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イノセント・エクスタシー

古代世界では。人間の性は、部族の生存にとって極めて重要なものであるだけでなく、快楽という神々からの贈り物であると考えられていた。そういうケースが多かった。

子孫を残すことは伝統を受けつぐことにもつながると。古代の神々と子孫を残す女神は対で描かれ。法典には、性行為は神々が推奨する行いとして示されていた。

紀元前23,000年頃のものと推測されている。
人類史の99%をしめている、石器時代だ。
割合をリアルに書いたら、先史時代以外は見えないくらい枠が小さくなってしまうね。

性の利点は幅広く受け入れられていたわけだが。より厳密かつ具体的に言うと。古代人は、全ての身体的特徴は精液からくると考えていたりもした。すると、女性は胎児を育てるインキュベーターを提供するのみ。つまりは孵卵器である。

まどマギのキュウべは、魔法少女を孵化させ魔女を生み出す的な意味でインキュベーターという設定だ。

そんな古代の状態から、人類は知識を増やし、性に対する正しい解釈がなされるようになっていった・女性は妥当なあつかいを受けるようになっていったーーと。直感的には推測するが。

残念ながら、世界の多くの地域でそのようにことは運ばなかった。


今回は、初期のキリスト教が、性に関して独自の行動規則を開発していった流れを解説していく。

悪の根源は偶像崇拝にあり、行動や性的逸脱を生み出しているーー。このような概念が発生した原因は何だったのか。背景にどんなことがあったのか。


こういう記事↓を読んだ(同じ方がお書きになったものを複数読んでみた)。

この方はマクロに大事なことをとらえておられる。それ以上に大切なことなどない。けれども。起源がわからず、ある程度モヤモヤしていらっしゃるようではあった。

この方の努力不足ではない。仕方ない。バカ正直に、教典に裏事情(隠しておきたい意図など)が書いてあるわけがない。

当たり前って本当に当たり前なの?っていうね。
何より、この精神がすばらしい。

一例として。こまけぇこたぁいいんだよ!タイプと詳細が知りたぁぁぁいタイプが奏でる交響曲で、世界はまわっている。

私は両タイプに向けて文章を書きたい。

動画をお借りする。


では、解説していく。

世界の終わり、〇〇が行う最後の審判によって、生者も死者も含めて全人類の善悪が判断され選別される。悪人は全員、地獄へ堕ちる。善人は天国で生き続ける。

〇〇には、ゾロアスター教・ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神をあてはめることができる。これら全てが終末論的世界観をもち、「最後の審判」の大筋は同じであるため。

紀元前千年頃に古代ペルシャでザラスシュトラ(ゾロアスター)が創始したゾロアスター教には、最高神アフラ・マズダーが存在するため、一神教のように思えるだろうが。善神や悪神など複数の神々も登場するため、実際は一神教とも多神教とも言える。

(キリスト教にたくさんの天使が出てくること。これをあまり深く考えていない人は多い。一神教とは?と疑問に思う方がセンスがある)

セム的一神教:ノアの3人の息子の1人セムの子孫がセム族であると。メソポタミア・パレスチナ・アラビアの歴史に登場する人々が、それにあたると。そこから誕生した一神教をこう呼ぶ(アブラハムの宗教とも呼ぶ)。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教。

天地創造・最後の審判・天国と地獄・洗礼の儀式……は、ゾロアスター教から学ばれたものなのだ。

公式HPにもそう書いてあるらしい。
ごめん、確認してない。

今回の本線にはそこまで関係がない話。時系列的に書いた方がスッキリするかなと。前提知識のない人が読んでもわかるように、というのが私のスタンスだから。ごめん。


最初期のキリスト教はユダヤ教内部の改革運動だった。キリスト教徒はローマ帝国中にいた多くのユダヤ人グループの1つだった。イエスもシナゴーグ(ユダヤの教会)に通っていたが、その中で「思うところ」があったというわけだ。

ガリラヤ地方にある古代シナゴーグの遺跡。

イエスの言葉は次第に人々をひきつけ、集まった弟子たちは集団を形成した(組織化した)。当然する。改革派だったのだから、「異邦人世界」へも向かったに決まっている。新規フォロワーが増える見こみが高い。

人口動態の変化や制度的階層構造の導入とともに、キリスト教教義の創設が起こった。キリスト教がユダヤ教から分離した。

異邦人(非ユダヤ人)が、シナゴーグ活動やユダヤの祭りにひんぱんに参加していたという。だが。シナゴーグが異邦人を積極的に改宗させたりすることは少なかった、と言われている。

それ以前の世界は、もっぱら、いろいろな神がいる中で各自にイチオシの神がいるスタイルだったわけだし。

他の神々を禁じーーユダヤ教より前に「一神教」が発生しそうになった例。

「神を畏れる人々」。イスラエルの神を敬いながらも、地元のカルトに参加し続ける人々のことを意味していた用語だ。このような言いまわしがあったことからも。A教からB教やC教に鞍替えすることやそれらに同時に興味をもつことは、たしかに、ユダヤ教以降もある程度は容認されていたのだろう。

もうじゅうぶんにフォロワーが多かったから・目立ったライバルが存在しなかったから、というのもあったのだろう。強者のよゆう的な。

ある異邦人は、そういった集まりの中で、誰かからイエスの話をはじめて聞いたかもしれない。そして、イエスに興味をもつようになったかもしれない。思わぬところから人気に火がついた・予想外の新規リスナーがついた。


ここから先、3つの過去回の文章を貼りながら書いていく。(どの文章がどの回に該当するか逐一表さない。気になったら全部読んで)

ユダヤ人の多くはイエスが救世主であることを受け入れなかったため、キリスト教の独立が明確になるにつれ、必然的に異邦人の信徒が多数をしめていった。

現実的な話・裏事情的な話は、こんなものだ。

モーセの法律(以下参照)の中には、殺人はダメ・窃盗はダメといった内容と並んで、偶像はダメというのがある。

「あなたは自分のために、刻んだ像をつくってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をもつくってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない」出エジプト記20章4節・5節

ユダヤ人の歴史には、紀元前722年のアッシリアによる征服・紀元前587年のバビロニアによる征服など、当時すでにいくつかの国家的災害が含まれていた。

イスラエルの預言者がこんなふうに説いた。偶像崇拝を許したイスラエルを罰するために、神が外国の国々を利用して、こういう事態になった。

偶像崇拝に対する罰、重🥺

私としては。偶像について、今まで以下のようにつづってきた。

偶像はダメというのが、いつしか誰かから、うちの神だけが本物でよその神は偽物ーーというような曲がった使われ方をしたことは、残念なことだ。そんなくだらない話にするなよな。

「おまえは東大……いや、『銀河鉄道の夜』を読め!」

以下は、ベースとなった紀元前の様子だ。

以下は、ローマ帝国がキリスト教徒を迫害していた頃の様子だ。

復活した人々の描写の特徴と言えば、無傷の裸体だ。アウグスティヌス(彼のことは後で詳しく書く)によって強調されたのは、死亡時の肉体的状態は復活に無関係という点だ。動物におそわれたり火で焼かれたりしても、大丈夫だと。

泣ける。

この絵の状態になった人は、肉食動物に食い殺される直前、この信仰にすがったはずだ。動物だって、飢餓状態でわけのわからない場所へ連れてこられ、怖かっただろう。

キリスト教の教父と呼ばれた人物たち(著述家でもあった)は、キリスト教徒が善良な市民であることを証明しようとした。

1つの手段として、キリスト教徒の生活様式を強調した。もちろん、ローマ人から好まれるであろうものをだ。


ローマやギリシャの哲学の学派は、肉体と魂の関係を分析し、このような考えにいたっていた。肉体の衝動が人生を支配すべきではない・より高次の要素である精神(魂)に焦点をあてるべき。

ローマやギリシャの学校が、生殖の重要性に反対することを教えていたという意味ではない。結婚してからの性交が推奨された・不倫はご法度だったという感じ。

(紀元前334年に東方遠征に着手したアレクサンダー大王は、中東にギリシャ文化をもちこんだ。古代ギリシャの性に対する価値観は、けっこうオープンなものだった。ガチガチに厳しくはなかった)

後々、禁欲主義やアパティアの概念へとつながっていった。

禁欲主義の具体例:男性の飲酒や性行為をよしとしない。アパティア:情念や欲情に支配されない心の在り方。ストア派の思想では、感情(パトス)を理性(ロゴス)で制御しアパティアの境地にたどり着くことが重視されていた。

時を経て、ゆるくなっていったのでなく。おかたくなっていった。


1500年代の絵でもこうだもんな。

不自然でめちゃくちゃおもしろい。あと顔w
1528年ルーカス・クラナッハ作
だから不自然だって笑。また顔もおもしろい。
1524年ハンス・バルドゥング作

現代でもまだこうだもんな。

2024年BBCの記事
そもそも、実際のイエスはこんな見た目ではないのだし。別にいいだろ。自分勝手だよな。

これが偶像なのではなく。こんなことに怒る・こんなことで争うというのが、偶像なのだ。

This👆🏻

このように。キリスト教がはじめから自発的に、悪の根源は性的逸脱を生み出す偶像崇拝にあると、そのような概念を抱いていたわけではないと言える。

世界各地の「距離が縮んでいる」今。異質な価値観をもつ人と出会う機会がみんなに増えている。異なる価値観と向きあい、自分なりに消化したり個別に対処したりする力は、今や必要不可欠なものになっている。

一般的に、価値とは、良いこと悪いこと・好ましいこと好ましくないことなどの程度を表す。私たちのものの見方の根底だ。また、規範とは、何をなすべきかという行為や判断の基準に関わることだ。

価値と規範は、地域や文化固有の慣習や宗教や政治体制によって、構築される。

成長の過程を誰もが通ってきたにもかかわらず、大人は子どもの頃の気持ちを忘れがち。ベテランになると、初心者の頃の悩みがわからなくなりがち。


今から系統の異なる話をするが、後でつながる。

内集団バイアスと呼ばれるもの。内集団への協力的行動と外集団への攻撃的行動。

内集団への協力性と外集団への攻撃性はセットで進化した、という説が存在するのだが。

ある先制攻撃行動を測定した実験で。内集団に対してと外集団に対して、攻撃率に差は見られなかった。米国でも日本でも老人にも子どもにも、同様の結果が出た。外集団に対して攻撃しやすいというわけではないことは、他の研究でも多数示されてきた。

内集団/外集団と言うよりも。協力が生じる状況/攻撃が生じる状況で、進化的基盤や心理的メカニズムが異なるということなのではないだろうか。

人々は生活の中で、身近な他者とは助けあわなければ痛い目にあうということを、否応なしに実感している。(相手が自分の属する集団を知らない場合。つまり、協力しなくても内輪にバレない場合。協力しようとする意識は働かないという見解もあるのだが)

たとえ、内外集団という概念をキープするにしても。「外集団への攻撃性は人間の本能なのか」「外集団への攻撃性はどのような条件で生じるのか」というように見ていかないと、あまり意味がないだろう。

領土の奪いあいで争いが起こるなど、外集団への攻撃性が顕著に発揮されるものではなく。たとえば、絵や音楽の好みでわけられた最小条件集団に。どんな条件が加わることで、外集団への攻撃性の可能性が出てくるのか。(絵や音楽の好みには、百年におよぶ血なまぐさい戦闘があるわけではないし、どちらかが極悪人だというようなこともない)

関連する実験からわかったことなのだが。多数で少数を攻撃する3対1というパターンは、1対1・1対3・3対3の全てに比べて、非常に高い攻撃率を示すことがわかった。

もし、「集団と集団が争いやすい」のであれば。1対1よりも3対3の方が攻撃性などが増すのだろうが。そんなことは全くなかったのだ。 

攻撃力の非対称性にカギがある、と考えてよいだろう。

人間が内集団と外集団を区別してあつかう傾向は、たしかにあるが。それは、内集団に対する協力の文脈であって。外集団への攻撃の文脈ではない。少なくとも、攻撃の方は限られた状況下や条件下(非対称性など)で発生するもの。

おそらく、こういうことなのだと思う。

それぞれ、自分の体験談で考えてみてほしい。嫌な話だが、イジメが一番考えやすいものなのではないか。その時の心理など。あなたが、その被害者側か加害者側かは知らないが。


(すごくざっくり言うと)キリスト教がエロに厳しいというのが定着した原因について。私的には、まだまだ解説しきれていないという気持ちだ。複合要因的だったから。

1世紀までは、古代のカルトも人気があった。入会の儀式があり。参加者らは、その内容について秘密にするよう言われていた。

部外者が、カルトの儀式には逸脱した性行為や酩酊が含まれていると主張。図星だった。そこでは、当時の社会的な慣習が一時的に無視され。女性が公然とワインを飲んだりしていた。

秘密の儀式を表していたギリシャ語の orgia は、キリスト教徒によって、土着の宗教的な祭りを異常な乱交として表現するための用語に変えられた。

抑制されない踊り(笑)。仮面をつけて火の下でか。動物の生け贄のあつかいもグロそうだ。的外れというほどではないな。
これがクールだったんだろうな。正直、少しわかる。

改めて調べてみたら。ラテン語・スペイン語・イタリア語・ポルトガル語・エストニア語・ガリシア語で、orgia = 乱交だった。思った以上にそれでイメージが定着していた。

また、現代人にもわかるシリーズだ。不良(悪魔)とつるんでいると、学園から退学処分を受ける(楽園から追放される)し、人生の道をふみ外す(地獄へ堕ちる)ーーと生徒に説教する教師だ。

言い方よ。そこに愛はあるのですか。
これでは、盗んだバイクで走り出してしまう。

一部のユダヤ人が、異邦人(非ユダヤ人)を説明するため悪徳リストを作成。使徒パウロもそのリストを活用して、こう記した。

不法を行う者は神の国を受け継がないことを知らないのか。思い違いをしてはいけない。不品行な者・偶像を礼拝する者・姦淫をする者・男色をする者・盗む者・貪欲な者・酒に酔う者・そしる者・略奪する者は、いずれも神の国を受け継ぐことはない。(コリント人への第一の手紙6:9-10)

リストアップされた「悪徳行為」は、キリスト教の標準となっていった。パウロ大先生が書けばそうなる。

この席にもパウロはいない。

パウロとエペソにつながりがなかったらーーと考える時、この世の真理を垣間見るような気持ちになる。アインシュタイン「偶然とは神が匿名を希望しただけである」。芥川龍之介「運命は偶然よりも必然である」。私が何か言うならこうだ。「人が過去をふり返り、これは偶然あれは必然と呼ぶだけ」

異教徒に関するキリスト教文献は論争的なもので。自らの主張を裏づけるためにあったようなものだ。証拠と呼べるしろものではない。


こちらと違ってあちらはダメ、という主張をかかげる時。だらしないから・不真面目だからというのは、もち出しやすい。

また、現代にあてはめて見てみよう。刺青・タトゥーで考えてみるのはどうだろうか。(流れ的に、ブラック校則でもいいなと思ったのだが。エールを送りたい女性がいて)

海外ならいざ知らず、日本では常識的にアウトでしょ?と言う人がいると仮定して(実際いるだろう)。勝手にディベートを開始する。

「普通の家庭ではない」「それでも日本人か」

「日本では」「常識的に」その人の知識が少なく・思考が足りないだけであって、この場合、そのどちらも間違っている。

こちらからお借りした。

これでまず、「日本では」という部分を否定できただろう。ほぼ裸では見苦しいから刺青を身にまとっていたらしい。人目をはばからないどころか、人目を気にしての行為だったと。こういう話を外国人にすると、他人への気づかいが異次元!なんて日本らしいんだ!となるくらいだ。

浅草にあるこのショップは外国人客でにぎわっている。私の印象では男性客が多いが、女性ものも売っている。

このキャラクターには実在のモデルがいる。

幕末の江戸の火消し、新門辰五郎である。

こちらからお借りした。
アニメ1期10話は私のお気に入りだ。
彼のエピソードが十話目であることもあえてでは?
こういうお話だったよね?戦闘の形勢が不利になってもシスターの到着を待つ。最後に残された人間の素晴らしいものだ。遺族のためなんて設定なの?他ならぬ本人のためだ。意味がなくない。逆に意味しかない。

前述した攻撃の非対称性の話を思い出しながら、次を読んでほしい。

6年前の記事。今はもっと増えているはず。私の住んでいる所だと、近所のファミレスやコンビニへ行ってもオシャレ・タトゥーを入れた日本人がよくいる。
こちらからお借りした。

イジメっ子も、数が多くなるとイジメることができなくなるのだ。安息期間は、次のフェーズ = 二項対立になるまでかもしれないが。

常識の話はしょせん数の話である、という理論をもってして。「常識的に」という部分も否定できたと思う。

最近SNSで、この女性に多くの心ない罵声があびせられているのを見た。私の感情は喜怒哀楽の怒になった。

その悪口、ファイナル・アンサー?と思う。(どんな人なのだろう)好奇心のない者は、(知ってみたい学んでみたい)リサーチも勉強もしない。とびぬけた天才でもない限り、人間の知能に大差などないが。こういうことの積み重ねで大きな差がつくのだ。

教師と生徒ネタを何度もはさんでいたのは、
ここにつなげたかったから。
こちらからお借りした。

すごくステキだ。応援したい。


休憩は終わりだ。キリスト教の話に戻る。笑

古代ローマにおける女性に対する支配的な考え方には、女性は男性を常に誘惑して支配しようとするというのが含まれていた。女性は男性よりも弱いため、誘惑が唯一の手段なのだと。

キリスト教の著述家たちも、女性の性質の源について考察し。エデンの園からの追放につながった出来事を再解釈した。

新約聖書のギリシャ語原文には、ポルネイアという言葉が25回出てくる。売春婦のことだ。

英語の聖書では、性的に不道徳であることとは fornication(姦淫)をすることだとされているが。これの語源はラテン語 fornix だ。屋根とかのアーチのこと。売春婦たちは、悪天候だとアーチの下で客待ちをしていた。湾曲表現で、売春宿を訪れる男性を意味するラテン語 fornicare ができた。

ミルトン「彼女は神の家と呼ぶ淫らなアーチの下で、売春宿の傭兵に自分の体を明け渡した」

ダンテの『神曲』で
姦通の罪で地獄に堕ちたとされる2人。

現代の英語の辞書にも、「偶像のために神を捨てること」も表すと書いてある。

少数だと攻撃されやすい話をふまえると。娼婦がやり玉にあげられるのはわかる。(私がそれをストレートによしと思うわけではないが)

神は生殖の手段として性交を創造したのだが。誘惑によって欲望が園に入りこみ、人間の性交に組みこまれてしまったと。欲望の罪こそが、神がキリストをこの世に遣わし・罪を償わせ・死なせるはめになった根本原因だと。

これが悪い決め手のようなものだったのだが。これもまだわかると言おう。

堕落の責任をイヴだけに負わせはじめた。ヘビを悪魔的な存在としてみなすようになった。→ 悪魔が巨大な男根でイヴを誘惑した!

( ´・ω・`)

ヘビも泣いちゃうだろ。この子かわいすぎるな。

元の、女性は男性を常に誘惑して支配しようとする・女性は男性よりも弱いため誘惑が唯一の手段といったアイディアに寄せていくと、どうしてもこのようになってしまう。


キリストが「アダム」の罪をつぐなったように。イヴの罪はマリアの人生でつぐなわれた。

大作家パウロは、神の王国が間近にせまっており、さまざまな社会的慣習がくつがえると信じていた。婚約中のカップルには結婚しないように・未亡人には再婚しないように、言って聞かせていた。パウロの教えはまたも普遍的な戒律として受け止められ。女性の理想 = 生涯処女という下地ができてしまった。

2世紀には、マリアの背景に関する物語が生まれていた。マリアは、神殿で司祭に育てられ・悪と遭遇したことがなく・永遠の処女。必然的に、女性がめざすべきモデル・ケースがこれになってしまった。

女性が長期間不妊である場合、性行為を完全にやめなければならなかった。更年期に入った場合もだ。欲望由来・娯楽目的になるからだ。

「あまった」娘は若い内に教会にささげるようにと、人々はうながされた。処女が物理的に存在することにより、教会は神聖みをおびた。

未亡人は、相続した資金でキリスト教コミュニティーの慈善活動に貢献することを期待された。

修道制度ができた時、女子修道院も設立された。彼女らは、特に強く、悪魔の誘惑に対して肉体をきたえる禁欲主義を求められた。

教父たちは、人間の性交に関する規則を定めた。許される体位は1つだけ:男が上で女が下。後に、キリスト教宣教師がアメリカやアフリカやアジアの原住民たちに出会った時、「この体位の名前は正常位だ」と話しかけた。もはやギャグだろ😂

今この話をすると、一番わかりやすいだろう。

『炎炎ノ消防隊』のシスターには意味がないと思う人は、まさか愛のためになど性行為をしてはならない。繁殖しないのなら・実利をともなわないのなら「意味がない」のだから。祈りなど目に見えない無駄なものだと言う人は、恋などという「目に見えない無駄なもの」を一生するな。それなら理屈が通る。


キリスト教は2世紀に制度的な階層構造を確立したが、後のバチカンのような中央権力はなく。各コミュニティーに独自の教えが存在した。

その1つにグノーシス派があった。(グノーシスについても詳しく書くとなると、最低でもプラス5千字はいる。いつかでなく次回、必ず次回書く)

グノーシス主義を異端だとしながらも。教父らは、自分たちの階層構造にその思想をとり入れたりした。

彼ら彼女らは、邪悪な肉体の創造を排除するために独身と貞潔を実践していた。これを採用して、キリスト教聖職者に独身が推奨されるようになった。 

司教たちは教会に身をささげるために、結婚することや子どもをもつことをせず。性的罪に汚されていない神聖な雰囲気もかもし出した。これらから、聖職者は他の信徒らよりも優位に立つことができた。

禁欲主義を推進する論文が書かれた。食事についての項目では、肉を食べると動物的な性質におちいり・ワインを飲むと性的衝動にかられると解説された。肉体の衝動を制御し抑制することが、精神生活の理想となった。


たとえば、こんな感じの絵よりも。

私はこんなことが言いたいのではない。

よほど今回のタイトルにあうキャラクターだ。

サイコ・キラーなのだが。深いトラウマを抱えており、同情せずにはいられない。

「いつものように、メロンの葉のタトゥーを入れてほしい。下半身にヒョウの模様が出はじめている」

イチジクは果物だが。メロンは果物にも野菜にも分類される/果物にも野菜にもなりきれないもんな。

ふと、『レッド・ドラゴン』の殺人犯ダラハイドを思い出したりもした。

角×タトゥー×トラウマでね。

私は『ビースターズ』を途中までしか知らないのだが。

「海。みんな食べて食べられる。普通の生活」肉食動物と草食動物の恋愛をベースにした物語で、これに帰着させるのは非常に難しいことだろう。「肉食も草食もない。私たちだけの儀式だよ」この時点では、成り立っているような矛盾しているような印象だ。一体どんな結末を描き出すのか。

日本のマンガは本当にすごい。


ヒッポのアウグスティヌス(354年~430年)について。過去にもとりあげたが、今一度。

残念。パターン青、使徒です。

今まで書かれていた時系列の、このあたりにあったことかな。などと考えながら、読んでほしい。

かつて、アウグスティヌスは女性と同棲をしていた。2人の間には息子もいた。独身の司教になることを選んだ後も、「それ」について考えるのをやめることができず。善悪の何たるかがわかっているのに、人間が悪事や罪をおかしてしまう理由について、考え悩んだ。

どういうことかと言うと。

アウグスティヌスとその女性は、15年間ともに暮らしていた。結婚しなかったの?と疑問に思うだろう。どうやら、その女性は身分が低かったようなのだ。元娼婦かもしれない。出会いは売春宿だったのかもしれない。彼が大学教授になれるというタイミングで、2人は別れている。母親が押しかけてきて、社会的に認められない結婚を解消し合法的な結婚をしろと、強くせまったそうだ。彼はそうした。

来シーズンはじまるドラマだと言われても違和感がないくらい、現代人にもわかる展開だ。

アウグスティヌスの『告白』は、西洋における最初の自伝と言われている。告白書の中で、10代の頃に近所の木から果物を盗んだことなども語っている。貧しくも飢えてもいなかったのに、自分はなぜそんなことをしてしまったのかと。

同時に、エデンの園からの堕落の答えを求めてもいた。情熱的な性交という邪悪なことはなぜ起こったのか・神はどうして性器を創造したのか・「産めよ、増えよ」とどう整合性を保ったらよいのか……など。

神のことも自分自身のこともわからず、肉欲と罪悪感の狭間で、ごちゃごちゃに。考えぬいた末、このような結論にいたった。

もともとこの行為は、歩いたり食べたりすることのように、人間の自然な機能にすぎなかった。ならば、罪とは、性交に欲望をもちこんだことだ。

今回のイントロにお借りしたのと同じ方の文章。

マタイの教えに近い感じに、帰着したわけだ。創世記も、情熱を制御できないことへの恥と関連づけて、この行為が人間の死の原因であるとしていたし。


だが。アウグスティヌスは、欲望の罪に独特の要素を加えた。

全ての人間の祖先として、最初の性交行為は胎児に黒い染み……原罪のしるし……を残した。胎児は性交によって受胎するため、この染みは子孫に受け継がれたと。なぜ人間は悪事をしでかすのか。私たちがそれを継承したためだ。

そして、人類を罪に定められた大衆と呼んだ。

生まれついての悪。暗いね。

アウグスティヌスは、アダムとイヴの物語の解釈を永久に変えてしまった。

著作はヨーロッパ中に広まり中世教会の基礎となった。西洋の文学や芸術の標準にもなった。(元アウグスティヌス派の)ルターは、その考えをプロテスタントの改宗に応用した。国民国家が出現すると、民法はこれを憲法に活用した。

アウグスティヌス「このように私は病み、苦しみ、いつもより厳しく私自身を責めながら、完全に鎖が断ち切られるまで縛られた状態のままで、のたうちまわっていた」

歴史を学ぶと。その場に自分がいるような気持ちになって、感情移入しない?私はよくする。みんな、思うところは同じだと思う。もうエロ警察なんかやめようよ!無理があるって!このままじゃあ誰も幸せになれないよ!!


聖書は、ごくわずかな例外をのぞき、裸を恥ずべき品位を落とすものとして描いている。

例)創世記9:21  出エジプト記20:26と32:25  イザヤ書47:3  エゼキエル書16:35-36  ルカによる福音書8:27  黙示録3:17と16:15と17:16など。

裸が恥ずべきものとされていないのは、エデンの牧歌的な情景を描写している箇所だ。

では、「楽園に戻ろう」か。

もしくは、刺青をまとおうか。

ある学者が、「聖書の原則にならい。ほとんどの社会では、公然わいせつは否定的な意味あいをおび、タブーとされている」と述べていた。

何を言っているのだろうか。聖書がなくとも、私たちは公然わいせつなどしないのだが。そんな全部が宗教の力じゃあないだろ。


最後に、関連する芸術にふれよう。

まずはこちは。

ガラスの盾におおわれたイヴの口には、聖餐用のウエハースが。女は黙っていろという風潮を揶揄しての描写だと、推測されている。

ウエハースについて解説しようと思って見つけた
画像にほっこり。

ぶっとんでいる(定期)。さすがは、我が道をゆくボス先生だ。

次はこちら。

今のうちに笑っておくことをすすめる。すぐに笑えなくなるから。

彼女は処女殉教者のアガタ。カトリック教会のミサの中で名前が読みあげられる女性の1人。

貴族との結婚を拒否したために、投獄され拷問を受けた。拷問で乳房を切りとられた。251年シチリア島でのことだ。

イカれてる。

彼女はひんぱんに、切りとられた両の乳房を載せた盆をもつ姿で描かれる。

イカれてる。

彼女の故郷では。守護聖人の祝日に、「ミニ・ディ・ヴィルジニ」(処女の乳房)を焼く伝統がある。お椀型で・2つセットで・てっぺんにチェリーが乗っているお菓子だ。

イカれてる。

いや、まぁ、笑ってもいいとは思うが。すさまじい痛みと出血多量で衰弱しきった15才の少女が、信仰を捨てることなく祈り続けていたそうだ。

ジャンヌやヒュパティアもそうだが。覚悟キマリまくり。


葉っぱではなく。発破をかけてあげるという歌詞の歌で〆よう。変えられる?変えられない?それは私たち1人1人次第だ。

この回はアップしてすぐに18禁に分類された。盛大な皮肉こみで今回の文章は完成だ、という気がしてきた。「教会」は私に、異論があれば申し立てよと言っている。異論しかない笑。他人の文章で利益をとるだけのブラットフォーマーが何を……笑。古代から現代まで人類は成長していない、などと落胆していても意味がない。やっていこう。