転害会と勧進所の特別公開~東大寺とその近傍をめぐる⑭
10月5日は東大寺では年に一度の転害会があり、同時に大仏殿の西エリアにある「勧進所」では秘仏公開がありました。

「若草山」に霧がかかっていて、とても幻想的。
今日はどんな1日になるのだろう✨
転害会とは?
境内東側にある手向山八幡宮の最も重要な神事「例大祭」のこと。
この八幡宮は、大仏造立の際に九州・宇佐八幡宮から守護神を勧請して創建された社です。
その神輿(みこし)が境内西北の御旅所である転害門まで渡御することが転害会の中心行事です。

お神輿??それは見たい!!
さぞかし絢爛豪華なものではないかと期待せずにはいられません。
お神輿を求めて
「お神輿が見られるかも!」
大阪ではだんじりが主流なので、東大寺の神輿はいかほどかと期待しながら、友の会仲間のペコちゃんと一緒に、張り切って出発しました。
日程はこんな感じです👇
午前9時頃:本宮祭典
午前10時30分頃:神幸(渡御)の出発(発輦)
午前11時30分頃:転害門に到着(転害門着輦)
正午頃:転害門での御旅所祭、舞楽の奉納
午後2時頃:還幸、東大寺八幡殿参拝
午後3時頃:八幡宮への還幸
ところが――。
大仏殿付近に着いても、お祭りらしい雰囲気がまったくないのです。
雨上がりで蒸し暑く、いったん東大寺ミュージアムで休憩。
友の会に入っていて本当によかった! 館内はエアコンが効いていて、再入場も自由なのは助かりました。
戒壇堂での思わぬ再会
待ち時間に、転害門へ向かう途中の戒壇堂に立ち寄ることにしました。
靴を脱ぎ、須弥壇を見上げると…なんと、観美仏仲間の「つきふねさん」を発見!
実は近鉄奈良駅に到着した時に「私も行く」とLINEをもらっていたのですが、まさかこんなにすぐ会えるとは。
偶然の出会いに思わず笑顔がこぼれます。
肝心の戒壇堂は今回のシリーズでは2回目ですが、相変わらず四天王の姿は圧巻で、踏まれる邪鬼の表情にも妙な人間味があり、思わず見入ってしまい、時間調整とはいえ、とても贅沢な寄り道となりました。
詳細はこちらです↓↓↓
さて、ここから三人での珍道中の始まりです。
特別公開を堪能する


ひとまず、お神輿渡御を気にしながらも、この日の特別公開のお堂を拝観しようと勧進所の通称「赤門」をくぐりました。

東大ではありません!
この日の目玉は「八幡殿」
国宝「僧形八幡神坐像」
平家の焼き討ちで失われた旧像を、鎌倉時代・建仁元年(1201)に重源上人の依頼で快慶が再興したものです。
八幡神を仏教僧の姿にしたこの像は、まさに「神仏習合」の象徴。
袈裟をまとい、数珠を手に静かに座す姿には、仏教を守護する菩薩としての慈しみが漂います。
神を僧の姿にするという発想に「なんでもありか!」と思いつつも、快慶らしい静謐な美に圧倒されました
「公慶堂」の公慶上人坐像
続いて「公慶堂」に安置される公慶上人坐像を拝観。
永禄の兵火後、東大寺再興に尽力した上人です。
よく見ると、左目が赤い。
この不思議な特徴については諸説あり、次の3説が考えられています。
①史実的な理由
晩年に左目の病があり、その特徴を忠実に再現した。
②信仰的理由
上人の霊が宿り、今も慈悲の眼で衆生を見守ると信じられる。
③科学的な理由
彩色や漆の酸化により、左目だけ赤みを帯びて見える。
やはり①の公慶の特徴をありのまま表現したのだと思いますが、どうでしょう?
作者は康慶派の円慶または宗賢とされ、「生前の姿をありのまま写す」誓いのもとに造像したとのこと。
弟子が師の姿を写し取る事自体に深い敬意が感じられます。
「阿弥陀堂」のアフロ仏
いわゆる「アフロの阿弥陀様」ですが、今年見た「十輪院」と「五劫院」のものを再掲載します。

像高は106cm。合掌印を結び、ふくよかな頬に穏やかな笑み。
重源上人が宋から将来したと伝えられますが、実際は日本で宋風に造られた鎌倉時代の作とみられます。
天蓋に舞う天女の彩色もいまだ鮮やかで、まさに極楽浄土の一場面のようでした。
「指図堂」の法然上人
入ってすぐにご本尊として法然上人の御影が描かれた掛け軸がありました。
浄土宗とも深い関係がある事がわかりますが、ではなぜ「指図堂」というのか?
それは、江戸初期の大仏殿再建時に図面(板絵)を展示したことに由来します。
元々この地は、平安時代創建の「中門堂」がありましたが、室町時代の「三好・松永の乱」大仏殿とともに焼失。
それから約100年後の江戸時代初期、大仏殿再建の際、図面(板絵)を展示するために立てられたとか。
当時は図面の事を「指図」と言っていたので、その名が今も使われているのですね。

法然上人の諡号(送り名)
八幡信仰と東大寺

さて、実は先に勧進所の受付でこの日のメインである「転害会」の詳細を尋ねたところ、この日は中止との事でした。
この時は、時折パラつく程度だったのですが、神輿が濡れるのは厳禁とのことで、手向山八幡宮のご神体への敬意の深さが伝わります。
せっかく来たのに目的を失いガッカリしましたが、それでも「転害門」だけでも観る価値はあるため向かうことにしました。
大仏殿ウラの見事な景観
道中に見た景色はため息が漏れるほどに美しいものでした。

これは見事すぎる!
幼い頃から何度も訪れている東大寺にこんな所があったなんて、今更ながら驚きました。
さぞかし紅葉の季節はさらなる絶景を見せてくれるでしょう。
遠くに大仏殿が木々の間に見え、ちょうど白鷺が一羽、池のほとりで羽を休めています。
史料によると、この「大仏池」は安土桃山時代に造られたらしく、大仏殿が火災に遭った時の防火用水として、さらに聖武天皇祭の舞楽奉納の舞台などに利用する目的もあったそうです。
それにしても東大寺は主なお堂だけでなく、境内全体がどう見てもゆったりしたアングルで設計され、実にダイナミックな光景が広がっているのだと知り、これまた今更ながら大きな発見でした。
創建当時のままの「転害門」

天平宝字6年(762)頃に建立され、東大寺創建当初の建造物の一つであり、境内では奈良時代唯一の遺構です。
2度の戦乱における兵火を逃れただけでも奇跡であり、その歴史的価値は非常に高いものです。
注連縄があるのは、まさしく神仏習合の証ですね。
そもそも「転害」とは、古くは『日本書紀』や『延喜式』にも出てくる古語であり、実は「てがい(転害)」と「たむけ(手向け)」は同義語なのです。
神道的に「手向け」は神に供え物をして旅の安全を祈ることで、
それを仏教的に転化したのが「転害」で、
「害(災い)を転じて、吉祥に変える」という意味があります。
東大寺の南東に正門・南大門を護る鎮守として「手向山八幡宮」、そして裏鬼門にあたる西北には背後を護る鎮守として「転害門」。
両者は東大寺と八幡信仰の深い結びつきを物語っています。
本当ならこの門のあたりで舞楽奉納も予定されていたと思うと本当に残念です。
東大寺を探求するのなら、観ておくべき行事だと思うので、また来年に期待しましょう。
お台所&サロン かたつむり

転害門についてすぐ、急に雨が激しくなってきました。
ここで3人の集合写真を撮ろうと密かに思っていたのですが、それどころではないぐらいの降り方です。
本来なら、お神輿が戻ってくる手向山八幡宮の近くのうどん屋でお昼にしようと目論んでいたのですが、中止となればもうどこで食べようが同じ。
東大寺近辺に詳しいつきふねさんが知るお店へ行くことにして、転害門から佐保路を西へと歩きました。
途中、「佐保川」を渡ってすぐに聖武天皇の南陵があり、かつてはここまで東大寺の境内だった事がわかります。

お目当てのお店は、住宅街の中にひっそり佇む隠れ家のようなお店で、その可愛らしい門構えをみたとたん胸が高鳴るのがわかりました。
その期待通りのオシャレで素敵なお店だったのです。

人生で初めて「ポポー」なる果物を食べました!
マンゴーに似た味なのですが、食感はとろりとしてバナナにも近い。

形は「アケビ」のような楕円形で種が柿と似ているので「アケビガキ」と呼ばれているとか。
耐寒性があり、日本全国で栽培可能ですが、実は北米原産のフルーツ。
日持ちがしないため流通が難しく、購入方法も限られているそうです。
長く生きていてもまだまだ知らなかった事が多すぎますね。

ペコちゃんは庭に植えてみたいと種を持ち帰りました。
実ればいいなぁ。
最後に…
転害会は中止になったものの、この日めぐった数か所は、東大寺がいかに長い時をかけて信仰を受け継いできたかを教えてくれました。
華やかな祭礼の背後にある「祈りのかたち」。
静かに佇む建物や仏像を通して、それを確かに感じることができた一日でした。
さて、今月はいよいよ「正倉院展」も始まります。
東大寺正倉院はシルクロード東の最終地点とも言われていますので、そのゆかりのエピソードも、今後また深掘りできればいいなと思っています。

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