【日本音楽史】⑫1920年代「モダニズム」の開花(大正末~昭和初頭)
日本の音楽史を古代から令和まで概観していくシリーズです。
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【概観 日本音楽史】
ここまでの記事 ↓
まえがき
①古代~上代
②平安時代~鎌倉時代
③室町・戦国・安土桃山
④17世紀前半~中盤(江戸時代初期)
⑤17世紀後半~18世紀初頭(元禄時代の周辺)
⑥18世紀(享保期 ~ 宝暦・天明文化)
⑦19世紀前半(化政文化~天保期・幕末にかけて)
⑧黒船来航と西洋音楽
⑨明治政府の洋楽導入大作戦!(明治時代前半)
⑩19世紀末~20世紀初頭「世紀転換期」の混沌(明治時代中期)
⑪明治時代末期~大正時代前半 ― 民衆へも定着し始めた「洋楽」
<今回>⑫1920年代「モダニズム」の開花(大正末~昭和初頭)
◉第一次世界大戦後のジャズ受容
1910年代(=大正前期)に海外航路の船の楽士たちがジャズに触れた経験が日本でのジャズ史の始まりであることを前回紹介しましたが、第一次大戦後には更に様々なルートを通じて日本国内でジャズ認知が広がっていきます。
(大正~昭和期の “ジャズ” に関しては、多くの歌謡曲史の書籍などでも軽く触れられていることではありますが、特にジャズ受容の詳細な経緯については、青木学『近代日本のジャズセンセーション』(2020)に多くのことが載っており、ここではその情報を基軸として紹介します。)
契機の一つは、来日した外国人によるジャズの実演の機会です。1920年1月15日~25日にかけて、ジュリアン・エルティンジ一座というヴォードビル団体が来日し、帝国劇場などで公演を行いました。演目は「綱渡り」などサーカス的な要素を含むものでしたが、その中で演奏された音楽に「ジヤツズ、ミユージツク」が含まれていたと記録されています。この音楽は「米国最近流行歌」と説明されていました。
同1920年には、カリフォルニア大学のグリークラブがジャズバンドを率いて来日し、早大、慶応大、横浜ゲーテ座、大坂中之島中央公会堂、東京神田青年会館などで公演を行い、好評を博したといいます。同楽団は1922年6月にも再来日し、慶応大の学生新聞である「三田新聞」などにいずれも好評だったことが伺える記事が残っています。
さらに、1920年2月には同志社大学音楽部が「ニグロ声楽隊三名を招いて披露会」を開催していたことが同年4月号の『音楽界』誌に記録があり、演奏者たちは「珍らしいネグロ音楽」として紹介され、「喝采を博した」とあります。ここでは「ネグロ、ジアヅ、バンド」という表現が使われ、黒人演奏家による音楽が「ジャズ」として認識されていたことがわかります。
ちなみに同時期に歩みを開始していた宝塚少女歌劇団は、1920年1月の大阪中央公会堂でのジュリアン・エリティンジ一座の舞台や8月のカリフォルニア大学グリークラブの音楽会を見学していました。創始者・小林一三は、理想の作曲論として「ジヤヅバンドの楽譜を参考に」などと述べており、宝塚歌劇団ではジャズを積極的に取り入れようとしていたことがうかがえます。観客からの読者投稿にも「ヂヤズの臭ひをさしてあるのが耳についた」と苦言の声があり、評価は良くなかったながらも公演でジャズ風の楽曲が聴けたことがわかります。
社交ダンスの流行もジャズの広がりの契機の一つとなりました。1920年代に日本国内で社交ダンスがブームとなり、都市部でのダンスホールの開設が相次ぎました。1920年に開業した「鶴見花月園」は、日本初の本格的なダンスホールとして知られています。ここで井田一郎や波多野福太郎といった船の楽士出身の面々が演奏を始め、彼らが日本におけるジャズの先駆者として名前が知られることになりました。
1923年には、井田一郎が「ラフィング・スターズ」を関西で結成し、これが日本人初の本格的なジャズバンドだというのが通説となっています。井田は、当時ジャズの中枢となっていた大阪と、1923年の関東大震災後の復興真っ只中にあった東京という東西二つの大都市で活躍したのでした。
(ただ、これに先駆けて1920年に「東京ジヤヅバンド」というバンドが既に存在していたことが、『音楽界』や『月間楽譜』といった雑誌の記事で確認されています。)
映画館での音楽体験もジャズの流入に大きな役割を果たしました。この時期、アメリカやヨーロッパから輸入された映画の中には、ジャズやダンス音楽を伴う場面が多数含まれており、観客が映像を通してジャズの文化に触れる機会も増えていたのです。
その先駆けとなった具体的な作品例としては、『讃美歌と鼻歌』(米1920年/日本公開1921年)、『結婚生活』(米1921年/同年日本公開)、『煉獄』(米1921年/日本公開1922年)などの作品にジャズの要素が確認できます。やがて日本映画にもジャズバンドがダンスホールで演奏しているシーンなど、ジャズの要素が含まれる場面のある作品が登場するようになります。
当時はまだサイレント映画の段階であったため、劇場内では映像に合わせて楽士が演奏を行っていました。ジャズの演奏シーンがある作品に対しては、日本人楽士が「ジャズ風」と感じる演奏を模倣的に行ったと考えられます。このような試行錯誤の積み重ねが、日本人演奏家のジャズの技量向上に繋がっていったことでしょう。
さらに、映画館の幕間では余興として軽音楽の演奏も行われ、そこでもジャズが披露されることがあり、特にドタバタ喜劇映画の上映時にジャズが好んで演奏されました。当時の広告に掲載されていたタイムテーブルには幕間の演奏タイムも番組の一部として大々的に宣伝されていたことから、当時のジャズ演奏が集客装置として機能していたことがうかがえます。映画館には学生層をはじめとした若者が多く集まっていたため、ジャズが若年層に浸透する一因となったと考えられます。
劇場娯楽にジャズが取り入れられたことについては、映画館や宝塚少女歌劇以外での例も挙げられます。前回の記事でも紹介した女性奇術師・松旭斎天勝は、奇術師とはいうものの、天勝が座長を務める一座の演目は奇術だけではなくダンスなども採り入れたバラエティー・ショーになっており、ショーには音楽的な要素が多分に含まれていました。天勝が1924年にアメリカへの巡業後、25年に帰国して帝国劇場でおこなった興行以降ではジャズバンドも引き連れられ、公演の目玉とされました。さらに幕間には「ジャズ・ダンス」も行われています。
天勝は帰国した際、同時期のアメリカの演劇界の傾向について「クラシカルの物が段々衰へて、ボードビルが全盛の事、つまり、長時間を要する出し物よりも、二時間位に十幾つもの目先きの変わつた出し物の方が喜ばれる様で御座います」と語っているように、やはりアメリカではヴォードビルが流行していて、その要素を日本の公演での演目にも反映したといえます。その中で「目先きの変わつた出し物」としてジャズは必要不可欠だったのです。天勝の全国巡業は各地で好評を博しました。奇術師として日本で最も有名で、絶大な人気を博していた天勝の公演は、間違いなくジャズの認知に貢献していたと言えるでしょう。
明治期以来ずっと西洋音楽受容の窓口の役割を果たしてきた軍楽隊においても、行進曲的なクラシカルな吹奏楽だけでなく、ジャズ受容においても役割を果たしています。1922年、英国皇太子(エドワード8世)の来日を記念して開かれた大舞踏会では、皇太子が「黒人ジャズバンドがお好き」と語ったことから、日本の陸軍戸山学校軍楽隊がジャズナンバーを演奏したと記録されています。もちろんこれは譜面に基づく演奏であり、アドリブ的な要素はなかったと考えられますが、それでも軍楽隊がジャズをレパートリーに含めていたことは注目に値します。
このようにして日本社会に認知が広がっていったジャズは、新聞や雑誌の紙誌面でも紹介され始めますが、そこではジャズがパワフルで勢いがあることを認めながらも、あまり品の良い音楽ではない、とも捉えられていました。
たとえば、山田耕作は多数の新聞や雑誌にジャズを紹介しています。山田耕作は1921年9月~1922年3月のあいだにアメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツの6か国を回っており、「どこへ行つても “ジヤズ” 音楽が非常な流行を極めて」いたと紹介。その様子について『読売新聞』をはじめ『東京朝日新聞』『時事新報』『音楽の日本』『詩と音楽』などさまざまなメディアで言及しました。それらの記事では、「ジヤッヅの侵害」「真の芸術の為めに惜しむべき」などと表現されており、「低級」な音楽という位置づけをしています。しかしその一方で、ジャズのリズムは「日本のお囃子などと類似している」とも指摘されていました。
山田だけでなく、様々な論者が各誌面において「日本の酒殿に聞こえる絃歌の中に聞くシンコペーション」「あんな酔ぱらひの馬鹿囃子同様なもの」などと、ジャズを日本の酒の場でのお囃子と結びつけて中傷しています。当時の人々は、良くも悪くも、ジャズのリズムを日本のお囃子と似ていると感じていたのでした。
◉ダンスホールと「道頓堀ジャズ」
この時期のダンスホールの流行と関西の状況について、もう少し詳しく見てみましょう。
第一次世界大戦で疲弊したヨーロッパを尻目に漁夫の利を占めた形で一気に地位を向上させたアメリカは、1920年代、世界の強国へと変貌を遂げました。1920年代のアメリカ社会は、娯楽・芸術・ファッションなどが花開いたポピュラー文化の力強さを強調する言葉として「狂騒の20年代」と称されています。そして、若者たちがダンスホールで新しいポピュラー音楽に踊りくれたその世相を指して「ジャズ・エイジ」とも呼ばれました。
こうしたアメリカの動きとリアルタイムで連動するように、大正末から昭和初期にかけて日本においても「ジャズ・エイジ」が幕を開けており、その中心地が大阪だったのでした。この時期の大阪のジャズについては、輪島裕介( 『踊る昭和歌謡:リズムからみる大衆音楽』(2015)や『昭和ブギウギ:笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(2023) )によって詳しく議論されています。
1923年に井田一郎が関西で「ラフィング・スターズ」を結成したことは先述したとおりですが、同年には関東大震災が発生し、多くの音楽家や文化人が東京から大阪へと移住したことも手伝って、大阪ミナミ、特に道頓堀周辺でジャズとダンス音楽の需要が爆発的に高まっていたのでした。ちなみにダンスホールでは狭義のジャズのほか、タンゴやワルツなど欧米の各種軽音楽が演奏されていましたが、こうした舶来の軽音楽すべてをひっくるめて当時の日本では「ジャズ」と呼ばれていました。
そして、こうしたダンスホール文化を牽引したのが、「モボ」「モガ」と呼ばれる若者たちです。「モボ」は “モダンボーイ” 、「モガ」は “モダンガール” の略で、洋装に身を包んで都市の最新文化を謳歌した層を指し、1920年代のモダニズムを象徴する言葉として有名です。彼ら・彼女らは道頓堀や宗右衛門町などのカフェーやダンスホールに出入りし、ジャズの音に熱狂していたのです。
1924年には「タクシー・ダンスホール」という形態も登場します。タクシー・ダンスホールとは、店の女性ダンサーに1曲ごとにチケットを渡して踊ることのできる男性向けの娯楽施設のことで、客待ちをしてお金を貰えば誰とでも踊る女性ダンサーのあり方を、料金制で客を運ぶタクシーに喩えて呼ばれたものです。もともとはアメリカ・サンフランシスコ発祥の文化で、大阪では「コテージ」という店がその先駆けとなりました。当初はレコードをかけて踊る場として始まりましたが、隆盛に伴ってすぐに生演奏が導入され、ジャズバンドが常駐するようになったのでした。
また、同時期に設立された松竹楽劇部でも、宝塚を模範として洋楽を交えたレビュー形式の公演が行われるようになり、都市娯楽の重要な一翼を担う存在となります。ただ、宝塚では沿線住民の新中間層の新しい生活様式を啓蒙するブランディングを行い、現在のアイドルにまで繋がる近代的な「少女性」「未熟さ」が愛でられていたのに対し、松竹では歌舞伎も浪花節も映画も等しく興行種目として扱われており、より「庶民向けのエンタメ」という姿勢が徹底されていたのが特徴的です。そこには、土着の文化と西洋音楽とがごった煮で娯楽に昇華されていく大阪ならではの力強さが生まれていたと言えるでしょう。
この松竹楽劇部には、のちに「東京ブギウギ」でも知られる笠木シヅ子が在籍していました。2023年のNHK連続テレビ小説『ブギウギ』で描かれた物語の元ネタになっているため、この辺りはイメージしやすいかと思いますが、歌劇団出身者がジャズ・流行歌の担い手になっていく土壌が、この時期に形作られていたことがわかります。
後に笠木シヅ子とタッグを組んで「東京ブギウギ」のほか多数の有名曲を産み出すこととなる作曲家・服部良一は、1923年にうなぎ屋チェーンの出雲屋が設立した出雲屋少年音楽隊に入隊し、音楽活動を始めています。当時はジャズ譜が簡単には手に入らなかったため、彼は「かっぽれ」や「安来節」などの民謡を自ら編曲し、ジャズ風に演奏していたことが記録されています。民俗芸能を素材にしながら都市における新たな音楽表現としてジャズに昇華していくこの試みは、昭和歌謡につながる実践の萌芽ともいえますが、同時代のブラジルにおけるサンバやキューバにおけるソン(ルンバ)など、中南米の土着音楽や黒人音楽を西洋音楽と融合させて新たな軽音楽として独自のジャンルが成立した現象とも完全に共通しています。しかし、日本の音楽にはこれらのラテン音楽ジャンルのようには固有のジャンル名が与えられることはなく、「ジャズ」「軽音楽」「歌謡曲」といった包括的な総称に取り込まれてしまったことが、日本の音楽史にとって非常に残念だった点であるといえるかもしれません。
ただ、服部自身は後年、この時期に大阪ミナミの歓楽街にジャズの音楽が溢れる様子を「道頓堀ジャズ」と称して回想しています。大正~昭和初期の大阪は、人口においても面積においても経済規模においても東京市を凌駕する「東洋一の大都市」となっており、「大大阪時代」と称されたほどでした。鉄道・道路・上下水道・電気・ガスなどのインフラ整備に加えて、美術館・図書館・楽器店などの文化施設の整備も進み、大阪はモダン都市としての性格をいっそう強めていきました。このような都市基盤の整備とともに、ミナミや天王寺には劇場・映画館・ダンスホール・カフェーなどの娯楽施設が集積し、ジャズを中心とする音楽文化が都市生活における重要な要素として定着していきました。
道頓堀では近世以来のかつての芝居小屋が次々に映画館へと転用されていき、カフェーやキャバレーが進出し、川沿いの屋形船でもジャズバンドが演奏されるといった光景が見られるようになっていました。このような1920年代の道頓堀川周辺の盛り場を、ジャズの生まれたミシシッピ川が流れるニューオーリンズの歓楽街ストーリーヴィルに重ね合わせ、服部は「道頓堀ジャズ」と呼んで懐かしんだのです。
1920年代、「ダンス」はかつての上流階級の社交から、消費的な娯楽文化へと変容し、大衆的な普及を意味した一方、厳しい取り締まりや道徳的非難の目にさらされることにもなってしまいました。新聞の投書には「大切な時間を割き、贅沢な金を費やし男と女が抱き合ふような醜態」と、ダンスホールに通う娘に困った母親の悩み相談までも掲載されることもありました。社交ダンスがもつ不健全なイメージはそのまま音楽のイメージにも繋がっており、「 “騒ぎ” を起こすオーケストラ」としてジャズは「低級」な音楽だとされてしまいました。
そうしたのち、大正天皇崩御の日にも営業を行っていたという理由で、1927年には大阪市内のダンスホールについに営業停止処分が下されてしまいます。ダンスホールは大阪市から締め出されてしまったのです。とはいえ、ジャズとダンスの熱気は止まることなく、以降は尼崎、芦屋、西宮、京都、奈良など、関西一円にダンスホールが広がっていきました。歓楽街から排除された文化は郊外へと移動しながらも、独自の発展を遂げ、関西地域におけるジャズの定着を促す結果にもなりました。
◉大正末(1910年代末~20年代前半)の流行歌
1910年代(大正前期)には、中山晋平作曲の「カチューシャの唄」を起点に日本の近代流行歌の歩みが開始されましたが、当時はまだ書生節演歌の全盛期でもあり、中山晋平による流行歌は街頭演歌師らによって広められて流行していたという側面がありました。壮士節を起源とする街頭演歌・書生節は、元来語り物の要素が強かったものの、神長瞭月によるヴァイオリンの導入以降、次第に西洋音階の旋律も採り入れられるようになっていました。
この時代に影響力のあった演歌師・添田啞蟬坊の息子、添田知道(芸名・さつき)は、1918年に「東京節」を発表します。この曲は壮士節や書生節に特有の擬音的な歌詞から通称「パイノパイノパイ」としても知られます。東京の地名や風刺的な表現をのせたコミックソングとして大流行した楽曲です。
実はこの曲の旋律はヘンリー・クレイ・ワークが作曲したアメリカの愛国歌「ジョージア行進曲」が原曲であり、ある程度親しまれていた西洋の旋律に、書生節として歌詞を載せて広められた楽曲の代表例だといえます。
「東京節」は、映画館での披露や街頭での実演を通じて絶大な人気を集めました。日本では原曲よりも「パイノパイノパイ」での知名度が高くなったため、ブラスバンドがジョージア行進曲を演奏したところ「卑俗な歌を演奏するとはいかがなものか」と苦情が来たというエピソードもあるほどです。
「パイノパイノパイ」の大流行につれて新たな歌詞が求められ、第一次世界大戦の戦勝気分を背景として添田が改詩した「平和節」も1919年に発表されています。
さて、劇中歌として数々の流行歌が生まれる土壌となった芸術座の解散以降も、中山晋平は流行歌を数多く作曲し続けていきます。(前回触れたように、彼は同時に童謡の創作にも精力的に取り組んでおり、代表例としては「シャボン玉」「てるてる坊主」などが有名です。)
1921年には中山晋平作曲・野口雨情作詞による「枯れすすき」という楽曲が発表されました(先行して1919年に楽譜が出版されていたとの説も)。この楽曲は出版当初は大きな注目を集めるに至らなかったものの、演歌師の実演を通じて徐々に知られるようになり、1922年末には「船頭小唄」と改題されてレコード録音され、複数のレコード会社が同じ歌を別の歌手で録音する「競作盤」の形となり、1923年頃に大流行しました。
「船頭小唄」は中山晋平が得意としたヨナ抜き短音階を基調としており、「カチューシャの唄」のヨナ抜き長音階と並んで、昭和歌謡曲の原形として重要な楽曲に位置づきます。また、この楽曲が流行した直後に関東大震災が発生したため、かなり暗い曲調と虚無的な歌詞も相まって「震災を予言した歌」と語られることもありました。役人の中には「国民がこのような頽廃的な歌に心を奪われたために天罰が下ったのだ」などと流行歌と震災を結びつけて中傷する者までいたといいます。
この歌の流行を受けて、「船頭小唄」はなんと映画化されることにもなりました。1920年代の流行歌は、しばしば流行した楽曲を題材として映画化され、「映画小唄」としてさらなる流行に繋がる、というパターンが多くみられます(のちの時代に映画のために楽曲が書かれる「タイタップ」式とは異なる流れです)。
「船頭小唄」は様々な演歌師によってもレコードに吹き込まれましたが、中でも街頭演歌師として随一の評判を得ていた鳥取春陽によるレコードは注目されました。
鳥取春陽は添田啞然坊・知道親子との出会いを契機に演歌師として音楽のキャリアをスタートさせていましたが、作曲技法も独学で身に付け、西洋音楽の技法も採り入れた独自のスタイルを築いていきました。
1922年の鳥取春陽作曲「籠の鳥」は、明らかに「船頭小唄」の影響がみられる楽曲で、「船頭小唄」に続く新しい流行歌として流行しました。この楽曲は大阪の町角から火が付き、関東大震災を挟んで全国で大流行。子どもから大人まで口ずさむ社会現象となり、1924年にレコード化されます。こちらも「船頭小唄」と同じく様々な会社による競作となり、大阪の日東蓄音器、京都のオリエントレコード、兵庫の東亜蓄音器、奈良の帝国蓄音器商会、東京の東京蓄音器がこの曲を発売。この楽曲もまた、同年には帝国キネマによる制作で映画化もされました。
このような楽曲を筆頭として数々の流行歌が生まれるようになったわけですが、この段階ではまだ、次に記述するようなラジオ放送やレコードの大量生産が始まる直前の時代であり、楽曲が広まるメディアの役割を果たしていたのは相変わらず演歌師でした。ところが、このあとメディア状況が一変すると、演歌師の街頭実演の文化は廃れていくことになります。
関東大震災で被災した春陽は、書生節レコードの吹き込みで東京と大阪を往復する機会が多くなっていたこともあり、本拠地を大阪に移しました。「籠の鳥」の影響で、春陽と組んで商業的な介入を目論む人も増え、そういった連中から身をかわす意図もあったといいます。そして1926年、春陽はオリエントレコードと専属契約を結び、日本初のレコード会社専属作曲家となったのでした。鳥取春陽は、流行歌の覇権が街頭演歌師からレコード流行歌へと移行する過渡期を象徴する人物であるといえます。
同時期はまた、ダンスホールの流行も相まって、「ジャズ」と銘打ったレコードも目に付き出します。この時期に登場した代表的な日本のジャズシンガーとしては、浅草オペラ出身の二村定一がいます。この時期の日本の流行歌はレコード上の分類名では「流行小唄」などとされましたが、世間ではすべて「ジャズ」とみなされました。1925年~26年にかけて発売された以下の主な流行歌も一般的にはすべて「ジャズ」と認識されていました。
1925年
・映画小唄『青春悲曲/初恋の唄』(葉山百合子)
・新小唄『銀座雀/旅は遥かよ』(巽京子)
1926年
・新作小唄『花嫁人形/銀の小箱』(柴田秀子)
・新小唄『相馬街動/赤い酒』(山口錦子)
・小唄『銀座雀/安政小唄』(明石須磨子)
・叙情小唄『桜草/君を偲びて』(桂環)
・流行小唄『山寺の和尚さん/春の宵』(二村定一)
・新小唄『清き誓ひ/破れし胸の壺』(園鶴子、糸井光弥)
・新流行歌『君恋し/枯れ枯れ』(高井ルビー、二村定一)
・流行歌『近江情話/すみれの唄』(松尾清)
・叙情小唄『河畔の夕/母をたずねて』(桂環)
◉メディア状況の変化と昭和初期の流行歌
1920年、アメリカでラジオ放送が開始しました。その波紋はただちにヨーロッパへも広がり、1921年にはフランス、1922年にはイギリス、スイス、ソ連、1923年にはドイツ、ベルギーというように続いていきました。日本でも1924年に試験放送が成功し、1925年に日本で初めてのラジオ本放送が東京放送局(JOAK)によって開始されました。続いて名古屋放送局、大阪放送局がこれに続き、この3局を解散統合する形で政府が主導して1926年、「社団法人日本放送協会(NHK)」が発足しました。
NHKの初代洋楽部部長には、大正期に浅草オペラと並んで西洋歌曲の世界をリードしていたセノオ楽譜の妹尾幸陽が就任しました。ラジオを通じて西洋音楽文化がより普及していくことへの期待を込めた人事だったといえるでしょう。
当初、ラジオ放送の登場はレコード業界にとって大きな脅威と見なされていました。放送で音楽が聴けるようになってしまうことで、レコードの売上が落ちるのではないかと危惧されたのです。しかし実際には、ラジオ放送は宣伝媒体として機能し、特に西洋クラシック音楽の分野においてはレコードの売上が飛躍的に伸びる結果となりました。
さて、少し前までの日本では「全国的に共通して人々が口ずさむ歌」という文化は確立されていませんでした。地域ごとに民謡は持っていたものの、かつて岩倉使節団がアメリカでの愛国歌の大合唱に驚いたように、日本人は全国的に共通の歌を歌うということはありませんでした。明治期には「官」からのアプローチとしては唱歌教育が推し進められましたが、「民」の側では都々逸や端唄、壮士節などが「みんなが口ずさめる歌」としての先駆的な例と位置付けることができます。その一世代のち、大正期には「カチューシャの唄」が歌われるようになり、さらにその後「枯れすすき(船頭小唄)」や「籠の鳥」を歌うようになった、という流れが、ラジオの登場以前における流行歌史だったわけです。
そうした流れにある中で、1926年の年末、大正天皇が崩御しました。同年が昭和元年とされるため、わずか数日間だけで新年を迎えることとなり、1927年は早くも「昭和二年」となりました。このとき朝日新聞社は奉悼歌の楽譜を二百万枚印刷し、全国の学校や団体に無料配布する一方で、開始したばかりのラジオ放送の電波も早速使って歌唱指導も行い、その楽曲はレコードにも吹き込まれました。天皇の崩御を悼んで、何百万という数えきれないほどの大勢の国民が同じ歌を口にするという現象は、今までの歴史に無いことでした。かつての岩倉使節団や伊澤修二が目指したように、日本人はようやく、平易な歌なら西洋音階を口を揃えて合唱できるまでに調教されたのです。
こうして追悼の空気を経たのち、翌1928年11月4日~27日の期間には、昭和天皇即位の大礼記念番組も放送されました。この年には7ヶ所の放送局が開局して全国に放送網が広がっており、それを大々的に活用して放送されたラジオ番組でした。その中でも、昭和天皇即位礼の儀が行われた11月10日当日に放送された『奉祝児童歌劇 国の光』という児童向け歌劇が、当時の音楽状況を窺い知るのに興味深い点があります。
この作品では、日本の古代から昭和までの各時代を第一場から第五場に分けて表現されたのですが、第四場「明治維新(近代篇)」から第五場の「昭和(現代篇)」に移る際に、「えゝお目が止まれば千客様拍子木の音、同時にごく近代的な軽快なジャズが起る」という口上が入ってジャズの曲とともに場面が昭和に移るのです。さらに、歌劇の最後には「ジヤズの味を加へた爽快な行進曲に、奉祝の雑音が交じつてもれ上るやうに響く」とジャズの奏楽から「君が代」に移る構成になっていたのです。これは戦時中では考えられない展開でしょう。国家が積極的に関わるNHKの放送において、しかも即位の儀式が行われた当日にジャズの音楽が放送されたというほど、ジャズはこの時代を象徴する音楽となっていたのであり、かつ児童の興味を引くものであるとも考えられていたのです。
さて、ラジオ放送の開始に引き続いて、この時期にレコードをめぐる状況を一変させる出来事となったのが、外資系レコード会社の本格的な日本進出です。1927年に日本ビクターが設立され、続いてコロムビアやポリドールといった大手も続々と参入。これらの外資系レコード会社は東京に録音・制作の拠点を置き、既存の国内中小会社を吸収していったのでした。
アメリカでは1925年にマイクロフォンを用いた電気録音が始まっていました。それ以前のレコードでは実は録音に電気は使われておらず、ラッパ式の蓄音器に直接吹き込む、アコースティック録音と呼ばれる方式しかありませんでした。そこにマイク録音の技術が導入されたことにより、音質は飛躍的に向上。日本に進出してきた外資系レコード会社は、こうした電気録音技術も同時に日本に持ち込んだのです。これによって、スタジオ収録を中心とした中央集権型の音楽制作体制が成立し、流行歌をめぐる状況は一変していきます。
この転機を象徴する楽曲となったのが、1928年に発売された「波浮の港」です。この楽曲はもともと大正末に中山晋平によって作曲されていたものですが、初の電気録音盤として東京音楽学校卒の佐藤千夜子や藤原義江といったクラシック歌手によって吹き込まれ、それぞれ日本ビクターから発売され、たった数ヶ月で(2種計)10万枚を売り上げる大ヒットとなったのです。
この楽曲はクラシック歌曲の系譜を持ちながら「新民謡」という分類もなされました。特定地域を題材としつつも、そこに直接的な民俗性や方言は用いられておらず、民謡的要素を都市的感性に移し替えたものが「新民謡」として、昭和レコード流行歌の一ジャンルに位置づけられるようになります。
また、この作品の大ヒットにより、レコード会社は「すでに流行している楽曲の収録」から「流行させるための楽曲の収録」へと、発想を切り替えていくことになりました。
それまでのレコードでは、流行した既存楽曲のみならず、寄席や芝居、映画・大道芸などといった、別の文脈で人気のあった演目までも多く録音されていました。レコード会社は少数生産の地場産業的な性格が強く、現在の意味の「音楽」に限らない浪花節や義太夫などの「語り物」をはじめとする雑多な「音文化」が「記録」されていたのです。ところが、外資系レコード会社の参入と電気録音技術の導入によって、すでに知られているものを後追いで録音・記録するだけでなく、会社が音楽を流行らせるために独占的に企画・制作し、全国的に販売するというビジネス形態へとシフトしていくことになり、音楽文化は商業的な産業構造に囲い込まれたのです。それは、いわば「レコード流行歌」という新たな音楽体制の始まりとなりました。
そこでの流行歌の雛形は「ジャズ・ソング」でした。「ジャズ・ソング」とは、同時期にアメリカで流行していたアメリカン・ポップスを筆頭として、タンゴ、ルンバ、シャンソン、ハワイアンなどあらゆる舶来のポピュラー音楽を指し、日本語でもカバーされて歌われるダンス歌謡でした。「ジャズ・ソング」で人気を博したのが、先ほども紹介した二村定一です。アメリカでは初のトーキー映画『ジャズ・シンガー(1927)』に出演したヴォードビル芸人のアル・ジョンソンが脚光を浴びており、そのようなイメージのジャズ・シンガーが日本では二村定一だったのです。
「波浮の港」と同じ1928年、アメリカ曲の日本語版である「青空」と「アラビヤの唄」が二村定一や天野喜久代といった歌手によって吹き込まれ、ダンスホールやカフェーでヒットし始めます。こうした洋楽翻案ものによって、「モダンな音楽」として「ジャズ・ソング」のジャンル的認知が進んでいきました。また、街頭演歌のジャズアレンジ版である「ストトン節」「月は無情」なども歌われました。
「ジャズ・ソング」のレコードが登場したころ、関西ではダンスホールと「道頓堀ジャズ」が隆盛を誇っていました。それまでに東京でもジャズを愛好する人々は居たものの、その主要な担い手は、高価な楽器・楽譜・レコードを潤沢に買い揃えられ自宅でメンバーを集めて練習できるような裕福な大学生であり、客を踊らせるというよりも研究・練習と仲間内の演奏会が中心でした。しかし、外資系レコード会社による「ジャズ・ソング」の録音が始まると、大阪の叩き上げプロ楽士と、東京のブルジョア大学生愛好家の文脈が交差したのです。「青空」や「アラビヤの唄」の録音のために編成されたジャズバンドは、大阪の叩き上げ楽士と東京のブルジョア大学生の混成でした。編曲は井田一郎が担い、初期レコード流行歌におけるジャズバンドのアレンジのパイオニアとなります。
こうして、これらの形式と曲調を踏まえて1929年には「君恋し」が制作され、これが国産のジャズ・ソングとして初のヒットとなりました。
「ジャズ・ソング」の大流行に関連した事項としては、フランスからシャンソンが輸入されたのもこの時期である点も挙げられます。先鞭をつけたのが宝塚少女歌劇団で、シャンソンを多数採り入れたレヴュー『モン・パリ』(1927)や『パリゼット』(1930)を上演して評判を呼びました。次いで、『巴里の屋根の下』『巴里祭』といったフランス映画の主題歌もヒットし、シャンソンは国民の間に広まったのでした。世界の状況としても初期の映画界はアメリカよりもフランスが力を持っていたといえるほどで、その影響が反映された形であるともいえます。
こうした流行と並行して、1928年には「道頓堀行進曲」という楽曲が注目を集めていました。これは大阪の映画館での幕間歌として人気となりレコード化されたものです。服部良一が「道頓堀ジャズ」と呼んだほどの大阪でのダンスホール文化・モダン文化の隆盛の勢いを感じる、活力溢れる一曲です。
同作のヒットをきっかけに、日本中で「〇〇行進曲」という語が流行語化していきます。新聞の見出し語には「不良少年行進曲」「婦人洋装行進曲」「シネマ行進曲」「文壇行進曲」「財界行進曲」などという表現が並ぶ始末で、「行進曲」という言葉そのものが都市のモダン文化を象徴するキャッチフレーズとして機能し始めたのです。
そうなるともちろん、レコードのタイトルにも多用されていきます。たとえば「巴里行進曲」「銀座行進曲」「モガモボ行進曲」「新銀座行進曲」「淡海行進曲」「千日前行進曲」「黎明行進曲」といったネーミングの製品が続出したのでした。
この系譜の中で、個人的に特に興味深い楽曲があります。ドヴォルザークに師事したアメリカンオペレッタの作家 ルドルフ・フリムルによるオペレッタ作品『放浪の王者(1925)』の中に登場する「バガボンドの唄(Song of the Vagabonds)」という楽曲です。この楽曲もまた、最先端のポップスとして日本に輸入され、日本語歌詞が付けられ、「蒲田行進曲」という題名で発表されたのです。
クラシカルなオペラとして聴こうと思えばそう聴こえるし、近代的なアメリカンポップス・ジャズと聴こうと思えばそう聴こえるし、昭和臭が漂う田舎臭い歌謡曲として聴こうと思えばそう聴こえる、というところが非常に興味深いと思います。クラシックの系譜であり、アメリカンポップスであり、昭和の歌謡曲であるという、当時の国内外の音楽状況や音楽ジャンルの分岐点を俯瞰で考える上で非常に興味深い示唆を与えてくれるように感じます。
さて、この「行進曲」ブームに便乗し、菊池寛は小説「東京行進曲」を連載し始めます。そして、この小説が映画化されることとなり、それに伴って1929年に同名のレコードが作られたのでした。作詞は西條八十、作曲は中山晋平という鉄壁の布陣であり、歌唱は「波浮の港」で注目を浴びた佐藤千夜子が吹き込みました。この楽曲はいわば映画用のタイアップ曲という形で作られた最初の例となり、これが爆発的なヒットを記録します。楽曲のヒットには日活による宣伝戦略も深く関わっており、カフェーやバーへレコードが無料配布されるなどの映画用のプロモーションによって楽曲も広く浸透していくという、映画・レコード・ラジオの三媒体を巻き込んだ横断的なヒットとなったのでした。
1929年は、「流行小唄の洪水」とまでいわれるほどの「異常なる」年で、「東京行進曲」の歴史的ヒットはその象徴となりました。それとともに、同曲に対する批判も噴出してしまいます。1929年6月15日に予定されていた二村定一による「東京行進曲」の歌唱放送は、その前日である6月14日、ラジオの監督官庁である東京逓信局によって突然中止されてしまいました。理由は「歌詞が不穏当であり、道徳・風紀上悪影響を及ぼす可能性がある」というものでした。
この事件を皮切りに、放送や新聞紙上で同曲に対する激しい批判が加速します。読売新聞では特集が組まれ一大論争になりました。音楽評論家の伊庭孝は「民衆の趣味の堕落」「日本の新民謡はイタリアに比べてあまりにも下劣」とまで指摘。永井荷風も「歌詞の拙劣なるは言ふに及ばず、広い東京恋故せまいといふが如きもののみなり」と冷ややかに評しています。報知新聞では「我が子の不良化を如何にして防ぐか」というキャンペーンを展開し、「街頭だけでなく家庭内にまで入り込んできた流行小唄を真先に追放せよ!」と叫びました。
そして、流行歌旋風を目の敵にしていたのは、何といっても教育界でした。「浮薄極まる映画小唄やジャズ式流行唄が、純真なるべき児童の性情を傷つけ、青年男女を毒する」「最近における学生の思想の悪化が、情操教育上至大の関係を有する芸術的科目、殊に唱歌科を軽視して来ったことに一つの原因を見出し得る」というふうに批判され、文部省は「歌の検察官」を全国に派遣しようと目論みます。東京音楽学校は全国音楽教育大会を開催し、「低劣な音楽を純真な学生から一掃し、音楽浄化」に乗り出しました。翌1930年には唱歌編纂委員会が設けられ、国定教科書の改訂作業を始められます。東京市でも「正しい音楽」の推進に乗り出し、各地の小学校でも、小唄追放が決意されていきました。このようなほど、教育界は流行歌に対して危機感を抱いたのです。
「東京行進曲」の歴史的ヒットを嚆矢として、レコード会社では、既存曲の収録ではなく、「レコードで販売するための新作曲制作」という制作指針が明確化していきました。こうしてこの時期から始まった新たな楽曲生産方法の最大の特徴として、レコード会社専属制度の成立が挙げられます。大手レコード会社は、作詞家・作曲家や歌手を自社の専属作家として契約し、音楽制作と流通の工程をすべて自社内で完結させるようになったのです。一人の歌手が特定のレコード会社に所属し、同じくその会社に所属する作詞家・作曲家から提供された楽曲を録音し発表するという形式が取られていくにつれて、作家は「先生」、歌手は「弟子」といった上下関係も形成され、「師弟制」のような文化も帯びるようになりました。
新たな音楽産業形態が確立されていくにつれて、街頭や路地裏で歌本販売のために実演を行っていた従来の書生節・演歌は急速に廃れていくことになりました。鳥取春陽など一部の演歌師は、レコード会社と契約して専属作家へと転身し、ジャズ風のアレンジを取り入れて変化を試みたものの、旧来の街頭演歌の文化は急速に姿を消していったのです。
このタイミングで「本来の演歌」が廃れ、「外国資本による専属制度などの新しい創作体制」「西洋歌曲やジャズの流れを汲んだ近代的意識に基づく洋風楽曲」「舶来の文化イメージ」という「レコード流行歌」が新しい音楽文化として確立し隆盛を誇っていたという事実は、大いに注目すべきことではないでしょうか。しかし、現在多くの人が戦前の音楽史については興味関心が乏しく、戦前は「舶来」とは程遠い、国粋主義的・伝統邦楽的な音楽しか無かった、という大きな誤認が広がってしまっていると感じます。
それどころか、「演歌」を廃れさせた存在であるはずのこの時期の舶来的な「レコード流行歌」の特徴が、現在では “日本的” で “保守的” な「演歌」の特徴の一要素として認識されてしまっているという側面も指摘できます。「演歌」という語義に「ねじれ」が発生してしまっているのです。
ここから先、現在に至るまで日本の音楽史では、先進的に取り入れた洋楽のスタイルが古くなると「日本的なダサいもの」だとされ、新たにその時代の西洋で流行しているスタイルを「洋楽的な模範」として受容する。そのスタイルが古くなるとまたそれが「日本的」と読み替えられ、その時代の新しい洋楽を模範として受容する、というサイクルを幾度となく繰り返します。
よくある音楽批評や議論の問題設定として、「邦楽は洋楽に追いつけるか」「海外のスタイルに対して日本の音楽がいかに遅れているか」という観点が典型的な枠組みとなっていると思いますが、どんなに洋楽をいち早く吸収したところでそれが古くなれば「日本的」と読み替えられてしまうあいだは「いたちごっこ」であり、日本の音楽が洋楽に追いつくというのは原理的に不可能でしょう。「演歌」の語の意味の変遷は、そうした構造を最もよく表している一例です。
「日本的」であること自体が「後進的」であるという意味として強固に結びついてしまったがために、逆説的に「後進的」なものはすなわち「日本的」である、という逆向き矢印の定義までもが成立してしまい、長年信じ込まれてきてしまったわけです。しかし、冷静に考えれば、その逆向き矢印は本来論理的には成立していないことがわかるはずです。
さらに、そもそも「日本の文化が後進的で、西洋の文化が先進的である」という枠組み自体が19世紀末~20世紀初頭の帝国主義による植民地侵略的な考え方の名残であり、現代ではその前提そのものも疑わなければなりません。
近世まで「伝統邦楽」という西洋と全く異なる音楽秩序にあった日本は、「黒船来航」「明治維新」を経て、伊澤修二や明治政府が目論んだ「洋楽受容」「西洋音階への音感の挿げ替え」を急進的に推し進め、大正期~昭和初頭には既に驚異的な早さでそれを達成してしまったのです。しかし、それに気が付かないまま、実際の音楽に関係なく「日本の音楽は遅れている」「洋楽に追いつかなければ」という観念のみが呪いのように残り続け、昭和期全体の音楽批評の永遠のテーマとなってしまったのだともいえます。
現代に生きる我々は「邦楽は洋楽に追いつけるか」などという不条理な問いそのものが批評の出発点として果たして妥当なのかを再考し、脱却する必要があるでしょう。そのためにも、クラシックとポピュラーの双方を含んだ西洋音楽史、そして伝統邦楽から令和最新までを含んだ日本音楽史を、幅広い視点で把握し、丁寧に比較検討していくことが重要なのではないでしょうか。
◉国内クラシック音楽の歩み
モダニズム文化と「ジャズ・ソング」が世を席捲していった1920年代ですが、その一方で「西洋芸術音楽=クラシック音楽」の系譜もまだまだ見逃せません。特に1920年代は、日本でのクラシック音楽が制度的にも文化的にも「正統な音楽」としての地位を確立していく過程にありました。
明治末期から国内西洋芸術の啓蒙に尽力していた山田耕筰は、1910年代の東京フィルハーモニー会の瓦解後も、訪米やオペラ上演を経て再び国内での常設オーケストラを作ることを目指していました。
「まずは本場のオーケストラを呼んで世間の注目をオーケストラに集めよう」と、当時東洋一の実力を謳われていたハルビンの東支鉄道交響楽団を招くことを考え、招聘話はかなりの部分まで進んだようでしたが、関東大震災であえなく頓挫してしまいます。
翌1924年に山田は日本交響楽協会をとりあえず設立しましたが、楽譜などのインフラ整備はまだまだでした。そこで、かつて山田耕筰に作曲を学んでおり、ヨーロッパ留学から大量の楽譜とともに帰国したばかりの近衛秀麿の協力を得ることとなり、好転への兆しが見え始めます。「機は熟した」として1925年、大震災で断念した東支鉄道交響楽団の招聘に再び着手し、「日露交歓交響管弦楽演奏会」を見事成功させたのでした。
これを助走として、協会は1926年1月に最初の定期演奏会を開き、6月まで12回の演奏会を開きますが、金銭問題のトラブルなどによって近衛が突如、協会の退会を宣言。近衛を支持する楽員44名とともに、近衛派による新交響楽団が設立されました。秀麿は同楽団の常任指揮者となり、放送が開始されたばかりのJOAKと契約。この新交響楽団が、のちのNHK交響楽団(N響)となります。
ラジオ放送の開始は、先ほど書いた通りクラシックレコードの売上促進に効力を発揮しました。このようにラジオ放送界は、流行歌よりも芸術音楽や教育音楽との結び付きを強めていったと言えます。(その傾向はまさに「東京行進曲」の放送中止事件にも表れていたといえるでしょう。)
ベートーヴェンの9つの交響曲が輸入盤で揃い始め、日本人奏者によるクラシック演奏も増加していきました。「レコード芸術」という言葉が出現し、レコードの音質面などにおいて、その芸術性の是非も議論されることとなっていきました。
このようにクラシック芸術はファン層を着実に拡大し、「バッハやベートーヴェンのレコードは世界の中で日本が一番多く売れる」とまで言われる状況になったのでした。ただ、ブランド趣味の感覚であった聴取者も多く、付け焼刃の時代でもあったとされます。特に東京市民はピアノのある文化生活に憧れ、レコードの好みが浪花節から西洋音楽へと変わったといいます。都会で働く独身女性へのインタビューでも、「浪花節、漫才、落語等、きらひといふ一語で片付けられるわ。」「浪花節が一番好きだなんて人とは、絶対に結婚したくないわね。」と、野卑な日本の芸能よりも欧米の輸入文化に傾倒する風潮が形作られていたのでした。
さて、近衛派が離脱してしまった山田耕作のもとには、4人ほどしか残りませんでした。山田の経歴から見るに、彼は指揮者としての実力やクラシック音楽への情熱は人一倍のものを持っていましたが、オーケストラの運営者としては、近衛のカリスマ性と比べて乗り越えられない壁があったのではないか、とも指摘されています。しかし、山田が1910年代~1920年代に蒔いた種が広まったことで、国内にクラシック芸術音楽の文化がこの時期にようやく広がりつつあったことは事実です。
1928年、京都で昭和天皇即位大礼式が行われました。15年前の前回、大正天皇の即位式には参加できなかったクラシック組も今回は見事参入に成功し、近衛秀麿作曲の「大礼交声曲」が自身の指揮によってこの儀式の中で披露されました。国内クラシック界の繁栄を示す、象徴的な出来事となったのでした。
大正童謡運動期より一回り下の世代において、この時期の芸術音楽界でようやく「作曲家」を志す者が増えてきます。クラシック芸術音楽の作曲実践としては、1910年代はほとんど山田の一人舞台といえる状況だったのに対し、1920年代には近衛のように山田以外の実践例も現れ始めたのです。
山田耕作や中山晋平と同世代である信時潔は、ドイツ留学を経て1922年に帰国後、母校・東京音楽学校の教授に任ぜられ、チェロと作曲を教えるようになり、山田耕作とともに同校の芸術音楽教育の中心人物となりました。さらに、山田や信時よりも次の世代も台頭してきます。彼らもまた、主にドイツやフランスに留学して作曲を学びました。池内友次郎、諸井三郎、平尾貴四男、菅原明朗らが代表例です。
さて今回の記事で触れてきたこの時代は、世界でも、第一次世界大戦後の音楽状況として幅広いポピュラー音楽が花開く一方でクラシック音楽史もまだ「終わって」おらず、両者が現役でクロスオーバーしていた唯一の時代だといえるでしょう。
ただ、この時期の世界のクラシック音楽の潮流としては、19世紀に栄えた「ロマン派」が一直線的な進化論史観において既に「否定されるべき古いもの」となってしまい、従来の音楽理論システムを逸脱した実験的な「現代音楽」こそが到達すべき正義である、というふうに、極端な進歩主義の過激化が始まってしまった時期でもあるのです。
よく勘違いされがちなのですが、芸術音楽界から見ると、当時のポピュラー音楽は「19世紀ロマン派の域を出ない稚拙で“新しくない”音楽」だから軽蔑されたという方向性であって、「保守的」な芸術音楽界が「新しい」ポピュラー音楽を否定した、ということでは決してありません。クラシックを「古いもの」、ポピュラーを「新しいもの」と規定してしまうと、クラシックの美学感覚とズレてしまい、その価値差別の本質を理解することは難しくなってしまいます。
ただ、当時の日本は、そもそも音楽の前提のシステムが全く異なるゼロ地点から西洋音楽を丸ごと移植し、その模範となる「ドイツ古典派・ロマン派」を中心とした芸術音楽がようやく根付き始めたばかり、という段階でした。
スタート地点が異なるところから、驚異的なスピードで異文化の“芸術” を身に付けたものの、かつての目標に辿り着いてみると、既にそれは「古いもの」になってしまっていた。「西洋」への道のりはまだまだ遠い。日本はいつまで経っても「遅れて」いる。そのようないたちごっこの構図が、むしろここで強調されてしまったのではないでしょうか。
しかも、進歩的な「芸術」とは真逆の、原始的で卑俗な「ジャズ」や「ポップス」などというものが世を席捲してしまっている。現在進行系のクラシック芸術を志す進歩主義者からしたら、なんと悩ましい、もどかしい思いだったことでしょう。
このような流れによって、国内の「クラシック界」は現地西洋にも増して大衆文化を見下すエリート主義的な傾向がエスカレートし、同時に邦楽を蔑視して “本場” ヨーロッパを聖典視する自虐的・卑屈な視点が定着してしまったものだと思われます。
また、この観点を理解することで、戦時中の統制についてもある程度解像度を高く捉えていくことができるはずです。
一般的には、戦時中は敵国「西洋」の文化を全般的に規制して「日本的」な文化を奨励した、というイメージで想像してしまいがちですが、音楽に関していえば、行列の行進も、臨時ニュースで流される音楽も、演奏されていたのは西洋の楽器編成によるものであり、野卑で享楽的な「邦楽」はむしろ不謹慎なものとされる傾向がありました。戦時中の政府の政策は、日本精神を強調していながら、日本音楽ではなく西洋音楽を促進していたのです。
これは、19世紀後半~20世紀前半の「クラシック/ポピュラー」「洋楽/邦楽」「ジャズ・オペレッタ・流行歌/芸術音楽界」などといった構図が俯瞰で整理できていなければ、なかなかに不思議な現象に見えることでしょう。
こういった視点も念頭に置きながら、この先の音楽史も引き続き見ていければと思います。
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