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グノーシスの友へ。(グノーシス主義の解説)

グノシースについても解説すると文字数が5割増しになってしまうため、次回にまわすとしていた。約束どおり、今回はグノシース主義について書く。

さっそく他力本願で申し訳ないが。動画を1つお借りする。

エヴァについて書いた過去回では。私は、この作品とキリスト教との関連にあまりフォーカスしなかった。こういったおもしろい解説が世にたくさん出ているからだ。

内容の一部を貼る。この時に私が主軸としたものが何なのか、わかると思う。

これは、『エヴァンゲリオン』の書籍版が宗教のカテゴリーにおかれている写真。

エロがあろうがグロがあろうが、『新世紀エヴァンゲリオン』は王道ものだ。

ミサトさんの解釈は正しい。
「奇跡を待つ」とはやさぐれず明日を信じるムーブであって。努力せず停止しているということではない。
キリスト教はあまくない。
「ガチンコ」真剣勝負を表す相撲の隠語。ガチンコ力士 = 八百長とは縁のない力士。
私は関係ない話はしない。八百長は伏線だ。

私が好きなのは枝でも幹でもなく根だ。人間の信じる心だ。私たちにははかり知れない底力があると感じ、うれしくなる。

生い茂っちゃって大変。からまって本末転倒するぞ。

最初の歌詞で、祈りの手が浮かぶ。さまざまな宗教のだ。私にぶちささる。祈りとして、両の手でピアノを演奏したっていい。それが連弾になり。みんなが異なる楽器をもちだすものだから、オーケストラになる。最高だ。

彼には歌ってもらう。
僕には私には難しいなんて言わせない。
「エヴァ」に乗って参加してもらう。

欠席なんて許さない。私にはそんな種類のやさしさはまじでない。

自助だとかそんな話ではない。社会福祉は大切だ。不登校ダメ絶対なんて話でもない。

イントロはこのくらいにしておく。

何も知らない人が読んでもわかるように書く・前提知識のある人が読んでもおもしろいように書く、というのが私のスタンスだが。正直、グノーシスでそれをするのは容易なことではない。できるかぎり努力してみる。

では、いってみよう。


キリスト教は2世紀に制度的な階層構造を確立したが、後のバチカンのような中央権力はなく。各コミュニティーに独自の教えが存在していた。(前回の内容より)

初期に存在した三大「異端」:マルキオン派・グノーシス主義・モンタノス派。

グノーシス主義は1~2世紀に勃興し繁栄し、その分派は5世紀頃まで存続した。

グノーシス主義の起源となったのはシモンという名の人物で。後継者はメナンドロスで。さらにそれを継いだのはサトルニヌスとバシリデスで。……という記録があるのだが。本当のところはわからない。

グノーシス主義の起源は定かになっていない、とした方が事実に近い。

グノーシス、ギリシャ語で「知識」。彼ら彼女らは、キリストの性質とその教えの両方について、秘密の知識をもっていると主張していた。我々は平均よりずっと多くのことを知っていると。

大人の知ったかぶりがあるからこそ、少年少女の痛々しい抗いが非常に美しいものになるよな。

ほとんどのグノーシス派(グノーシスも一枚岩ではなかった話は後述する)が、キリストは人間の体をもっていなかったと信じていた。着ぐるみ式・中の人的な。その根本にあったのは、人間や人間社会を邪悪なものとしてさげすむ傾向だった。

キリスト教教父たちは、正統派と異端派という “画期的なスタンス” を用いて、それに対抗した。

正典に採用されなかった外典的なもの、ナグ・ハマディ文書に、「人において最も内側にあるものが充足感であり、それ以上内側には何もない」と記されている。

ナグ・ハマディ文書。1945年にエジプトのナグ・ハマディ村で見つかった、初期キリスト教文書。死海文書に次いで重要視されている。フィリポの福音書と呼ばれているが、使徒ピリポ作とわかっているからではなく、中に名前がそれしか出てこないため。原文はギリシャ発・シリア発と諸説ある。

この内容がグノーシス主義的なのだ。


以下、有名なこちらからなのだが。

この方のね。

ある程度知識のある人に読まれることを前提として、お書きになられているのかもしれないが。知らない人が読んだらちんぷんかんぷんだと思う。


プレーローマ。ギリシャ語で「充足」。グノーシス派が天に与えた名称だ。

プロパテール。源父(最初のアイオーン)。プロパテールとは何なのか、高次のアイオーンさえそれを知らない。

アイオーン。ギリシャ語で時代や期間という意味(プラトン的には永遠か)。グノーシス派がプレーローマの神的存在に与えた名称だ。グノーシス派は時の流れを神格化した。

神的存在 → 天使をイメージしていい。(アイオーンにも階級や役割がある)

以下、この過去回の内容を一部貼っていく。

私は『チェンソーマン』1期の大ファンなのだが。下位の天使をブラック企業の平社員的に見てきた私が、この作品に萌えたのは当然だ。

ちなみに。私が『呪術廻戦0』の大ファンな理由はこうだ。


続ける。

プレーローマやアイオーンぐらいなら、まだよいのだが。グノーシス主義の用語は難解なのだ。結果的に公式の/普通のキリスト教となった初期キリスト教の一種は、これよりもずっと単純(よい意味で単純)だ。

2つがどのくらい違うのか/どのくらい違わないのか理解するのは、簡単なことではないが。見ていこう。

また。他の何かとグノーシスがどのくらい違うのか/どのくらい違わないのかも、あわせて見ていこう。


男性名のアイオーンと女性名のアイオーンがいるが。グノーシス派の文献は、アイオーンが性別を超越していることも示唆している。

より詳しく言うと。

プロパテールの光から4組(プロパテール以外の7体)のアイオーンが生まれた。これが高次のアイオーンたち。男性アイオーンと女性アイオーンは常にペアであるため、両性具有とも言える。

プロパテール と エンノイア(思考)
ヌース(知恵)と アレーテイア(真理)
ロゴス と ゾーエー(生命)
アントローポス(人智?)と エクレシア(教会)

中低次のアイオーンたち = デカス(10個のもの)とドーデカス(12個のもの)は、プロパテールから生まれていない。

これエヴァね。

ユダヤ教の神秘思想カバラ(独特の宇宙観をもっていることから、密教との類似性を指摘されることがある)においては、世界創世の象徴がセフィロト(10個のセフィラと22個の小径で図式化されたもの)として表現されていた。13世紀の文献で象徴化されたのだが。元のアイディアは、2~6世紀の教典の中ですでに語られていた。

カバラの思想の中には、第一次元アイン/エン(無)・第二次元アイン・ソフ/エン・ソフ(無限)・第三次元アイン・ソフ・オール/エン・ソフ・オール(無限の光)というのもある。

プロパテールの光から生まれたアイオーン。内容も音感も似ているよね。

ここまで考えなくとも。ギリシャ神話やプラトンの著作にも、アイオーンは見られるのだが。


ほとんどのグノーシス派の文献がもつ共通点に、父なる神・母・子による三位一体がある。

より詳しく言うと。

(アイオーンさえその何たるかを知らないと前述したが。そういうグノーシスの考えもあるのだが)ヌースはプロパテールの本質を唯一知る存在。このプロパテールとヌースの関係を、キリスト教教会が、三位一体だと解釈した可能性。

まぁ、たしかに、ホーリー・トリニティーとしか思えないよな。「え、それって……うちの三位一体っすよね……」からはじまって、「じゃあ同じ考えかも」と話しかけていったら、「は?ぜんぜん違うんですけど」と返され。肩すかしを食らったみたいなことに。

「普通の」キリスト教はこう。

グノーシス曰く。地上の人間の家族は、この神聖な原型を欠陥のある堕落した形でしか再現できない。

まぁ、気持ちはわからないではないが。

エヴァの過去回より。

ヘルマン・ヘッセで反論してみる。「卵は世界だ。生まれようと欲するものは1つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサス」

何かをぶち壊すとしても、それは滅ぶためじゃないだろ。

アブラクサスと言えば。エジプト神話でイシスのけんぞくだった・ミトラ信仰に関係する・ホメロスが言及する太陽の馬の名前・ある言語学者はこれを「ウロボロス」と翻訳……など、多くの説がある。

これが、一部のグノーシスの文献にも出てくるのだ。

馬?4頭だての馬車に乗っているのだ。

キリスト教は、ある意味ハッキリしている。これは何なのか → 異端。😂


ソフィアという名の低次の(と言うか最下位の)アイオーンは、男性パートナーの関与や父親からの同意もなく、非常に欠陥のある存在を産み。プレーローマの異端者となる。

前世代の天使が次世代の天使を生み……最初の父(神)との距離が離れるにつれ、天使に欠陥が増えていく。人間に近づいていく。そういう表現にも思える。

グノーシスの起源は不明、と書いたが。プラトンのイデア論の影響を受けたことは明らかだ。

新プラトン主義の創始者であるプロティノスは、完全なる世界イデアを説明するために、「流出説」を主張した。

完全なる一者(ト・ヘン)から流出した知性(ヌース)によって万物は生じた。完全なる一者は光そのものであり、いかなる影をももたない。光の充満した世界だ。その光から遠ざかるにつれ、力は弱くなる。完全なる一者から流出した力はじょじょに分化を続け、完全なる一者よりも劣った性質を次々と生み出していく。

グノーシス主義のヴァレンティノス派というのは、プロティノス(205年~230年と推測されている)以前から、存在したにはしたのが。詳しくは、始祖とされる者から次の次の後継者の後に興ったとされているのだが。

ヴァレンティノス派が後にプロティノスの説を採用し、思想を拡張していったのだ。逆ではない。これは確実だ。

古代ローマ支配下のエジプトの哲学者だった彼は、神が人間の方へ降りてくることはないとし、グノーシス主義どころかキリスト教も批判するきらいがあったため。

大昔の赤の他人のことでも、わかることはわかる。
プロティノスは、認めていないものからアイディアを借用したりできる人ではなかった。頑固オヤジ的な。

エジプトで見つかった文書はグノーシスの文献だった、とは先ほど書かなかった。グノーシス主義的な内容だった、と書いた。こういうことがあるからだ。


ソフィアが産んだ存在はデミウルゴス(ギリシャ語で職人)。He でも She でもないその者の名前は複数ある:ヤルダバオト(意味不明とされている)・サマエル(アラム語で盲目の神)・サクラス(アラム語で愚か者)。

ソフィアは出来損ないの我が子を恥じて、捨てる。天から追放する。

グノーシス主義では、人間の世界を創造したのはこの無知で邪悪な存在だ。

孤独な子は地上でアルコン(支配者)を産み出し、物質界を統治。

Xがクロスに思えてきて、悔しいな。
別に私はこのクラスメイトを嫌ってはないけどね。

アダムとイブも創造し、天界にあった神聖な「火花」をこめる。2人に自分が唯一の神であると告げ、十戒を配布。ところが、自分自身は戒律を破っている。イヴを強姦したり。

そんなデミウルゴスではじまった世界から人類を救うために、神はキリストをつかわしたわけだ。

人間内部に存在する「神的火花」「本来的自己」への確信は、グノーシス的思想の特徴である。人間は劣悪な造物主に創造されたが、人間の内部には至高者に由来する要素が秘められていると。

ここはいいじゃん。(上から目線)

グノーシス主義にとっての天国・プレーローマ・充足とは、この世において直接的な経験を通して到達可能な、内なる霊的状態を意味したりもした。

ここもいいじゃん。(上から目線)


コロサイ人への手紙とエペソ人への手紙で、満ちたりるという言葉が何度も使われている。充足だ。

キリストが、心の中に空虚な場所を残さないようにすすめたという話があったり。救済が、自分自身の内にある神聖な充足感を回復されることを意味したり。人が救われる時、充足感はその欠けているものを満たすとされていたり。

このように。グノーシスのアイディアをひもといていくと。残ったキリスト教とさほど違わないとも言えるし、重要なポイントに違いがあるとも言えるわけだ。

グノーシス思想はギリシャ哲学的なものでもあったため、ある程度キリスト教と親和性があったのは、なんらおかしなことではない。


……よけいなお世話かもしれないけれど。こういうところで、あーねと流してはいけないよ。難解な文章でないと特に、なんとなくわかった気になってしまうものだ。本当にこの意味わかってる?

これも前回より。
『信仰の勝利』ジョージ・ヘア作。
後ろの闇の中に肉食動物がいる。
明日の朝、両者の間に「へだたり」はなくなる。
彼女らを食べた後にライオンも殺されるだろうし。
みんなかわいそう。
不自然で混乱や恐れの多い死に方だ。
『死に至るまで忠実』ヘルベルト・シュマルツ作。
「逃げ方」がもうそれしかないもん。
なんでこんな楕円形なの?競馬場だから。
同じ娯楽のあつかいだから。この過去回に書いた。

「記してみたくて急いで筆を走らせれば 一度くらいいつか屹度間に合うかな」私じゃん。

死後も生前もなくいつかみんなひとつになるのだから、なんて。本当はそうなのに、言えなくなるんだよ。不自然の極み(数百匹のさまざまな動物を空腹状態で放ちどうなるか見物ーー不自然の極みだろ)。ここまで怖がりあったり憎みあったりしてしまったら、魂レベルで拒絶しあっちゃうよ。

こんなにやさしくて器の大きい人は、なかなかいない。デンジ君はすばらしい子だ。


ソフィア以外のアイオーンたちは全て、純粋/無垢な存在として描写されている。

グノーシス派は、「アイオーンは父なる神の一部でありながらも、ある程度独立した存在である」と言いたくて、ソフィアを発想したのか。我々人間をその最下位のアイオーンの子だと言いたくて、か。「知識」という組織のイメージ・キャラクターは「知恵」という天使だったのか。

いや、これが公式のシンボルみたいなものなのだが。
これはミトラ教のもの。

明示しなかったと言うよりも。グノーシス派自身が結論を​​出さなかった未解決問題のようなもの、と言った方が真実に近いだろう。

自己矛盾している感が否めない。いや、己に混乱していたのかもしれない。私はこれを、二元論で片づけていい話ではない気がする。どこかから切り貼り切り貼りを繰り返して、ハリボテ状態になっていたのではないか。

冒頭で。有名な方の意見(地上を創造した邪悪な者を責める意味はなくーーという下り)に納得いっていないような雰囲気が、私から出ていたと思う。

グノーシス主義と言っても。その中に異なる諸派があったため、ひとくくりにするのはおかしなことだし。グノーシス主義について全容を把握しているということ自体、おかしいなことだからだ(本人たちさえ答えを出せていないように見える)。私には、グノーシス主義者がそのようなことを考えていた/そこまで考えていたとは思えない。

あの方は、おそらく、ギリシャ哲学やヘルマス文書などをキリスト教と融合させたもので・精神世界を善/完全 と 物質世界を悪/不完全とみなす「反宇宙的二元論」の性格をもつ、ヴァレンティノス派グノーシス主義を重点的に学んだのだろう。彼は、自分が学んでいるものは何なのか(自分の現在地)をわかっていないまま、学んでいた可能性がある。

たとえば。マニ教は、目的と手段がよりわかりやすい。

どの組織も抱いていたもっとずっと単純な想いは、これだ。「フォロワーがたくさんほしい」。その手段の中でだ。多くのあやまちをおかしてきたのは。

存在など悪いわけがない。悪いのは彼女の手段だ。
直さないそう。いい度胸だ。現地で発言してごらん。
ガチモンと戦ってきなさい。

プレーローマは、プラトンの思想におけるイデア界(理想的で不変的な領域)に近いもので。物質界はその劣化版コピーである。こういう基本的なことなら、これがグノーシス主義だ、と断言してもいいとは思うのだが。


しばらくつながりが見えにくいかもしれないが、読み続けてほしい。

ヨハネが活躍した時期、パウロ(使徒ではないが「大作家」だ)とペテロの権威がすでに確立していた。使徒言行録で使徒としてあつかわれていたのは、パウロとペテロだけだったようなもの。

そのような状況下で、ヨハネの没後に弟子たちは彼の言葉を文書にまとめたーーこれがヨハネによる福音書なのだとする見方もある。(だとしても。実際にヨハネが言っていたのだろうなと感じる内容は、多分に含まれている)

急速に広い地域に流布した。例)2世紀初頭のエジプトで読まれていたことが判明している。


冒頭、三大異端に軽くふれた。その話をする。

アナトリア(現在のトルコのアジア側。いわゆる小アジア)出身の過激な/熱心なパウロ主義者であり・グノーシス主義に影響された様子もあったマルキオンは、ローマにわたり独自の教会を設立したり・マルキオン聖書なるものを作製したりした。

教会から破門され、異端として追放された。

福音書と使徒書簡をダブル・メインとする新約聖書のスタイルは、このマルキオン聖書に対抗してできたのだと推測されたりもしている。

彼はヨハネの福音書も活用していた。

ヨハネ(左)とマルキオン(右)の絵。
顔がつぶされている。異端にこうするのは定期。

モンタ二ズムも、2世紀の小アジアで発生し異端とみなされた。

預言者モンタノスは、この世の終わりがせまっているとし、厳しい悔い改めの生活を要求。厳格な禁欲主義など、これもグノーシス主義と近似性があった。

ここでも、ヨハネの(名で流布していた)黙示録は使いやすかった。ヨハネの黙示録が流布していた小アジアでこそ成立した、とさえ言える。

この預言運動は急速に拡大。北アフリカにも波及していたし、西方ラテンキリスト教の最初の大神学者も参加したくらいだ。2世紀末にはローマでも、モンタノス派にどう対処するかが大きな議題となっていた。

彼ら彼女らが聖霊の自由な働きを強調したあたりが、司教制を確立させたかった教会にとって、方向性的に不都合だったのだろう。

読んでないけど。表紙の絵、怖。
アーシル・ゴーキーの絵に似ている気がする。
オスマン帝国のアルメニア人虐殺を経験し母親を失い、アトリエは火事になり、ケガで利き手が麻痺し、首吊り自殺をした画家だ。

このように、けっこうヨハネがカギなのだ。何が言いたいかというと。→ ①身から出た錆感が否めない。②しょせんいつか「異端」は発生する。


正統派と 異端とされたものたちと ヨハネの福音書。

ヨハネの福音書に見られる光と闇の二元論やその象徴言語には、グノーシス主義との類似性を感じるものがある。

グノーシス主義者たちが、好んでヨハネの福音書をとりあげ・自分たち流に解釈し・思想の根拠づけに利用したこと。これは事実だが。

ヨハネ福音書を、「グノーシス化」しつつあった文書と見ることもできる。異端みを帯びていくという意味で。

たとえば「真理の福音」や(前述した)「フィリポの福音書」には、知識や自由など、ヨハネの福音書特有の用語がよく出てくるし。語り方や表現にも近しいものがあるが。(こういうところがあるため、次世代が書いたものと推察されるのだ)

おそらくはヨハネの弟子たちの文書自体が、神との一体感の強調とは異なる方向にむかっていたと。そうとらえることも可能だ。

とりしまったところで……。逆効果なのでは……。というようなことが言いたい。

こういう木の病気がある。英語で「魔女のほうき病」

マルキオンはローマで教えていた。グノーシス主義の代表的教師であるとされたヴァレンティノスも、ほぼ同じ頃にローマで活動していた。

だからこそ。教会の編集者らはヨハネの福音書に修正を加え、異端(グノーシス的な思想)を排除しようとしたのだ。後に、さらに激しくグノーシス主義を異端視したのだ。

(ヨハネの福音書を書いたのはグノーシス主義的異端者であったーーという説もあるくらいなのだが。そこまでふろしきを広げていては、考察にしても、あまりにもまとまりを欠いてしまう)

これらは主に、ヴァレンティノス派のグノーシス主義者に言えることであって。その他のグノーシス主義者たちは他の福音書の方が多く引用していたことは、注釈として書き留めておく。


聖書と言えば旧約聖書であり、それにパウロの書簡などが加えられていた時代から。使徒たちが書いた文書が教えの根拠として引用されるようになり。4福音書が1つのまとまりとして知られるようになり。教会によってあらゆる文書が「異議のないもの」「疑わしいもの」「偽作として拒否されるもの」に分類され。(ここまで、3世紀後半くらい)

ある文書を正典として受け入れるかどうかの基準は、もはや、その文書の使徒性にかかっていた。つまり。それが使徒/使徒の直弟子から出たものかどうかによった。

内容ではなく誰が書いたかが大事と。非常によくない考え方だが。状況を思えば、いたし方なかろう。

教会にとって、ヨハネの福音書は使徒ヨハネ自身の著作でないとならなかったのだ。

同様に。グノーシス主義・マルキオン主義・モンタノス主義などの外的な要因が、正典の形成をうながしたとも考えられるわけだが。教会はそもそも、自分たちがつくりだしたものではなく神より与えられたものという認識を深めていったのだから、それも到底受け入れられない。

不思議な光に導かれて森の中を進んでいくと泉のほとりに一冊の本があっただとか、キリスト教もそんなことは言わない。聖書の諸文書の成立には神の霊的な導きがあった、という意味あいだ。


アスカの「ワケわかんない連中が攻めて来てんのよ!降りかかる火の粉は払いのけるのが、あったり前じゃない!」状態だった。

異教にとりかこまれた古代教会は、聖書を礼拝の中で朗読し・それを会衆が熱心に聴くように工夫し・聖書解釈を提示していった。

これ系の話が好きな人にはこの過去回もオススメ。

はじめ、聖書には多様性があった。私が思うに、4福音書の異同や史実の誤りにも自覚があったはずだ。

だが。全体として統一ある神的書物として、聖書は読まれるようになっていった。

無理もない。

311年までは、迫害の嵐に中にいたキリスト教。313年の寛容令によって、事実上ローマの公認宗教となったキリスト教。318年からはじまったアレイオス論争は、公認されたばかりのキリスト教を二分した。

いつも落ち着かなかった。

異端と呼ばれた人々は聖書から離れて行ったのではなく。混乱の中で、聖書全体の意図や目的(スコポスと呼ばれたりするもの)がわからなくなり、聖書に恣意的な解釈を加えていった人たちだったのではないか。

宗教改革者たちはいつも、「源泉に帰れ」(ラテン語で ad fontes)を合言葉にしていたが。これは結局のところ。古代教会に範をとって、新しい教会を形成することではないか。


中世のキリスト教世界では、修道院で数多くの聖書の装飾写本がなされていたが。それらは個人が読むためのものではなく、修道院の食堂や聖堂に置かれるためのものだった。聖書はまだ、修道士と聖職者のものだった。

民衆に説教をするようになると、修道士たちの衣服のポケットに入るほどの聖書が写本されたが。それでもまだ、誰もが手にすることのできる書物ではなかった。

聖書が大量に印刷されて一般人の手元にわたるようになったのは、15世紀なかばのグーテンベルクによる活版印刷技術の発明からだ。

宗教改革は、このような技術革新に支えられながら16世紀に起こったのだ。

大型聖書と携帯用聖書。打算的で投機的なグーテンベルクは、印刷機が(アーヘンの巡礼鏡以上に)人々のニーズを満たすと確信していただろう。

グーテンベルクは、聖書の活版印刷を行う前、ローマ・カトリック教会の贖宥状印刷を請け負っていた。

人間らしくて笑う。ヒエロニムス・ボスは「干し草」とつぶやくだろう。

この映画を思い出した。

現在グーテンベルクの聖書として知られるものは、世界中に50部残存している。

やがて。多くの言語に翻訳され、世界中の誰もが聖書を読むことのできる時代へと突入した。


現代の話をする。

グノーシス派の直系の子孫がいる。イラク南部のマンダ派である。

マンダに関連する画像。
下々の者とは異なる我ら系かね。

マンダ派は、ISISをはじめとするイスラム主義勢力という共通の脅威に直面するイラクのキリスト教コミュニティーと、一旦の同盟を結んでいるそうだ。

今回、キリスト教グノーシス派の話ばかりしてきてしまったが。キリスト教ではないグノーシス派も存在した。マンダの祖先はそれに含まれる。

マンダ派が崇拝するのは洗礼者ヨハネだ。マンダ派はイエス・キリストを崇拝しない。

(これを「キリスト教ではない」と言わないと、いくらなんでもとっちらかってしまうため、そう言わせてほしい)


最後に。さまざまな学者によるグノーシス主義者の定義を見てみよう。

先に言っておくが、かなり辛辣だ。笑

ある学者によると。
知識を通して世界からの解放を求めた集団であり、自らを物質界の現象を超えた宇宙劇の登場人物とみなしていた。

ある学者によると。
アルフレッド・テニスンの『国王牧歌』「あたかも劣った神が世界を創造したかのよう」に似ていた。

ある学者によると。
グノーシス主義文書はカトリック教会から隠された・イエスに関する秘密の伝承を提供するなどと主張するグループで。息をのむようなエリート主義(自分たちを特別視する姿勢)。

ある学者によると。
最終的には、人を自分の思考や感情の中に閉じこめてしまうもの。後期古代キリスト教における自己満足的な様式。

ある学者によると。
特定の知識や経験を過度に崇高にあつかい、自らの現実観を完璧だとみなす、最も邪悪なイデオロギーの1つ。自覚すらせずに自己増殖し、ますます近視眼的になっていく。

ある学者によると。
その本質において神秘を飼い慣らそうとした。神とその恩寵の神秘であれ、他者の人生の神秘であれ。

ある学者によると。
偽預言者。宗教を利用し、自分たちの心理学的・知的な理論を広めようとした。私たちがいつどのように神に出会うかを決めるのは、私たちではない。その出会いの正確な時と場所も、私たち次第ではない。全てを明確かつ確実にしたいなどと願う者は、神の超越性を支配しようとしている。

ある学者によると。
たとえ誰かの人生が完全に崩壊しているように見えても、神はそこに存在する。先入観ではなく聖霊に導かれれば、私たちは全ての人の人生の中に主を見いだせる。そうしようと努めなければならない。これは、グノーシス的な考え方では受け入れられない神秘の一部である。

(私がグノーシスについて考える時思うことに最も近いのは、この見解だ)

ある学者によると。
公に入手できない情報を入信者に提示するという、古典的ミステリー・カルト。最大に皮肉。現代でも同様の集団はいる。安っぽい暴露で観客を驚かせる手法を用いる。

(これにもかなり同意だけれどね)


私もこの悪口大会にあえて参加させてもらう。

「希望のかたちは人の数ほど存在する。希望は人の心の中にしか存在しないからだ」うんうん。「だが。我らの希望は具象化されている」えー!!🙃

「正当な継承者たる失われた白き月より……」すぐ選ばれし〇〇言うやん。失われた〇〇で言っていいのも、テスト勉強とかでつぶれた意味の「失われた週末」だけだから。中二病やめな〜。(ダレノガレさんの声で再生)

動画をお借りする。

今回のタイトルがこれな理由が伝わっただろうか。私の本心だ。グノーシスも友だちでないと、あなたもわたしもいつか言われる。お前は友だちではないと。


まさに、グノーシス主義者におくりたい歌。シンクロ率100だ。グノーシスの友よ、聞け。アスカが、あんたたちも一緒に行くのよ!と呼んでいる。