットさせた “ハァ小唄” が、1933年7月に三島一声と吹き込まれた「東京音頭」でした。
日本初の電気録音盤のヒットでもあった中山晋平の「波浮の港」以来、隆盛していたご当地ソングは「新民謡」と呼ばれて流行歌の一ジャンルを占めるようになっていました。当時の流行歌には地名を冠した「〇〇行進曲」「〇〇小唄」という楽曲が大量に登場しており、それらも広い意味で「新民謡」の系譜と言えますが、より新民謡ブームの決定打となったのが「東京音頭」だったのです。この曲もまた、作詞・西條八十/作曲・中山晋平という安定の布陣による楽曲でした。
もとは「丸の内音頭」として作られ、非常にローカルな曲でしたが、東京全体をカヴァーするように歌詞を変えてレコードに吹き込んだところ全国的に大ヒット。中山晋平と西條八十の代表作とされるほどにまで流行したのでした。
この楽曲の流行は、ダンスホールやジャズに関する話題と並んで昭和初期の「踊り」に関する重要な現象として注目できます。この楽曲をきっかけとして、盆踊りの再編が進んだのです。「東京音頭」は各地で踊りの講習会を兼ねた盆踊り大会が行われ、それが功を奏して全国的に大流行しました。この曲の流行を通じて、「櫓の上でレコードに合わせて太鼓が演奏され、その周りをお揃いの浴衣の踊り手が決まった振り付けを規則正しく踊る」という、現在まで一般的な盆踊りのスタイルが全国で整えられて普及していきました。レコード流行歌が集団的な踊りと結びついたのです。
(レコード会社自身によるイベントを用いてプロモーションを行い、集団的な踊りが流行するという現象は、戦後にダンスホールで仕掛けられたマンボブームや、1990年代にエイベックスがディスコイベントを通じてユーロビートを流行らせた手法などまで、今後何度も繰り返されていきます。)
この時代、異様な空気が東京から全国に流れ、幕末の「ええじゃないか」の昭和版とまでいわれるほどの大衆狂乱となっていました。「東京音頭」は現在でも盆踊りの定番曲となっており、さらにヤクルトスワローズやFC東京の応援歌としても知られています。
「東京音頭」のヒットによって芸者歌手による新民謡ブームが起こり、翌1934年には、レコード会社各社がそれぞれ同題の「さくら音頭」と題する曲を売り出す企画が持ち上がりました。ビクターでは中山晋平、コロムビアでは佐々紅華、ポリドールでは山田栄一による作曲によってそれぞれの「さくら音頭」が作られ人気となった中で、若かりし服部良一は「さくらおけさ」という楽曲を提案しており、ニットーレコード(現・キングレコード)からデビューの浅草の芸妓・美ち奴のデビュー曲として好評を博しました。
モダニズムに対する日本回帰の傾向の出現によって、1934年はさらに「赤城の子守唄」のような曲もヒットし、これを歌った東海林太郎はこれにより人気歌手として地位を確立しました。東海林太郎は「非音楽学校系」の歌手としての嚆矢となります。1年間で104曲も吹き込むなど、この年の流行歌界は「東海林天下」の観を呈しました。続いて「野崎小唄」「お駒恋姿」「壷坂小唄」など、日本情緒にいろどられた歌をヒットさせていきました。
◉「ネェ小唄」騒動
舶来のジャズに踊り暮れるモダニズムの余韻や、「東京音頭」に始まる盆踊りの大衆狂乱、そして「エロ歌謡」の流行に代表される「エロ・グロ・ナンセンス」の時代潮流は続いていました。1934年の出版法の改正によるレコード検閲の開始以降も、圧力をよそに「あなたのわたし」「のぞかれた花嫁」「そんなお方があったなら」「泣かせて頂戴」など意味深な歌や、頽廃的な歌が発売され続ける一方でした。
そうした中、1936年にビクターから「忘れちゃいやョ」 という楽曲が発売され、大きなヒットとなります。歌唱を担当したのは、藤山一郎や淡谷のり子と同じく東京音楽学校出身の渡邊はま子で、3月の発売からわずか1~2ヶ月の間に流行し、6月までに10万枚を売り上げました。その反響は、かつて「東京行進曲」で起こった流行歌論争の再来ともいえるほどの波紋を呼んだほどで、これによって渡邊はま子は一躍有名な存在になります。さらに、この楽曲のヒットによって一時期下火になっていた「エロ歌謡」ブームに再び火が付くことになったのです。
1930年代初頭の “第一次”「エロ歌謡」ブームにおける直接的な表現に比べると、マイルドな歌詞になってはいますが、特に
「ねえ 忘れちゃいやョ 忘れないでね」
という「ねえ」から始まる甘ったるいフレーズとその歌い方が画期的な表現として注目されたのです。渡邊はま子は作曲者の細田義勝に歌中の「ネエ」の部分の歌い方を何度も指導され、本人は辟易してレコーディングしたものの、その直後に早稲田大学野球部の応援歌の発表会で歌ったところ、観客に大ウケしたため、本人にもヒットの予感があったといい、レコード発売後は実際に大きな反響が広がっていきました。さらに、直後からこの楽曲の模倣盤とみられる楽曲が次々と出現していくことになるのです。
本家「忘れちゃいやョ」については、5月上旬に内務省から販売促進のための店頭演奏や街頭演奏を自粛するようビクターに要請がされてはいましたが、検閲当局は当初、この楽曲を発売禁止にするほどは問題視しておらず、将来的な流行の拡大を食い止められれば、という程度の認識だったといいます。しかし、この楽曲を真似たレコードが続々と出現したことでエロ歌謡は再び見過ごせない問題となり、この年にあらわれた「忘れちゃ嫌よ」「教へてネ」「私のあなた」「見捨てちゃ嫌よ」「可愛がってネ」などの類似レコードがすべて発売禁止・製作停止に追いやられてしまいました。
さらに、「ブームを作った元凶」ということでネタ元の「忘れちゃいやョ」にも治安警察法が適用され、レコードを急ぎ回収するようビクターに指導が入ってしまいます。このことは “リアルタイムでヒットしている作品が発売禁止となった事例” として注目を集めましたが、意外なことに、この時代は内務省の強制力は強く無かったようで、治安警察法では「原盤を破棄しなさい」という命令ではなく「自主的にビクターが原盤を破棄すべきだ」という、コロナ禍の緊急事態宣言のようなニュアンスで表記されていました。
しかしビクターはこの処分に不服だったようで、処分直後の8月には早速、「ねぇ、ねぇ」という歌い出しから始まる「とんがらかっちゃ駄目よ」という作品を同じ渡邊はま子の歌唱で発売しているし、自主回収となった「忘れちゃいやョ」も、指摘された「ねえ」の部分だけをトランペットの音色に変えて吹き込みなおした改訂版を「月が鏡であったなら」として9月に発売するなど、処分に対して挑発的な姿勢だったことが伺えます。さらにほとぼりが冷めてからはルンバ・アレンジの「忘れちゃいやョ」も再びリリースされています。
他社も一連のレコード発禁・製作停止をものともせず、類似の甘美なエロ歌謡を発売し続けました。ジャーナリズムでは一連の「忘れちゃいやョ」式の流行歌を、小唄勝太郎の「島の娘」や「東京音頭」に端を発する “ハァ小唄” になぞらえて “ネェ小唄” と呼んで持て囃しました。
内務省警保局はカンカンで、レコード検閲は厳しさを増していったにも関わらず、“ネェ小唄” ブームは年を跨いで1937年になっても続きました。1936年~1937年にかけて、「泣かせてネ」「だって嫌よ」「あゝそれなのに」「叱らないでね」「ホントかい」「ふんなのないわ」「恋のアンテナ」「喫茶むすめ」「ほっといてよ」などの "ネェ小唄" が発売されました。中でも「あゝそれなのに」は50万枚に迫るメガヒットを記録し、流行語にもなりました。
1930年代初頭の短絡的な「エロ」とはまた違う新ジャンル “ネェ小唄” においては、歌詞よりもその声色や歌唱法が大きな特色となり、問題とされたのでした。毎日毎日大量のレコードを聴き続けなければならないレコード検閲官にとって、歌詞の内容まで踏み込んで吟味することは事実上不可能だったと思われます。その点、歌いぶりで検閲できる “ネェ小唄” は効率的でした。報道でも「当局では今後歌詞は差支なくともエロな声を出すレコードはどしどし発禁するといってゐる」と告知された通り、甘い声色のレコードは1937年以降続々と発売禁止になっていきました。これは、行政の恣意的な解釈で法律が運用され、検閲が可能になってしまったことを示していました。
渡邊はま子は、一連のネエ小唄騒動によって1年間の休業を余儀なくされましたが、その後も映画主題歌や軍国歌謡などまでを歌い、流行歌界で活躍していきます。
◉「国民歌謡」の開始
「エロ・グロ・ナンセンス」の空気が全く収まらない1930年代の日本社会。エロ歌謡の蔓延や、そうでなくとも「不健全で俗悪」な数多の歌謡曲の流行に、知識人や教育界、官僚側の人間は頭を抱えていました。レコード歌謡というのはまずもって映画館やカフェー(戦後になると酒場やパチンコ屋)といった不健全な「盛り場」に流れる音楽のことであり、都市の中流階級以上の家庭に向けられたラジオで栄えていたクラシック寄りの音楽傾向とはやや異なる性格を持っていました。レコード会社が作る歌謡は、健全な家庭的雰囲気とは相容れない不道徳なものであるという観念が長く維持されていき、その傾向は戦前・戦中だけでなく戦後しばらくのあいだも強く残ることになります。
国家との距離が近い「半官半民」の性質が色濃く、音楽に関しても比較的「芸術音楽」を志向していたNHKではこの時期、不道徳な流行歌に対抗して、ラジオ自らが「健全な歌詞・健全なメロディー・健全な歌い方」で、明るく家庭的かつ芸術的に格調の高い音楽を作り、放送を通じて普及させ、俗悪なものを浄化しようとする動きが起こりました。
1936年4月29日と5月17日に、NHK大阪中央放送局で「新歌謡曲」という番組が桃谷演奏所から全国放送されました。この試みは成功し、定期番組化されることとなります。同番組は『国民歌謡』という番組名に改めて、6月1日から午後0時35分からの月曜から土曜までの5分番組として、定期放送が正式にスタートしたのでした。
番組の趣旨は「 “低俗で退廃的な” レコード会社製の流行歌とは異なる、“健全な” 大衆向け歌曲を創造する」ことだとされ、放送局が主導して作った歌を、毎日決まった時間に放送することで広く国民に定着させようと試みられました。この番組は、戦後の『ラジオ歌謡』から現在の『みんなのうた』にまでつながっていく系譜となります。
『国民歌謡』では、新作歌曲が1週間連続で放送されました。第1回放送曲は、今中楓渓作詞・服部良一作曲の「日本よい国」で、奥田良三が6日間連続で歌唱を担当。これにより「一人の歌手が一週間同じ歌を歌い続ける」という特有のスタイルが確立されます。ここから一週交代で1~2曲が「歌唱指導」付きで連日放送され、「朝」「椰子の実」「春の唄」などが正統派歌謡として好評を博し、広く愛唱されるようになりました。
『国民歌謡』第二作目の楽曲、島崎藤村作詞の「朝」は国民歌謡のヒット曲第一号となり、後に何度も定期的に同曲が放送されました。『国民歌謡』では同じ曲を何度も取り上げるのが特徴で、1940年までに番組で同曲を歌ったのは17組に及びました。同じく島崎藤村作詞の「椰子の実」では、歌唱担当に東海林太郎が起用され、国民歌謡における流行歌歌手の起用の先例となりました。それまでクラシック系の歌手を起用していた国民歌謡としては斬新な試みとなったのです。この曲もまた同番組内で多くの歌手によって歌われ、数十名にも及びました。
このように初期は充実した歌曲が生まれて流行した『国民歌謡』ですが、1937年に日中戦争が開始されると、「護れ我が空」「征けよますらを」「戦勝の歌」「遂げよ聖戦」など軍国調の曲も多くなっていき、戦時体制を翼賛するためのプロパガンダ番組へと推移していきます。こうした歌が放送されている1937年の秋、内閣情報部は「愛国行進曲」の懸賞募集を行いました。新聞社や雑誌社ではなく行政がこの方式をとるのは初のことでした。NHKはこの歌も『国民歌謡』として放送。レコードも大いに発行されました。その後も同番組では、戦時歌謡がますます登場していくことになります。
「愛国行進曲」のあと、国民に対し戦意高揚を広く浸透させるために軍国歌謡はますます目立つようになり、新聞社や放送局がこぞってタイアップを行いました。1938年には「軍国の母」「ああ我が戦友」や、新聞社の募集による「進軍の歌」「露営の歌」「日の丸行進曲」、兵士の心情や安否を祈る心情などを歌う「上海だより」「九段の母」、戦争文学のレコード化である「麦と兵隊」などが作られました。1939年になると「愛馬進軍歌」「父よあなたは強かった」「兵隊さんよありがとう」「大陸行進曲」「太平洋行進曲」「空の勇士」「荒鷲の歌」「出征兵士を送る歌」などが出現しました。
ここで注目すべきなのは、こうした国家主導の軍国的な歌曲のほうが格調高い「西洋クラシック」の側面が強く、世俗的な大衆歌謡のほうが「邦楽」的な側面がある程度強かった、ということです。このあと戦時統制が強まっていく中で、もちろんアメリカ音楽である「ジャズ」は統制の対象となってしまいますが、国家は単に西洋音楽全般を禁止して日本音楽全般を奨励したというわけではなく、「健全か低俗か」という構図によって、日本精神を強調しながらも西洋音楽を促進するという、ある意味で不可解・不完全な統制基準を抱えていくことになるのです。
◉1930年代後半の「歌謡曲」の多様化
淡谷のり子は1935年「ドンニャ・マリキータ」がヒットしたことから、日本におけるシャンソン歌手の第1号という存在になっていました。本場フランスのシャンソン歌手・ダミアの最高傑作とされる「暗い日曜日」やスローワルツの「人の気も知らないで」など、数多くのシャンソン楽曲を吹き込み、若者の心を捉えていきます。同じく舶来系のポピュラーソングの吹き込みで台頭したのがディック・ミネや灰田勝彦でした。ディック・ミネは「ダイナ」「黒い瞳」「小さな喫茶店」「奥様お手をどうぞ」「上海リル」などの多くの舶来歌で活躍しました。灰田勝彦はウクレレを手にしたハワイアンの楽曲で一世を風靡しました。
渡辺はま子「忘れちゃいやョ」のヒットに端を発する “ネェ小唄” 騒動や、NHKの『国民歌謡』の開始された1936年は、レコード生産高が3000万枚近くに達し、なんと日本は世界一のレコード大国とまでなっていました。そのラインナップには、古賀メロディー、ジャズソング、タンゴ、ハワイアン、音頭、新民謡、エロ、コミック系、軍国歌謡、クラシック、浪花節など、多種多様なジャンルが入り乱れる百花繚乱の様相を呈していました。
そんな1936年に「忘れちゃいやョ」と並んで大ヒット曲となったのが、古賀政男の作曲による藤山一郎歌唱の「東京ラプソディー」です。この曲によって “古賀メロディー” は決定的に定着し、古賀政男の流行歌王の地位が確定したといえるほどです。また、この楽曲は戦前のモダンな東京の風景が盛り込まれた最後の賛歌となったといえます。古賀メロディーはモダンライフをテーマとしたコミックソング的なヒット曲も多く、1937年の「ああそれなのに」はその代表例。また、都市文化を担う青年層の哀歌として「青い背広で」「青春日記」も聴かれました。
1937年には、淡谷のり子が歌唱した「別れのブルース」の登場によって、日本の流行歌に新たな風が吹き込みました。この楽曲の作曲者である服部良一は、それまでの音楽界ではまだ突出した存在ではありませんでしたが、本作によって一躍脚光を浴び、一流作曲家として頭角を現すきっかけとなりました。「別れのブルース」は、日本のブルース史の幕開けともされる作品であり、服部にとっても記念碑的な一曲となりました。
この楽曲のレコーディングにおいて、服部は「ソプラノの私には無理」と難色を示す淡谷をなんとか説得し、歌唱に臨ませました。淡谷はブルースに即した低い声を出すために、それまで吸ったことのなかったタバコを一晩中吸い続け、一睡もせずに喉を荒らしてレコーディングに挑んだといいます。その結果完成した「別れのブルース」と、翌年1938年に同じく淡谷のり子歌唱・服部良一作曲による「雨のブルース」がともに大ヒットを記録したことによって、淡谷は「ブルースの女王」と称されるようになったのでした。
この時期、ディック・ミネが歌った「上海ブルース」もまた、「別れのブルース」「雨のブルース」と並ぶ、戦前を代表する三大ブルースのひとつに数えられています。「上海ブルース」は、日中戦争の開戦によって流行歌の題材が中国大陸へと広がっていった時代的背景とも密接に関わっています。藤山一郎の「上海夜曲」や「懐かしのボレロ」、ほかにも「上海の街角で」「上海の花嫁」、さらには中国語由来のタイトルを持つ「何日君再来」や「チャイナ・タンゴ」など、中国・上海をモチーフとする歌が続々と登場していました。
1937年に始まった日中戦争によって、事変特別物品税が導入され、レコードや映画などの娯楽メディアにも重い制約が課されることになります。特にアメリカ映画の輸入が制限されるなかで、ジャズやスウィングといった西洋音楽の行く末が懸念されましたが、むしろ1938年頃からは軍需景気の影響でレコード業界も再び活況を呈するようになり、ジャズ・スウィングの人気も再び高まっていきました。
とりわけダンスレコードの売れ行きは好調で、1938年4月にはベニー・グッドマンなどのスウィング・バンドによる代表的な楽曲を収めた「スヰングアルバム」がビクターから発売されました。他にも「グッドマン選集」や「オール・スタア・バンド・アルバム」、さらにジャズピアニストのテディ・ウィルソンの伴奏でエラ・フィッツジェラルドやビリー・ホリデイが歌唱する「テディ・ウィルスン・アルバム」などが発売されており、こうしたレコードを紹介するファッション誌や音楽雑誌でもジャズ関連の記事が目立つようになります。音楽評論家の野川香文は、1938年8月から『月間楽譜』にて「スヰング・ミュージックの研究」を連載し、服部良一も『音楽世界』にて「ジャズ編曲法講座」を執筆し、そこでブルースの作曲法についても詳細に解説しています。
同じころ、映画主題歌も隆盛を極めました。特に1938年の松竹映画『愛染かつら』の主題歌「旅の夜風」は、ミス・コロムビア(松原操)と霧島昇の歌唱で戦前最大級のヒットを記録し、「愛染節」として社会現象となりました。これに続いて「悲しき子守唄」「愛染夜曲」「愛染草紙」など、続編映画の主題歌も好評を博します。1939年の映画『純情二重奏』の同名主題歌も霧島昇と高峰三枝子による歌唱でヒットし、この時代も映画主題歌というジャンルがますます流行歌の中心に据えられるようになります。
また、1930年代には映画館における「アトラクション」(舞台上の実演パフォーマンス)が大きな人気を博しました。もともと映画館での幕間のショーは「実演」や「添え物」などと呼ばれていましたが、1930年代からは「アトラクション」の名が一般的になり、映画を凌駕するほどの人気が出てくるようになっていました。戦時下になると人気娯楽が次々と統制されていく中で逆にアトラクションは発展し、ジャズを演奏する軽音楽団にとって重要な活路となります。戦時下で映画の供給が逼迫するなか、集客の為にも映画興行でアトラクションの重要度は高いものとなっていき、時に映画本編よりも大きく広告されるなど、映画館が寄席化していくような現象も見られるようになりました。特に地方の映画館において流行歌やジャズの普及に大きな役割を果たしたといいます。
そうした文脈のなか、服部良一は1938年に笠置シヅ子と出会います。二人は松竹の帝国劇場でのアトラクション公演を通じて共演するようになりました。松竹はこの時期、アメリカのレビュー文化に倣い、男女混成の大規模な楽劇団「松竹楽劇団」を結成しており、スウィング・ジャズがその音楽的な中心をなしていました。服部が作曲し笠置が歌った「ラッパと娘(1939)」は、服部と笠置のコンビによる初期の代表作であり、圧巻の完成度を誇るとともに、日本のスウィング時代の到来を象徴する楽曲でもありました。
笠置シヅ子は、アメリカのコメディアンを模範としつつも、日本の伝統芸能にも関心を寄せていました。彼女自身が語ったところによると、「琵琶と能は好かんけど、浪花節、義太夫、何でも好きや」とのことであり、武家的・宗教的な芸能よりも、近世以来の庶民的娯楽に魅力を感じていたようです。これは彼女の舞台表現にも通じており、「大阪の芸能の伝統を生かしつつモダンなレビューの舞台で踊りや身振りを伴って熱心に“魅せる” 歌手」という特性を早くから備えていました。
1920年代~30年代の世界的潮流として、各地で同時多発的に誕生したラテン音楽などの大衆音楽は、その地の在来音楽の要素と西洋音楽の語法の両方を身につけた越境的な音楽家によって担われて発展していました。日本におけるジャズと演芸の “本場” であった大阪の出身である服部良一と笠置シヅ子の二人は、(在来娯楽と西洋音楽の越境という文脈で) まさに日本におけるその代表例ということができます。現在多くの人々にとって「戦後」の象徴的存在となっている服部と笠置のコンビですが、音楽的には日米開戦直前の「ラッパと娘」の時点で、既に一つの頂点を迎えていたとみることができるのです。
戦前のスウィングと戦後のブギウギは、音楽的に見れば断絶するものではなく、明確な連続性を持っています。服部は、戦時中にもブギのリズムを試みており、笠置もまた、その舞台表現においてすでに「大阪の芸能の伝統を生かしつつモダンな舞台で踊りや身振りを伴って熱心に “魅せる” スタイル」を確立していたため、両者の活動には戦前と戦後をつらぬく一貫した音楽的姿勢を見出すことができます。
このように、日中戦争下においてもモダニズム文化は消滅するどころかますます勢いを増しており、渡辺はま子が歌った「支那の夜(1938)」も、シャンソンの影響を受けた異色の旋律として大ヒット。この楽曲をもとに後に映画化もされました。1939年には「旅の夜風(愛染かつら)」と同じくミス・コロムビア(松原操)と霧島昇の歌唱による服部良一作曲「一杯のコーヒーから」やディック・ミネ「或る雨の午後」、二葉あき子「古き花園」「純情の丘」など、戦争という時代背景にもかかわらず、男女の恋愛やモダンな都市感覚を漂わせる多くの歌謡曲が人々の心を捉えていました。
当時の多様な流行歌の潮流を大きく分けたとき、これらの「舶来系・モダン系」に対して「日本調歌謡」がもう一つの大きな潮流として挙げられますが、その中でも “新民謡” や “芸者歌手の音頭歌謡” に加えて台頭していたのが “股旅歌謡” などと呼ばれる “任侠・ヤクザ・道中もの” の楽曲でした。 “股旅もの” という主題は、当時の無声チャンバラ映画や大衆小説に依拠したもので、当時において「過去の日本」を喚起するイメージではありますが、伝統邦楽のように過去から連綿と受け継がれた伝統文化というわけではないことには注意すべきです。
この分野は作曲家の阿部武雄による「アベタケメロディー」が多く担い、歌唱は東海林太郎が多く歌いました。それに関連して文芸作品を題材にした “文芸もの” も登場し、「お夏清十郎(1936)」「すみだ川(1937)」「高瀬舟(1937)」などの楽曲が東海林太郎によって歌われました。
古賀メロディーを声楽的歌唱で歌う都市文化青春歌謡の藤山一郎と、アベタケメロディーを邦楽的歌唱で歌う日本的歌謡の東海林太郎が、この時代の大スターとして双璧だったといえます。そして、音楽学校出身者らの美声系正統派とは異なる東海林太郎の系譜に連なる存在として、上原敏が登場します。上原敏もまた、アベタケメロディーの「妻恋道中(1937)」をはじめとして「流転(1937)」「上海だより(1938)」「鴛鴦道中(1938)」など多くの日本調歌謡を歌いました。上原敏は東海林太郎を抜く勢いで人気となり、彼に続いて岡晴夫や田端義夫といった若手が1930年代末に日本調歌謡の系譜としてデビューします。
このように1930年代の流行歌は、中山晋平のヨナ抜き音階や新民謡と、それに追従する古賀政男のモダンな古賀メロディーに、「ジャズ・ソング」と呼ばれる洋楽の翻訳曲、さらに服部良一のブルース・スウィング基調の作品が加わり、ハァ小唄と呼ばれた鶯芸者歌手による音頭歌謡や、股旅ものや民謡を取り入れた日本調、ネェ小唄に代表されるエロ歌謡に、それに対抗するNHK発の健全な「国民歌謡」、さらには日中戦争の激化を背景とした軍国歌謡の増加など、多様な系譜が混在する、非常に複雑な時代を迎えていたのでした。
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