おしゃべりな定食、悟る卵。
母の営んでいた定食屋「みずたま亭」を引き継いだ水守香菜(29)。
食材の“声”が聞こえる不思議な力を持つ彼女のもとには、着物の女性、謎の黒猫、大人びた少女──
ちょっと不思議なお客さまが、次々と現れる。
怪しげな不動産業者や、近くて遠い幼なじみとの恋。勘が良すぎるおばさんに、酒飲みのおじさん。つまらない日常に、刺激と彩りが盛り付けられて、大忙し。
みずたま亭のいちばん人気は、唐揚げです!
いざ、開店!
00_ お節介な卵
まさか、全ての答えを卵が知っているなんて──。
母の亡霊に足を掴まれ、みずたま亭という檻から逃れることばかり考えていた私には、答えなんて、正直どうでもよかった。ここから逃げさえできれば。
── 私の居場所は、ここじゃない。
頭の片隅で、声が響く。頭の声を打ち消すように、胸の内で大きく願い事を唱えた。
(達也の隣を、私の居場所にしてください)
本坪鈴の音が、梅雨の湿った青空に溶ける。ざっと風が吹いた。生ぬるい湿度の風が肌にまとわりつく。妙に嫌な感じがして、空を睨んだ。焦茶色のポニーテールと、黒いエプロンがふわりと揺れる。
神頼みとは情けない。まるで鍋底にこびり付いたカレーみたいに、恋心は焦がれて浮かんでこない。いい案も浮かばず、今日も今日とて神頼み。
「香菜ちゃん、おはよう」
背後から、山本のおばさんの声がした。
「おばさん、おはよう」
ふくよかな肢体をゆったりと動かして、おばさんが近づいてくる。
「香菜ちゃん、聞いた?」
意外に鋭い眼光を、私に向けた。厳しい視線の理由は、例の件だろうと察しがついた。
「例の不動産屋の話?」
「そうそう。穂結町一帯を開発しようと企んでるって業者。こんなのどかな場所を買収しようなんて、物好きもいいとこよ。早速、二丁目のグエンさんのコンビニに来たらしいけど、『ニホンゴ、ワカリマセーン』って追い返したらしいわ」
「グエンさん、日本語ペラペラじゃん」
思わず吹き出す。
「でしょ。最高すぎるのよ、グエンさん」
おばさんも破顔する。
買収の二文字が、頭をチラついた。
みずたま亭のことは好きだ。料理をするのも、接客も嫌いではない。むしろ私には合っていると思う。
でも──、
三十歳を直前に控え、私の心は揺れていた。迷い子のように誰かが私の手を引いてくれるのを、小さくなって待っている。買収の噂を聞いた時、不動産業者が私をどこかに連れて行ってくれるのかもしれないと、淡い期待を抱いたほどだ。
決められたローテーションで定食を作り続ける日々。母の匂いの残る厨房で作る料理の味は、もちろん母直伝。亡くなった母の跡を継いで、みずたま亭の厨房に立つことを決めたのは私だけど、母の幻影の中で息をしている感覚が、どうにも拭えなかった。私は母になりたいわけではない。味噌汁をしみじみ味わうのは、歳を取ってからでも遅くはない。刺激的な味への挑戦は、若者の特権ではないか。
「不動産屋ね、長身で目つきが悪い狐っぽい男だって。それより、みずたま亭の前を通ったら、洗濯物干してあったけど、あれ、すぐに取り込んだほうがいいわよ。今日は、絶対に雨が降るから」
「本当?」
おばさんは空を仰ぎ、すっと空気を吸い込む。
私も空を仰いだ。青い空が空いっぱいに広がっている。空気は生ぬるいが、雨が降りそうな気配はない。むしろ洗濯日和と言った方がいいだろう。
「天気予報は、一日晴れだって言ってたけどなぁ」
おばさんは人差し指を一本立てた。顔の前でふるふると揺らす。
「おばさんの勘は、すごく当たるの。おばさんを信じて」
「わかった。ちゃんと取り込んどく」
頷いてはみたものの、帰宅後、私は洗濯物を放置した。おばさんの勘を信じるほど、私は純粋ではない。濡れた洗濯物が、風になびく。
今日の仕込みの方が先、とエプロンを締め直した。
季節の野菜は欠かせない。日持ちのする茗荷とパプリカのピクルスに、かぼちゃのサラダ。ナスの煮浸しもたっぷりとタッパーに用意する。夏野菜の出始めは、八百屋がカラフルで目が楽しい。唐揚げに下味をつけたり、米を仕込んだり。天気のいい日は、客足もいい。心持ち多めに仕込む。これも、母の真似だ。
仕込みを終わらせて、昨日の残り物で朝ごはんを用意した。
冷凍しておいたご飯を、レンジで温める。鍋に残っていた角煮を火にかけた。じぶじぶと煮汁が音を立て、煮崩れた角煮のくずが鍋の中で踊る。そこに生卵を落とした。卵が白く濁る。「食べごろだよ」と卵から声がした。
食べ物から声が聞こえることがおかしいと気づいたのは、いつだっただろうか。初めて声が聞こえたのは、三歳の頃だ。母の手伝いで、ゆで卵の殻を剥いていた時のことだった。
「香菜ちゃん、キレイに剥いてね」
「うん。まかせて」
私はゆで卵に声をかける。それを聞いていた母に尋ねられた。
「香菜、もしかして食べ物の声が聞こえるの?」
「うん」
「それは素敵ね。いい料理人の証よ」
あまりに当たり前のように母が言うので、私は自分が素晴らしい料理人になるんだと信じて疑わなかった。
小学生四年生の時のこと。自分の夢を発表する授業で、私は自分の特殊能力を自慢げに発表した。「食べ物の声が聞こえるなんて、嘘でしょ」と、クラスメイトは声をあげて笑う。「聞こえるんだって」と言う私の小さな声は、笑い声にかき消された。笑い声を割って、達也の明るい声が教室に響く。
「別におかしくないだろ。いいじゃん、特殊能力。それよりみんな、食ったことある? みずたま亭の唐揚げは、マジで美味いんだぜ」
達也の笑顔は、その時から変わらない。犬みたいに人懐っこくて、くしゃっとした笑顔が可愛らしい。
変な能力だが、食べ物の声が聞こえるのは、案外便利だ。聞こえるのは調理中限定と決まっている。そのおかげで、ゆで卵は時間を測らずとも、百発百中で好みに茹でることができる。私の得意料理のひとつだ。
「そろそろ、半熟のお時間です」
卵の合図を聞き、私は火を止めた。温めたご飯を丼に盛り、角煮を煮汁ごと丼にかける。
右手にスプーン、左手に丼。腹の音がぐぅと鳴った。
「いただきまーす!」
大口を開けて、汁だくだくの角煮丼を頬張る。とろっとろの角煮とざぶざぶの米が最高にうまい。半分ぐらい食べたところで、半熟の卵をザクっとスプーンで割る。白身の防波堤が決壊し、黄色い黄身が雪崩のようにご飯を染めた。最高ってこのことだと、自画自賛する。白身のプリンっとした食感に、コクのある黄身が角煮丼を一気に高級料理に押し上げた。
一気に口の中が幸せに包まれる。突然、その幸せを破ったのは、店の戸だった。どんどんと、不躾に音を立てる。
「まだ開店時間じゃないんだけど」
無意識に舌が上顎を弾いた。
私はスプーンを丼に転がして、立ち上がる。
例の不動産業者だろうか。
私は目を凝らして、すりガラスの引き戸の向こう側を見つめた。ガラスの向こう側が輝いて見える。
一瞬、スーツ姿の男が店の前で立ち止まった。心臓が早鐘を打つ。しかし一転し、スーツ姿の男は体を九十度回転させると、足早に店の前を通り過ぎていった。頭に疑問符を浮かべる。最近急に建て付けが悪くなった戸を、力まかせに無理やりこじ開けた。
「げっ! 最悪!」
青空から、雨が落ちてきた。コンクリートを大粒の雨が叩く。
「嘘でしょ? おばさんの勘、当たってるじゃん!ー狐の嫁入りか。最悪。洗濯物も、シーツもびしょ濡れになってるよ、絶対」
私は大きく肩を落とす。
洗濯はやり直すしかない。この気分の落ち込みは、角煮丼の半熟卵ぐらいでは取り戻せない。私を幸せにしてくれるはちみつたっぷりのホットケーキが必要だ。母のレシピではない、私特製の。
その時、足元からぞわりと鳥肌がのぼってきた。得体の知れない生暖かい体温が、私の足元にまとわりつく。
次回予告 01_どしゃぶりの唐揚げ
今日は、雨の一日。何かを見透かしたような不気味な黒猫に、誰もいない雨の夜に突然現れた着物の女性が店に訪れて。平穏な毎日に、怪しい鈴の音が鳴る。
おしゃべりな定食、悟る卵。 目次
00_お節介な卵
01_どしゃぶりの唐揚げ
02_恋する唐揚げ
03_にぎやかなイワシのトマト煮
04_大人びたラザニア
05_戸惑いのおにぎり
06_骨太なスナップエンドウ
07_揺れ動く焼鮭
08_整うスナップエンドウ
09_しらけた煮込みハンバーグ
10_笑う煮込みハンバーグ
11_動揺のきつねうどん
12_歯がゆいだし汁
13_浮き足立つクラフトビール
14_急転直下のいなり寿司
15_噛み合わないホットケーキ
16_信じられない味噌汁
17_急展開のホットケーキ
18_真面目ないなり寿司
19_霧のぼた餅
20_楽しげな夏野菜の豚汁
21_華やかなパンケーキ
22_動揺する唐揚げ
23_意気投合する唐揚げ
24_風吹くぼた餅
25_颯爽とした素麺
26_込み上げるクラフトビール
27_約束のないパンケーキ
28_追憶のりんご飴
最終話_悟る卵

