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尚もすばらしきこの世界

今回は「○○の話をする」というかたちをとらずに、徒然なるままに書いていこうと思う。結果的に、テーマらしきものが表出してくるかもしれないけれど。あらかじめ決めて書くことはしない。たまにはいいと思う。


アメリカの小説家トーマス・リゴッティが、『人類に対する陰謀』の中で以下のように記した。

「孤立・固定・気晴らし・昇華。私たちを支えているあらゆる幻想を払拭しないために、私たちが用いる策略の一部。こうした認知的な二枚舌がなければ、私たちは真の姿をさらけ出してしまうことだろう。鏡をのぞきこめば、皮膚の下の頭蓋骨が皮肉な笑みを浮かべてくるかもしれない。頭蓋骨の下にあるのは、ただ暗闇。つまり、そこには何もない」

なんだかニーチェみたいだね。

全体的に悲観的な内容なのだが(ホラー小説家だからね)。この本には、私的に興味深い部分が複数ある。

「悪意ある無用性」彼は、自ら考え出したこの言葉を何度も繰り返していた。リゴッティによると。人間は、世界の無意味で恐ろしい性質を意識すればするほど、この事実に気づきたくないと思うようになる。

難しいと感じた人へ。これとかどうかな。

「機能しない名ばかりの英雄よりも、夢を語り続ける人形の方がいくらかマシよ」

地球が滅亡する系の映画で定番の展開ーー残りあと○○日、政府は人々に真実を伝えないことに決めたーーとかも、これに近いものがあるのかもしれない。

哲学的悲観主義は、ほとんどの人間に受け入れられていない・深く検討されていない。人間がそれを恐れているため、このようなことが起こるのだと。

いつメンは知っていると思う。(いつも読んでくれてありがとう)私が、ポジティブな何かに帰着しない文章を書かないことを。「あきらめても無駄」という価値観から、そのようにしていることも。

私はリゴッティからこう言われているわけだ。「いいや、違うね。おまえがポジティブでいようとするのは/ネガティブをさけたがるのは、悲観することが怖いからだね。真実と向きあいたくないからだね」

(ささるともまた違う)頬をはたいてくるような何かが存在することは、私にとって楽しいことだ。

「彼には、古の神秘は別の宇宙のためにつくられたものであり、彼が知るようになった宇宙のためではないように思えた。しかし、それらがかつて彼に深い感銘を与えたことは疑いようがなかった」

こちらは、リゴッティの『ノクチュアリー』という作品からの引用だ。

Noctuary 夜に起こったことの記録というような意味。日記でなく夜記という感じ。語源はノクターンと同じ。ラテン語で夜は nox・昼は lux だ。

彼の作品のメイン・キャラクターたちは、そのほとんどが名もなき存在であり。大混乱と殲滅を企む「悪」の集団の高アンペアのライトに照らされながら、ジャック・ラビットのように物事の靄の中をさまよっている。

最高時速64kmで駆けぬけ、3m以上の跳躍を見せる。ジグザグ走行をする。

彼や彼女のまわりの環境を構築する「幻想の騎士団」は、瞬きするよりも短い時間で、歪んだ状態から完全な堕落へと移行してしまう。

意味がよくわからないから、解説してほしいと思う人もいるだろうし。解釈の余地があるのがいいのだから、解説などされたら台無しだと思う人もいるだろう。

前者タイプの人、ごめん。細かい説明はしないよ。


指摘を受け、検討や再検討を試みるのは大切なことであるため、してはみるものの。私には、こういう事実を見て見ぬふりすることもまた、できない。

この過去回より。

思いきり他力本願だが、リゴッティに日本のマンガとアニメの底力を見せてやんよ。

エイジに感動するような感性の持ち主だからこそ、『BANANA FISH』のアッシュというキャラクターは愛されるのであって。

そういう面がなければ、「ただの」ずばぬけて能力の高い生物個体だ。

この過去回より。

幼少期の過酷な体験を経て、機械仕掛けの完璧さを身につけてしまっていた彼に、人間らしい完璧さ(ぬけ感や不完全さのことだ)を再インストールしていったのは、私たちが一般的に友や仲間と呼ぶ存在たちだった。

自己の安全や利益を確保しようとして(これは生物として至極当然のねらいだ)、他人を意のままにあやつり利用するアッシュを見て、ショーターは言った。「人の気持ちをもてあそぶな。そんなことをすれば、おまえは本当の悪魔になってしまう」言われて、アッシュは泣いた。

以降、彼はよく笑うようになった。他人から自分のことを本当に気にかけてもらい、うれしかったのだろう。きっと、人にされてうれしかったことを自分もするようになるだろう。Pay it forward.

この過去回より。

完結後の著者あとがき的なものに、アッシュの好きな日本の歌はこれだというのがあった。

😂金髪碧眼の美少年の趣味が渋くて笑う。

人は、ぬけ感(おもろ!と思える部分など)があって、それで完全体。


リゴッティは、『アリスの最後の冒険』という物語も書いている。

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アリスは私の興味対象で。過去に1度ガッツリと掘り下げていて、その中ではシリアスな話もしていたのだが。その時もこれをとりあげることはしなかった。もう一段階・本格的に暗いという気がして、大テーマにあわないと思ったため。

彼に言わせれば。それも、私が逃げていただけのことなのだろう。

本作に対する人々の感想(主に海外の人らが書いたもの)をネットで読んでいた際、こんな感想文があったのを覚えている。

キャラクターの心理描写があまりにもリアルで、ほとんど不安になるほど。作者はあらゆる恐怖の根源を用いた独特の方法で、キャラクターを苦しめることができている。

日本のミステリー小説はその点においてすさまじいクオリテイーであるが故(主観だが、日本の作品の場合は「謎」なんておまけのようなものだ)、日本人はとりわけ、この種の不安をわかるのではないだろうか。

言わずと知れたセンセーショナルな作品。
野沢尚作品の中で一番おもしろい。
イヤミスと呼ばれるカテゴリで映像化もされたもの。
私はこの作品のヒロインと姉のやりとりが大好きだ。
知名度の高くない古い作品だがおもしろい。

どんな怖い話なのかと思うだろうが。誰かにとっては、なんら怖い話ではないかもしれない。以下、わざと一人称で書き表してみる。

故郷へ帰る途中、父が『不思議の国のアリス』にちなんで自分に名前をつけたことを思い出した。私に何度もこの物語を読み聞かせてきたことも。物語には実在のモデル(アリス・リデル)がいるのだから、あの人は、赤の他人の娘のように自分の娘が育つことを切望したわけだ。うちの子もあの子(よその子)のようだったら、どんなにいいかと。

今度は、なんだかユングの人生みたいだな。

子どもの頃にはあったかもしれない私の特別な創作力は、とうの昔に枯渇している。それどころか。数十年にわたる自ら課した孤立によって、一連の奇妙な神経症や精神病をわずらっている。心理的に・社会的に大人になることを先延ばしし続けた私は、人間性を発達させることなく、ただ年だけを重ねていっている。不滅の理想像(永遠の完璧にステキな少年少女)と比較されるまでもなく、立つ瀬がない。

私じゃん……と思った人はどれだけいるだろうか。

「あの時私がほしかったものは のぞきこんだ鏡の中にうつる 私のようなあなたを捨てる勇気だったのでしょう」

こんなキャラクターが、古い友人の葬儀に参列するために地元へ帰り。棺の中を見た時に嫌悪感を抱くのだ。かつての若々しさは消え去り肥大化した、自分と同世代の人の遺体に。

「厨二病」と茶化されるよりずっと、ささるのではないだろうか。ファッション・メンヘラをしている子とかに。


「どこへ行ってもいいと言われると 半端な願望には標識も全部灰色」宇多田ヒカルほどの語彙力は誰にもないが、みんな聡いのだからわかっている。「いいんだよいいんだよ」の内の何割かは「君のことなんてどうでもいいんだよ」なのだと、わかっている。

有象無象の どしたん?話聞こか? よりはマシだろ。そう信じて、私は文章を書いている。

自信をお金で買えるのは、このくらいの桁の人らだけだ。

「誰かがお金で問題は解決できないと言ってた。きっと、じゅうぶんなお金がなかったのね」「私の髪が好き?ありがとう。これ買ったの」アリアナおもろいな😂

言うて、彼女はいつだったか、老化に必死に抗うのに疲れた・年を重ねる自分を肯定して生きていきたいという主旨の動画を出していたけれどね。

現実のレイトン・ミースターは、苦労人だし努力家だけれどね。

この過去回より。

ジレンマの意味をちゃんと知っているか。(英語ではダイレーマと言う。スペル dilemma だから。はじめて聞いた/はじめて見た人が、知っている言葉なのに何?となりやすい英語の1つ)

ある問題に対して2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態のことだ。

今SNSで一部の人らが、真新しい問題であるかのようにふきあがっているのは、世界にずっと存在してきた Security dilemma だ。自国の安全性を高めようとしてとった行動などが、結果的に国家間の衝突につながるなどして、危険性が高まること。ただの、長年成長できていない人類の代表的な欠点の1つだよ。

相変わらず、怒髪天を衝いちゃってさ。たかだか今今の局所的な話など、なんだと言うのか。人間という生き物の悲しい話は、底無しなんだよ。

たくさん書いてきたため、どの回をピックアップすればいいか自分でもわからない。1つだけ貼っておいた。

このアーティストさんが、撮影カメラの先にいる視聴者らに、Are You believer? と問いかけている。そう、極論、世界の様子がどうかという話ではない。


私は仕事も「そういう」仕事をしている。世界中のみんなでなかよくなれるよう、毎日毎日、種をまき水をやることを長年し続けている。加持にとってのスイカ畑・サリンジャーにとってのライ麦畑だ。ただし、芽吹いたそばから次々と焼きはらわれるそれだ。ネットから指1本で放たれるインスタントな怒りに。

この過去回より。

トランプやイーロンが世界を壊すとか・ガイジンが日本を壊すとか言って、自分らは何も壊していないつもりなのだから、本当すごいよな。

この過去回より。

フランスで生まれた「構造主義」。それに続く「ポスト構造主義」は本当に、言語・文化・社会・人間の認識のあり方について、従来の考え方とは異なる視点から考察をしたのか。2つはそんなに違うものなのか。

フェルディナンド・ソシュールは、言語を、音韻・形態・意味といった要素が互いに関係しあって構成される体系としてとらえ。レヴィ・ストロースは、人類学の分野で、神話や親族制度などの文化現象を普遍的な構造をもつ体系としてとらえ。ジャック・ラカンは、精神分析の分野で、人間の無意識を言語構造によって規定されるものとしてとらえ。

人間の認識や行動は意識的な選択ではなく、無意識的な構造によって決定されると主張した。

この主張は人間の自由意志や主体性を疑うものであるとして、大きな議論がまき起こった。批判から、ポスト構造主義と呼ばれる思想運動が台頭した。こちらには、ジャック・デリダやミシェル・フーコーがいる。

人類は次にこう主張したわけだ。構造主義が言うような普遍的な構造は存在せず、あらゆる構造は歴史的・社会的・言語的な要因によって常に変化し、不安定なものである。

デリダは、意味は固定されたものではなく、常に他の言葉との関係の中で生成されると説き。フーコーは、社会における規範や制度は権力によって構築されたものであり、決して客観的なものではないと説いた。

いや、わかるよ。別に、話自体はわかるよ。

ポスト構造主義は、脱構築と呼ばれる方法論を採用したが。

脱構造:既存の概念や構造をその内部矛盾や隠された前提を暴き出すことで解体し、新たな解釈の可能性を開くこと。

私が言いたいのは、私たちはそんなレベルの高い何かに着手しているか?ということだ。

○○主義、ポスト○○主義。主義草。

仕方ないでしょう。冷笑するしかないでしょう。うちら奪いあいや殺しあいばかりしているくせに、何言ってんだろって。

幼児向けアニメ(アンパンマン)の歌に、「簡単につくられた意図的なマニュアルに全て奪われている」なんて歌詞が出てくる時代だからな。完全にフーコーの Discourse だろ😂


ジュリア・クリステヴァが精神分析の概念として提唱した abjection という用語は、母親など自己と一体であった対象をおぞましいものだとして、排除する行為や状態をさす。

フロイトとラカンの精神分析にもとづき、個人の区別の崩壊に焦点をあてている。

批評理論において、それは、特に社会や道徳といった規範や規則から見捨てられ・切り離された状態を表す。ポスト構造主義において、それは、慣習的なアイデンティティーや文化的概念を本質的に揺るがすものとして探求される。

クリステヴァ自身は、『恐怖の力』の中で、これを歴史的な女性排除と関連づけたりした。

主体でも客体でもないアブジェクション。

アブジェクションのプロセスは、変形した身体やにじみ出る体液とも結びつけられる。血や汗のみならず排泄物や嘔吐物が、内と外ーー封じこめられたものと解放されたものを隔てる境界を破壊すると。

アブジェクションとは流動的な状態であり、意味が崩壊して身体が開放的や不規則な状態になることで、内的外的な形態が芽生えたり突出したりすると。

グロテスクさがやけに心地いいから、不思議だ。

Abjection をテーマにしたアート作品を製作する
イヴァナ・バシッチさん。

ロシアの哲学者で文学評論家で記号論者(記号論の話は今回はしない)でもあるミハイル・バフチンは、ドフトエフスキーの小説を分析する中で、作者がキャラクターたちを操っているのではなく、自律的に対話をさせていることに気がついたそうだ。

バフチンはそのように感じる作品を
「ポリフォニー小説」と呼んだ。

彼は、笑う人間の身体こそが文化と自然の間にある切望された調和の象徴となる、とも考えていた。断絶における事物の漂流としての、笑いという概念だ。

フランスの哲学者アンリ・ベルクソンも言っていた。笑いは社会における柔軟性の具現であり、習慣・反応・態度が硬直化しパフォーマンスを発揮できなくなった人々への罰であると。

フランスの哲学者で作家のジョルジュ・バタイユが、「非知の哲学」と呼んだもの。それを解き明かすカギも笑いの中に見出されるか。

彼はこう信じていた。笑いこそが至高。喜劇文学は、論理や哲学の枠を越え理性の世界に大混乱をまき起こしたため、いやしい地位におとしめられた。

バタイユは喜劇を哲学化しようと試みたのではなく、哲学を喜劇としてあつかったのだ。

私も、笑いがいかに大切かという話を何度も書いてきた。


この先、「プラトンのソクラテス」という書き方をしていくが。こういう意味だ。

この過去回より。

ソクラテスと呼ぶことのできる幻想的な人物像の数々。ソクラテスは詩と同じくらい多く存在する。

「プラトンのソクラテス」は、人間性はあやまちであり治療を必要とする病であると信じていた。つまり。プラトンが、ソクラテスのことを、この恐ろしい病を治す賢い医者だと信じていたわけだ。

たぶん彼は、ディオゲネスにも、君は答えを知っているのかーー?と思っていた。

これも先ほど貼った過去回より。

人類という恐ろしい病を治す方法があり、それは自己認識から生まれるという哲学(という信仰)の核心は、愛と欠乏だ。

人は足りていないものや失ったものを欲する。失ってから気づく大切さなどとは、似て非なるもの。今手元にあるものに対して手に入れたいとは、どうしても思いようがない。もっともっと欲しいというのとも、また少し違う。

このパラドックス感。プラトンは対話篇の中で、何度もこの議題に立ち返っていたが。どの時代の誰にでもわかるような話だ。

※追記。私は、この足りないものを欲する話がこういう話につながっているように、思えたりまでする。私的に大変興味深い。

一見すると手に入っているように感じられる/与えられているように思える時でさえ。エロスは、所有欲というかたちで、在り続ける。

プラトニック・ラブ(プラトン的な愛)と言いはするが。プラトンは、性愛を経験しないことを推奨してなどいなかった。生涯独身ではあったが、愛した男のもとへは足しげく通っていたし。

本音と建前とまでは言わないが。彼の公的な主張は、ざっくり言って、こうだった。外見より中身を愛することがすばらしくて・誰か人1人を愛するよりも美のイデアを愛する方がすばらしい。


プロティノスはこう説いた。

人間を含む万物は一者(神)から流出したものであるが。人間は、その万物の内の美のイデアを愛することによって、結果的に一者を愛する。一者の領域に、エクスタシーを経て、近づいていくことができる。

いい。いきなりうなづける。私プロティノス好きなんだよね。

元々、こういうものが自分にとって尊いのだという何かがあって、それをもっているように見える・感じる誰かを好きになるというのは、すごくわかる。エクスタシーを経てーーの部分もとてもいい話だ。1人で想っていることと2人で関わっていくことには、どうしても、大きな違いがある。私は片想いでもいいんだもん!とか、そういうの今はいいから。改めて言わなくていいから。「どうしても」と書いてあるだろ。

彼的には、終始、神の話をしていたのかもしれないが。この人の「神」のとらえ方は独特だったから、愛が究極の領域に行けるみたいな感じで、この感想でかみあってるんだ。

この概念も(真逆に近く)ねじ曲げられ、男女間の禁欲的な愛を示すようになっていってしまった。

このあたりを詳しく読みたい人は、これらの過去回へ。

プラトンもプロティノスも、神々は愛さないとしていた。神々の欲望は全て満たされているため。


歌詞が難解だと言われている有名な曲『A  Whiter Shade of Pale』の話をする。

比較的無名だった英バンド Procol Harum によるファースト・シングルは、楽曲自体のすばらしさと当時最も難解な歌詞で、英国で1位・米国で5位を獲得。60年代を代表する不朽の名曲の1つとなった。

1995年に1分以上も長いバージョンがリリースされ、当初世に出されたもの(歌詞)は不完全だったことがわかったのだから、難解と言われていたのも当然のことなのだが。

1967年にフルでレコーディングされなかった理由は、長すぎるとウケないと判断されたためだった。60年代にラジオ局のDJに敬遠されることは、大問題だった(かけてもらえなければ人々に認知されない)。

歌詞を書いたのは、バンドのメンバーのキース・リード。彼は、インタビューにこのように答えたことがある。

あるパーティーで、あなたの顔色はさらに青白くなっていると、誰かが誰かに言っていて。「より白い青白さ」というフレーズが思い浮かんだ。そこからつくっていった。男女の別れ話に独特な雰囲気を加えたかった。「粉屋が物語を語ったように」という一節は、チョーサーとは全く関係ない。

『カンタベリー物語』のWikiより。

本人がそう言っているのだから、仕方ない。こんな文言が偶然かぶるわけないだろ笑、とは言わないでおいてやる(言ってるけど)。出だしの We skipped the light fandango は tripping the light fantastic からだろうから、こちらも、ミルトンが元ネタだとも言えるわけで。

まぁ、奇をてらったのだろうよ。彼だけではない。ボブ・ディランにはなれない無数の人らが、逆立ちをしてみていた時代だ。(これは伏線だよ)

この曲を好んでいないような書き方をしてしまったが、その逆で。傑作だと思う。聞くとささるのだ。

興味深いことに。世界中の多くの人たちが、この曲に対して、酒に酔って性的な冒険に耽溺した瞬間をとらえたものーーというシンプルな解釈を拒絶してきた。それどころか、さまざまなメランコリーのニュアンスを喚起してきた。

人は見たいように見て、聞きたいように聞くものだからな。おそらく、切ない感じのメロディー・ラインと苦悩に満ちた感じの歌声が、私たちの願望を呼び起こす/露呈させるのだろう。世界がどのようであってほしいと願っているか、大勢の心が見えるような気がする。


言葉は断片のサイケデリックな万華鏡だ。あらゆる情報源(現実のものもあれば想像上のものもある)からの暗示を受け、キラキラと光る。言葉の意味の一部は、従来の意味で意味をもつことではなく、意味の慣習に挑戦することだ。言葉を説明するには喚起力が必要。

また。黙っているというのもとても美しいことだ。話さない(かくかくしかじか説明しない)という選択肢が私にとって心地のよいものだから、そのように思うだけかもしれないが。あれほど多くのことを語っていたシェイクスピアも、何も語らないことに最も美しい詩を注ぐことがあったし。

前段の話に戻るが。バンド名からして謎めいていた。プロコル・ハルム。プロデューサーだか友人だかが飼っていた猫の名前らしい。

私たちは物事に名前をつけるが、それが何なのか実際にはわかっていない。そういうことが多々ある。


キリスト教徒になりたかったがキリストだけがキリスト教徒であることを知った、キェルケゴールのように。哲学者らは、自分が望む者には完全にはなれないことを知っている。哲学はそれが欠くものによって定義されるからだ。

自らの犠牲によって他者の幸福に奉仕する覚悟が、人間に見出され得る最高の美徳だとしても。善の概念が統一や共有されていない社会的な場では、それは、自己を否定するストイックな姿勢の単なる再現にすぎないことが判明するだろう。

アリストテレスは無矛盾律を三通りに定式化したが、その違いは明示しなかった。私はこういうものに対して、小難しい無駄口だなとまで思ってしまう。

人様の仕事に物申したのだから、
最低限の説明書きをする。↓

存在論的定式化:いかなる対象にも同時に同一の特徴が帰属しかつ帰属しないことはできない。論理的定式化:2つの衝突する(矛盾する)命題が同時に真ではありえない。心理的定式化:同一の意識において、2つの矛盾命題に対応する2つの信念行為をなすことはできない。

存在論的矛盾律を最終的で証明不可能な法則だと主張したが、そのことを証明しなかったし。対立命題に対応する信念行為の両立不可能性を示せてもいなかった。

ライプニッツ曰く。神は(人間も)、無矛盾律と充足理由律という2つの基本原理に従って行動する。前者は、一種の形而上学的必然性を表し。後者は、一種の道徳的必然性を表す。

神が道徳的必然性に従うという考えは、神が創造したかもしれない可能宇宙に制約を課すように思えるし。そのような制約は神の善良さの尺度にすぎないように思えるが。いや、ツッコミを入れるのはやめよう。すると、この世界は、あらゆる可能性の中で最良の世界というわけだ。

ニュートンにとって、世界は、「死んだ」物質で構成され・宇宙のあらゆる地点に作用する遍在する神の意志によって受動的に動かされている。

ホッブズは、アリストテレスにさかのぼるスコラ哲学の見解(意志とは行動をひき起こす理性的な力であるという見解)に対抗した。人間は、空腹になるタイミングを決定することができないのと同様に、自らの意志を決定することができないと。こんなふうに。

ホッブスの社会行動の説明は、ガリレオ物理学に見られるような類の説明によく似ていた。孤立した部分(利己的な個人の運動)は、一方では各部分の基本的な性質(自然に与えられた傾向や嫌悪や計算能力)によって・他方ではそれらの相互作用という事実によって、記述できると。そのため、目的論を必要としなかったのだ。

意志ではなく知性や思想が重要だとする、多くの人々が存在する。

まじ、ガラスの割れる音がしない?

何が言いたいって?みちゃみちゃやんけと言いたいの。矮小化とか言わないでほしい。私がそう感じるのだから仕方ないだろ。


唐突の三島由紀夫、と思う人が少ないことを願う。今回ずっとこれ系の話をしてきただろ……。

「私は今までどうしても 日本の知識人というものが 思想というものに力があってそれだけで人間の上に君臨しているという形が 嫌いで嫌いでたまらなかった」「全学連の諸君がやったことの全部は肯定しないけれども ある日本の大正教養主義から来た知識人のうぬぼれというものの鼻をたたき割ったという功績は 絶対に認める」

この研究者の女性(有名な方だが知らない人は動画を参照)が、川端許すまじと思うのは当前だ。いや、撮られている中でそうはおっしゃってないけれどね。50年間考え続けていると。そうなるよな。つらかろう。

そもそも、「真実はいつも1つ」ではないが。深く関わりあった者どおしには、特有の真実というのがあるし。外野からなんと言われようと、それはあっていいと私は思う。

彼はこのように語っていた。(一言一句そのままではないが、主旨は違えていない)

体験というのは、九死に一生を得たとか・エベレスト登頂に挑戦したとか派手なことだけをさすのではない。とるにたらないことが、時に、人生で大きな意味をもつようになる。そうなるように、自分自身でささいな体験にも意味をもたせていけ。さまざまな体験をして・それらを重要なものにできてこそ、すばらしい(今風に言えば)クリエイターになれるのだ。

宇多田ヒカルは、三島の『豊饒の海』を読んでからしばらく、『唯識三十頌』の写経をしていたそうだ。


最後に無理やりポジティブにつなげるなよと、リゴッティにため息をつかれてしまうかもしれないが。結局は、知らんがなで。私には私の言いたいことがある。

得体の知れない何かにつき動かされ、より多くを渇望し続ける私たちは、もはや私たち自身の手に負えていないが。結局、私たちは一周して「事件現場」に戻り、腐敗や衰退の中にある消え入りそうな小さな希望を発見し直している。

私たちが日々していることは、仮面の裏には何もないと確認することばかりではない。