11_動揺のきつねうどん
「申し訳ございません、お客様。本日は煮込みハンバーグ定食のみとなっております」
私は深々と頭を下げる。
稲田と思わしき長身の男は、オールバックにした前髪を右手で撫でつけた。細くて鋭い目が、私を捉える。
「きつねうどんを、一つ」
妙な緊張感が、店内に漂った。
「きつねうどんはございません。申し訳ございません」
稲田は鼻から、細く長い息を吸う。私の周りの空気が薄くなる。稲田が口を開き、息をはぁっと吐き出した。吹きすさぶような冷たい風が、私の前髪を揺らす。不穏な緊張感を諸共せず、稲田は口を開いた。
「あら、あなたのお母様は、きつねうどんがなくても、すぐに用意してくださったけれど……。あなたは型にハメられたことしかできないのかしら。お客様を大切にするという気持ちに欠けているように思えるわ。そんな対応しかできないのであれば、やはりこの店は、この男に売却する方がいいと思うのだけど── 。彼が腹を空かせて店の前に立っていたあの夜は、あなたは親切におにぎりを握ってくれていたのに。唐揚げだって、いつも大盛りにしてくれているし。見た目が変わるだけで対応を変えるなんて、あなたって不誠実な人ね」
せせら笑うような静かな声色に、丁寧というより不穏な印象を受けた。声は先日の稲田の声に間違いないが、妙齢の女性のような柔らかい口調に違和感を覚える。地を這うような低音は鼓膜だけではなく、私の神経を震わせた。私は薄くなった空気を静かに呑んだ。喉元が締め付けられるように、異様な息苦しさを感じて居心地が悪い。
それにしても、夜におにぎりを握って渡した相手は、スウェット姿のボサボサ頭の彼しかいない。目の前の稲田と、一体どういう繋がりがあるのだろうか。唐揚げは、みんなに大盛りにしているけれど。
「この格好に警戒しているのかしら。まぁいいわ」
稲田の微笑が、貼り付いた仮面のように見えた。
「── きつねうどんを、一つ」
稲田の瞳が、奥の方で鈍く光る。私は唇をきゅっと結んで、厨房に戻った。目の端で稲田が満足げな表情を浮かべ、席に着くのがわかる。
混乱する頭で冷凍庫を開けた。冷たい空気が顔の表面を冷やしていく。油揚げの含め煮を一瞥して手に取った。これがあればきつねうどんは作れるけれど、正直、稲田の言うことを聞くのは納得がいかない。しかし、母なら──。私は油揚げの含め煮の入った袋を強く握る。
小鍋に角切りの昆布を入れて煮立たせた。普段なら麺類用の出汁はきっちり摂りたいところだけど、今日は仕方がない。急ごしらえの出汁をとった。大きめの鍋に湯を沸かし、冷凍麺を投入する。その間に油揚げを解凍した。鍋が沸騰する前に昆布を取り出して鰹節を多めに入れる。醤油、みりん、塩を入れて出汁を味見した。舌が喜んでいないのが分かる。出汁が薄い。仕方がないので、顆粒だしを投げやりに入れた。
「あ、分かってると思うけど、ネギは入れないで」
低い声が、テーブル席から厨房に届いた。私は頬を膨らませる。
丼に湯切りしたうどんを入れ、出汁を注いだ。うどんが出汁で泳いでいる。いつもなら楽しそうに泳ぐうどんたちも、今日は静かだ。温めた油揚げを綺麗に並べ、お盆に乗せた。
「お待たせしました」
静かな店内に、お盆を置く音が響く。
「── どうも、待ちました」
稲田は鼻で笑ってから、箸を持ち、手を合わせた。
「いただきます」
丁寧に頭を下げて、油揚を頬張る。目を細めて頬を緩ませた。
「うん。油揚は悪くない。冷凍でしょうけど、しっかり油抜きもしてあって上々ね。さて、おうどんはどうかしら」
麺をずずっと啜る。少し眉間に皺が寄った。私は頬の内側を小さく噛む。
「ちょっと茹で時間が長かったんじゃないかしら? 出汁も人工的な味がするわね。まあ、及第点でしょう」
噛みきれない苛立ちは、まるで生だこのように口の中をヌメヌメと漂った。私は奥歯をギリと噛んで、稲田を睨みつける。
「あなた、秋常不動産の稲田さんですよね。今日はわざわざ、きつねうどんを食べにいらしたんですか?」
稲田はうどんを啜り続けた。質問には答えない。私は小さく舌打ちをする。
丼を両手で持ち、出汁を全て飲み切ると、稲田は丼を静かにお盆の上に乗せた。再び両手を合わせ、ご馳走様と頭を下げる。
「ご紹介が遅れました。私、秋常不動産の稲田に取り憑いている琥珀と申します。今日はわざわざ、あなたのきつねうどんを食べに来ました」
稲田が、ふふっと軽く笑う。
「── と言うのは冗談ですが、今日はみずたま亭が私を受け入れてくださるような気がしましたので、お邪魔いたしました」
稲田の背後に、ゆらりと赤い着物を着た白い女狐が見えた気がした。私は目を擦る。
「このあたりを買収しようとしているのは、もしかしてあなたですか?」
私は声をかけた。自分の目線が宙を泳いでいるのがわかる。稲田か、後ろに浮かび上がる女狐に声をかけていいのか、少し迷った。
「意外にお馬鹿さんじゃないんですね? まあ、そんなところです。この男はいい人間だけど、ちょっと間が抜けてるから、世話を焼きたくなって。売ってくれそうな店や土地を、この男に買わせる手伝いをしてるところなんです。売りたい人が売って、買いたい人が買う。一石二鳥でしょう」
女狐は自慢げに鼻を鳴らす。
「穂結町のみんなは、誰もあなたに店を売ったりしません。みんな、この町が好きなんです」
思わず声が大きくなった。女狐はフッと笑う。冷たい空気が店内を駆けた。両手の先がじんと冷える。
「── あら、あなたも“みんな“の中に含められているのかしら。胸の内でこの店を売ってもいいと思っていたんじゃないの?」
狐の声が、重く私の耳に響いた。
「そろそろ、お暇する時間かしら」
女狐がすぅっと息を吸い込むと、ずくんと大きく胸が脈打ち、私は思わずその場にへたり込む。呆然と座っていた稲田も、脱力し机に突っ伏した。ぼんやりと見えていた女狐がゆらりと揺れた。琥珀色のうどんの出汁のような湯気が立ち上り、吸い込まれるように引き戸の外へと逃げていく。
逃げる湯気が、うわっと一気に外に出たのと同時に、ガラリと戸が開いた。
「香菜?!」
「香菜ちゃん?」
入口には、菖蒲さんと山本のおばさんが立っている。菖蒲さんとおばさんに抱き抱えられ私は立ち上がると、店の椅子に腰掛けた。
「大丈夫か?何があった?」
「ごめんなさい」
口をついて出たのは、謝罪の言葉だった。
「どうしたの?」
二人の不安げな表情に、私は頭を下げる。
「ゆっくりでいいのよ。何があったが教えてちょうだい?」
おばさんは肩にぽんと手を置いて、そのままするりと私の背中を撫でた。じんわりと温かい手が、私のこわばった背中を溶かしていく。
私は深呼吸をした。
動揺で声が震えている。
水玉が壊れたことを感じ取った狐が、店に入ってきたとを私は二人に伝えた。私が店を畳もうとしていたことを見透かされて、売却話を持ちかけてきたということは、口が裂けても言えない。都合のいいことだけを話す自分の口が、どうにも居心地悪く舌に苦味が残る感じがした。
「じゃあ、この男が稲田か。稲田にも事情を聞いた方が良さそうだな」
「菖蒲ちゃん、その前に水玉をお供えして、お祓いもしておきましょうか」
「そうだな。照子、頼む」
おばさんは持ってきてくれた水玉を丁寧に供えると、塩と米も新しくしてくれた。「今日はお酒と榊も供えておきましょうね。これは、しばらく私が替えに来るから」と一言添えて、神棚を整える。
おばさんは背筋を伸ばして、神棚の前に立った。私と菖蒲さんもおばさんに合わせて、ニ拝ニ拍手一拝する。
重たかった空気が、軽くなった。背筋も伸びる。大きく息を吸って、大きく息を吐いた。体が軽い。
私は一息ついて、突っ伏したままの稲田の背をゆっくりと叩く。
「起きてください。稲田さん」
声をかけると、稲田はむくりと起き上がった。
オールバックになっていた前髪が乱れ、前髪が顔にかかる。さっきまでピンと伸びていた背筋は丸まっていて、スウェット男と面影が重なった。まさか彼が秋常不動産の稲田だったとは……。戸惑いと納得が、喉の奥に滑り落ちる。
「あ、香菜さん」
「あなた、稲田さんだったの?」
困惑した表情で、稲田は「そうですけど……」と呟いた後、「すみません」と頭を下げた。
次回予告 12_歯がゆいだし汁
唐揚げ定食大好きなスウェット男が、まさか秋常不動産の稲田だったなんて!
女狐と稲田って、どういう関係?
