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12_歯がゆいだし汁

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「すみませんって、あなた、自分の状況がわかってるの?」
私の問いかけに、稲田くんは首を傾げた。

「わかってるっていうか……、いや、あんまりわかってないです」
さっきまでの厳しい表情は、琥珀色のモヤと一緒に店の外に出て行ったのだろうか。力の抜けたいつもの稲田くんを見ていると、フランス料理店でガチガチになって料理を食べた後、自宅でスウェットに着替えてお茶漬けを流し込んだ時みたいに、なんだか気が抜けてしまう。

稲田くんは、短く息を吐いた。

「最近なんですけど、さっきみたいに、自分は頭の隅の方にいて、勝手に口だけが喋っちゃうみたいなことがあって。営業が嫌すぎて、ストレスで二重人格になったのかなって思ってて」

私は首を振る。
「稲田くん、信じられないと思うけど、二重人格じゃなくて……、君、狐に取り憑かれてる」
そう口に出してみたものの、いまいち自分でも信じ難い。しかし、目の前で見たあの光景は、間違いなく"取り憑かれている"状態だった。

稲田くんは目を見開いた。
「香菜さん、なんですか? その冗談。意味わかんないですよ」
稲田くんの笑い声が、冷たく乾いている。
意味が分かるわけがないよなと自分でも思いながら、稲田くんに説明をしようと再び口を開きかけた。同じタイミングで、隣から舌打ちする音が聞こえる。

音の方向に目を向けると、菖蒲さんが呆れたように吐き捨てた。
「最近の人間は、鈍い奴が多いな」
そう言って、いつもの椅子にどっかと座る。

私は稲田くんに向き直り、眉根を寄せたままの稲田くんに声をかけた。
「稲田くんに取り憑いてる狐が、言ってたんだよね。『稲田はいい人間だから、仕事を手伝ってる』みたいなこと。何か、心当たりある?」
腕組みして考えたあと、稲田くんは膝を打った。

「狐…..? ん? なんかあったような、なかったような。あ!なんかちょっと、思い出したかも! そういえば僕、ちょっと前に、穂結山の展望台で仕事サボってたんです。本当は違う部署がよかったのに、営業に回されて。うまくいかないし、ヤル気でなくって。そしたら展望台の裏に、小道があって。面白そうだなって登って行ったら、小さな神社みたいなのがあったんです。そこで、営業成績ガンガンあげて、他部署に異動できますようにって、お願いしました」

山本のおばさんが、額を抑えた。
「私、勘がいいから、ちょっと分かってきたかも」
「ええ? おばさん分かったの? 全然、分かんない。それだけで、取り憑かれたりするのかなぁ」
私が口を挟む。

「それもそうねぇ」
おばさんが口を尖らせた。
稲田くんが、手をパチンと叩く。

「そういえば……、もしかしたらアレかな? 僕、めちゃくちゃいいことしたんですよ。お参りする前に、狐の石像が倒れてたんで、僕、元に戻しました。結構重かったんですよね。狐がお礼をしたかったのかなぁ」

稲田くんは呑気な様子で、うんうんと頷いた。営業中の顔は強面なのに、オフの時は拍子抜けするほど、幼くてゆるい。あまりの振り幅に、腰が抜けそうになる。

「なるほどね」
おばさんはそう言って一息吐くと、「座りましょうか」と声をかけた。私たちは一つのテーブルに向かい合って座る。

「稲田くんが取り憑かれたのは、きっと狐の像を直したのが理由だと思う。狐がきつねうどんを食べに来たのは、きっと鈴菜ちゃんが関係してると思うの。みずたま亭が開店して、しばらくしてからだったかな。鈴菜ちゃんから相談を受けたことがあったの。『不思議なお客さんが来るんです』って──」

おばさんは、真剣な瞳でこちらを見つめた。

「みずたま亭の神棚ね、最初は水波能売神ミヅハノメだけを祀っていたの。うちの愛宕神社の火産霊神ホノムスビが水の神様と相性が良いのと、水守家にご縁があるとかで。でもこれが、お稲荷さん的には不満だったみたいで。お稲荷さんも水波能売神と相性がいいのよ。でも、うちの火産霊神とお稲荷さんは、腐れ縁っていうか、喧嘩するほど仲がいいみたいな感じでね。お稲荷さんを祀らずに、火産霊神を祀ってるみずたま亭に、意地悪しに来たってことがあったのよ」

私は額に皺を寄せた。
「意地悪って、買収しに来たとか、そういうこと? その時はどうやって、解決したの?」
「なんだったかなぁ。買収ではなかったわね。店の食材を盗んだり、電気を消したり。とにかく、陰湿で。最後は直接店に来たんだけど、確か、鈴菜ちゃんのきつねうどんに感動したとかで、もう嫌がらせはしなくなったみたいだったけど。その後、念の為に神棚に水波能売神とは別に天照大神と火産霊神をお祀りするようになって。それきりその話は聞いてないから、もう大丈夫だと思っていたけど」

ふーんと私は鼻の奥を鳴らす。
ということは、私のきつねうどんは、狐を追い返すのに不十分だったということか。小さく息を吐いた。

「だからか、鈴菜が狐を警戒していたのは。予感があったのかもな」
菖蒲さんは合点がいったのか、満足げに頷いている。

「とりあえず、水玉をおばさんに新しくしてもらったし、大丈夫って感じ?」
「う〜ん。どうかなぁ。大丈夫だとは思うけど」

菖蒲さんは首を振った。
「狐は何をしてくるかわからん。人間と我々は、時間の感覚も価値観も違うからな。鈴菜と和解したように見せかけて、娘の香菜が気を抜いたらすぐに近寄ってくるような奴だ。ただのイタズラかもしれんし、なにか別の理由があるかもしれん。気をつけておくに越したことはない」

私は菖蒲さんの目をしっかりと見つめてから、ゆっくりとうなづいた。

「で、僕はどうしたら?」
稲田くんが眉を下げて、口をへの字にしている。
「お前は、自分で営業を頑張れ。狐の入れ物を直したから、気に入られただけだろう。お前が一人で大丈夫なところを見せれば、ヤツもいなくなるさ」
「はぁ」
菖蒲さんの大雑把なアドバイスに、稲田くんは肩透かしを食らったような顔で返事をした。

「とりあえず、稲田くんはお祓いしておきましょうか。お父さんに頼んであげるから、一緒に愛宕神社まで来なさい。今日は仕事は?」

稲田くんは腕時計を見つめた。
「大丈夫です。どうせ、営業向いてないし」
「それが営業成績が上がらない理由だな」
菖蒲さんが呆れたように吐き捨てた。稲田くんは肩をすくめると、目を一文字にして笑った。いつもの稲田くんの笑顔で、なんだか安心する。

「あ、香菜さん! 今日はご迷惑かけちゃったみたいですけど、また、唐揚げ定食食べに来てもいいですか?」
少しはにかむ稲田くんの頬が、ほんのり赤い。
「もちろん、お待ちしています」
私は頭を下げた。稲田くんはへへと口元を緩ませた。

おばさんと稲田くんを送り出して、戸を閉めた。ふぅと一息ついて、厨房に戻る。気づけば菖蒲さんは黒猫の姿に戻っていて、いつもの椅子ですやすやと眠っていた。

私は菖蒲さんをゆっくりと撫でる。
「菖蒲さんはちゃんと忠告してくれたのに、勝手に店を開けちゃって、ごめんなさい」

謝ってはみたものの、自分の軽率な行動で、何か悪いものを呼び寄せているような気がして、居心地が悪い。

時刻は午後三時を回っていた。
お腹が鳴った。琥珀に出したうどんのだし汁が、鍋に残っている。冷えたままのだし汁をお椀に注いだ。琥珀色の汁に鮮やかな緑色のネギを散らして、立ったまま口をつける。わざとらしいだし汁の味が冷たさで強調されて、余計に舌を刺激した。これをお客様に出してしまったのか。母なら相手が誰であれ、雑な仕事はしなかっただろう。母に対するコンプレックスが、ふやかした乾燥わかめのように増殖する。私は、一気にお椀の汁を飲み干した。

長い昼だった。

しかし、今日は今からが本番。達也の面接の結果も気になるし、せっかく達也の誕生日をお祝いできるのだから、楽しい誕生日にしてあげたい。私は気を取り直して、エプロンをキュッと締める。

店内から厨房を一通り掃除して、神棚にしっかりと手を合わせた。
今日のお詫びをしっかりしておかなくては。もう恋のお願いはしない。目をゆっくりと瞑り、静かに深呼吸をした。

「母が大切にしたこの店は、絶対に守ります。私が、絶対に」

口に出したこの願いが、心からの私の願いでありますように。誰にも悟られたくない想いを、ぐっと飲み込んだ。

ドンドンと戸を叩く音がした。
ガラッと引き戸が開いた。

「お疲れ。香菜」
「あ、達也。面接どうだった?」

達也は、顔の前でピースサインをした。
「もちろん、通ったよ」
嬉しそうな達也の顔を見て、私の頬骨がキュッと上がる。
「よかったね!おめでとう!」
抱きつきたい気持ちを、ぐっと堪えた。

「もう、出かける?まだ着替えてなくて──」
「あ、それなんだけどさ──」



次回予告 13_浮き足立つクラフトビール
達也の提案に、無駄にドキドキする私。
どうなる?どうする?いい感じで過ごせるかな?

#創作大賞2025 #ファンタジー小説部門


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