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【日本音楽史】⑩19世紀末~20世紀初頭「世紀転換期」の混沌(明治時代中期)

日本の音楽史を古代から令和まで概観していくシリーズです。
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■参考文献リストはこちら 

過去には西洋音楽史編(クラシック史+ポピュラー史)もまとめておりますので、そちらも是非チェックお願いします。

●クラシック史とポピュラー史を繋げた図解年表 (PDF配布)
●分野別音楽史
●メタ音楽史


【概観 日本音楽史】 
ここまでの記事 ↓
 まえがき
 ①古代~上代
 ②平安時代~鎌倉時代
 ③室町・戦国・安土桃山
 ④17世紀前半~中盤(江戸時代初期)
 ⑤17世紀後半~18世紀初頭(元禄時代の周辺)
 
⑥18世紀(享保期 ~ 宝暦・天明文化)
 ⑦19世紀前半(化政文化~天保期・幕末にかけて)
 ⑧黒船来航と西洋音楽
 
⑨明治政府の洋楽導入大作戦!(明治時代前半)
 <今回>⑩19世紀末~20世紀初頭「世紀転換期」の混沌(明治時代中期)


この記事シリーズでは常に複数の書籍の情報を統合して再構成し記述しているため、そのソースについては全体として一括で上記の参考文献一覧の記事でご確認いただきたいのですが、特に今回の記事内容は、竹中亨『明治のワーグナー・ブーム:近代日本の音楽移転』(2016)にて詳しく議論されている内容を中心に参照しています。



◉俗曲改良事業と鹿鳴館外交


「文明国標準」という用語があります。一定の条件を満たした国が「文明国」とされ、それによって初めて国際社会の仲間入りが認められるという、国際法上での評価基準のことです。

その背景には、社会学の分野で提唱された「人類の文明というものは生物の進化と同じように、未開・野蛮な呪術社会から科学的な先進社会へと一方向的に発展していく普遍的原理がある」という社会進化論思想があり、この歴史観はダーウィンの進化論の派生のような形で知識人たちの常識となっていました。

このような社会進化論思想を根拠にして正当化されていた「文明国標準」の具体的な判断基準としては、“法治主義” や “人権” などの法的な分野、または経済体制や社会制度の整備状況など、さまざまな基準がありましたが、その中で、人々の “規範” や “慣行” といった文化面「文明的かどうか」も重要な条件の一つでした。

ただ、ここで「文明」とは「西洋」のことにほかなりません。つまり、西洋文化に準じた国内体制を備えていない社会は「文明国」とはみなされず、国際法上の国家としての主体性を否定されてしまうのです。欧米諸国からみて異なる文化や社会制度をそなえた国々は、それだけで「野蛮・未発達」な「不完全主権国」だとみなされてしまいました。「西洋の価値観にどれだけ近いか」で国の格が決まる。19世紀の欧米諸国は、こんな一方的な胸糞基準によって、非西洋各国への植民地化侵略や、日本に対する不平等条約の締結をも正当化させていたのです。

西洋文化と非西洋文化のあいだに本来優劣はありません。というか、文化の間に優劣をつける行為自体がおかしい話なのです。しかし、たとえ文明国標準が一方的な西洋基準であっても、圧力を受けてこれから「文明化」を目指さなければならない側にとってはその是非を考える余地はありませんでした。それが19世紀末の帝国主義社会の非道な現実であり、不平等条約改正を目指す日本は必然的に西洋の価値基準に沿うしかなかったのです。

その意味で、明治政府は日本国民に一刻も早く「近代文化」を身に付けて「進歩」してもらわなければ困ることなのでした。国民の文化や慣習が「未発達」なままでは、外交時に自分たちがまともな国として認めてもらえず、不平等条約の改正が叶わないどころか西洋諸国に植民地化侵略されてしまうという危機感すらあったのでしょう。

文部省所属の音楽研究機関として設置された音楽取調掛おんがくとりしらべがかりでも、国内向けの教育事業だけではなく、欧米向けの広報活動も多かったのでした。音楽取調掛の長となった伊澤修二は「西洋の音階と日本の音階との間にほとんど差異はなく、日本の旋法はギリシャ旋法とほぼ同一である。しかもこれは偶然ではない。東西両洋の音楽はインドを以て共同の起源として発展したものだからだ。」という理屈を強く主張しています。「洋楽と根っこは同じ」とすることで「日本は元来、西洋と同等の“文明性” を持つ」というふうにアピールしたかったのだと考えられます。

伊澤は東西の音階の差異を考える際、それは根本から異質なものではなく「音楽の進度に起因するもの」だとしました。伊澤修二という人物は、その功績から肯定的にも否定的にも「(独創的/独善的な考えによって)日本の音楽を “否定” して西洋音楽を “植え付けた” 人物」として語られることが多いですが、本来の伊澤の思想は単なる「西洋の移植」ではなく、あくまで「(西洋の基準に対応するための)日本文化の“矯正”」「文明的な “国楽” の確立」という目標がありました。伊澤はモーツァルトやベートーヴェンを日本に根付かせたいと考えていたわけではなく、洋楽をそれ自体として享受すべきものとも捉えていませんでした。そうではなく、全人類が持つ “文明” や “音楽”という普遍的概念の枠組みの中でその最先端に位置する「西洋近代」に向かって一直線的に日本の音楽も「自然な発達」を遂げるべきだ、と信じていたのです。

このような音楽進化論の立場からは、「音楽」が民族や文化によって異なるということは理解できない話でした。そうした前提での「国楽」構想は、「和」と「洋」の両者を対等のものとして扱うことはありえず、あくまでも洋楽を普遍的な前提としたうえで、邦楽をそのレベルまで持ち上げよう、ということなのです。この発想の上で取り組まれたのが「俗曲改良」事業でした。

俗曲改良は、音楽教育の研究と並行して音楽取調掛が手掛けようとしていたものです。明治政府は当時の邦楽について、雅楽などの正しく律された「和楽」と、それ以外の庶民らによる「俗曲」とに分け、「俗曲」は無学な輩の手に委ねられた、文明開化への障害になる卑しい“淫楽” であると見做みなしました。日本の音楽文化に「国楽」を確立するためには、この「俗曲」を改良する必要があると考えたのです。

まず伝統的な邦楽曲を調査研究し、それらをすべて五線譜に採譜すべきものとしました。ここでまず五線譜に記された地点で、すべての音が西洋音階にクオンタイズされてしまい、日本の在来音楽に特徴的な音の震えや揺らぎは雑音として切り捨てられ、平均律に合わない音程は修正されてしまったといえます。「語り物」の性格が強い楽曲に至っては「音楽にあらず」として埒外でした。次に、こうして人為的に歪められた旋律に西洋の和声を付けます。こうした和声は日本の音楽には本来存在していないため、趣がまるっきり異なったものになります。そして最後に、その「改良」の済んだ曲目を大きな楽堂で披露するのです。もともとはお座敷向きの密やかな調べだったものが、ステージで多数相手に立派に披露されました。つまり俗曲改良とは、在来音楽を洋楽の異質な座標系に無理矢理押し込める行為だったのです。

音楽取調掛は、俗曲のなかでもまだ「害の少ない」と考えられた箏曲から改良に取りかかりました。しかし、人工的に改良された邦楽はやはり不自然なもので、やがて顧みられなくなり、目標であった「国楽」の新作は実現できませんでした。

このような音楽取調掛での取り組み・研究はあくまで、「西洋音楽輸入の推奨」ではなく、逆に西洋音楽の直輸入で日本音楽が抹殺されてしまうことを危惧して、日本の音楽は決して卑しいものではないと胸を張って言えるようになるための矯正が目的であった、と考えるほうが当時の意図としては正確です。


文明国標準を満たす国家になるための外交努力は、欧化政策を具現化させた代表的な建物として有名な鹿鳴館ろくめいかんにも表れています。1883年に竣工した鹿鳴館は、西洋人の外交官や賓客を接待し、日本が決して野蛮な国ではなく、立派なを持った国であることを西洋人に示す場でした。不平等条約改正を悲願とした井上かおるの意向によるもので、今日でいうロビー交渉の場として必要としたものでもありました。

そこでは、華やかな園遊会、舞踏会、仮装会、慈善会などが連日連夜のように催され、華やかな社交の場が確立されました。こうした洋風趣味の影響は政府関係者など上流階級にたちまち蔓延。鹿鳴館式舞踏会の風は政府高官の私邸にまで及び、音楽隊の需要も高まりました。こうした舞踏会で演奏を担ったのが、軍楽隊と宮内省雅楽部の伶人たちでした。

また、ここで開催された演奏会が、(実用的演奏ではなく聴衆を対象とした)日本初の「洋楽演奏会」だと言えます。1886年に行われた、伊澤修二を中心としたサークル「日本音楽会」の発表会がその始まりで、軍楽隊、伶人、音楽取調掛の有志たちがステージに立ちました。ただしそのプログラムは、クラシックだけでなく箏曲なども取り入れられた、和洋混在のものでした。ここからも、単なる洋楽移植では無い「国楽」への意欲は伺えます。

ただ一般的には、鹿鳴館での取り組みは「鹿鳴館時代」と呼ばれて欧化政策の象徴になり、このような “西洋かぶれ” の上流階級の姿が世論の批判の的にもなって顰蹙ひんしゅくを買ってしまいました。外国のマスメディアでも「さる真似まね」と揶揄されてしまいます。条約改正も失敗に終わり、井上馨が失脚すると、鹿鳴館欧化主義も衰退せざるをえず、1889年に文部大臣森有禮もりありのりが暗殺されたことで決定的に終焉へと向かうことに。無用の産物と化した鹿鳴館は1894年にとうとう払い下げとなりました。

しかしながら、鹿鳴館時代の舞踏会や演奏会での洋楽の演奏機会は、上流階級の中で一定の人々の洋楽の関心を集めることには成功し、その後の洋楽普及に関してある程度の影響は及ぼしたといえそうです。



◉東京音楽学校の誕生


1887年、音楽取調掛は東京音楽学校(現在の東京藝術大学)へと改組され、伊澤修二がそのまま初代校長に就任しました。一見すると単なる看板の掛け替えのようにも見えますが、組織・課程・人員など各面にわたって大幅な改変が加えられており、ほとんど「再出発」に等しいものでした。

ピアノやヴァイオリン重視のカリキュラムとなり、ディトリヒをはじめとしたより本格的な芸術音楽家のお雇い外国人教師の招聘、そして「文部省派遣留学生」の開始などの新機軸が打ち出され、それまでの「国楽」という考えに従った和洋混在の方針から一気に洋楽重視の比重が増します。

また、音楽取調掛時代は国民教育のための音楽という考えが主眼だったのに対し、東京音楽学校になると音楽そのものを芸術として追及しようとする姿勢が明確になったといえます。もし単に唱歌を教える教師を育てることが目的であれば、わざわざ一流の音楽教師を招いたり学生を留学させたりする必要はありません。つまり「音楽のための音楽」という観点があってこその取り組みだったのでした。校内の空気としても芸術を追求する姿勢が強まり、師範科を見下す「教育音楽蔑視」の風潮も広がっていきました。

この時期の伊澤を見ると、一見、露骨な欧化主義への転化のように見えます。しかし、伊澤は特段、“方針転換”をしたつもりではありませんでした。伊澤はもとから自然科学の学理によって音楽を捉えようとしていて、「科学的な基礎」がある西洋音楽は客観的合理性・普遍妥当性を持った音楽だと信じていたわけです。上述した進化論的歴史観を前提として探求を進めている限り、特にこの時代の西洋で“学問”として頂点に君臨していた「クラシック芸術」が到達すべき目標として重視されるようになるのはある種、時間の問題で、当然の成り行きでした。

特に19世紀半ば以降のヨーロッパ大陸では、従来のイタリアやフランスの「貴族的娯楽」の傾向に対抗する形でドイツ語圏での「真面目で崇高な芸術の学問的探求」の論調が楽壇で激化していました。ドイツ音楽史における「バッハ→ベートーヴェン→ワーグナー」「バロック→古典派→ロマン派」という一方的な発展史観は、まさに当時流行の社会進化論思想と合致する「科学的な真理」として定着していたのです。

さらにプロイセンドイツが普仏戦争でフランスに勝利したことも相まって、この時期のドイツ圏の文化的優位は最高潮に達していました。こうした状況から、日本が明治以降導入した文物の中でも「Musik(音楽)」,「Medizin(医学)」,「Militar(軍隊)」の3つがドイツの影響の色濃い「3M」として挙げられ、特にクラシック芸術音楽はその代表格としてドイツ偏重の傾向が顕著になっていました。

(ただし、伊澤をはじめとして幕末~明治初期の使節団たちがアメリカから学んでいたことからもわかる通り、当時の西洋文化の直接的な輸入先は実はアメリカでした。ドイツ音楽は直接ドイツからもたらされたのではなく、英語文化圏 ―― 特にアメリカを経由して日本に入ってきたのです。

19世紀末のアメリカにおける芸術音楽界も、ドイツの強い影響下にありました。日本の洋楽導入に大きく関わったメーソンは、来日以前からアメリカの音楽教育家として有名でしたが、彼が日本に持ち込んだのが、現在でも日本のピアノ教室の基礎教材として鎮座しているドイツの『バイエル』です。メーソンの教育方針はドイツに強く根ざしており、ドイツの音楽教科書を積極的に活用しました。さらに彼の個人蔵書の中にも数百冊におよぶドイツの歌集が含まれていたといいます。

決して音楽の分野に限らず、そもそも当時西洋一般からの知識移転のパイプとして大きな役割を果たしていたのが英語でした。そのため、ドイツ文化の影響を詳しく検討する際には、ドイツからアメリカ、アメリカから日本、という二重のルートを踏まえて考える必要があります。)


人々になかなか受け入れられない「洋楽」を日本で展開させていくにあたり、音楽留学を経験した生徒らの存在は重要になってきます。唱歌教育が混乱していながらも少しずつ定着しつつあり、そのネイティブ世代として洋楽を学習してその才能を開花させて台頭していった、日本国内の洋楽文化を担う第一世代の登場です。

「第1回文部省派遣留学生」に選ばれたのは、音楽取調掛の第1回卒業生となった幸田のぶという女性でした。兄には千島探検で有名な郡司成忠しげただと小説家の幸田はん、弟には歴史学者の幸田成友しげともという著名人兄弟であり、同じく洋楽に進んだ妹の安藤幸とともに日本における本格的西洋音楽家の草分けとなった人物です。

音楽取調掛時代にメーソンが合唱指導で学校を回っていた中で彼女の才能を見出し、音楽の専門教育を受けさせるように家族にも助言。小学校を卒業した幸田はそのまま音楽取調掛へと進学し、伝習人となりました。入学式で幸田を含めて22名いた伝習人は中途退学者が相次ぎ、卒業時には僅か3名のみになっていたといいます。卒業後は母校の研究科に在籍しつつ、お雇い外国人の助手となりました。「東京音楽学校」への改組後、赴任したディトリヒもまた彼女の楽才に驚き、海外留学を熱心に進めました。そして大日本帝国憲法が発布された1889年、ディトリヒからの推薦をもとに幸田が派遣留学生に選ばれたのでした。

彼女はアメリカ・ボストンのニューイングランド音楽院で1年間、そしてその後オーストリアのウィーン楽友協会音楽院に入学し、1895年までの5年間、“本場” の西洋芸術音楽を学びました。帰国後は、ディトリヒの後任として東京音楽学校の助教授に就任し、1899年には教授へ昇格、のちに首席教授となりました。彼女は同校で、この後日本のクラシック界を担うことになる多数の人物を育成しました。

ただ、幸田が第1回の派遣留学生として音楽留学したあと、実は少しのあいだ幸田のあとに続いて派遣される者はおらず、空白期間があります。1891年、つまり東京音楽学校への改組後すぐのタイミングで、国費節減と関連して帝国議会で同校の存廃論議が早くも起こっており、その結果1893年に東京音楽学校は高等師範学校の付属校へと降格してしまったのです。

当時の政界では藩閥政府の第二次伊藤内閣と野党の自由党が予算をめぐって激しく争い、予算削減の方針が強まっていました。音楽学校降格はそのあおりを受けてのことだったのですが、それはもともと同校に対して冷ややかな眼差しがあったためでもあり、音楽学校の存廃をめぐる論争が発生したこと自体がその表れでした。

伊澤らには「“不健全” な邦楽を “文明的音楽” である西洋音楽のレベルまで引き上げねばならない」という使命感があったとしても、国としては本来洋楽は国民教育のためのものであり、芸術志向は国家の意図する範疇から外れたものだったのです。

付属校への降格は音楽学校の体面を大いに損ない、芸術路線から離れて唱歌教育路線へと教育音楽の枠組みの中に再びはめ込まれ、運営方針の見直しが迫られます。この影響により、芸術音楽観の現れであった外国人教師と留学生の派遣が見直しの対象になってしまいました。ディトリヒの退職以降人事は迷走し、再独立まで不在が続きます。また留学生も幸田延以降、再独立までのあいだ誰も派遣されませんでした。

結局、伊澤を中心とした関係者の熱心な働きかけによって、同校は1899年に再独立を果たしますが、それまでの間、「西洋芸術音楽」の振興には大きなブレーキがかかってしまう要因となってしまいました。日清戦争後になっても日本の西洋音楽は「軍楽隊」と「唱歌」のみ、という状態。校内にいくら芸術志向の空気が蔓延はびこっていたとしても、社会にクラシック演奏の需要が存在しないため、この時期の同校の実態は教員養成機関として機能していたのでした。

そうした逆風を経てひとまず再独立を果たした東京音楽学校では、外国人教師としてケーベルユンケルが招聘されます。ケーベルはドイツの古典派・ロマン派を非常に重視しました。またユンケルからはドイツ人人脈が急速に広がり、若手教師のロイテル、ショルツ、ヴェルグマイスターらも指導で活躍しました。ディトリヒを先駆けとしつつも、実質的には空白期間を挟んでケーベルやユンケル以降が、東京音楽学校でのドイツ的楽風が急速に濃くなった時期だといえます。ドイツ音楽を基礎とした西洋音楽の学習が着々と進んでいった一方で、当時新しい音楽として台頭してきたフォーレ、サン=サーンス、ドビュッシー、ラヴェルなどのフランス音楽は参照の対象外になってしまっていました。

現在でも学校の音楽室にバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといったドイツ人作曲家の肖像画ばかりが掲げられて崇拝するよう誘導されるように、日本のクラシック音楽界では現在に至るまで長らく「ドイツ音楽」が正統見做みなされていますが、その背景には当noteの今までの記事でたびたび解説してきたような世界情勢的な要因もありつつも、日本での直接的な起点はここにあるといえます。

ともあれ、留学生派遣も無事再開され、重要人物が続々と輩出されていきます。まず幸田延の実妹である安藤幸が再開後第一号の留学生となりました。つづいて、瀧廉太郎、島崎赤太郎と続きます。さらにその後に続いた人物には、神戸かんべ絢子山田耕作らが主だった留学生として挙げられます。

彼ら彼女らの取り組みが、日本での(唱歌教材ではなく)西洋クラシックの秩序に基づく作曲実践の直接的な始まりとなったのでした。幸田延がウィーン音楽院時代の1895年に作曲し1897年に東京で披露された「ヴァイオリンソナタ第1番変ホ長調」が日本人による初のクラシック音楽作品とされます。つづいて瀧廉太郎が、シューベルトの影響が見られる歌曲を次々と作曲していきました。瀧もまた、典型的なドイツ偏重指向の音楽家です。

「花」「荒城の月」などのたくさんの有名曲が1900年~1901年の間に作曲されています。瀧は幸田姉妹に続く3人目の派遣留学生として1901年にドイツへ向かうも、僅か5ヶ月後に肺結核を発病し、やむなく帰国。1903年、23歳の若さで亡くなってしまいました。


ところで、日本の当時の人々にとって西洋の文物はスキャンダラスなイメージともしばしば結びついており、「洋楽」も恋愛と結びつけられて考えられることが多かったのでした。東京音楽学校は男女共学が認められていた唯一の官立学校であり、男女の区別にかまびすしかった当時、男女が堂々と同室し、しかも合唱などを互いに協力して学ぶ、ということが世間のゴシップ的想像力を刺激したのです。音楽学校に対して、教員や学生の男女間の「醜関係」の噂が絶えず、風紀に関する非難が止まりませんでした。

また幸田延は、明治の大衆紙『日本』が日本で2番目の高額所得女性として挙げるほどの出世ぶりで、高収入への批判、女性差別、妬みも重なり、新聞などからの激しい誹謗中傷がエスカレートしてしまい、徐々に表舞台から遠ざかって暗い晩年を過ごしました。他の留学生たちも皆、同じような偏見・批判的視線に苦しんだことだと考えられます。



◉音感の摩擦と知識人のワーグナーブーム


西洋芸術音楽に取り組む日本人音楽家の萌芽がようやく見られるようになっても、それは東京音楽学校というごくごく狭いコミュニティの動きに過ぎず、世間一般においては洋楽受容は依然として非常に困難な状況が続いているままでした。

しかし一方で、洋楽などの西洋的事物に取り組むことは、ある種の人々にとって有用感を抱かせることへも繋がりました。文化面での成功が社会的な上昇、いわゆる「立身出世」への道と結びつき、洋楽は特に音楽教師という道が約束された決して悪くない就職口でもあったのです。一念発起して「学」を志す対象として洋楽が結びつき、芸術的興味ではなく、立身出世の手段として東京音楽学校が注目されたという側面もありました。そして、国際社会の発展のためであれ、自身の将来のためであれ、洋楽には一種の「義務感」が伴われるようになっていきます。


日本の伝統邦楽と西洋音楽の響きは、その美的価値云々以前の段階で、そもそも “記号の体系” 自体が異なっているため、仮にその音楽に最高級の芸術的価値が伴っていたとしても、所持している体系が異なる者同士がその響きを享受することは相当に困難な話です。よく言われる「優れた芸術は国境を越えて感動する」というのは、無自覚的であってもその前提に共通の「体系(音感)」を有している者同士でないとありえないわけです。

西洋音楽の響きは、伝来した当時の日本人にとって全くもって奇怪かつ珍妙に感じられるものでした。

岩倉使節団が派遣されるよりも前 ―― 幕末期にも既に日本は何度かにわたって外国に使節団を派遣していますが、その記録では、夜会での社交ダンスを鑑賞して「男女が跳ね回っているだけで何が面白いのかわからないし、ただうるさいだけだ」と感じたり、また、とあるアメリカ人の家庭に招待され、その家の主人が娘にピアノと歌を披露させた際には「夜中の犬の遠吠えにしか聞こえない。歌い方も苦しげで、すべてが滑稽で笑いを堪えるのに一苦労だった」というエピソードがあります。

明治に入ってからも、1879年にイギリスのオペラ団が東京で歌舞伎との合同公演を行った際、オペラシンガーについて「洋犬の吠えるよう」「ニワトリの絞め殺されるような声」だとして大不評だったことは有名です。こうした反応は、身分の上下を問わず当時の日本人に広く見られました。これは文明開化期の都市部での出来事ですが、地方においては新来文化に対する違和感が東京よりもさらに長く残ったのも無理のない話で、たとえば1911年に東京音楽学校の外国人教師ペツォルトとピアニストの神戸絢子が新潟県で演奏会を行った際には、「クスクス果てはワアッハと中には腹を抱へて笑ひ出すもある」という有様だったといいます。演奏者は二人とも十分な実力を持っていたにもかかわらず、です。

逆に西洋人もまた、日本の音楽に対して強い拒否感を覚えました。しかも、音楽以外の面では東洋趣味であっても、です。

日本の美を愛するオーストリア生まれの東洋研究家アドルフ・フィッシャーは、箏や三味線の響きに耳をふさぎ、また謡曲を聴いて「われわれヨーロッパ人の神経を苦しめるこうしたすすり泣き、喉音、吼え声は、そもそも音楽と言えるだろうか。」「私が現地で聞いたすべての異国音楽の中で、日本の音楽ほどわたしに苦痛を与えたものはなかった。」と書き残しています。医者のエルヴィン・フォン・ベルツも随一の親日家だったにもかかわらず、芸者の唄は「ネズミの鳴くような不快な声」にしか聞こえず、三味線に至っては「これはいったい音楽なのか」と疑問を呈さずにはいられませんでした。お雇い外国人として来日したプロイセン貴族のモールは、雅楽を耳にして「ハーモニーと音階のすべてが絶叫する不協和音であり、それが耳を圧するのみ」と聞こえたようです。

ドイツ人だけではありません。幕末の外交官アーネスト・サトウは日本語に堪能で日本事情に精通していましたが、日本音楽は「十中八九調子はずれ」「鑑賞に堪えない」と断じました。明治初期に女性ながら日本を単身探訪し、日本の事物に積極的な関心を寄せていたイザベラ・バードも謡曲を聴き、「苦悶の叫び声、蛮風の精髄ともいうべき響きでしかなかった」と評しました。

彼らは決して嫌日家ではなく、むしろ根っからの親日家がほとんどでした。また、彼らの興味が芸術の次元に及ばなかったのかというとそうではなく、伝統建築や美術工芸などの美的洗練には称賛を惜しまなかったし、当時ヨーロッパにはジャポニズムも流行していたのです。それでもなお、日本の音楽に対しては強い違和感を示したのです。

このように、異なる文化圏の音楽に対する聴覚的な抵抗感というのは、人間にとって相当なものであり、その耳を別の音感へと調教していくことはかなりの無理難題だったといえます。

江戸時代以来の在来音楽文化に親しんできた日本人にとって、西洋音楽は極めて異質で、生理的な拒否感すら引き起こしかねないものであったにもかかわらず、近代化を最重要課題とする明治日本にとって洋楽の導入は不可避の要請であり、これは非常に厄介な問題でした。耐え難い不快感をどのようにして耐え、嫌悪感を抱く自らをいかに洋楽に向かわせるか。その解決策の一つが、「手段視」するという発想でした。

つまり、他の重要な目標を達成するための手段が洋楽であると位置付ければ、その嫌悪感は吞み込めるどころか、むしろ不快さに堪えるその献身自体が尊いものとなっていく、という心理機制が働いたのではないかと考えられます。結果として洋楽の学習には一種の義務感がともなわれ、好き嫌いを超えて刻苦勉励すべきものというイメージが形成されていきました。洋楽を志すにあたり、遊戯や娯楽と捉えることは言語道断であり、享楽的な姿勢ではなく、真摯かつ厳格な態度が求められるようになっていったのです。

洋楽はこうして一種の公的な責務と認識されました。選り好みは許されず、嫌悪感を棚に上げて任務に従事するという自己犠牲奉仕の証となったのです。

洋楽が「公」だとすれば、邦楽は「私」的な空間に閉じ込められていきました。当時の日本社会において「公」と「私」の境界が「洋」と「和」の境界と重なるという現象はしばしば見られました。たとえば衣服の場合、政府関係者や教員らがいち早く洋服を採用し、公権力のイメージと結びつきました。続いて銀行員や会社員など一般の勤め人にも洋装が広がりましたが、洋服の普及は公的な空間に限られたものだったのでした。家庭などの「私的」な生活空間では、明治になっても長いあいだ、依然として和服の着用が主流であり続けていたのです。つまり、昼間は職場で洋服を着て働き、夜は着物に着替えて自宅でくつろぐ、という公私と和洋の使い分けがなされていたのでした。

音楽の場合もこうした衣服と同じような使い分けがあったと考えられます。洋楽を志す者は、昼間は洋服をまとい、聴覚的な違和感をこらえてモーツァルトやベートーヴェンに責務として向き合い、夕刻になると私的空間で和服を着て、邦楽によって日中のストレスを和らげたのです。


世紀転換期のあたりになると、明治維新直後に比べれば洋楽はかなり広がってきたと言うことはできるかもしれません。たとえば、夏目漱石は洋楽にそれほど通じていたわけではありませんでしたが、彼の小説にはヴァイオリンがしばしば登場します。これは、日本の生活にある程度洋楽器が定着していたということでしょう。特にヴァイオリンは女学生の間で人気を呼んでいましたが、楽器としてよりもハイカラな装いの一部として、いわばファッション小物のような流行にもなっていたのです。ピアノもまた、上流家庭における一種の「嫁入り道具」としての位置づけがなされるようになっていきます。

しかしこれはあくまでも東京の富裕層に限られた現象でした。「東京中心」という地域的偏りはかなり顕著で、農村では学校の唱歌のみが唯一の洋楽、という状況も普通であり、唱歌の授業すらないところもありました。また、東京であっても洋楽に関心を示していたのは富裕層や知識人ばかりであり、社会階層の差によって洋楽の広がりはかなりの遅延を伴っていたのです。洋楽の大衆的な広がりはこのあと大正時代になってからであり、明治の世の中では多くの庶民にとって「音楽」とは相変わらず端唄義太夫節などの三味線音楽だったのでした。一方、知識人階級からすると、これらの在来音楽を猥雑な「俗曲」として蔑む視線がなかなか払拭されませんでした。音楽文化は階層別にはっきりと分断されてしまったのです。

それでは富裕層や知識人の側では洋楽を手放しに歓迎できたのかというと、もちろんそうではなく、上述した通り、洋楽という「文明の響き」を受け入れる必要性を頭では十分わかっているつもりでも、どうにも気持ちがついていかないという者は少なくなかったのです。当時の評論や匿名の投書で、「あれほどヒステリー的な居心地の悪い音楽に対してひたすら行儀よく拝聴している聴衆はみみ盲者めくらだ」などという怒りの声まで挙がるほどでした。


そうした状況の中、知識人のあいだに突如として「ワーグナーブーム」が巻き起こります。島崎藤村、上田敏、永井荷風、石川啄木、北原白秋、島村抱月など、名だたる文学者らが皆、ワーグナーに熱中するようになったのです。

このブームはある種、奇妙な現象でした。当時、ワーグナーの楽劇は規模的に日本で上演不可能だったからです。ワーグナーの音楽を知らずしてワーグナーに心酔したのが、明治のワーグナーブームの実際でした。1人や2人なら変わり者の気まぐれとでも言えますが、ブームは論壇に蔓延していました。そこには「(ある種の社会的目的のための)手段」「教養としての洋楽」という、当時の日本の知識人の洋楽との関わり方が関係していました。

19世紀後半にドイツの楽壇で活躍したワーグナーは、一作曲家という範疇を超えて文学界、思想界、政治にまで大きな影響を与えた歴史上の重要人物で、ワグネリアンと呼ばれる狂信的な崇拝者まで生み出していました。ワーグナーは自身の芸術を哲学的思索と結びつけ、多くの論評を発信するなど、極めて思想性の強い人物であり、この姿勢がショーペンハウアーやニーチェといった哲学者との交流・影響関係をも生み出しました。

ワーグナーはロマン派オペラを長大化・拡張した「楽劇」を創始し、単なる音楽を超えた「総合芸術」を目指しました。これがクラシック音楽の長大化、複雑化、ドイツ的進歩主義を加速させることになります。1876年にはバイロイトに自分の劇場を建築し、自身の作品だけを上演するための「バイロイト音楽祭」を開始して、これはなんと現代まで続いています。

1883年に69歳で没するまでドイツ芸術音楽を革新していったワーグナーは、明治のインテリ達にとって流行の最先端を行く西洋のトップランナーだったのでした。

日本の論壇でのワーグナーの話題の初出としては、1895年には議論が興っていたとみられます。幸田延がウィーン留学から帰国した直後、森鷗外と西洋音楽について語り合っているのです。後に森鴎外はそのようすを「西楽と幸田氏と」というエッセイとしてまとめて発表しています。森鴎外はシンフォニーの訳語として「交響楽、交響曲」という語を作った人物でもあり、文学者として西洋の芸術や演劇に対する評論も多く行っています。森鴎外の音楽的知識は同時代のドイツ美学と音楽書から活字によって得られたもので、かなり専門的で深い部分まで筋の通った議論を可能としていました。

そして、ワーグナーブームのより直接的な発端となったのは、1902年に姉崎あねざき嘲風ちょうふうが雑誌『太陽』に寄稿した論文の発表にありました。姉崎にはもともと(当時の日本人には当然のことですが)、洋楽との接点がほとんどありませんでした。洋楽体験といえば「蛍の光」などの唱歌を学校で習った程度に過ぎません。そんな姉崎が、留学先の世紀末ベルリンで、ニーチェやショーペンハウアーの思想・論評を通じてワーグナーの芸術と出会い、急速に傾倒していったのです。

好みや感性は人それぞれなため一概に断言できませんが、姉崎よりもはるかに洋楽に近い環境で育った人でさえワーグナーの音楽に没入することは容易ではなかったことを考えると、姉崎はワーグナーの音楽面について聴覚的感興をそそっていたかは疑わしいと言わざるを得ません。彼が心動かされたのは、ワーグナーの作曲そのものではなく、台本や文学性、思想といった「活字情報」の側面に魅せられたのではないかと考えられます。

ワーグナーの楽劇を実際に日本で上演することは技術的にも文化的にも極めて困難だった状況下で、僅かな外遊経験者以外は皆、活字によってワーグナーを体験していきました。モーツァルトやブラームスではなくワーグナーである理由もそこにあり、ワーグナーには膨大な書物から接近することができるという特性があったからだといえます。

ワーグナーは作曲と並行して膨大な量の著作を遺しており、音楽論に始まり、芸術・歴史・社会哲学、さらには詩に至るまで、その執筆活動は実に多岐にわたっていました。加えて、ワーグナーの周囲には多くの熱烈な支持者が集い、まるで思想的なサロンのような場を形成していました。そこでは師の芸術や思想について尽きることのない議論が交わされ、さまざまな刊行物も発行されていました。また、当時最先端の哲学者であったニーチェによるワーグナー論の存在も非常に大きいものでした。こうした豊富なテキスト資料の存在が、明治期の西洋的教養を志向する日本人知識層にとって、ワーグナー信奉への道標となっていったのです。

実は、ドイツだけでなくヨーロッパ各国、さらにアメリカにおいてもインテリらによるこのようなワーグナー熱が大々的なブームを呼んでおり、各国の知識人たちは明治日本と同じように、音楽に内在する聴覚的な価値ではなく、文学的・社会批判的・哲学的な探究という思想的次元での観念先行で、ワーグナーへの関心を深めていたのでした。こうした知識人の社会運動の中にはなんと、マーラーやフーゴー・ヴォルフといった末期ロマン派の作曲家も加わっていたといいます。

世界でのこのようなインテリ運動にならい、連動する形で、日本のインテリ達はワグネリアンになっていったのです。明治期の「ワーグナーブーム」は、音楽嗜好の流行ではなく、近代日本における「知識人の教養形成」の一環として理解すべき文化運動だったのでした。書物を通じて教養として受容され、その知識に基づいて欲望されていった「西洋芸術音楽受容」のアプローチは、「野卑な“俗曲”のように “幼稚な耳” でただ聴くこととは異なる勉学的な辛抱強さ」が求められる高次元の知的行為 =「鑑賞」という概念の出現に繋がっていくことになりました。




◉洋楽演奏会の普及努力


先述のとおり、国内外から嘲笑された鹿鳴館での舞踏会や演奏会から日本の洋楽演奏会の歴史は始まりましたが、東京音楽学校創立後には同校での定期演奏会も行われるようになりました。しかし、当然ながら客は全く入らず、上野では演奏会当日に観客を呼び込むための客引きが行われていたほどで、来てくれた客には学校側から菓子折りまで渡されたといいます。演奏会に来た者も音楽を聴きに来たというより、物珍しさから「見物」しにきただけという人ばかりで、耳の楽しみというふうにはなっていませんでした。

演目の面でも悪戦苦闘していたようで、多数の出演者による入れ替わり立ち替わりの構成がとられ、器楽の独奏や合奏、声楽の独唱や合唱など、雑多な小品の寄せ集めで披露されていました。出演者の技量や人材も十分ではなく、本格的な長編作品を演奏できる余裕がなかったため、難易度の低い楽章の抜粋という形がよくとられていました。もちろんそれは聴衆への配慮でもありました。

観客に退屈させない工夫として洋楽と邦楽が入り混じる構成もよく見られ、しかも第一部と第二部というふうに分けるのでもなく、一曲ごとに交互に提供されるほどの混淆具合でした。さらには、落語家・三遊亭円朝による高座や、薙刀なぎなたの実演試合までもが演目に加えられた例もあったほどです。洋楽が続くと観客が途中退場してしまうことへの対策であり、いかに洋楽が人々の耳に障るものだったかわかります。

こうした状況に風穴を空けたのは、1905年から始まった陸海両軍の軍楽隊による野外演奏会でした。同年7月、日比谷公園に野外音楽堂が竣工(現在のいわゆる「野音」ではなく、日比谷門側の噴水近くの小音楽堂のほう)。この場所が一応、東京音楽学校内のホールを除いて公的には初めての、「初めから演奏会用に作られた建物」となります。ここで8月1日に早速最初の音楽会が陸軍軍楽隊の演奏によって開催され、日露戦争の戦勝(ポーツマス条約締結の約ひと月前)に沸き立つ多くの市民が観客として訪れて熱狂したといいます。ここから陸・海軍楽隊が隔週交互に公演し、観覧料も無料ということで広く市民が楽しめる娯楽として歓迎されるようになったのでした。演奏者たちも晴れの舞台とばかりに、懸命に技術を競いました。その後に大阪など軍楽隊が駐屯する地方都市にまで拡大し、こうした盛況が民間吹奏楽の裾野を広げるための土壌となったといえます。

民間吹奏楽は、軍楽隊の退役者による市中音楽隊の広がりがその中心となります。市中音楽隊は、1886年に編成された東京市中音楽会を嚆矢として都市部を中心に結成されるようになっており、それまで軍楽隊が対応するしかなかった民間の開業式や祝賀会・運動会などの出張演奏の代替として活動を広げていました。

日清戦争~日露戦争の頃にかけてはこのような民間の楽隊が大小さまざまに増加し、街中で演奏しながら広告宣伝を行うようにもなります。退役軍人を中心としたこのような職業的な演奏団体の営業活動によって、一般市民が洋楽の響きを自然と耳にする機会が徐々に増加していきました。市中音楽隊は、公的機関を離れた民間での洋楽実践の新たな潮流のはじまりとなったのです。




◉軍歌の広がりと唱歌教育のその後


「軍楽」が儀礼や行進時に兵士らが規律ある集団行動を行うための「器楽」であり吹奏楽の領域であったのに対して、「軍歌」は国民や兵士の士気高揚のための「うた」であり、どちらかといえば唱歌と重なる領域です。しかしその黎明期は、軍隊・軍楽の分野から発達していました。

日本初の軍歌は、前々回の記事で紹介した戊辰戦争での東征軍の進軍歌「トンヤレ節」であると言うことはできますが、より直接的な起点としては、1880年に君が代とともに海軍の将官礼式曲に選定された「海ゆかば」という楽曲が軍歌の先駆けとされています。とはいえ、これは君が代と同じく雅楽調のゆったりとした旋律でした。

さらにその後、東京大学文学部長や文部大臣を歴任した外山正一が西南戦争を題材にした「抜刀隊」という詩を作り、ルルーが曲を付ける形で、軍歌として成立。さらに1885年には同じく外山正一がさらに好戦的な「皇国の守り」を作詞し、伊澤修二が作曲を担当して、その名も「軍歌」という題名の軍歌も誕生しました。やがて題名は歌い出しから取られて改題された「来たれや来たれ」としても流布し、唱歌としても歌われたり、運動会の入場などでも用いられるようになりました。伊澤が作曲で関わっていることからもわかる通り、唱歌と軍歌は歌い手や題材の違い以外はほとんど同質のものでした。


軍歌は国民の一体感や士気の高揚を目的として官製で一方的に作られるものでしたが、1894年に日清戦争が勃発すると、新聞社が公募するなど、一気に国民規模の広がりを見せ、戦況を伝える戦勝話や兵士の英雄譚などを主題とした楽曲が増加していきました。こうした戦争美談は唱歌に再編されたり、国語や修身の教科書に掲載されたりして、未来の兵士となる子供たちへの教育に活用されました。

音楽取調掛の奮励によって始動した当の唱歌教育ですが、その開始直後は実際に音楽教育を実施できる学校は全国にほとんどありませんでした。まず教員を養成する各府県師範学校で音楽教育が始められ、そこで教育を受けた教員がようやく全国の小学校に着任し始めるのが1890年前後のことです。

もちろんその地点で和声を奏でることのできる伴奏楽器はまだ全く普及していません。唱歌教育に必要とされたオルガンの国内製造は、1880年に西川寅吉が試作を始め、次いで1889年にやま虎楠とらくすが「山葉風琴製造所」を設立して量産体制を準備しました。山葉風琴製造所自体は1891年に出資引き揚げにより解散してしまいますが、続いて「山葉楽器製造所」が設立され、1897年に「日本楽器製造株式会社(現ヤマハ)」に改組されました。このように、この時期はまだ楽器自体が普及の準備段階であり、ましてや唱歌伴奏を奏でることのできる教師はおらず、明治の唱歌教育は単音をただ「みんなで声を揃えて歌う」だけでした。

音楽取調掛が東京音楽学校へ再編され、専門教育を充実させていってもなお、毎年十数名程度の卒業生では全国の需要はとても賄いきれません。このような脆弱な唱歌教育体制を補うために、私設の「唱歌講習所」が相次いで東京に設立され、小学校教員に唱歌が伝習されていきました。

明治時代はこのように「官」だけでは至らない部分を「民」が補佐しながら事業が進められるということがしばしばありました。教科書づくりにもそういった側面があり、国の審査に通れば民間の出版社が作った冊子も教科書として認定される教科書検定制度が1886年に導入され、唱歌集もさまざまなものが編まれていきました。前回の記事で追ったように、唱歌教材の始点は伊澤・メーソンらによる翻訳唱歌中心のものでした。そこから、民間からも新作曲を増やした『明治唱歌』や『小学唱歌』などが刊行され、唱歌教育に取り込まれていったのです。

1891年に小山作之助が編纂した『国民唱歌』が刊行されると、その中の「敵は幾萬」が広まりました。この時期は清国の大艦隊が横浜に入港し、あからさまな示威運動を展開して国民は敵愾心を深めていた日清戦争前夜であり、そうした時代潮流とも合致して「敵は幾萬」は明治軍歌の典型的なプロトタイプのような存在となり、ロングヒットしました。


さらに1900年前後になると、納所のうしょ弁次郎べんじろうと田村虎蔵とらぞうが主導した運動によって「言文一致唱歌」が作られるようになります。それまでの唱歌の歌詞は子供たちにとって親しみにくい文語体の堅苦しいものであり、そうではなく、子供に密着した口語体の唱歌を作ろうという運動でした。そこで「金太郎」「うさぎとかめ」などといった童話を素材とした唱歌が作られ、『幼年唱歌』『少年唱歌』などの教材が発行されました。


この時期の唱歌や軍歌でよく用いられたのが、付点8分と16分音符によるハネたリズムのメロディーでした。これが「ぴょんこ節」と呼ばれ、唱歌の典型的なリズムの一つとして定着していきました。「うさぎとかめ」や「敵は幾萬」もその代表例です。これは、日本語の歌詞として七五調が定着し、それを速く歌うようにするとピョンコ節が一番自然で覚えやすくなるからだったという説があります。まさに「ぴょんこ、ぴょんこ」と跳ねるようなリズムが子供たちに親しみやすいだろうということで確立された曲調だったのでした。

さて、1900年前後のこの時期は先述のとおり瀧廉太郎が多くの作曲をしていた時期でもあり、たとえば『幼稚園唱歌』という教材では収録された20曲中17曲が瀧廉太郎作曲によるものだったという例もあります。その中には「お正月」などの現在にまで残る楽曲も入っていました。


さらに同時期には、地理教育を目的とした「鉄道唱歌」も出現し、これが爆発的に流行します。知識の暗記手段としての唱歌に注目が広がり、これによって「歴史唱歌」「散歩唱歌」「電車唱歌」「世界一周唱歌」「英雄唱歌」「九九唱歌」などといった「何でもアリ」の新たな唱歌が乱発されていきました。


教科書検定制度の導入以降、さまざまな民間出版社の教科書が作られるようになりましたが、やがて出版社の売り込み競争が激化してしまい、採択権を持つ審査員と出版社の間で贈賄が行われるようになりました。特に大規模な贈収賄で116人が有罪となった「教科書疑獄事件」が1902年に発覚し、全国で一斉検挙が始まります。翌年6月までの半年間の検挙者は県知事・県書記官・視学官・教員・教科書会社関係者ら157人に達しました。

これを契機に1903年国定教科書制の施行が定まり、1904年から用いられることになりました。唱歌は当初「土地ノ状況ニ依ル」と随意科目であり、国定の指定にはならなかったものの、1908年から必修科目になったため、文部省が主体となって唱歌の国定教科書も作ることになります。同年からはさらに、義務教育が二年延長となり尋常小学校が六年制になったため、文部省は六年制義務教育の一期生となる1904年入学の子供たちの進級に間に合うように編纂を急ぎ、1910年に『尋常小学読本唱歌』と、それを学年別に振り分けた『尋常小学唱歌』が刊行されました。鉄道唱歌を真似たタイプの唱歌の乱発と質の低下を意識したもので、既存曲や外国の曲は一切使用されず、歌の題材は子供の生活に即したものが採用されましたが、これは言文一致唱歌への対抗意識も見られるものとなっていました。このときに教材歌曲として文部省主導で作詞作曲された諸楽曲を「文部省唱歌」といいます。

唱歌の国定教科書使用は1910年~1947年までの37年間で、特に文部省唱歌が原体験となっている世代としては大正期から昭和初期の小学生がこれにあたります。文部省唱歌は多くの楽曲が現在にまで残っており、特に有名なものとしても「紅葉」「春が来た」「虫のこえ」「鳩」「かたつむり」「桃太郎」「雪」「茶摘み」「村祭」「朧月夜」「故郷」など多数があげられるでしょう。

ただ、1912年の調査では、子供たちが最も嫌いと思う教科第一位に「唱歌」が見事ランクインしてしまったほど、やはり責務的で啓蒙的側面の強かった唱歌教育ないし西洋音楽は、まだまだ堅苦しく、垣根の高い存在のままでした。そのような印象ではありながらも、唱歌教育は着実に日本人の耳や声を西洋式に少しずつ慣らしていったといえます。

「敵は幾萬」や「鉄道唱歌」などといった、(端唄や都々逸などの邦楽の「はやり唄」ではない西洋式の)唱歌や軍歌が民間で流行するという現象が起こったことは、同時期の東京音楽学校の音楽家らが意図するようなクラシック芸術文化への理解はさすがに難しくとも、当初の唱歌教育の目論見であった「音感・声の」という点では、ようやく日本人の音感に「ドレミ・・・の西洋音階」が庶民のレベルまで定着し始めたことの現れでもあり、明治初期の伊澤らの努力が結果となって現れ始めたのが世紀転換期のこの時期だったのだといえるでしょう。



◉新たな庶民芸能と邦楽界


度々の繰り返しになりますが、この時期になってもなお、多くの庶民にとって親しみ深い娯楽は、寄席での端唄・都々逸や、歌舞伎・浄瑠璃ルーツの長唄・義太夫などの三味線音楽でした。これらは、日々の暮らしの中で自然と愛好されていた “現在進行形” の庶民文化です。したがって当然、さらに新たな展開や新しい形の庶民芸能も生まれていくことになります。


◆壮士芝居と壮士節(演説歌/演歌)の誕生

1880年代、自由民権運動が勢いを増していました。自由民権運動の中核を成した政社(政治活動を目指す団体)からは「壮士」という活動分子が生まれました。全国的に集会が行われる中で、壮士たちは演説で激しく政治批判を展開していきます。これに対し政府は集会条例によって対抗し、公開演説会を取り締まりの対象としました。しかし運動は過激化し、取り締まりも繰り返されます。そして彼らは活動をカモフラージュして政府や警察による圧力をかわすため、「歌」の形をとるようになったのです。

江戸時代において事件・事故などのニュース速報を伝える瓦版かわらばんに節をつけて街頭で読み上げながら売り歩いた「読売よみうり」のスタイルを真似て、壮士たちは、親しみやすい七五調のリズムで政治主張・政府批判を民衆に広く伝えていきました。このような、演説の一形態としての歌が「演説歌(=演歌)」というのはじまりとなります。

ここで注意すべきなのは、現在われわれがイメージするような歌謡曲の一分野としての昭和演歌とこの地点での明治演歌は別ジャンルだということです。現在耳にする歌謡曲的な昭和演歌のことを「日本の伝統文化」「古き良き日本の心」のように捉えてしまっている人は多いですが、昭和の演歌は第二次世界大戦後に隆盛した比較的新しいジャンルであり「伝統邦楽」ではありません。明治時代にはそれとは異なる「演歌」が存在したのです。

明治の「演説歌(演歌)」の先駆けとなった、壮士たちによる歌は当初、「壮士節」と呼ばれました。最初の壮士節と言われているのは、青年俱楽部という壮士集団による「ダイナマイト節」です。

大道での実演は、歌の歌詞を印刷したビラや冊子、いわゆる「歌本」を売り配る際に、道行く人々の関心を引き、立ち止まらせる手段として用いられました。つまり、このような実演はあくまで芸としての表現ではなく、広く民衆に訴えかけるための「言論活動」の一環として機能していたのでした。

さらに壮士たちは、政府による弾圧をかわしながら民衆への啓蒙と反政府活動の拡散を図る手段として歌だけでなく演劇も活用し始めました。当時まだ「芝居と言えば歌舞伎」だった時代、このような政治色の強い演劇は、「壮士芝居」と呼ばれ、広く知られるようになります。その中心的存在として活躍したのが、川上音二郎でした。

日本国内で自由民権運動が一段と盛り上がる中、朝鮮半島でも民衆の独立を求める動きが高まっていました。こうした状況を受けて、日本と朝鮮の両方で民主主義を実現しようとする構想が一部の活動家の間で生まれます。そして1885年に自由党左派に属していた大井憲太郎らが主導して朝鮮の内政に干渉しようと画策した「大阪事件」が発覚しました。この事件を、川上音二郎の一座は1887年ごろから道化仕立ての芝居として舞台化し、政治風刺と民衆啓蒙を狙った舞台を展開していきました。こうした芝居に当時の新聞や雑誌などが「壮士芝居」と名付けたのでした。

さらに、1886年に発生したノルマントン号事件では、イギリス人船長らが日本人乗客を見捨てたにもかかわらず当時の治外法権に基づく領事裁判によって罪を問われなかったという、イギリス人を著しく優遇した差別的な判決が下されました。この判決は日本国内で不平等条約への怒りを爆発させる契機となり、条約改正を求める国民の声が高まりました。同時に、その当時の鹿鳴館的欧化主義に対しても国民の間で反発が強まりました。このように、政治的不満と社会的不安が高まる中で、川上一座は時の為政者を皮肉り、文明開化がもたらした急速な社会変化や価値観の揺らぎを風刺する内容を盛り込んだ「オッペケペー節」という歌を披露します。


川上一座はこうした演劇や楽曲を携えて、1890年には静岡・横浜・東京・宇都宮などを巡業し、一世を風靡します。意味の伴わない「オッペケペー」という囃子詞や、プロテスト的でアナーキーな歌詞、旋律よりも語り口調に近い特徴的な節回しによって、今ではこの楽曲が「世界最古のラップ」であるとも言われています。

翌1891年、浅草・中村座での公演もきっかけとなって「オッペケペー節」は東京で爆発的な流行を見せました。文明開化の波に翻弄され、政府への不信感を募らせていた庶民から熱烈な支持を受けたのです。そして1900年には、川上一座はフランス・パリで開催された万国博覧会でも公演を行い、フランス政府から勲章も授与されました。

このときのパリで一座は、「オッペケペー節」をはじめ、芝居の台詞、長唄、詩吟などの演目をレコードに録音しています。これらの録音は川上座の座員たちによるもので、残念ながら川上音二郎本人の声は収録されていません。しかしこれが、日本人の声が録音された最古のレコードとされており、貴重な資料となっています。

(また、帰国後の川上一座の動きは、後の項で述べるように演劇面での新たな潮流への源にもなっていきました。)


さらにオッペケペーに影響を受け、「ヤッツケロ節」「愉快節」「欣来きんらい節」など多数のはやり唄が登場し、これらがまとめて「壮士歌」「壮士節」として持て囃されたのでした。自由民権運動とともに流行したこれらのはやり唄ですが、日清戦争や日露戦争の終結とともに退潮していきました。自由民権運動もひと段落し、「演歌」は新たな段階へと変化していくことになります。



◆浪曲(浪花節)の登場

明治期に現れた三味線伴奏による新たな語り物の演芸として、「浪曲(浪花節)」も挙げられます。浪曲は、浄瑠璃や説経節、大道芸などの口承文芸を源流として、様々な芸能が集約される形で成立しました。独特の「節」と「啖呵」によって一つの物語を語り進める話芸であり、一つ30分ほどになります。語り手である「浪曲師」と三味線奏者「曲師」が一体となって物語を構成する点が大きな特徴で、台本は存在するが譜面はなく、浪曲師と曲師の即興性を伴ったやりとりは、ジャズのセッションにも例えられたりします。

浪曲もまた、七五調を基本として演じられ、「泣き」と「笑い」の感情を揺さぶります。義理人情に訴える通俗的な内容が、やはり知識人層からは文明開化を阻害する悪しき「俗曲」のように蔑視されることもありましたが、大衆文化としては大きな支持を得ました。

「浪花節」という別名から関西の芸能のように思われますが、浪曲は関東・関西両地域で発展したものです。明治中期には寄席で演じられるようになり、庶民からの絶大な支持を得ました。さらに、鉄道網の発達やレコードなどの新興メディアを通じて全国的に広がっていきます。

1877年にエジソンによって発明された蓄音器は、明治20年代には日本でも公開され、人々を驚かせました。初期の蓄音器は円筒型でしたが、後に円盤型も発明され、1903年頃には輸入されて、銀座・天賞堂や浅草・三光堂などで売り出されました。明治後期にはレコードへの吹き込みも開始されましたが、最初の頃は洋楽の録音はほとんど無く、長唄・義太夫などの邦楽が圧倒的多数を占めていました。そうしたラインナップの中に浪花節もあり、普及の追い風となったのです。浪曲の普及と定着は、明治期の邦楽・演芸のメディア化を象徴する事例でもあり、伝統芸能と近代メディアの接点として重要な位置を占めています。

浪曲は1906年には新聞の流行語に「浪花節」が挙げられるほどの人気を誇りましたが、一時期の隆盛を経てこの後急速に廃れていくことになってしまいます。しかし、「歌謡浪曲」という形で継承され、こちらも戦後の「昭和演歌」へ繋がっていく要素のうちの一つとなります。



◆歌舞伎・演劇方面の新展開

江戸時代から続く歌舞伎もまた、時代の変化に応じて変容を始めていました。

明治初期においては幕末から続く流れで「江戸歌舞伎最後の隆盛」というべき様相で爛熟期を迎えており、明治維新以降の風俗を世話物として取り入れた散切物ざんぎりものが、河竹黙阿弥の脚本を中心に行われていました。1871年に断髪が奨励され「散切り頭を叩いて見れば、文明開化の音がする」とまで謳われた時代、散切物はそうした時代背景を描写し、洋風の事物を前面に押し出して書かれましたが、構成や演出は従来の世話物の域を出るものではなく、むしろ流行を反映する典型的な「生世話物」の一種でもありました。

そうした中、やはり他の邦楽・俗曲と同じように、歌舞伎もまた「旧弊の象徴」として政府や知識人層からの批判にさらされるようになってしまいます。特に鹿鳴館時代になると、伊藤博文をはじめとする政府高官らは歌舞伎役者に対し、西洋の演劇に倣え、と指導を行いました。つまり、庶民の娯楽から脱却し、要人や西洋人たちに通用する「高尚なもの」に作り変えろ、というわけです。1886年に政治家、経済人、文学者らが「演劇改良会」を結成し、文明国の上流階級が見るにふさわしい演劇を提言します。

こうした時代要請を受けて始められたのが演劇改良運動です。この運動を牽引したのが九代目市川團十郎でした。そもそも歌舞伎とは荒唐無稽な内容や誇張した演技や演出が主流だったはずなのですが、歌舞伎をより高尚な演目にするためにそこを改め、正確な時代考証・史実に基づいた歴史劇を演じるように試みられたのです。これが「活歴物」というジャンルとして呼ばれました。

1887年には、当時外務大臣だった井上馨の邸宅に設けた仮設舞台で明治天皇が観覧する天覧歌舞伎が実現し、これによって歌舞伎の社会的地位は大いに上昇しました。しかし、最大の後援者であった井上馨は条約改正に失敗して1887年9月に失脚。改良会の極端な欧化主義に対して文学者の坪内逍遙、森鴎外等も反対し、改良会は1888年に消滅してしまいます。

上流階級の人々が始めた演劇改良会の主張は急進的で、受け入れられない面が多々ありました。演劇改良会の運動は中途半端なままに終わったと言えますが、改良への動きは様々な影響を残しました。

その成果の一つが、1889年に開場した歌舞伎座の創設です。江戸時代の薄暗く不健康だった歌舞伎小屋から脱するため、洋風建築やガス灯の使用などの劇場環境の改革が行われ、衛生面・安全面を確保した近代的な劇場が目指されたのでした。

散切物や活歴物で活躍したこの時代を代表する俳優たちとして、九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎初代市川左團次の三人が挙げられます。この三人が活躍した明治の歌舞伎界は「團菊左」時代と称され、九代目團十郎と五代目菊五郎が没する1903年まで、名演を競う一時代が築かれました。

また、演劇改良運動に応じた活歴物のような作風に対抗して、坪内逍遥は「新史劇」と呼ばれる歌舞伎作品を発表し、森鴎外も同様の作品を発表します。逍遥以後の歌舞伎は「新歌舞伎」とも言われました。

さて、この時代までは「演劇といえば歌舞伎」でしたが、その一方で上述したように「壮士芝居」などの新たな演劇形態も生まれていました。壮士芝居を牽引した川上音二郎は帰国後、『オセロ』『ハムレット』などの翻訳劇を上演するようになっていました。

「壮士芝居」を基にした動きは、歌舞伎とは異なる新たな現代劇だとして、「旧派」の歌舞伎に対し「新派」と称され、明治中期に隆盛しました。政治色を脱し、演劇としての努力がなされ、近代小説を脚色上演して好評を博しました。

新派は離合集散を繰り返しながら人気を高めていき、歌舞伎の牙城となった歌舞伎座でも興行を行ったり、歌舞伎役者が新派の演目に出演することもありました。歌舞伎が「旧劇」「旧派」であるのに対する呼称として「新派」と呼び分ける言い方も1900年代初めには定着しました。

さらにこのあと、明治後期にはこれと異なる新たな演劇として「新劇」が登場するため、名称が非常にややこしいのですが、壮士芝居ルーツの「新派」は、歌舞伎と新劇の中間に位置する存在であるといえます。



◆女義太夫の熱狂的ブーム

浄瑠璃の人気流派である義太夫節では江戸中期から、女性が義太夫節を語るという例も登場していました。しかし「風紀を乱す」として幕府はたびたび禁止令を出し、女性の演者は寄席から締め出されてしまい、小屋などでの興行で細々と続いていました。天保の改革では36名もの女性が逮捕されたといわれるなど、厳しい弾圧がなされていました。

ところが明治になると、1877年の「寄席取締規則」によって女芸人も再び大っぴらに寄席に出ることができるようになり、再興の兆しが芽生えていきます。若い少女たちが活躍し始め、「女義太夫」「娘義太夫」「女義」などと呼ばれて人気を博します。女義太夫では原則として人形や役者を伴わずに、義太夫節のみが演奏される「素浄瑠璃すじょうるり」で上演されました。

明治期のこの女義太夫というエンタメは、実はその人気のあり方やファンとの関係性、熱狂的なファンの行動規範・文化などが、現代のアイドル文化・オタク文化・ファンカルチャー・推し活文化とほとんど同一のような営みが見られる、アイドル史の源流にも位置付くような現象だったのでした。

特に、娘義太夫の圧倒的エースのようなポジションに上り詰めて圧倒的人気を獲得したのが、竹本綾之助という少女です。彼女は1875年に大阪で生まれ、義太夫三味線の名手であった母から、幼い頃から語りの技芸を徹底的に仕込まれました。そして1887年4月、12歳のときに浅草の寄席で太夫(語り手)としてデビュー。たちまち注目を集め、瞬く間に人気者となります。綾之助の登場は、東京における女義太夫ブームの火付け役となり、その影響力は絶大でした。

彼女は端正な顔立ちと美しい声で特に学生たちの心をつかみ、当時の人気ランキングともいえる「番付表」では「人気大関」として掲載されるなど、まさに今日で言うところの「センター」といえる地位を獲得します。とにかく綾之助の看板さえ掲げれば、どの寄席でも満員になるという具合だったため、東京中の寄席から引っ張りだこになったといいます。こうした逸話の数々が、彼女がどれほど多くの人々を魅了していたかを物語っています。

綾之助は1898年に人気絶頂の中で引退しましたが、その活動期間は12~23歳までの約10年間。これはちょうど現代のアイドルが活躍する時期と重なります。さらに、彼女のファン層の中心も、若い学生たちでした。彼らは、年下や同世代の女義太夫の中から“推し”を見つけ、熱心に応援していました。推しに恋心を抱くことも珍しくなく、ラブレターを送りつけたり、夢中になりすぎて学業をおろそかにし、落第してしまう学生までいたそうです。

そもそも義太夫は、三味線に合わせて語りで物語を紡ぐ芸能であり、一人の太夫がすべての登場人物を語り分けます。「歌・セリフ・ナレーションが一体となった三味線音楽」と説明すればイメージしやすいでしょうか。演目のクライマックス部分である「さわり」では、観客が熱狂する様子が見られましたが、これはまさに、現代のアイドルのライブでファンが歌のサビに盛り上がる光景とよく似ています。

ただし、当時の青年たちが夢中になったのは、語りの技術だけではありませんでした。何より彼らを惹きつけたのは、太夫たちの顔や容姿だったのでした。舞台上で頭を振って熱演する太夫たちの髪が乱れ、頬にかかり、かんざしが落ちる——そんな瞬間に観客たちは熱狂し、最前列のファンはそのかんざしを拾おうと必死になります。かんざしを拾えば、太夫に近づいて返すことができるからです。太夫たちもそれを理解しており、「エロ」「色気」を演出するファンサービスとして、わざとそういった振る舞いをしていたのでした。また、太夫たちはパフォーマンスで目線にまで気を使い、ファンは太夫と目が合った合わないで一喜一憂していました。

雑誌などで娘義太夫が取り上げられる際も、芸についてはあまり触れられず、容姿ばかりが語られました。当時最新のメディアである写真(ブロマイド)も発売され、特に竹本綾之助の写真は発売されると一日で数百枚も売れるほどの圧倒的な人気ぶりでした。購入者の多くは学生たちで、彼女に夢中になっていた彼らの姿は、まるで現代のドルオタのようです。東京の学生たちを夢中にさせた綾之助に対して、「歌舞の菩薩の来迎」などという表現がなされたこともあり、アイドルが宗教的存在に例えられるのも現在と変わりません。

女義太夫にハマったファンたちは、当時「ドースル連」と呼ばれていました。この名前の由来は、義太夫の語る物語が佳境に入ると、観客たちが「ドースル、ドースル」「ヨウヨウ」と合いの手のように掛け声をかけていたことにあります。これらはまさに、現代のアイドルライブで見られる「コール」や「ヲタ芸」と同じような応援スタイルだといえます。中には、義太夫について熱心に勉強するファンもいる反面、各寄席を荒らして騒ぎまわるような迷惑なファンもいたようです。

ドースル連たちは、応援する女義太夫が一日に複数の寄席に出演する際、その移動に合わせて人力車を囲んで文字通り「追っかけ」るということもしており、「追駆連おっかけれん」とも呼ばれていました。時には、そのまま自宅まで付いていって家事を手伝った者もいるといいます。

寄席に通う以外にドースル連にはもう一つの重要な“活動”がありました。それが、新聞への投書です。1897年ごろから始まった新聞の投書欄は、明治30年代にかけて広く流行し、ドースル連たちははがきを常に持ち歩いて、思い立ったらすぐに投書していたといいます。

その内容は芸評や応援メッセージだけではなく、アンチコメントや「塩対応」への苦情、さらにはプライバシーの暴露などまで含まれていました。書き手は皆ペンネームを使い、匿名で思いのままに書き連ねていたため、ファン同士の喧嘩が新聞上で巻き起こることもしばしばありました。

このような投書欄は、ファン同士の情報交換の場としても機能しており、名前も職業も知らない者同士がつながり、「オフ会」のようなリアルな集まりに発展することもありました。その様子は、まさに現代の匿名掲示板やSNSにおけるファンコミュニティと同じです。そして、こうしたファンの間では、独自に人気投票を行う「総選挙」までも開催されていたのです。

女義太夫は、明治から大正にかけて多くの青年たちを魅了しましたが、その中には文豪たちの姿もありました。小説や自伝でその様子がうかがえます。たとえば夏目漱石も女義太夫ヲタの一人で、漱石は39歳のとき、20歳の女義太夫の自宅を突き止めたという、ストーカーまがいの逸話まで残されているほどです。俳人の高浜虚子は、2歳年上の竹本小土佐という女性に恋をし、毎日寄席に通ったといいます。また、小説家の志賀直哉は昇之助という娘が推しメンで、彼の日記には何度もその名前が登場しています。志賀が小説家を志すきっかけになったのも、昇之助に深く感動したことだったと伝えられています。

このように、現代でいう「アイドル」や「オタク」のような存在は、明治時代から同様の現象があったのです。



◆都山流尺八

江戸時代には普化宗の法器として用いられ、後に琴古流として一般に開かれた後、明治に入って箏・三味線との三曲合奏に進出し、胡弓に代わって急速に伝統邦楽界に勢力を拡大していた尺八。明治中期になると、琴古流尺八とは別の新たな流派が創始されました。それが、都山流です。

都山流は、1896年に大阪で中尾都山が創始しました。それまで大阪では、三曲合奏が尺八演奏の中心でしたが、組織力に弱く、統一した流としてのまとまりを欠いていました。我流から出発した都山流は、独自の三曲合奏スタイルと、普化宗から離れた音楽性重視の「自流本曲」を打ち出しながら、近代的な組織を整えて西日本を制し、やがて全国的な大流派に成長。記譜法、作曲法、演奏法、教授法に洋楽のアイデアを巧みに取り入れ、邦楽界に新風を巻き起こしました。

使用する尺八は、裏孔の位置や、吹口にはめ込んだ角の形などで、琴古流の尺八と区別されます。



◉世界の音楽状況


邦楽と洋楽の両方で目まぐるしい動きが錯綜していた明治時代中期。

特に東京音楽学校の伝習生や、文豪・知識人たちは、進化論思想に基づいて「ドイツ古典派・ロマン派」を中心とした西洋芸術音楽の摂取・学習に勉励していったわけですが、同時代における世界の音楽状況はどうだったのでしょうか。

前回までの記事でも注意深く指摘してきたように、一口に「西洋音楽」と言ってもこの時期は既に様々なポピュラー音楽が発達を始めていますし、クラシック芸術音楽内においてさえ目まぐるしい発達・変化が起こっています。

ワーグナーを継承するドイツ美学的な「芸術音楽」の系譜としては、既に、末期ロマン派と呼ばれる「行き詰まり」の段階に突入しています。転調や和声の複雑化、様式や形式を限界まで汲みつくす傾向が現れ、これ以上の肥大化が不可能なほどの規模の拡大が行われました。マーラーやリヒャルト・シュトラウスらが巨大な交響曲を生み出していました。

一方でフランスではドビュッシーやラヴェルによって、ドイツで確立された機能的な和声理論から離れた、末期ロマン派へのアンチテーゼのような、浮遊感のある新しい音楽語法を用いる近代音楽が起こっていました。ドビュッシーの音楽は同時期の絵画の潮流と併せて「印象派」などとも呼ばれました。

また、同時期のフランスではキャバレーやカフェーといった芸術家たちの新しい溜まり場が生まれており、そこではポピュラーミュージックであるシャンソンの系譜が既に開始していました。イヴェット・ギルベール、フェリックス・マイヨール、ハリー・フラッグソンといった歌手たちがカフェーで人気となっています。

スペインを経由して世界的流行を経たキューバのハバネラは、南米各国のラテン音楽の発達に繋がりました。アルゼンチンではミロンガタンゴが成立。キューバではソンが基幹音楽として発達し、スペインから伝わったコントラ・ダンサ(舞踊)がダンソンとして流行。ブラジルではサンバに繋がる系譜としてショーロが発達しました。

歌舞伎座と同じようにイギリス・ロンドンでは劇場が改革され、アクロバット、手品・奇術、パントマイム、寸劇、レビューなどを演じる「ヴァラエティー」が隆盛しました。これに対応する動きとして、ミンストレルショーが人気だったアメリカ劇場娯楽も大型ヴァラエティショー「ヴォードビル」へと発展していきます。

ワーグナーを先鋒として、より学術的に、難解に、長大に、という方向性へ発達していたドイツの楽劇とは裏腹に、オペラを気軽な形にしたオペレッタも19世紀後半のパリやウィーンでの流行から、ロンドンやアメリカに飛び火し、「サヴォイオペラ」「ライトオペラ」などとして、クラシック界とは異なる部分で発達を始めます。ニューヨーク・ブロードウェイでのヴォードビルやライトオペラなどが、このあとミュージカルへと繋がる系譜になります。

アメリカ南部では、西洋音楽と黒人音楽が合体する形でブルースラグタイムジャズといった新ジャンルが誕生していました。

19世紀末には「映画」も誕生しており、20世紀初頭の無声映画においては劇場で映画音楽が試行錯誤しながら生演奏されてもいました。


幕末まで、音感レベルで全く異なる秩序にあった日本人は、まず軍楽隊と唱歌教育から耳と身体を「矯正」し、東京音楽学校の伝習生や、文豪・知識人たちが、「ドイツ古典派・ロマン派」を中心とした西洋芸術音楽の摂取・学習に勉励していていった。そしてようやく、ゼロからイチが定着しつつあった。その裏で、世界ではこれだけの音楽ジャンルの隆盛・変革が起こっていたのです。

「西洋に追いつく」ことが目標の日本の音楽は、ここから先ずっと、目まぐるしく変化し続けるクラシックもポピュラーも含めたこれら全ての音楽ジャンルの影響を受け、吸収し、翻弄されながら、日本音楽史を形成していくことになります。

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