04_大人びたラザニア
このしつこさは、もしかすると骨太の狐かもしれない。
肩に力が入った。売却の話には興味がある。しかし、母の想いを聞いてからは、簡単に売ってはいけないような気もしていた。売るか売るまいか。どちらの気持ちも泡立て器で撹拌されて、何が本当の気持ちなのかが、自分でもよく分からない。すりガラスの向こう側の人影に、目を凝らした。予想に反して、人影のシルエットが小さいことに気づく。
「あれ? 子ども?」
戸を開けた。小学三、四年生くらいの女の子が前を見据え、傘もささずにじっと立っている。黒いおかっぱ頭が、しっとりと濡れていた。この辺りでは見かけたことのない女の子だ。
「いらっしゃい……ませ?」
思わず語尾の音程が上がる。
「……一人?」
女の子はすました表情で、「一人だ」と答えた。
「中、入ろうか。今日はご飯食べにきたの?」
私は歯を出して、笑って見せた。
「いや、違う」
ぶっきらぼうに返される。大人びていて、あまりに端的な話し方に驚く。それに、少ししゃがれた声。肩甲骨をナメクジが這うような、ぞわりとした違和感が体を支配した。
「── 今日はどうしたの?」
「ん」
女の子は、ぎゅっと握りしめた右手を、私に突き出した。鈴の音が、小さく鳴る。
音の方へ目を向けた。見たことのある、青緑にピンクの花柄のリボンが目に入る。
── 私の自転車の鍵だ。
私はさっと右手を広げて、女の子の右手の下に手を伸ばす。女の子は、私の手のひらを一瞥すると、自転車の鍵を手から離した。
「ありがとう!届けてくれたんだ!助かった。本当にありがとうね。山本のおじさんの知り合いの子かな?おじさんに、ありがとうって伝えてね」
旧友に再会したかのように、声が弾む。女の子の手をぎゅっと握った。握った手が濡れている。私は慌てて「ちょっと待っててね」と、母屋へ上がった。干しておいたタオルを乱暴に引っ張って、店に戻る。女の子の頭から体を、わしゃわしゃと拭きあげた。
「何かお礼したいけど。ごはんはお家で食べたよね。おやつか何か、ないかなぁ」
女の子が腹の虫が鳴いた。
「腹が減った」
子どもらしいところもあるんだな、と空気が緩む。
「お腹すいてたのか!じゃあ、すぐに用意するね。でも、親御さんに連絡しなきゃだよね。携帯電話とか持ってる?」
「持ってない。親はいない。問題ない」
私の額に、細かい皺が寄った。忙しい親御さんなのだろうか。遅い時間に、お腹がすいた小学生。なんだか心配になる。美味しいものを作ってあげたい。
「何が好き?」
「魚」
「食べられないもの、ある?」
「ねぎ」
単語で話す女の子との会話は、案外テンポがいい。
「いっぱい食べられる?」
「食べ過ぎは良くない」
振り返って時計を見た。時刻は八時半。小学生が食事をするには、少し遅い時間かもしれない。
「わかった。夜食にしよう。待っててね」
厨房でイワシのトマト煮を煮詰めた。その間に、レンジでホワイトソースを作る。ホワイトソースの完成間近で、鍋のイワシから「今だ」の合図が聞こえた。
「任せて」と私は口角を上げる。
作るのは、餃子の皮を使ったラザニア。たっぷりのチーズを乗せてトースターに入れると、チーズが赤い熱で照らされて、じじじと念仏を唱え始めた。厨房にチーズの焦げた匂いが広がって、私までお腹が空く。こうなることは、もちろん予想済だ。私は自分の腹具合を計算し、二人分のラザニアを用意しておいた。トースターを開けると、茶色く焦げたチーズが、夏の海岸のサーファーみたいな爽やかさで「待たせたな」と呟く。私は「待ってたよ」とミトンを手につけた。
「お待たせしました!イワシのラザニアです。一緒に食べてもいい?」
私は女の子の前と向かいにラザニアを置く。そして、向かいの席に座った。
「なんだこれは。美味そうな匂いがする」
女の子の鼻が、ぴくりと動く。
「ラザニアだよ。お魚のイワシが入ってるの。ねぎも玉ねぎも入ってないよ」
「らざにゃー?」
「そう。ラザニャー」
頬が緩む。
「熱いから気をつけて食べてね」
「猫舌だから、冷まして食べる」
「お先にいただきまーす」と両手を合わせた。大口でラザニアを頬張る。
「熱!」
口に入れた途端、後悔。熱すぎた。蒸気機関車のように口から湯気を吐きながら、ラザニアを冷ます。上顎の皮膚がよれた。女の子が呆れたように眉を下げる。
「鈴菜がいつまでも心配するはずだ。口が立つ割に、行動が幼い。香菜は浩介似だな」
女の子はラザニアをスプーンですくい、息をふきかけた。
突然、女の子の口から出てきた両親の名前。急な違和感に眩暈がする。またもや、母の知り合いの幽霊かもしれない。
じっとスプーンの湯気を見つめる女の子に、私は声をかけた。
「名前、聞いてもいい?」
「菖蒲」
「名字は?」
「ない」
本来あるべきものを「ない」と答える女の子に困惑する。ぬか床に手を突っ込んだのに、漬けたはずのきゅうりが見当たらないように、手応えがない。戸惑う私をよそ目に、冷たくなったラザニアを女の子は頬張った。
「うん。これは美味い。鈴菜のレシピか?」
「ううん。これは私のレシピ」
ここでも母の亡霊か。皆、お母さんの味を食べに来るのだろうか。結局、みずたま亭は母の店であって、私の店ではない。苛立ちを飛び越して、何か虚しい。私は息をひとつ飲んだ。
「ねぇ。なんで私のお母さんの名前、知ってるの?」
菖蒲ちゃんは、私の質問を完全に無視。聞こえているはずなのに、素知らぬ顔で冷めたラザニアを完食。質問するなということか。
「美味かった。ありがとう」
菖蒲ちゃんは、両手を合わせて頭を下げた。
「こちらこそ、鍵を届けてくれてありがとう。本当に助かりました。鍵ももちろん大事なんだけどね、このリボンがお気に入りで。なくしたらどうしようかと思ってたところだったの」
「それはよかった。かわいいからな、それ」
菖蒲ちゃんは、私が手に持っていた自転車の鍵を、指で突いてチリンと鳴らし、目を細めた。さりげない仕草が、可愛らしい。
「香菜、私にもリボンを作れ」
突然の命令口調に、可愛らしいと思ったのを前言撤回したくなった。菖蒲ちゃんは、唐突にそう告げると、勝手知ったる我が家と言わんばかりに、厨房を抜けて二階の母屋へ入っていく。
「ちょっと待って」と声をかけたが、お構い無しに母の部屋の障子を開けた。電気のついていない暗い部屋で、迷うことなく母のタンスの引き出しを開けている。全てを把握しているとしか考えられない行動に、気持ちが悪くなった。一番下の引き出しからハギレを取り出すと「これがいいな」と私の胸に突き出す。
「なんで私が? それになんでここにハギレがあるって知ってるの?」
不意に語気が強くなった。
菖蒲ちゃんは私を一瞥すると、鼻を鳴らす。
「香菜は鈍そうだな」
ギリと奥歯を噛んだ。幽霊だろうが何だろうが、初対面の子どもに馬鹿にされて、冷静でいられる人間がこの世にどのくらいいるだろうか。いや、いない。いるはずがない。
「ほら、すぐに顔に出る。鈴菜と比べて香菜は年齢の割に幼いな。まあ、料理の腕は鈴菜に劣らんし、器量も悪くない。細かいことは後で説明してやるから、まずはリボンだ」
食べたばかりのイワシのトマト煮が、瞬間的に腹の中で煮えたぎるのがわかった。母と比べられるのには慣れているが、無性に腹が立つ。この子が私の何を知っていると言うのだ。私の手の中で、くしゃくしゃにしわの寄ったハギレを一瞥すると、菖蒲ちゃんは楽しそうに笑う。「皿洗いはしといてやるから」と、厨房に入っていった。
負けず嫌いの性分が、私に針を握らせる。鼻息でハギレが揺れた。菖蒲ちゃんは、時折私の様子を見に来ては、「お、いい感じだな」とか「ここはやり直した方がいい」と口を出してくる。しかし、次第に糸が波に乗った。すでに皿洗いを終えて、厨房の隅の椅子でくつろいでいる菖蒲ちゃんは、まるで、じゃじゃ馬の上で太々しく昼寝をする猫のようだ。
「菖蒲ちゃん、リボン、できたよ!」
菖蒲ちゃんは、ぐいーっと伸びをした。
「できたか、香菜。菖蒲"さん"な。私の事を呼ぶなら、菖蒲さんと呼べ」
「あ、菖蒲さん……ね」
私はリボンを菖蒲さんに手渡した。美しいとまでは言えないが、努力は感じられる出来だ。及第点ではないか。
「やればできるじゃないか」
菖蒲さんはリボンを突き返し、頭を私に向けた。
結べと言うことか。なんとなくこの子の扱いが、わかってきた気がする。悪い子じゃない。とにかくマイペースなだけなのだろう。
首の後ろから紐を通し、頭のてっぺんでリボン結びにした。
「菖蒲さん、めちゃくちゃ似合ってる」
「そうか。ありがとう」
「鏡で見てみてよ」
「鏡は、いらん」
菖蒲さんの表情が曇る。私は手鏡を強引に菖蒲さんに向けた。鏡の中に映るものと、横にいる女の子を、何度も行き来する私の両目。
「── あなた、何者?」
手鏡の中に写っていたのは、横にいる女の子ではなかった。黒い毛が、ゆらりと揺れる。私の背筋が、すっと冷えた。
次回予告 05_戸惑いのおにぎり
女の子の正体がまさかの……?
意味がわかんない上に、不動産業者が狐?どういうこと? 頭が混乱してきました!
