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観音院に集った人々~東大寺とその近傍をめぐる⑮

東大寺で「観音院に集った人々」と題して特別展示があり、10月19日㈰の最終日に滑り込みで行ってきました。

入江泰吉生誕100年、
彼の旧居公開から10年を記念した特別展示

入江泰吉生誕100年

彼の旧居公開から10年を記念した特別展示です。

私が写真家・入江泰吉いりえたいきちの名を知ったのは、愛読書の「古寺行こう!東大寺」でのことです。

東大寺を我が庭のように愛し、カメラを向ける

「古寺行こう!東大寺」の「古寺人物往来」より

入江の愛情豊かな眼差しは作品にも存分に表れ、奈良の風景だけでなく、仏像を最も効果的に捉えています。
同誌では、入江をはじめ土門拳・三好和義・小川光三ら4人の名だたる写真家たちが、同じ戒壇堂の「広目天」の顔を撮影し、見開きページで比較できる構成になっています。

同じ対象でありながら、その表情はまるで別物のよう。
とくに入江の作品は、逆光を巧みに使って顔の半分に陰影を与え、生命力を感じさせます。素人の私でさえ惹きつけられる力がありました。

今回は、写真家・入江泰吉を偲ぶ、東大寺への訪問となりました。


存在すら知らなかった「観音院」

ところで「観音院」ってどこ??
境内図を見ても、まったくピンと来ません。

近くには法華ほっけ堂(三月堂)や手向山八幡宮の北口がありますが、この場所だけはこれまでスルーしており、記憶にも残っていません。
普段は門を固く閉ざしているため、まるでその存在を消しているかのようです。
つまり、中に入れること自体が非常に珍しいのです。

ここまで来ると外国人観光客の姿は激減しますが、
稀に数名ほど見かけます。
果たして彼らにこの“渋さ”がわかるのでしょうか。

※会場内の撮影は快諾!思い存分撮りまくりました。
以下、尊称は省略。

文化人たちの交流の場

戦後すぐに住職となった上司海雲かみつかさかいうんは、入江の幼馴染でもありました。
再会後、入江は観音院に頻繁に通うようになり、それが彼の写真表現に劇的な変化をもたらします。

当時ここには、そうそうたる文化人たちが集い、芸術・文芸サロンのような場となっていました。
この空間で「大和路の美意識」が再認識され、さらに磨かれていったのです。

会場内の展示より

奈良の魅力を知り尽くした写真家
入江泰吉

私も東大寺に通い詰めていますが、入江の写真に映る風景は、見慣れた場所とはまるで別世界。
技術の高さはもちろんのこと、何気ない日常の風景を、彼独特の感性で“非日常の夢”に変えてしまうのです。

全て入江による東大寺内の風景

中でも圧巻なのが「霧たちこめる大仏殿への小径」です。

「霧たちこめる大仏殿への小径」
この写真には引き寄せられてしまった!
照明の反射を避けようとすると、
どうしても画角が歪んでしまいますがご容赦を💦

思わずため息が出るほどの美しさに、見入ってしまいました。
まるで絵画のような幻想的な一枚です。

入江は現・奈良ホテル南の片原町に生まれ、観音信仰の篤い母に連れられ、幼い頃から二月堂へ通っていたといいます。
近所の寺院が氏寺や菩提寺のような村寺そんじではなく「東大寺」だったこと。
それが彼の人生を大きく方向づけたのは間違いありません。

成人後、大阪でカメラマンとして活躍していましたが、「大阪大空襲」で焼け出され、奈良へ戻ります。
ちょうどその頃、疎開していた東大寺法華堂の仏像たちが帰ってきたばかりでした。

アメリカが奈良や京都を爆撃しなかったのは、日本の古美術の価値を知っていたから――そんな話を聞いたことがあります。
真偽はともかく、入江は勝者の傲りにより文化財が接収される危機を感じ、強い使命感に突き動かされます。

「そうだ、今、すべてを写真に残しておこう」

こうして「大和路の写真家」入江泰吉が誕生しました。
昭和20年秋、40歳のときのことです。

それだけではありません。
一時は画家を目指すほどの実力を持ち、木彫も手掛けていると知り驚きました。

その土台に培った芸術センスは、何を創作してもそれなりにこなしてしまう器用さはさすがです。

東大寺一筋の人生
上司かみつかさ海雲かいうん

東大寺塔頭・持宝院に生まれ、龍谷大学英文科卒業後、戦時中は朝鮮に派遣。
終戦後に観音院住職となり、東大寺学園中高の校長、東大寺執事長・華厳宗宗務長を歴任。
最終的には東大寺206世別当を務め、1975年、69歳で逝去しました。

「愛酒恋壺」

観音院サロンの立役者であり、“壺法師”と呼ばれるほどの壺収集家。
上記の軸の書は、妻の実家である広島・賀茂泉酒造の日本酒ラベルにも使われました。

「酒」

さすたけの 君がすヽむる うまさけに
われゑいにけり そのうまさけに
良寛歌 海雲書

配布パンフレットより

幅広い見識と政治力を兼ね備え、書や文章にも秀でた名僧として知られます。

司馬遼太郎「街道をゆく」挿絵
須田剋太すだこくた

私は司馬遼太郎の『街道をゆく』を読んだときから、須田剋太の絵に惹かれていました。

なんとも奔放で力強く、大胆な筆致。
素人目には“ヘタうま”ですが、東京藝大出身で日展入賞の実力者です。

当初は具象画を描いていましたが、1949年以降は抽象画へ転向。
基礎があるからこそ生まれるこの自由さなのでしょう。

司馬遼太郎と同行したのは1971年以降で、亡くなるまで『街道をゆく』の挿絵を描き続けました。
あの独特の線は、彼の晩年の表現だったのですね。
作品を前に、まるでご本人と対面したような気持ちになりました。

吉川英治「新平家物語」の挿絵
杉本健吉

洋画家でありイラストレーターの杉本健吉。
『新平家物語』の挿絵で知られますが、私は今回初めてその画風に触れました。

44歳で奈良に移り住み、風景画に専念。
瑞々しい生命感に満ちたその絵は、「奈良の杉本か、杉本の奈良か」と称されるほど。
彼もまた、この地の魅力に憑りつかれた一人だったのでしょう。

奈良に魅了された芸術家たち

=上段=
爾后一千年 重美か国宝疑なきものなり

=中段=
昭和廿二22年 師走念五12月25日
杉田大工造之 観音院 海雲

=下段=
アーサー王ならぬ海雲和上の兼学に加わる光栄に良くする者
生きては天平のユートピアに学び
死しては華厳の浄仏刹に生れん善哉善哉

観光パンフレットより

中段左の食卓を囲む絵には、
画家・杉本健吉、須田剋太、山崎忠明、陶芸家・河合卯之助、写真家・入江泰吉という5名の名が並んでいるのを見ると、観音院がどれほど特別な場だったかが伝わります。
文中の“天平のユートピア”という言葉が胸に残りました。
彼らにとって観音院は、まさに理想郷だったのでしょう。
そんな場所があることを、私は心から羨ましく思いました。

庭もとても素敵。
縁側には座布団が置かれ、
心ゆくまで眺める事ができる。


入江泰吉が愛した”我が家”

観音院の面々を胸に刻み、次は入江泰吉をさらに深掘りするために、午後は彼の旧居へと向かいました。

観音院からは大仏殿を挟んで南西にあり、鏡池沿いを斜めに抜け、西へ曲がるとすぐの場所です。

※こちらも撮影は快諾!
おまけにガイドまでしてくれました。
奈良県民はやさしい。

かつては東大寺境内だった「水門町」

案内板によると、このあたりは東大寺南西隅の「水門町」。
旧居裏を流れる吉城よしき川から東大寺内へ水を引くための水門を設けたことに由来します。

江戸時代には奈良晒の晒し場があり、晒問屋・清須美氏が山荘「三秀亭」を設け、のちに豪商・関氏が「依水園」を増築し、大正期には豪邸が立ち並ぶ町並みへと変化しました。

現在も旧居裏を吉城川が流れ、緑豊かな景観が健在です。

中に入ると、外の喧騒が嘘のように静寂に包まれます。
書斎には蔵書が並び、静かに本を読む入江の姿が浮かぶようで、まるで今もこの家にいるかのような温もりを感じました。

ここで歴史に触れ、構想を練り、作品を生み出していたのだと思うと、
彼の写真が放つ温かさの理由がわかる気がします。

入江泰吉
明治38年(1905)~平成4年(1992)
この邸宅は、妻・ミツエさんが奈良市に寄贈し、
平成27年(2015)に一般公開されました。



お・ま・け
この日の境内風景

観音院のすぐ前にある法華堂は、やはり素通りできません。
吸い込まれるように入場し、須弥壇の中をじっと見つめてしまいました。
何度見ても圧倒される迫力。
入った瞬間、やはり胸がドクンと高鳴ります。

大仏殿へと向かう「猫段」

急で曲がりくねった形状から「猫のように」「転ぶと猫になる」という言い伝えがあり、“慎重に歩め”という戒めの意味が込められているそうです。


大仏殿の東側


「鏡池」
工事中だった浮舞台がついに完成?




【東大寺とその近傍をめぐる】全タイトル
冬の「浄瑠璃寺」
下見の春日大社
今期初!東大寺散策「南大門と大仏殿」
今期初!東大寺散策「西伽藍と東伽藍」
noteオフ会!氷室神社と不空院
noteオフ会!ミュージアムと依水園
⑦奈良博「超 国宝展」
⑧ならまち十輪院
⑨ならまち元興寺
⑩奈良の遠景と「俊乗堂」
⑪ミュージアムと吉城園
⑫五劫院と空海寺
⑬奈良博「世界探検の旅」
⑭転害会と勧進所の特別公開

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