バタイユ「目的なく費やし真の幸福を得よ。有用性を超え主権の領域へ行け」
「ある日、猛スピードで車を走らせていたら、自転車に乗った女性とぶつかってしまったのを覚えている。彼女は若く可愛らしいく、頭をもぎとられていた。私たちは数メートル先に車をとめ、長い間彼女をながめていた。血だらけの肉体に抱いた恐怖と絶望は、吐き気をもよおすほどでもあり。また、ある意味とても美しくもあった。それは、私たちがお互いを見る時のいつもの印象と、あまり変わらなかった」

いつメンは、今回はずいぶんと物騒なイントロだなと思っただろうが。ジョルジュ・バタイユからの引用だ。過去回で、バタイユについて少しだけふれたことがあった。

この時は、大テーマを語るための1つのパーツとして彼を出しただけだった。いつか改めてガッツリ書くぞと思っていた。
バタイユは、20世紀で最もスキャンダラスな作品かもしれない『眼球譚』の著者だ。先ほどの引用は本作からのもの。

どんな話なの?

正直に言っていい。ベスト・オブ・続き読みたくない でしょう。笑
バタイユの友人は太陽の肛門について読んだ時、彼に精神分析的治療を受けるようにすすめた。そっ閉じして縁を切るよりは、よほどいい友だちだろう。
「バタイユはエロティシズムと死について書き、物議をかもした」こんな短い解説には何の意味もない。
「私たちがどん底の時に愛を求めるのは、気を紛らわせるためだと考えられがちだが。きっと、そうではない。誰かに目をあわせてもらい・醜い部分も見てもらい、それでも自分を選んでほしいからだ。私のひどい姿を見ても、愛する価値があると人から思われたい。私はあなたから、それでも愛せると言われたい」
彼は(他著作で)こう述べていたのだから、もっと知ってあげなきゃという気持ちになるのだが。困難な作業になりそうな予感しかしない。
「今日の世界の道徳的空虚さは嘆かわしい。そう言うことは、常に可能であった」「宇宙を笑うことで私の人生は解放された。笑うことで私は重荷から逃れられた。私は、この笑いを知的に解釈されることを拒む。その瞬間から私の奴隷状態がはじまるからだ」
彼は(また他著作で)こうも述べていたからだ。ありていな道徳観を向けられたくもないし、知的なアプローチで考察されたくもないと。
ワガママ?こんな感じなんじゃあないの。

今まで、大勢の人たちが私の人生にお立ち寄りくださった。誓って、人には感謝している。友人や知人がある程度~たくさんいるというふわっとした感覚が、私をどれだけ正常な人間にしてくれているか。正確にははかれないわけだから。私は、自分を飲みこみやすい錠剤化させることをひどく覚えこんでしまっている。人とちょうどよくすごすための形代が必要だと。そういう自分をガキくさいと思いきることもできず、バタイユのようにつきぬけることもできず。
そんな私かしたら、バタイユは誠実な人だ。

この、銀髪の 清潔感ただよう 物知りそうで 礼儀正しそうな 男性が。売春宿やストリップ・クラブに通いつめ、結婚後も乱交パーティーに参加し続け、酒におぼれギャンブルにドはまりしていたことなど、みじんも感じさせない雰囲気の男が。優雅な国立図書館の司書が(アーキビストの訓練を受けたバタイユは、人生の大半をパリの国立図書館ですごした)。あんな物語を書いたのだ。
ちなみに。彼が最初に結婚したある女優は、バタイユと別れた後、彼の親しい友人のジャック・ラカンと関係をもった。ーー別に、みんな好き勝手にしているだろと言いたかった。
そう、人生は一度きりだから。
彼は『ファシズムの心理構造』の著者でも、『国家の問題』の著者でもある。本人がこのような理論的著作の中で強調していたように。彼の関心は、個々の主体規模の出来事でなく、よりマクロな事象にあったのだろう。
幼少期の体験などにまで話を拡げると、個人的なことも関係してくるのだろうが。元妻と友人がくっついたから病んで奇っ怪な物語を書いただとか、そういう一過性のものではなかったことはたしかだ。
抽象的な文章で、性や排泄や暴力の組合せをエスカレートさせていく様子が描写された『眼球譚』は、どんな時代・どういう風潮の中で生まれた作品だったのか。
過去回も使いながら、それを解説していく。
Georges Albert Maurice Victor Bataille ーー仏語で bataille 英語で battle ーー彼の本名には「戦い」という言葉が入っているわけだ。
1930年代、自らの文化的・知的実践における危機として、ファシズムに対峙した者たちの努力があった。




前段で貼った曲だ。
理論と現実の間の不一致。歴史的過程と政治的実践の間の不一致。
マルクーゼ「技術的経済的優位性によってファシズムを打ち破った勢力が、ファシズムを生み出した社会構造を強化し合理化するであろうことは、当時まだ明らかではなかった」


バタイユとマルクーゼと『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンが、後でつながるよ。『チェンソーマン』のデンジにもつながる。
ダダイズム。戦争を起こしてばかりの人類に嫌気がさしたことから、既成の常識を否定し人間理性の限界を模索しようとした、1910年代に起こった芸術運動。
有名なデュシャンの『泉』を見てもわかるように、それは反芸術運動だったとも言える。既存の芸術さえも否定したという感じで。

「ダダは何も意味しない」「破壊と否定の大仕事をなしとげる」ツァラのダダ宣言の一部だ。

さすがにこれでは破壊寄りすぎると思ったか。その後に起こったのが、創造によって反理性や無意識を追求しようとした芸術運動、シュルレアリスムだ。
ブルトンの著作『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』が、シュルレアリスムを運動として組織し拡大させるきっかけとなった。


両大戦間の芸術運動として最大規模をほこった。マックス・エルンスト、ルネ・マグリット、アンドレ・マッソン、サルバドール・ダリなど、多くのアーティストたちが関わった。
バタイユが、理性や道徳による統制を外れた思考の実践などとも定義されたシュルレアリスムを・その非合理性を賛美していたことは、間違いないだろう。シュルレアリストたちの著作を奨励していたし、(前述したように)ラカンやマッソンなどのシュルレアリスムの関係者らと交流をもっていたし。
第二次世界大戦後は、バタイユとシュルレアリストたちの間に友好関係があったようだが。はじめ、傍観者となり彼ら彼女らを批判することの方を好んだのは、ブルトンのような指導者的地位を切望したが叶わなかったことーーその反動だったのかもしれない。いや、もっとシンプルなもので。彼に毛嫌いされたから、反発したのかもしれない。
「バタイユ氏はハエが好きなようだ。私と彼は違う」と、ブルトンは言っていた。バタイユは汚物について熱心に書くからな😂


エルンストは、ラインラント表現主義のグループに入ったりもしていた。ラインラントは、ドイツのライン川沿岸の一帯をさす地名だ。そこを拠点とした前衛芸術家集団。
第一次世界大戦直前がこのグループの盛りだった。多くの芸術家が兵役につかざるを得なくなり、それに所属していた画家たちも戦争の犠牲となったのだ。エルンストは生き残った。



彼女はエルンストの4番めの妻だ。


思考や言語や人間の経験を合理主義の束縛から解放するとして、夢や無意識の力にフォーカスしていたシュルレアリスム。
ブルトンらは、オートマティスム(自動記述)と名づけた一連の実験をしていた。眠りながらの口述(寝言?)・常軌を逸した高速で書かれる文章(↓?)など。

笑いを入れたくて、茶化すような書き方をしてしまった。ごめん。人様の真面目なこころみをバカにする気はないが、自分がそれらに真剣にとりくむ気にはなれない。ちょうど、タニングの言ったようなあんばいで。
意識・無意識の話が読みたい人用↓
冒頭で貼ったオットー・ピエネの作品は、制作工程に炎が使われるアートの1つだ。タイトルが神話の単眼巨人を意味するものを選んだ。

15才の時、クラスメイト全員がドイツ国防軍に徴兵された。Kindersoldaten(少年兵/子ども兵士)だ。
彼の父親は教師だったため、彼らを乗せた列車に同行したのだが。私たちを「葬儀」に送り出す時ほど父が何かに感動していたことはない、と後にインタビューで語った。
戦争って本当クソだよね。
第二次世界大戦後の芸術を再定義しようと、「ゼロ」という芸術家グループを設立した。MITの先端視覚研究センター(現在の名前は芸術・文化・テクノロジープログラム)の所長を長年つとめた。多くのアーティストや科学者やエンジニアと共同制作をしてきた。

テクノロジーには世界をよりよくする力があると、信じ続けたピエネ。戦争からテクノロジーを救い出すこと・WWⅡの悲惨さがもたらした強い反テクノロジー感情を克服することに、人生の大半を使った。
「空に到達したい。新たな芸術世界を確立するためではなく。平和的にーーつまり、自由に 遊び心をもって 積極的に 戦争技術の奴隷としてでなくーー新たな空間に踏みこむために」
動画は展示会『More Sky』(2014年)の様子。この直後に86才で亡くなった。
ラカンはバタイユの名をほとんど出さず、フーコーはバタイユの名を明示的には出さなかったが。後者が「限界経験」などと呼んだものは、バタイユに影響を受けた概念だと言われている。
ラカンの話↓


そもそも、映画はすばらしい「嘘」だからね。
フーコーの話↓


で。限界のある経験についてだが。
バタイユは『呪われた部分』という著書で、以下のような見解を示していた。
一般人も、いい映画を観たりおいしいお酒を飲んだりしている内に、家賃の支払いを忘れてしまうことがあるかもしれないが。それは、決して、王族(大金持ちの人などを想像してもよい)の楽しみと同じではない。明日こそ家賃を支払わなければならないし、そのためには今日仕事をしなければならない。このように「限界」がある。
だが。笑いや感動や歓びは、有用性や実用性の経済秩序に還元できない経験であり。使用価値への還元に完全に抵抗しているものである。
バタイユは、こういった考えのもと、たとえば笑いには革命的な可能性が秘められていると説いていたのだ。

「呪われた部分」キーワードの一致だけで貼り出したのではない。このストーリーと親和性があるのだ。
『感電』も、キルア君が電気を操るからだけであわせたのではない。歌詞が今回のテーマにあうからだ。
「真実も道徳も動作しないイカれた夜でも 僕ら手をたたいて笑いあう 誰にも知られないまま」「正論と暴論の分類さえできやしない街をぬけ出して 互いに笑いあう 目指すのはメロウなエンディング」「たった一瞬のこのきらめきを 食べつくそう二人で くたばるまで」
バタイユにも聞かせてあげたかった。私の言いたいことが歌になっている、と喜んでくれたことだろう。


「目が覚めると、ネズミの恐ろしさと父が私を叱責した記憶が結びついてしまう。これは、父が若かった頃、喜んで私に何か残酷なことをしたかったのだろうということを思い出させる」
梅毒を患っていたバタイユの父親は、失明と身体麻痺に苦しみ、やがて発狂した。バタイユの母親はと言うと、そんな夫を見て錯乱状態におちいり、自殺をはかった。
何度も作品のヒロインのモデルとなった愛人は、35才で亡くなった。バタイユのベッドの上で。その端的な事実以外は謎に包まれている。結局、彼が何も語らなかったため。
バタイユが死に強い関心を抱くようになったのも、無理はないのだろうが。
拷問の恐ろしい写真には心をうばわれ、生きたまま切り刻まれた若者らは宗教的エクスタシーを感じていたと確信し。中世の死体に関する文献を読みあさり、キリスト教徒たちが受けた拷問を研究し。首なし男をシンボルとする秘密結社を創設した。

それでも、自分のことをよくわかっていたのだろう。「私を包みこむ笑いの波が私の信仰をゲームに変えてしまった」
彼はニーチェにも強い関心を抱いていた。

肉体的快楽におぼれるようになっても、自分を責めたりはしなかったのだろう。「我が真の教会は娼館である」
もっと言うと。おそらくバタイユは、汚れたものを崇高で純粋なものにしようとしていた。
最初に貼った過去回の文章をもう一度。



道徳で見ないでほしい・知的に考えないでほしいそうなので、こういう勘ぐりを入れりしてはいけないのだろうな。イメージを投影するのもダメなのだろうな。ごめん、バタイユ。
バタイユの実験は、65才で「死の笑い」に身をゆだねるまで、続けられた。

バタイユは狂っていたのだろうか。
バタイユ本人が「正気ではなかった」と記していたのだから、そうだったのかもしれないが。「何らかの形で人間の経験の限界を超える必要性を過度に重視していた」などと自身を客観視していた人間が、狂っていたとは、私には思えない。
彼は自分を第三者的に見て、俺何やってんだろ的に思ってもいたのだと思う。現実があまりにもついてこないと、そういう気持ちにもなる。おかしいのは自分の方なのかと。
バタイユの著書には、経済の神秘主義に関するものもある。
『純然たる幸福』では、このように語っている。
レールの敷かれた石畳の道を、1頭の逆上した馬が、口からよだれをたらしながら嵐のような速度で疾走(暴走)するのを見て。
あっけにとられてしまった子どもは、その馬に嘲りを含んだ叫び声を送る母親たちを尻目に、荒れ狂う可能性についての言葉では言い表わせないイメージを受けとっていた。
有効性と秩序立った行動とからなる世界に、(しょせん)その子も、このイメージをうまく組みこんでいくことができないが。
この世の舞台裏から、あの時の馬の蹄のけたたましい音が絶えずしてきて、不吉な無意味さを彼/彼女に告げ知らせる。
消費の極限へ行くことができる・その限界を超えることができる神の力を有しているのは、あの馬だけなのだと。あの馬のような圧倒的な狂熱だけなのだと。


前回とのつながりが伝わるといいのだが。





パイが足りない・リソースは限られていると言うより、みんなにうまく配られない。
『チェンソーマン』の未来の悪魔が言うだろう。

かつてないほど。愛しあい支えあうはずだった仲間たちが、それらを奪いあって互いに蹴落としあうのが見える。世界中でこれが見えると。
同じ苦しみを知っている隣人を憎んではいけない。その人たちは敵とは程遠いからだ。「奴隷商人」がこちらに感謝を述べているのが聞こえてきそうだ。なぜか矛先をこちらに向けてこないで、仲間割れしててくれてあざーす!
『呪われた部分』も、言ってしまえば、経済の神秘主義的な内容ではあるが。バタイユの約30年にわたる研究の集大成だった。第1巻「消費」・第2巻「エロチシズムの歴史」・第3巻「主権」という構成だ。

ざっくり言うと。人間はエネルギーと富の一部を有効に使うことができない・有益に投資することができないため、消費せざるを得ない。という理論をバタイユは展開したのだが。
バタイユの論じた「非生産的支出」を解説するには。まず、彼が「一般経済」という言葉で何を言い表したかったのか説明しなければ。
彼は、それが重要でありながらも認められていない研究分野であると、考えていた。
バタイユ曰く。経済学者は、各国々や世界全体の経済を仮説的に細分化できる活動や出来事の集合体だと考える傾向がある。彼ら彼女らは、経済を最も一般的なレベルで評価した場合に見えるパターンや法則を見逃しがちである。最も一般的なレベルの経済には、専門家には関連性があるとも見なされていない原因や出来事が含まれている。


私の大好きな海外の研究者(知識が多岐に渡る人で、専門を何と言っていいかわからない。ロシアや中国の歴史だろうか)が、つい最近、SNSでこう書いていた。
「人間は恩知らずの豚どもで。状況が改善されても、社会的上位者への感謝などみじんも感じず。むしろ大胆不敵かつ自信満々になり、でっち上げた口実で攻撃をしかけてくる。支配者が彼ら彼女らを人為的な貧困状態にとどめておくのは、まったくもって合理的なことだ」
私は彼の文章を長年読んできた(日本人で私が一番読んでいると思う)。彼はあたまがとんでもなくよく、こころもとてもやさしい人だ。誰かを不快にさせるかもしれない文言も使って、言い表したいことがあったのだ。
バタイユは、生物の成長や拡大はいずれ限界に達し不可能になると主張していた。彼の経済に関する思想は生物学的要素をおびていたわけだ。
自分をできるだけ第三者的に見て。バタイユについて書きたいと、私は思うに決まっている。






ヘバ・エル・アジズさんという女性のアート作品だ。

灰色が血管で赤色が神経細胞。
画像は、バタイユがこだわった眼球と太陽にそれぞれあわせて、イメージで出してみただけ。
ひき続きバタイユ曰く。人間の政治体制のますます進む傾向として、あらゆる富の有用性(生産的な投資など)が求められる。社会全体が投資や労働によって得た全ての富は、より多くの富を生み出す(生産性を高める)ために使われていく。一般大衆である私たちは、「働くために」富を増やし「また働くために」富を費やしている。
ゼロ・リスクで何か起こせるとでも?逃げちゃダメだと思った人と。あーねわかると思った人がいるだろう。確定申告と経費の勘定科目を連想してしまい、嫌な気分😭になった人もいるかもしれない。
これは、とある国の話なのだが。社会人の夏休みと冬休みが非常に長い。その国で見られる顕著な社会現象として、両長期休暇の直後に非常に多くの人たちが退職/転職をする、というのがある。「真実」に気づくひまがあるからと言うよりは。休みすぎると、数多ある真実の内の1つに、偏って気づいてしまうのだろうよ。
バタイユ作品群の中で、太陽は「過剰」のシンボルだ。(それ以外を表している時もあるが)

またバタイユ曰く。生産的支出は、決して完全な効率性には達さない。エネルギーと富が生み出されはしたがシステムの成長に再投資できない場合、他のところで消費されなければならない。
そして。不合理な支出を規制したりタブー視したりすることは、危険な押しつけである。非生産的支出の必然性を認めないことは、その発生を止めることにはならない。むしろ制御不能なものにし、歓喜に満ちたものでなく暴力的なものにする傾向がある。
と、このように論じたのだ。






バタイユはもっとつきぬけたことを言う。

バタイユ「定義上、主権者は働かない。労働は主権的態度とは正反対である」
バタイユ「重要なことは常に同じである。主権とは無である」

バタイユ「目的もなく費やすことによって、私たちは真の幸福を得る」
バタイユ「有用性を超えた生命は主権の領域である」
バタイユは、選択により、破壊的な力を方向転換することを推奨していた。争いごとにおける表現を最小限におさえるように、たとえば笑いや性愛で歓喜することを推奨していた。

私も長い間待ち望んだアニメ映画の公開記念に、デンジとレゼの話をする。もちろん、今回のテーマにそった話を。
デンジはモテる。週2で私に会いに来た男でなく、週7で私に会いに来た男をやれること。このアドバンテージの大きさよ。ほとんどの人間は、キモがられないようになど、保身から調節してしまう。そうして没個性し、その他大勢に沈む。
恋愛をする本質を手渡してくる男。恋はとても無駄でとても素晴らししい。胃から吐き戻した花をもらって、有益や有用なわけないだろ。後々なり(あるあるな)失ってからなり、相手のシンボルとなるもの・最後まで記憶に残り続けるもの。それがその男や女の本質的な価値だ。

特に愛を多めに受けていた側は、関係が途絶えた後、このようになる。心につきささってぬけないピンの下にあるメモに、一言だけが書かれていたりするようになる。「自分を愛してくれた人」「こんなことしかしなかった自分にあんなにもよくしてくれた人」
ちょうど、学期末に成績表が出るように。自分のしてきたこと/してこなかったことは、自分に返ってくる。そういうものだ。
仕事の目標みたいなものも見つけることができて、今はだんだんと楽しくなってきている。ここでこの生活を続けながら君と会うのでは、ダメかい?と、至極まっとうなことを伝えてきたデンジに。そっか。私の他に好きな人がいるでしょう。と、キスをして彼の舌を噛み切ったのは・そのタイミングで「キレた」のは、レゼの私情だ。
ハニトラだったのに?非リアか。大前提、人のこころは常に一貫した単一のものなどではないし。2人だけの(ファンキーな)世界だと思っていたのに、誰かいたのだから。他にも大事なものがあるというのがいけないの?わかるだろ。デンジとレゼの場合、いけないだろうね。彼でさえまともに生き出そうとしている、彼女だけが「学校へ行ったことのない子」になるのだから
この文脈での「まとも」って、こういうことだけれどね。


レゼ的に、連れ出すのは自分の方なのだから。私があなたを幸せにしてあげる、という言い方しかできない。お願い私を幸せにして、とは言えない。それでも、いずれも一緒に生きようと提案しているもの。
一部、自分で考えてもわかる。私にはやりたいことが山ほどある。いや、海ほどある。人生ずっとショート・スリーパーだ。それでも恋愛をする(例)というのを選んだのは他ならぬ自分自身なのに、私には他にもやりたいことがあると私が言い出したら、おかしいだろ。
傑作ドラマの名台詞を思い出した。そんなんじゃファンキーでモンキーな関係になれない。

私を気づかってほしいと言えなくて、怒るか泣くかするのだと。全女がうなづくだろう。すでに気づかわれていないのにそう希うのは、ひどくむなしいからな。

このつまらない男だった夫、離婚を通じて、ずいぶんおもろい男になったよね。つまらない男:生物学的知見(この場合)がないだけのくせに、自分は賢く妻はバカだと思いこんでいて、あたまが悪いくせにこころまで悪い。

この時、相当うれしかったはずだ。私に裏切られても殺されそうになっても、まだ好きだと言ってくるつきぬけた男がいて。まさか、私でも人と幸せになれるの……?と。
「田舎」へ行くのが長年の望みだったのに(それはひとりでね。それ以上なんて選択肢になかったのだから)、「都会」にとどまる。あの人がいるのなら「都会」でもいいと思うようになったからだ。いや、あの人がいる場所が自分の「田舎」になったからだ。列をなす集団の中でも、「まるでこの世界で2人だけみたい」、実現できる……!と。

レゼ(女)の想いを全く知らないデンジ(男)。最期の力をふりしぼってでも自分のもとへ来ようとしていたことなど知る由もなく、「俺はフラれた」だとか短いタイトルでもつけて生きていくわけだ。女は中2病だが、それを言うなら、男は小2病だ。世の常。

「あなたみたいなおもしろい人はじめて」歯の浮くような言葉さえ、彼女の本音になっていた。
これ、やってみたいことリストだろ・この子、施設みたいなところから一歩も出てないだろという印象があり。レゼの画像をそえながら、この過去回でこの文章を書いていた。



自由に恵まれた人間は自由を謳歌しないとな。
再度、ファイト・クラブの過去回より。

(『最高の離婚』まではさんでおいたのに)こっちはケンカをしろと言っているじゃん……などと思った人は、まさかいないだろうが。万一いた場合、読解力が皆無だから国語を学べとかでなく、木ではなく森を見るセンスが皆無だ。そのバカさはまじでダメな種類のバカさだぞ。


あえて、冷たく距離をとるように。バタイユを俯瞰的に見ると。
彼が説いた、利益をできる限りおしみなく使う必要性は、自由奔放な私生活のただの言い訳だったのかもしれない。ごちゃごちゃと理屈を並べ立てて、己の免罪符を作成していただけなのかもしれない。
これで始めてこれで終わるのなら、今回の話はとっくに済んでいる。
バタイユは、死はあらゆる支出の中でも相当に無駄であるため、戦争によって最も容易に放出されるとしていた。バタイユは、機械化と自動化が生産と成長におよぼす影響について、長々と論じていた。
すぐに過剰な富が生み出され・その富をシステムの成長に再投資することは難しく・そして戦争に使われると。

1920年頃のもの。
ソビエト共産主義は非生産的支出の必要性を特に認めようとしなかったとして、「前例のない蓄積」と表現していた。
今さらだが。今回のテーマと似たようなテーマをあつかった過去回はあった。


また、今さらだが。チェンソーマンの過去回もあった。



バタイユのような伝え方があまり好きではない人用↓。幸せを死から遠ざかっている状態と定義したの、どなただったか失念していたけれど、この方か。
はじめにジョルジュ・バタイユをただの狂人だと思った人でまだそのままの印象な人は、これで0人だろう。
バタイユの病的で執着的なエロティック小説と彼の政治哲学とを、きり離すことはできないのだ。『眼球譚』で描写された文学的・性的露骨さと、『呪われた部分』で語られた政治的・経済的含意は、対応関係を成しているのだから。
終わりのない記号の迷宮で・偽りの全体性の中で、アリアドネの糸となるものは何なのか。少なくとも、バタイユは答えを決めた。そして、理性の頭を切り落とした。

ーー人生を労働にするな コスパタイパとか言うな 体制がくだらないと止めてくることこそしろ 無意味だとされていることが本当に無意味なのか疑え 恋愛をして性愛を楽しめ 考えるな感じろ 笑え 笑え 笑えーー

彼の著作の随所に共通して見られるメタファー、太陽。
「私は、笑止千万な考えにとらわれることなく。キリスト教徒の目からしたら、豚のように生きているが。それが私が燃えているということだ!」

君だけルール適用外・この世で君だけ大正解。相変わらず本質をとらえまくっている。みんなもホンモノが誰なのかよくわかっている。特にファンでなくとも、また宇多田かよまた米津かよなんて、誰一人として言っていないのだから。バタイユもニッコリだよ。


